大相撲に興味を持つと、その歴史にもふれたくなります照れ

調べてみると、愛知・岐阜にいくつか聖地(?)があったので行ってみましたよ!

 

お相撲さん聖地巡礼3回目は

横綱・北の湖(きたのうみ)関

ですニコニコ

 

北の湖さんは北海道出身

東海地方出身ではありませんが、愛知県にゆかりのあるお相撲さんだったようです。

 

 

  第55代横綱 北の湖

白鳥山法持寺の門と仁王像

愛知県名古屋市熱田区にある「白鳥山 法持寺(はくちょうざん ほうじじ)」です。

ここは昭和32年(1957)から30年間、名古屋場所の際に三保ヶ関部屋の宿舎として使われていたそうです。

三保ヶ関部屋、それが横綱・北の湖さんの所属した部屋です。

境内には横綱・北の湖の石碑や土俵の跡などがあるようですニコニコ

 

 

 

北の湖さんは昭和49年(1974)名古屋場所において、優勝こそ逃したものの好成績を挙げ、横綱昇進が決定したとのこと。

 

この年の名古屋場所は7月7日(日)~21日(日)。

その翌日7月22日に横綱審議委員会で、北の湖さんの横綱推薦が決定

 

 

北の湖横綱昇進伝達式、法持寺にて

※「時事ドットコム」より引用・加工

2日後の7月24日に番付編成会議と理事会で正式に横綱昇進が決定し、その旨を伝える伝達式が宿舎であるこの法持寺で行われたそうです。

 

北の湖さんのことは名前は聞いたことがある程度でしたが、当時ほぼ相撲に興味が無かった私が名前を知っているほどなので、よほど凄い人だったことがうかがえます照れ

 

北の湖 第55代横綱 優勝トロフィーを持つ

調べると、北の湖敏満さんは史上最年少となる21歳2ヶ月で横綱に昇進し、生涯戦績951勝といった記録を持っており、「不沈艦」の異名をとったとのこと。

やはり横綱は憎らしいほど強くあってほしい爆  笑

最年少横綱の記録は今も破られていないんですね。

 

そして、引退後は最終的に日本相撲協会の理事長も務めていらっしゃいますね。

凄い!びっくり

 

 

それでは法持寺へ入ります。

法持寺の仁王像と境内

山門にある仁王像は「北の湖仁王」と呼ばれ、右側は「多聞 北の湖」、左側は「増長 北の湖」。

 

 

白鳥山 法持寺 北の湖横綱の寺

まずは参拝しますお願い

由緒によれば織田信長が桶狭間の戦いに向かう途中立ち寄って必勝祈願したという。

 

さて、それでは境内を見て行きましょう!照れ

掲載は建立年順としました。

 

 

 北の湖碑①

北の湖碑、横綱昇進の言葉

[正面]
うん ほんまに
横綱になったんや
  母ちゃん
   北の湖


[裏面]
昭和四十九年七月廿二日
大相撲名古屋場所白鳥山にて史上
最年少二十一才二ヶ月で横綱昇進の
傳達北海道にいる母に知らせる
北の湖の一句也
発起人 白鳥山三十四世
寄贈者 岡崎 細井石材店

 

名古屋場所で横綱昇進を決め、宿舎だったこの法持寺から北海道にいる母親に知らせた一句照れ

 

母親へ知らせるには知らせたが、

北海道出身の北の湖さんは本当に関西弁でそう言われたのか?

これについて真相は分かりませんが、北の湖さんからクレームは無かったそうで、いわば「公認」の言葉のようです。(朝日新聞の記事より)

 

 

 

 横綱誕生の寺碑

北の湖碑、第55代横綱誕生の寺

[正面]
北の湖 第五十五代横綱誕生の寺

[裏面]
大相撲名古屋場所 昭和四十九年七月廿二日

 

横綱誕生の寺爆  笑

なんとなく上側が割れているような気がする...あせる

 

 

 

 すりこぎ(相撲のてっぽう)

北の湖関の土俵跡と石碑

「てっぽう」の棒びっくり 解説板があります。

 

