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3、長男の治療経過
これまでの過程はこちら
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前回はこちら
3、生後5ヶ月:局所治療④左右眼動注3回目、レーザー4回目
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※2016年6月~2017年3月までの両眼の局所治療中(眼動注など)の話です。
現在、2016年9月の話を書いてますが(笑)、なかなか進まないこの過去ブログの先を書いてしまうと
効いたり効かなかったりで毎月入院→手術で治療を繰り返すのは2017年3月までです。
それまではこの感じで局所治療が続きます。
もちろん、当時も一喜一憂し、不安があったり、「まだ治療できる余地がある」と安心してみたりしてますが、今、一番書きたいのは陽子線に至るまでの過程です。
2018年中には、追いつけるといいんだけど(遠い目)
●予防接種2回目
2016年8月末の入院を終え、9月初旬に関西の自宅へ。
乳児を連れて一人で新幹線移動も、入院の荷物を揃えたり送ったりするのも慣れてきて
日常生活は比較的穏やかでした。
手術から1週間後、ヒブ、肺炎球菌、4種混合の3種類、2回目の予防接種へ。
この頃、近くの児童館に行ったり、0歳児教室に参加してみたりしたのですが、どうもなじめなかった。私の中に抱えているものが多すぎて、ママ友を作る気になれず。
リアルに私を知っている人には鼻で笑われますが、こう見えて人見知り
よく考えると、今も子どもを介してのママ友は、すべてがんセンターで知り合ったRBの子達かも。それはそれでいいのですが、両実家も親戚も少し距離がある我が家。子どもにとっては近くに遊べる友達がいないのは良くないなぁ。と、ちょっと今これ書きながら反省。
夫の繁忙期が過ぎ、猛暑も酷暑くらいには緩み、少し買い物に出掛けたり、独身時代の飲み友達のところに顔を見せにいったり、のんびり過ごしていました。
●腸重積疑惑と離乳食開始
そろそろ離乳食を始めようかな、と思っていたある土曜日。
前日夜にぐずぐず何度も起きて機嫌が悪く、私は睡魔と戦っていたお昼過ぎ(12時20分←まじめに記録してる当時の私偉い)、長男が血が混じっているような便をしてパニックに。
咄嗟に思いついたのは「腸重積」。
機嫌が余り良くない、血便、生後4、5カ月位からなる、どんぴしゃ(と当時は思えた)。
腸重積は早期処置をしないと危ないというのもうろ覚えで記憶していましたが、土曜日のかかりつけの小児科の最終受付けは12時まで。電話は不通。
オムツの写真を撮り、パジャマ(昼なのにw)から着替えつつ、スマホで近くのショッピングモール内の小児科が13時までやっているのを見つけた時の時間は12時45分。
超走ったよね。首座ってて良かった、ほんと。
13時ちょうどぐらいに駆け込んできて、汗だくすっぴんでオムツの写真を掲げる私に、先生は完全に引いてましたが、写真を見るなり、「あぁ、ほんまやなぁ。エコーしとこか」とすぐに処置室でお腹を診てくれました。
3分後。
「あーーー、きれーな腸やで、大丈夫!」と先生がのんびり一言。
すわ大学病院で手術か、全身麻酔は2週間のスパンでかけられるのか、次の治療はどうなるか、と妄想で吐きそうだった私はほっとしすぎて呆然。
(ちなみに、母乳は血液から作られるので、子の便に血が混じることはあるそうです。また、乳児の腸は未発達なので、何かの刺激で多少の出血もあるそうです。それでも血便は早期受診した方がいいと思いますが)
本当に内臓に何かあってという場合はどんどん機嫌が悪くなるはず、と言われましたが、そんんなこともなく、翌日も元気だったので、一安心でした。
その次の月曜日、生後5カ月と19日、いよいよ決心して離乳食を始めました。
この、始めてしまったら後戻りできない(どんどん作る量と手間が増える)という感覚、怠け者の私には恐怖でした。
●入院と離乳食
最近、離乳食は5カ月くらいから、というのが主流なようで。
長男は歯が4カ月半で生えたこともあり、早めにと思っていましたが、入院中はどうするべきか。
8月末の入院時に、病棟にいる小児科の認定資格を持つ看護師さんに相談していました。
RBは、離乳食前に発覚する場合も多く、VECなどと重なった子は、「離乳食は全部病院でやった」という話もきいたことがあったり。
看護師さんは、初期は風邪とか病気で1週間くらいスキップするのも良くあることなので、入院前後の数日間は無理してやらなくてもいいのでは?とのアドバイスをしてくれていました。
そんなこんなで、ひとまず入院までは粛々と、と10倍粥から離乳食を初めて2日目、
