「自走」なんて無理ゲーだしする必要もない~息子の中学受験振り返り⑥ | 2025年に中学受験する娘と受験に失敗し続けた弁護士パパの奮闘記

2025年に中学受験する娘と受験に失敗し続けた弁護士パパの奮闘記

2023年の中学受験を完了した息子と、2025年(24年2月現在新小学6年生)の中学受験を目指す娘とパパの奮闘記。

引き続き、息子の中学受験を振り返ります。

 

本日のテーマは、「自走」です。

 

なお、これまでの振り返りはこちらです。

1月の敗北と勝利(上)~息子の中学受験振り返り①

1月の敗北と勝利(中)~息子の中学受験振り返り②

1月の敗北と勝利(下)~息子の中学受験振り返り③

2月の勝利~息子の中学受験振り返り④

 

  「自走」なんて無理ゲーだしする必要もない

巷の中学受験指南書を読みますと、やれ「自走」が理想だ、「自走」出来ない子は深海魚になるだ、「自走」出来る子は中学に入ってからも(学力が)伸びるだ、まあ、とにかく「自走」で中学受験することが褒めそやされております。

 

 

 

 

しかし、正直

 

そんなことできるかぃっ!!!?!看板持ち看板持ち看板持ち

 

って思いませんか?笑爆  笑

 

例えば、競技や種目は何でも良いですが、プロのアスリートが、取材対応やテレビ出演などのマネージメント、練習メニューの策定、合宿の計画や宿泊先の手配、用具の手入れや管理・補充、練習試合のスケジュールや試合本番のコンディショニングなど全て独りでやっていると聞いたら、そのアスリートは最高のパフォーマンスを発揮していると想像出来るでしょうか。

 

「え、練習する暇ないじゃん?真顔

 

「そういう雑務はマネージャーに任せて、パフォーマンスの向上に専念するものなのでは?真顔真顔

 

と思うのではないでしょうか。

 

翻って、中学受験は、(母体が小学6年生に限られるとはいえ)世界一過酷な競争といっても過言ではありません。


そして、中学受験は、もちろん、人生を豊かに生きるための勉強の一環であるという側面はあるものの、数字を変えた復習問題を何度も解いて解法を身につけ、「コアプラス」や「漢字の要」や「白地図トレーニング」や「歴史年表」を何度も解いて記憶に定着させ、過去問を何度も解いて実践に備える・・・この領域にまで至ると、もはやそれは「点取りゲーム」であって、本質的な勉強とは根本的に異なるものであると認識すべきだ、と個人的には思っています。

 

トップアスリートがやっていることは、健康のための運動とはかけ離れた、まさに「点取りゲーム」(これが、得点であったり、タイムであったり、競争の尺度は様々ですが)であって、そのために、肉体の隅々までを鍛え、精神を研ぎ澄ますわけですが、中学受験もこれに似ています。「歴史資料」を隅から隅まで習熟している息子を見ていると、最難関校の受験は、トップアスリート同士のデッドヒートそのものだと感じるようになりました。

 

それを「自走」せよって。。。

一体、子供達はどんなスーパー小学生になれば良いんでしょうか。

 

  「自走」が理想なのはわかる

「自走」、すなわち、塾でもらってきた教材は自分で整理して、勉強のスケジュールは自分で立てて、模試が近づいてきたらその対策も予定に入れつつ、本を読んだりゲームをしたりやりたいことをする時間を確保して、ノートや消しゴムやボールペンがなくなれば補充し、毎日のように学校と塾に通って勉強して宿題もする・・・

 

ああ、なんてスーパー小学生。そんなことが出来れば理想でしょう。

 

ただ、それって、本当に必要でしょうか?

 

「自走」できるようになって、中学に入ってからさらに学力を爆上げして、一体何の役に立つんでしょう?鉄緑会の講師にでもなれと?あるいは河野○人のように延々と勉強出来る自慢を垂れ流せとでも?あるいは○○ママのように・・・と?

 

私は、息子が行きたい中学に入った暁には、最低限の勉強だけして、後は、自分の興味を広げたり、人間関係を広げたり、世界観を広げるようなことを好きにやって欲しいと思います(大学受験をするのであれば、最低限の労力で、最大限の成果を上げる工夫をして欲しい。)。

 

そもそも、中学受験に意味を求めすぎてはいないでしょうか?ゲッソリゲッソリ中学受験は、行きたい学校に通うための関門であって、それ自体は儀式に過ぎないと思っています。


もちろん、子供が、失敗する恐怖と闘いながら、そこに至るまでに時間と労力を費やして努力をすることには、大変な価値があると思っています。

 

しかし、その「テスト」自体、あるいは「テスト」がうまくできること、はたまた「テスト」の準備がうまく出来ることに価値があるかと言われると、個人的には甚だ疑問です。

 

例えば、社会に出て、1ヶ月後に重要なプレゼンテーションがあるとしましょう。当然、同僚と内容について話し合いを重ね、資料を準備するわけですが、プレゼンテーションの内容を一言一句暗記する必要はありません。重要な部分についてはスクリプトを用意して、当日はそれを読むことだってできるわけです。社会に出ると、「テスト」であればカンニングになってしまうようなことも、創意工夫の範囲ないですし、むしろ、どれだけうまくカンニング出来るかが問われることになります。

 

ところが「テスト」では、一切カンニングが出来ません。仕方がないので、問題集を何度も解いて暗記します。ついでに「テスト」では、厳格な時間制限があります。社会に出ると、プレゼンテーションで与えられた時間を数分オーバーしても、大騒ぎになることはありませんが、「テスト」であれば大失態です。

 

とまあ、かくも「テスト」というものは、一定の制約条件の下で、得点を競うものであり、逆にいうとそれだけのものです。

 

そのための準備が「自走」でないといけないなんて。

 

そんなこと絶対ないと思います。

 

我が家では、教材の整理と、模試や入試の申し込みなどの事務手続きは妻が担当しておりました。勉強のスケジュール管理は、息子本人がしていたようですが、要するに次の授業に間に合うようにひたすら勉強していただけです。

 

勉強のスケジュール管理の一部は、家庭教師にお願いしていました。加えて、コーチの役割を家庭教師にお願いしていたことになります。

 

私は、最後のピーキングのコーチと、試験監督を務めました。

 

それでいいんだと思いますニコニコニコニコニコニコ

 

息子が、この中学受験を乗り切ったことで何を得るのか、私には想像もつきませんが、とにかく、失敗の恐怖に耐えて努力を継続し、最後に打ち勝って勝利を掴み取った、これだけで十分な至宝を得ることが出来たと考えています。

 

どうもまとまりがありませんが、最近「自走」「自走」と念仏のように唱える人が多いような気がしたので、振り返りがてら、私の考えをまとめてみました。

 

続く。

 

おつきあいいただけますと光栄です。

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