すりこぎ(相撲のてっぽう)
昭和三十一年からのてっぽうで力士がこの棒に体をぶつけて稽古するものです。
三保ヶ関部屋三十年来二〇〇人からの力士の汗がしみています、そして多くの関取が生まれました。
下の方がくさって寺がゆづり受けて禅寺の味噌すりこぎにしてサインをもらって残すことにしました。
永平寺のすりこぎは建築に使った棒です。当山のは相撲のてっぽう柱です。

 

身をけづりて人につかふるすりこぎの
  この味知れる人ぞ尊とき。

昭和五十六年□月十一日
奉納 千年 森部正利

200人の力士の汗が染みこんだ棒。

思わず撫で撫でしてしまったあせる

何人かのサインがありますが、わかりません...

 

 

 北の湖碑②

北の湖理事長の名言石碑

[正面]
印(白鳥山)
どんなにつらくても
 何と云はれようと
相撲をとるのは心
 自分が駄目だと
   思ったら
とれるものではない


横綱北の湖 印(五十五代横綱)

[裏面]
横綱三十一歳六十場所目
八百勝を新記録二十四回
の優勝を飾った名言

発起人 三十四世 高明代
三保ヶ関部屋 名古屋後援会 友ノ会後援会
協力者 岡崎 細井石材店
昭和五十九年七月十五日建立

 

 

やはり気持ちが第一でしょうね照れ

気持ちが入らないと力が出し切れない。

逆に力を出し切った最後の最後は気持ちで勝負が決まるとも言えるかな?

今の横綱にも通じるものがあるのでしょうね!ニコニコ

 

 

 土俵の跡と碑

白鳥山法持寺の駐車場と石碑

 

土俵の跡 碑と植栽

 

北の湖親方の聖地、法持寺と力士のイラスト

[正面]
 三保ヶ関部屋
土俵の跡
 北の湖 (印)五十五代横綱


[裏面]
昭和六十年七月二十一日
強い関取を生んだ
三十年来の土俵です

当山 三十四世 高明
謹製 清水屋石材店

 

駐車場の一角に土俵の跡が半面記されています。

思わず土俵に入って四股のマネしたりてへぺろ

 

 

 北の湖碑③

北の湖理事長の言葉が刻まれた石碑

[正面]
 横綱になったときは
土俵のことだけを
 考えていればよかった
  これからは
相撲界のために
 努力しなればならない
すべてが現役のときとは
      ちがう
理事長 北の湖敏満
  

[裏面]
日本相撲協会
第九代理事長に
四十八歳で就任した
挨拶の一言

平成十四年七月
発起人 三十四世(八十五歳)
施工 細井石材店

 

 

協会側(しかも理事長)になるとまた戦う世界が違うのでしょうねニコニコ

「すべてが違う」という言葉の中に、不安20%、責任感80%を感じます。

 

 

 

 北の湖関幟、他

北の湖の幟です照れ

他には織田信長、日本武尊、松尾芭蕉とお寺にゆかりのある人の幟が立っていましたよ!爆  笑

まるでお相撲さんの宿舎のよう花火 ←昔はそうでしたよ!と自分ツッコミ。

 

・奉納 北の湖関 江   白鳥山 法持寺 まぐろや

・奉納 松尾芭蕉 讃江 白鳥山 法持寺 妙香園

・奉納 日本武尊 讃江 白鳥山 法持寺 きよめ餅総本家

・奉納 織田信長 讃江 白鳥山 法持寺 あつた蓬莱軒


大相撲の幟に近いデザインですねニコニコ

奉納と贈の文字が入った幟

大相撲の幟を見ていると軍配のところは「贈」が多いようですが、ここは「奉納」になってます。

しかし、「織田信長さんへ」って幟、サイコー爆  笑

 

 

花火花火花火花火花火花火

 

名古屋城石垣残石と北の湖碑

境内には他にも、名古屋城築造のための石垣の残石や、松尾芭蕉の句碑、歌舞伎役者三代目助高屋高助の墓碑などがあり、見所が多いです。

 

 

白鳥山法持寺の坐禅室、瞑想体験

また、納骨堂の白鳥閣では座禅や写経の体験もできるようになっていて、予約もいらないようなのですぐに体験できます照れ

写経には筆ペンと紙が用意されています。

室内はエアコンが入っていて集中できそうです。

しかし、この日は外の気温が高過ぎて冷房効果も半減のようでしたあせる

 

 

力士二人のイラスト

またねー!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大相撲に興味を持つと、その歴史にもふれたくなります照れ

調べてみると、愛知・岐阜にいくつか聖地(?)があったので行ってみましたよ!