口にいれて飲み込んだ後に、喉の奥がぜーぜー、ひゅーひゅー鳴る気がして、「まさか米アレルギー?」と、疑い出しました。
1週間続けても食後にしばらくの間鳴るため、一度離乳食をやめ、ほとんど聞こえないけど一応ひゅーひゅーを録音して、アレルギーを専門でみている小児科へ。
この頃の私、心配性すぎたのかな、と今は思いますが。必死だったなぁ。
結果、米アレルギーはなくはないけど、確率でいうとかなり低い、もう少し続けてみて、他の食材を試したときには出ず、米だけで悪化するようなら、ということで、離乳食は継続することにしました。
以前に少し書きましたが、この時の先生がこれまでで唯一、RBの病名を聞いた瞬間に、
「お母さんから遺伝したんか。そんならまだ両眼とも温存して治療できてるんやなぁ。昔はほとんど摘出やったのに」とすらっと出てきた先生です。すごく印象に残っています。
●左右眼動注4回目、レーザー5回目
やっと入院まできた(笑)
生後半年直前の入院でした。
夫はこの期間、海外出張が入っており、初めて手術の日に来られませんでした。代わり?でもないですが、入院当日、義母が東京に来ており、約2カ月ぶりの対面。病院に義母が来たのは初めてでした。
術前検査では、66.0cm、7.54kg。
手術の日は、ちょうど生後半年。
前回に倣い、3番目(午後13時予定)でした。
午前中、子供療養支援士の方が病室にやってきました。
「今日で生後6ヶ月じゃないですか?」と、聞かれてびっくり。
VECで入院していた頃、まだまだ産後まもなくで荒ぶっていた私(笑)の様子を気にかけてくださり、生後15日目に手形を取ってくれたお二人です。
誕生日を覚えてくださっていたばかりか、ハーフバースデーという親以外興味ない日まで気を配ってもらって、手形と足形を取りませんか?と提案していただきました。
さらに、当時はらぺこあおむしのおもちゃが好きで、入院中に毎回持参していたのを見ていたのか(たまたまか(笑))、台紙を用意してくれていて、手術前の待ち時間の間にペタリペタリ。
そして、手術後は初めて一人で術後の説明を聞きました。
右目の腫瘍はなかなかしぶとい。効いていないわけではないので腫瘍はやや薄くなっているが、横ばいという感じ。漫然と動注を続けても仕方ないので、次回は冷凍凝固を試してみるかも、と提案されました。
左目は、視神経のところはかなり効いている。腫瘍の淵の部分が残っているだけに見える。黄斑横の腫瘍もかなり薄くなって、やはり黄斑寄りの方の腫瘍のキワが残っている。とのことでした。
動注はその場で効果が出るのではなく、手術後1ヶ月程度で効果が分かるので、この説明は前回の手術の効きを示していることになります。
次回も動注の予定を入れておいて、今回の効きをみながら、続けるか決めましょう、という感じでした。
動注の場合、回復室では、心電図、血圧計、尿管カテーテル、点滴、酸素モニターとラインだらけですが、大体目を覚ますと大泣きが多かったので、看護師さんがラインをさばいて抱っこさせてくれます。
1人で1時間強、泣き疲れて眠る長男を見ながら、「この瞳の奥の、たかだか数ミリの腫瘍のために、この子が持っている可能性や、楽しいことに使える時間をどれだけ奪っているんだろう」と考えていました。
翌日、外泊に出る準備をしていると、子供療養支援士さんが、手形と足型をかわいく装飾して持ってきてくださいました。
「お母さん、何か書きます?」と言われたときに、
「いえ、自分不器用で。お任せします」と答えてよかった(笑)
でも、病棟での他の患者さんたち(とその家族)との出会いや、
「仕事」だけでは片づけられない先生たちの尽力、
看護師さんや周りの方々の気遣いや目に見えない配慮は
長男の記憶には残らないかもしれませんが、私の人生観に少なからず影響を与えています。
おおげさですが、自分たちが日常生活を送れている今も
救急車のサイレンを耳にするたび、大きな病院の前を通り過ぎるたび、
今まさに命のはざまで戦っている人がいること、
それを救おうとしている人たちがいること、
病棟から変わっていく季節を眺めている人がたちがいること、
そして自分にもいつか死は訪れること。
そういうことを身近に感じるようになりました。
9月末のこの手術の日、高校時代の親友が出産しました。
手術前日の夜、長男に添い寝しながら予定日がまだ先の親友と、
「2日後は新月だから、このタイミングで産んでくれたら外泊して会いに行けるよ」
と、冗談交じりのラインをしていたところ。
手術前に「本当に生まれるかもー!」と連絡が来てびっくり(笑)
初産なのに、スポーンと4時間ほどで産み落としたそうで、
本当に外泊のタイミングで産院に顔を見に行くことができました。
長男とはぴったり半年違い(残念ながら学年は1つ違い)。
ご近所ではありませんが、大きくなっても母親同士のように、
仲の良い友達でいてくれたらなぁと思います。