今川家を倒した織田信長と同盟を結び
改名した徳川家康は
織田信長・豊臣秀吉の配下としての日常になったのです。
1570年(永禄13年)、
徳川家康の前に巨大な敵があらわれました。
当時
最強と呼ばれていた戦国武将「武田信玄」が、
徳川家康の領地、遠江国・三河国に向けて侵攻してきたのです。
これは武田信玄の同盟破りでした。
それまで武田信玄は、関東の北条氏・東海の今川氏と、
互いの領国を侵害しないという同盟を結んでいたのに、
今川領だった駿河国を攻め落とし、
これに抵抗した北条氏の城も次々に攻撃。
さらに、
徳川家康が領有する遠江国・三河国にも進軍してきたのです。
武田信玄がこのように進撃を強行した背景には、
今川義元を亡くした今川家が衰退しつつあり、
攻めやすかったことがありました。
そして、この頃、
室町幕府15代将軍「足利義昭」が、
織田信長と対立した末に「織田信長を討て」と
命じてきたのに応じたのです。
つまり、
武田信玄の狙いは織田信長で、
こうなると徳川家康は、
同盟者・織田信長のために
武田軍を食い止めなければなりません。
このため徳川家康は、
武田信玄との戦に備えて、
本拠を岡崎城から「浜松城」へと移します。
1572年(元亀3年)
徳川家康と武田信玄による「三方ヶ原の戦い」が勃発。
この戦に徳川家康は大敗したのですが、
戦後に武田信玄が病死したことにより、
領土を奪われずに済んだのは幸運だったと言えるでしょう。
(刀剣ワールド・徳川家康とゆかりの城)
(続きます)
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今日も命を授けていただきありがとう (^-^)
二度とない人生
だから 今日が大事、今日が大切
明日もいい日でありますように 【合掌】
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