 

お相撲さん聖地巡礼の2回目は愛知県弥富市が生んだ

横綱・大錦大五郎(おおにしき だいごろう)関

です。

 

 

  第28代横綱 大錦大五郎

彦九田神社と大錦大五郎の燈籠

愛知県弥富市稲元にある彦九田神社です。

御祭神は継体天皇となっています。

 

※2026/7/20 写真が間違っていたため差し替えました。大変失礼しました。

横綱大錦大五郎の肖像

※『国技大相撲の100傑』より引用・加工

ここには弥富市出身の第28代横綱(大阪第3代横綱) 大錦大五郎さんが寄進した燈籠があります。

愛知県出身の横綱は今までで2人おり、そのうちの1人です!照れ

 

その強さを語るエピソードがWikipediaに書いてありましたびっくり

十両を僅か1場所で通過し、明治39年(1906)2月場所で新入幕を果たす。ところが、大錦のあまりにも早い出世に他の部屋から苦情が相次いだため、同場所は前頭ではなく「十両筆頭格」として出場させた。

一旦番付発表されてからの変更だったのですが、これは非常に珍しい事らしいです。

また、初日にいきなり三役(小結)と当たる(しかも勝った!)など、強いがゆえに厳しい試練が。

 

なお同Wikipediaへ、弥富市歴史民俗資料館に大錦大五郎さんの展示があるとありますが、現在は常時展示ではないようです。

行かれる際は資料館へ問い合わせてからの方がいいと思います。

 

 

そんな大錦大五郎さんは、5年8場所に渡って横綱を務め、大正11年(1922)1月場所を最後に現役を引退。

後年、「私も京都に2年、大阪に20年という長い土俵生活を営みましたが、あの時の事だけは終生忘れる事はできません」と語ったそうです。

 

 

大錦大五郎寄進の燈籠

 

大錦大五郎 寄進の石碑

 

大錦大五郎 寄進 昭和八年 灯籠

[正面] 献燈
[右面]
[裏面] 寄附人 大阪 大錦
[左面] 昭和八年十月
 

「故郷にあかりを灯したい」と常夜燈一対を寄進照れ

昭和8年(1933)と刻まれているため、横綱引退後となりますね。

資料によっては「横綱になってまもなく寄進した」とあるため、竿の部分(あるいは全部)は再建かもしれません。

 

決して大きいとは言えない村の神社に、偉大な元横綱の常夜燈がひっそりと建っています。

 

 

大錦大五郎の墓石 昭和8年 inscription

また、近くの墓地(神社の東、国道23号南側)には先祖代々のお墓があり、

「大正十三年 二十八代横綱 大錦大五郎建之」

と刻まれていますニコニコ

ただ、「平成七年八月再建」とも刻まれていたため、現在のは大錦関が建てたお墓とは別の新しいお墓となっています。

 

 

花火花火花火花火花火

 

以下、余談となりますが、彦九田神社の手水舎の瓦が見事なのでよく見て見ると、それぞれ角に銘が入っていました。

彦九田神社の手水舎

 

瓦の装飾、魚の形、銘文

三重郡山ノ一色 ¬安製

 

瓦屋根の魚の装飾

三重郡山ノ一色 服部安治郎製

 

石川 夛度 作人

作人 夛度 石川
 

瓦の型は三重県桑名市多度町の瓦職人によって作られたようです。

 

 

 

 

またねー!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大相撲に興味を持つと、その歴史にもふれたくなります照れ

調べてみると、愛知・岐阜にいくつか聖地(?)があったので行ってみましたよ!

 

巡礼初回は岐阜県養老町が生んだ

横綱鬼面山谷五郎(きめんざん たにごろう)関

です。

 

令和の現在、横綱というとこちらのお二人。

・第74代 豊昇龍 関

・第75代 大の里 関

これまで、江戸時代から数えて75人しかいない横綱!

