とっても長かった。長かった。950ページもあるんだもの。フランスの文庫って分冊とかしてくれない。最初の方と、最後は手に持つだけでも難しい。日本の文庫では三冊、全集でも上下に分けられている。
それでいて、いままで読んだ村上春樹のなかで一番難しかった。まず、夢のなかで展開する章がいくつもある、そして、ノモンハン事件や太平洋戦争末期の満州でのソ連侵攻、その後のシベリア抑留といった日本の現代史上で物語の一部が展開されているからだ。
トルストイの『戦争と平和』は、歴史に関するトルストイの長い長い教えめいたものが物語を断絶していて読者を辟易させるのだが、『ねじまき鳥』を読んでいて、なんとなく小説家が歴史を無理矢理にでも組み込みたがる気持ちが分かった気がする。
ねじまき鳥自体はもちろん、「現代」で物語が進行している。しかし、登場人物それぞれが親の記憶、自分の戦争体験などを介して、いまだに戦後を生きている。(これが書かれたのが、まだ戦後50年ほどだから、まだまだ近かった。)
そして、物語の進行に連れ、「私」が今生きている出来事が、50年少し前に満州で別の誰かによって既に体験されたものであることが見えてくる。というよりも、「私」とは、50年前の満州で「動物園のトラを殺し」あるいは「井戸の底から星を眺め」、そして「バットで反逆兵を殴り殺した」一人ひとりの人間ではないのか。
コンピュータ上に映しだされるシナモンによって書かれた「クロニクル」は「私」自身の物語であると同時に、今現在の出来事に巻き込まれた人たちと、その親たちが経験した記憶の集積であり、そのすべてが枯れ井戸のなかに横たわる「僕」に向かっている。
小説としては、ほとんど瓦解しかねないほどにもりもりに盛り込まれた(これでも、『国境の南、太陽の西』の部分は省かれていると考えると、ちょっと信じがたい膨張ぶりだ)この小説は、おそらく、村上春樹の小説のなかでも一二を争うほどに読むのが難しいものだろう。その後はむしろ、かなり易しい小説を書くようになった印象がある。そっちのほうが好きだけれども。
1Q84の、ブック1,2と同じくらいの長さだが、1Q84は物語の筋自体はかなり単純で、その長さは繰り返しや引き伸ばしの印象を与えるのに対して、ねじまき鳥はものがたりの序盤での牧歌的な雰囲気から、ありとあらゆる摩訶不思議が入り乱れる中盤を経て、「ワタヤノボル」というクミコの兄にして、諸悪の根源を、日本現代史60年を込めたバットの一振りで粉砕する、あまりにもでっかいものがたりに発展していく。
カフカをオイディプスで説明するのなら、ねじまき鳥はオルフェウスの冥府下りだ。それにミノタウロスの迷宮も加えてもいいだろう。ものがたりの大半が夢のような世界で繰り広げられるせいで、読者の置いてけぼり感は否めない。「大切なものは言葉にできないんだ」と言わんばかりに説明を放棄した謎につぐ謎は、結局はすべて読者に委ねられる。
そういった「筋」については、僕の好みではない一方で、そこに詰め込まれる「脱線」としての、ノモンハン、満州、シベリアでの出来事や、執拗なまでに繰り返される「井戸、井戸、井戸」というイメージは強い印象を読者に残す。
モンゴルでの国境侵犯からの皮剥は、カフカの処刑装置を思わせるおぞましさだ。動物園の猛獣を殺した時に、穴だらけになったトラを見た中国人が「私達に最初から任せてくれれば高く売りさばけたのに」と嘆くシーンでは、上に立つ支配者の交代に関心を持たず現実的に今を切り抜ける中国商人たちと、上からの命令の無意味さを知りながらも盲目的に実行せざるをえない「普通」の日本人たちの対比がとても印象深い。
野球のユニフォームを着た「反逆兵」(ソ連が侵攻しようというときに、それに対して防衛せよと命じられて中国人兵士たちが従わないのは当然すぎるが)を、「目には目を」の命令どおり、バットで撲殺する場面。これは、シナモンによって想像された「あったかもしれない歴史」なのだが、これが僕が二度行うバットによる「なにか」の破壊につながっている。
春樹は、「顔」を持たせることに執念を傾けている。日本兵が大陸で行った「悪事」や、日本兵がシベリアで味わった「悲惨」など、日本の現代史を彩る数多の事件を語るとき、そこに顔は現れない。それぞれの立場から、相手と自分たちにレッテルをはり、顔を見えなくする。春樹が描く「彼ら」は、みな一人の人間だ。バットで中国人を撲殺する兵士は、北海道の貧しい開拓農家出身で野球道具など買ってもらえなかったし、試合を見たこともなかった。上官が手取り足取りバットの振り方を教えて、振りぬいた。
それを支持した上官も、上から来た「弾薬を無駄遣いするな」「首謀者は、反逆時に使用した同じ武器を使って殺せ」との命令を、あと数日でソ連がやってきて、自分たちは大陸に取り残されるだろうと分かっていながら、それでも忠実に実行せざるをえないと感じている。動物園での猛獣殺しと同様に、彼らは上からの指示を、現場の極限状況のなかでなんとか忠実に実行することだけに神経を尖らしている。別にそれは、思考能力を失っているなどといいたいわけではなく、その時点においてはそれがもっとも正しい、ベストではないにしろベターな選択を取り続けている、普通の人間たちなのだ。
ウィキを見ると、ねじまき鳥まで(94年)とアンダーグラウンド(97年)移行で、社会への関わり方に大きく変化が生じた、といった風に書かれているが、それは正しい反面、むしろもっと前、すでにねじまき鳥から、日本の歴史を自分の作品のなかに引き受けようという強い意思が現れてる。それはおそらく、アメリカに滞在していたこと、それも湾岸戦争に湧く時期に重なっていたことで、日本と戦争についてはじめて意識的にものがたりの中に組み込みたいと思うようになったのだろう。だから、阪神大震災と地下鉄サリン事件が起きたから、社会派作家に転向したのではなく、91年から徐々に『歴史大作』的な小説書きへと春樹がシフトしていたからこそ、95年の2つの事件に敏感に反応したと言えるだろう。
ところで1984年で春樹の時計は止まっているのだろうか、いや春樹の持っている、いうならば「青春の時計」というか、『世界の終わり』(85)を書き86年に日本を出る前の、時計。それというのも、春樹の主人公で35歳を超えている人はいない(たぶん)と思う。95年以降に書かれた小説であっても、結局そこに書かれている「現代」は80年代なんじゃないか。だから、「僕」たちは絶対に質素な生活だが「金には困っていない」んじゃないか、そんなふうにも思える。だって、春樹の登場人物が給料の振込日を気にしているのを見たことがない、彼らが気にするのはきゅうりがシャキシャキかどうか、クリーニングに出し忘れたシャツはないかといったことばかりだからだ。
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