そんな中で鬼面山谷五郎関は、今のところ岐阜県で唯一の横綱なのです!!!花火

 

 

  第13代横綱 鬼面山谷五郎 養老公園にて

鬼面山谷五郎の相撲絵と碑、大相撲聖地巡礼

岐阜県養老郡養老町にある養老公園内に第13代横綱 鬼面山谷五郎さんの碑があります。

場所は、公園内の松風橋近くにある駐車場の向かいです。

養老公園には何回か訪れていますが、全く知りませんでしたあせる

やはり興味を持っていないと全く反応しないですね笑い泣き

 

 

 

 石像

鬼面山谷五郎さんの石像です。

昭和42年に建てられたようです。

こんな大きい碑があるのにね~びっくり 知らなかったあせる

 

大きさがわかるように碑の左下にペットボトル(600ml)を置いてみましたニコニコ 碑の高さは242cmらしい。

太刀を持ってますね!

 

鬼面山谷五郎 岐阜唯一の横綱

※『養老町史 通史編』より引用・加工

右が鬼面山谷五郎さんです。

鬼のような面でしょうか?爆  笑

 

 

 

 横綱鬼面山顕彰碑 副碑

石像の左右には鬼面山谷五郎さんに関連するまた別の碑があります。

先ずは右側の「横綱鬼面山顕彰碑 副碑」の碑文

第13代横綱 鬼面山谷五郎碑

鬼面山谷五郎小傳

第十三代横綱鬼面山谷五郎は文政九年(1826)養老山麓鷲ノ巣邑の農家に生れた。

幼時から力人に勝れ、初め京都力士となり、二十五歳の時、江戸の相撲武隅部屋に入門して修業した。

安政四年徳島藩蜂須賀侯に抱へられ、慶応元年大関に昇進、明治二年横綱免許を受けたが、翌三年引退、明治四年(1871)七月二十三日四十六歳を以て病歿した。
鬼面山は全盛時六尺一寸五分(186cm)、三十九貫(146Kg)の巨漢、よく米十二俵を括って一気にこれを担ぎ上げる程の怪力を有した。
入幕後十七場所十四年間勤め、取組一九一、勝一四三、引分一六、負二四、預八の輝かしい記録を残した一面、孝心厚く郷土を忘れず、親の墓を建て、産土の神社に石燈龍を寄進する等、その雄名と善行は永く傳へられて盡きないであらう。
昭和四十二年三月 養老町鬼面山谷五郎顕彰会

江戸時代後期に力士となり、明治最初の横綱である鬼面山谷五郎さんは武隈部屋(5代)に所属。この部屋は現在の武隈部屋(14代)との繋がりがあるようです照れ

徳島藩主の蜂須賀公のお抱え力士だったというのも凄い!びっくり

 

 

そんな鬼面山谷五郎さんのエピソードが『鷲巣の歴史探訪』に載っていました。

9歳の頃、母がお客用に作ったトロロ汁と二升のご飯をペロリと食べて皆を因らせたことがあったと云われています。
大人になって益々力持ちになった彼は、長浜の石屋に働きにいきましたが、22歳の時、大人3人がやっと運べる大石を楽々と担いでいるのを京都相撲の浜碇丈右衛門に見出だされ京都相撲界に入りました。

「二升」のお米は3Kgだそうですガーン 9歳で?

力士になる前は石屋で働いていたのも興味深いです。

将来自身の石像ができるとは思っていなかったことでしょう。

 

 

 

 鬼面山顕彰碑建立記念碑

次に左側の「鬼面山顕彰碑建立記念碑」の碑文です。

鬼面山谷五郎顕彰碑、横綱大鵬ら力士記念

第十三代横綱鬼面山谷五郎顕彰碑建立記念
協賛事業百回忌追善大相撲

横綱 大鵬 柏戸 佐田の山
大関 北の富士 玉乃島 豊山以下六百名総出場

 
期 日  昭和四十二年四月吉日
場 所  於大垣スポーツセンター
             本名杉山鎗吉
勧進元財団法人日本相撲協会目代古川宗助
差添人 石田組 組長石田喜三郎
協 賛 財団法人日本相撲協会
仝   養老町鬼面山谷五郎顕彰会

※以下、特別後援に5団体、後援に10団体が刻まれている。

これは鬼面山の百回忌を前にした昭和42年(1967)3月28日、鬼面山顕彰会によって横綱大鵬、柏戸、佐田の山、大関の北の富士など約600名の力士を迎えて養老公園の入口で鬼面山の顕彰碑、副碑の除幕式が盛大に行われたそうです。

現役力士勢揃いで除幕式。それほど偉大な横綱だったって事でしょうね照れ

 

しかし、ここに600人もの力士って、一応碑のある所は芝生広場がありますが、結構ギュウギュウ詰めだったかも笑い泣き

 

 

 

 

 3つの石碑の意味

 

鬼面山谷五郎顕彰碑と力士の碑

左右の副碑は実は意味があって、右は露払い、左は太刀持ちという横綱土俵入りを模した配置がされているそうです照れ

 

そしてそれぞれの碑は将棋の駒を模した五角形との事。

 

 

 

 

  鬼面山谷五郎が寄進した白山神社の燈籠

 

さて、鬼面山谷五郎さんは郷土の神社に燈籠を寄進していますニコニコ

大錦大五郎寄進の灯籠がある彦九田神社

養老郡養老町鷲巣にある白山神社です。

養老公園の鬼面山谷五郎さんの碑から東へ1.7km行った所にあります。

 

 

鬼面山谷五郎寄進の常夜燈、白山神社

鬼面山谷五郎さんが寄進した常夜燈の横に標柱があります。

 

[正面]
この常夜灯一対は、文久元年十一月第十三代横綱 鬼面山谷五郎が三役力士として故郷に錦を飾り父親の追善相撲を催した際、白山神社に寄付した常夜灯一対です。

[裏面]
平成十六年十月 鷲巣鬼面山谷五郎顕彰会
 

白山神社に貼ってあったポスターには、これまた面白いエピソードが載っていましたよ爆  笑

名横綱が残した常夜燈

鷲巣村生まれの横綱 鬼面山谷五郎は、文久元年(1861)に故郷が水害による被害にあった際に村を心配し、白山神社に金拾両と常夜燈一対の寄附をした。

谷五郎はその重い笠を軽々と持ち上げ、運んで納めたという逸話も残っている。

 

金十両も凄いけど、常夜燈の笠を自分で運んで奉納したって、凄過ぎ~あせる

 

鬼面山谷五郎寄進の常夜燈

常夜燈は風化が激しく、なかなか刻まれた文字を読むのが難しい状態となっています。

比較明合成処理でなんとか「鬼面山」が見えるようになりました照れ

 

 

最後にこの常夜燈の四面写真です。

 

 

 

またねー!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大相撲名古屋場所が始まりました!爆  笑

 

去年の名古屋場所から興味を持って、ちょうど1年!

分からない事だらけの大相撲でしたが、6場所の中継を見てるといろいろわかってきましたニコニコ

ただ、これだけガッツリ見てきても、まだまだわからない事が多いです。

さすが歴史のある大相撲ですね照れ

 

そんなわけで7月に入り、名古屋にお相撲さんがやってきました!花火

 

大相撲名古屋場所 部屋のぼり

今年も宿舎をひっそりと訪れて幟を撮影して楽しんでいます照れ

写真は伊勢の海部屋、荒汐部屋、湊川部屋、伊勢ケ濱部屋。

推しの藤ノ川関の幟も健在ニコニコ

荒汐部屋さんではイベントに参加できました爆  笑 人の多さにビックリあせる

 

 

大相撲名古屋場所、部屋のぼり

大嶽部屋に二子山部屋。

大嶽部屋の土俵は市場内にあるので、帰りに美味しい焼き魚定食を食べましたおにぎり

二子山部屋は幟が破れていたのでちょっと心配ですあせる

 

 

 

大相撲名古屋場所の番付・幟

そしてやってきましたIGアリーナ

たくさんの幟をみるとワクワクしますね~爆  笑

 

大相撲名古屋場所の部屋幟

ここで大発見!!お祝い

大島部屋の幟です!

宿舎に行っても幟が1本も無くて寂しい思いをしたのですが、本拠地のIGアリーナにありました!花火

しかもイチオシの「旭海雄関」の幟もあったよ~!爆  笑 やったね!

これで幕内昇進間違いなしだナ!!

 

 

旭海雄関の幟

幟の竹にはちゃんと「旭海雄関」の文字が照れ

 

 

大島部屋の旭海雄関の幟

大島部屋の幟にはミニ幟?が貼ってありました照れ

これってお店から贈られてきたときに付いている完成見本みたいなもので、本当は外すんじゃないかな?びっくり

でも貴重なものが見れて良かった爆  笑

 

 

名古屋場所の幟と高層ビル

今年も太鼓の櫓が立ってます照れ

 

大相撲名古屋場所の旗と木

「蒙御免」の御免札照れ

今年もチケットが無いので中には入れずあせる

外から楽しみ、「跳ね太鼓」を聞いて帰りましたニコニコ

 

しかし、名古屋場所は暑いガーン

熱中症対策をしっかりしないと危険です!

 

 

またねー!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今回は杉屋佐助さんと親交が深い錺屋庄六さんについてと、同一人物と思われる増田庄六さんとの関連について現状わかっている事をまとめてみましたニコニコ

 

 

  錺屋庄六さんの資料[江戸期]

錺屋(かざりや)庄六さんとは何者か!?びっくり

 

私が知っている限り「錺屋庄六」さんの名前が確認できる最も古い資料は、寛政7年(1795)に桜天神の拝殿再建の寄進者と思われるリストです。

 

錺屋庄六 寛政年間の寄進者名簿

※『郷土文化 第19巻 第2号 通巻79号』 「瓦製桜天神社拝殿再興縁起銘板」より引用・加工

 

※2026/07/16追記 錺屋庄六さんと桜天神との関りが判明したので追記

尾張名所図会 桜天神の図

※『尾張名所図会 前編 巻1』より引用・加工

これは『尾張名所図会』に載っている天保9年頃(1838)の桜天神(桜天満宮)の様子です。

現在はとても小さくなってしまい面影はありませんが、絵図では錺屋庄六さんが再興した拝殿が描かれています照れ

------------------------------追記終り

 

続いて江戸時代に流行った見立番付にも載っています。

錺屋庄六 増田庄六 仏具商 寄進物

※『名古屋市史 政治編 第2』より引用・加工

これは天保11年に発行された「名古屋分限見立角力」です。

名古屋の豪商を大相撲の番付に見立ててランキング化した長者番付です。

聞いたことのある名前が並んでいますね!

 

錺屋庄六 仏具商 名簿

錺屋庄六さんは「前頭」として載っています爆  笑

番付に載るぐらいの豪商であったことがわかります。

 

 

続いて『名古屋叢書 8巻 金鱗九十九之塵下』には天保14年(1843)から「仏具并仏壇商売世話方」の一人として名前が載っています。

錺屋庄六 富田町 仏具商</div>

※『名古屋叢書 8巻 金鱗九十九之塵下』より引用・加工

つまり錺屋庄六さんは富田町で「仏具商」を営んでいたことになります。(しかも名古屋仏具業界のリーダー格)

「錺屋」とあるので、仏壇等の装飾の職人さんでもあった可能性もあります。

ここでようやく住所が出てきましたよ!爆  笑

 

 

そして『名古屋市史 政治編 第2』の慶應4年(1868)「御用達名前帳」には「御奉行所御用達格次座」に「富田町 錺屋庄六」として載っています。

錺屋庄六さんは尾張藩の御用達商人でした!びっくり

 

さらに『大正昭和名古屋市史 第3巻 (商業篇 上)』には

また勝手御用達格には両口屋喜十郎・井桁屋(鈴木)徳兵衛・大黒屋(神垣)宗左衛門・蔦屋半左衛門などが本町から挙げられ、同次座には吉島屋九八郎・錺屋庄六・本屋藤兵衛などが本町から選ばれた。

と、年代は不明ですが「御勝手御用達格次座」の時もあったようです。

 

尾張藩御用達商人のランクは上位から、

①三家衆
②除地衆
③十人衆
④御勝手御用達
⑤御勝手御用達次座

⑥御勝手御用達格
御勝手御用達格次座
⑧町奉行所御用達
⑨町奉行所御用達格
町奉行所御用達格次座
となっています。

 

あと不確実ですが『西高木家陣屋御殿にみる近世武家住宅の公と私の構成』に掲載された目録には

覚(彫刻代金〆金7両につき) 錺屋庄六(印)⇒成瀬様・御屋敷 5月28日 切紙 一枚

と、彫刻代金支払いの覚書が載っています。(年代不明)

「成瀬様・お屋敷」とは、犬山城主の成瀬家かも?

御用達商人ならありうる話ではないでしょうか。

 

 

とりあえず、江戸時代の錺屋庄六さんをまとめると、

尾張城下の富田町で仏具商を営んでおり、番付に載るほどの豪商で藩の御用達商人であった。

杉屋佐助さんも豪商でしたが、さらに凄い人とお付き合いをしていたようですね爆  笑

 

 

余談ですが、尾張藩士で儒者の細野要斎さんが天保から明治の頭にかけて聞いた話や見たもの記した『名古屋叢書三編 第十二巻 葎の滴諸家雑談』にも錺屋庄六さんが出てきます。(文久年間に細野要斎さんが聞いた話)

覚明、尾府下の飾屋正六所へ来り、(正六は、仏具を商ふ也。仏工には非ず。)
己が木像を造らしむるとて、自筆にその形を画き、如此作るべしと命じたり。
正六これを仏工に属して作らしむ。

「覚明」とは御嶽山を開山した「覚明行者」です。

そんな凄い覚明さんが自分でデザインした仏像を作りたくて錺屋庄六さんのところにやってきたというんですね。

ただ、錺屋庄六さんは仏具商人のため、仏像を職人に依頼して作らせたとあります。面白いエピソードですニコニコ

覚明さんが"いつ頃"錺屋庄六さんの所に来たのかは不明ですが、覚明さんの年代(1700年代)からすると杉屋佐助さんの時代から約50~80年前の話となります。初代佐助さんの時代かな??

なお、細野要斎さんは覚明さん自筆の仏像デザイン画が気になっておられるようで、「清音寺(枇杷島)にあるかもしれないので更に調べる」と書き残しています。その後、見つかったのか気になりますね照れ

 

 

 

  錺屋庄六さんの資料[明治・大正・昭和]

大正12年発行の『名古屋物産案内』に錺屋庄六さんのお店「かざりや増田仏具店」の紹介が載っています。

 

増田仏具店 仏具問屋 名古屋市 西区本町

※『名古屋商工案内 第10版』より引用・加工

合名會社かざりや增田佛具店
西區本町五丁目に在り。元祿年間の創業にして斯業の開祖とも稱すべし。
增田庄六氏の經營なりしを大正元年合名會社に改む。
歴史の古きと共に設備整頓し、京阪、東京は元より全國的に確實なる取引を有し、永平寺、總持寺、增上寺は古き華客の一たり。
寺院及び内佛向の佛具を作製し、其の製品は何れも美術的にして壯麗善美を盡す。

ここで「かざりや(錺屋)」と「増田庄六」という言葉が出てきますニコニコ

「錺屋庄六」の「錺屋」は屋号で、本名は増田庄六さん。

 

創業元禄年間(1688~1704年)とあります。

そして作り出された仏具は美術的にして壯麗善美!!!爆  笑

全国的な取引を持っており、永平寺などの名刹もその一つだったというびっくり

 

永平寺の古文書「茶毘式の書状」(明治18年)には

葬儀ノ要具ハ悉皆之ヲ愛知県名古屋区増田庄六方ニ申付ケリ

と、葬儀要具は全て増田(錺屋)庄六さんに依頼する旨が書かれており、永平寺と深い繋がりがあったことを裏付けするものです。

 

また、昭和10年発行の『愛知県会社総覧』には、

合名會社かざりや增田佛具店
佛具、佛壇の売買
同社は京都、大阪、神戸、東京、横濱を主として四國、九州、山陰、山陽、北陸、信越、東北、
□□、樺太、北海道、朝鮮、満洲等全國に亘る廣大な販路を有し、最近の年取扱高拾八萬圓に上ってゐる。
代表社員 增田庄六

と、日本を飛び出して朝鮮・満洲にも進出していたようです。

 

上記の会社概要は名古屋商業会議所と名古屋毎日新聞社から発行されており、ある程度"ゆらぎ"はあるものの信頼できる情報です。

従って錺屋庄六さんと増田庄六さんは同一人物であると断定してよさそうですね爆  笑

 

 

が、せっかくなので別の視点で検証してみます上差し

 

 

  地名から同一人物であるかを検証

以下に江戸時代から戦前までの年号、地名、屋号のリストを掲載します。(必要最小限に抜粋)

 

・天保14年 富田町

 錺屋庄六(名古屋叢書8巻 金鱗九十九之塵下)
・弘化4年    富田町

 錺屋庄六(名古屋商人史 中部経済圏成立への序曲  「農商会所付銭屋締役」)
・嘉永元年   富田町

 錺屋庄六(長谷寺 延命地蔵尊) [施主]
・慶應4年 富田町

 錺屋庄六(名古屋市史 政治編 第2)  御奉行所御用達格次座
・明治4年 名古屋本町4丁目

 かざりや正六(名越各業独案内 新聞附録)
・近代 名古屋本町四丁目

 錺屋庄六(尾張国名古屋元材木町犬山屋神戸家文書目録 その4)
・明治32年 西区本町

 増田庄六(大日本商工名鑑) 佛具商
・明治45年 西区本町5丁目

 合名会社増田仏具店設立 出資者(増田新次郎、増田庄六、増田信、増田民) (官報 1912年07月16日)
・大正元年  西区本町5丁目 

 かざりや 増田庄六(商工名鑑 第3版)  仏具・卸小賣
・大正11年 西区本町4丁目

 合名会社増田仏具店・増田庄六(名古屋愛知県三重県岐阜県職業別電話名簿 大正11年版)  仏具・卸小賣
・昭和3年 西区本町5丁目

 合名会社増田仏具店・増田庄六(名古屋商工案内 第10版) 仏具問屋(寺院ノ佛具、佛壇ノ附属、唐木ノ佛壇)
・昭和12年 西区御幸本町通5丁目

 合名会社増田仏具店・増田庄六(名古屋紳士録 昭和12年版) 佛壇佛具卸商
 

リスト中に出てくる地名は、富田町名古屋本町4丁目西区本町5丁目西区御幸本町通5丁目の4つです。

 

杉屋佐助さん時代の天保期の地名である「富田町」の変遷をみると、

 ※( )内は改訂年

 

名古屋本町4丁目(慶長16年) ※清州越し

 ↓

富田町(貞享3年)

 ↓

名古屋本町4丁目(明治4年)

 ↓

西区本町5丁目(明治41年)

 ↓

西区御幸本町通5丁目(昭和4年)

 ↓

中区御幸本町通(昭和20年)

 ↓

中区錦二丁目(昭和41年)
 

と、全ての地名が含まれており、地名は違っても実は同じ場所だったことがわかります照れ

 

これにより錺屋庄六さんは増田庄六さんであり、江戸時代から昭和まで200年以上ずっと同じ場所で商売してきたということです!

凄い!!超老舗!爆  笑

これだけの商家ですから「増田庄六」という名は代々襲名している前提でよいかと思います。(少なくとも江戸後期以降は)


 

錺屋庄六 仏具商 仏壇

※『名越各業独案内』より引用・加工

『大正昭和名古屋市史 第3巻 商業篇 上』によると、富田町(旧名古屋本町4丁目)は御用商人の町だったそうです照れ

本町商人
本町の前身は清洲の本町である。清洲はその築城以後、次第に人口稠密となり商家は増加した。
今や清洲の本町は名古屋の本町として復活再現し、御用商人の町として尾州藩政に寄与したところが多い。
これとともに藩の待遇も一段と厚く、本町商人は次第に他町商人とはかけ離れた地位を有するようになった。
渋味のある落ち着いた商家の軒を並べるところ、そこが本町であった。
本町居住の豪商・旧家としてその名の伝わるものは少なくない。

 

 

 

  錺屋庄六さんの寄進物

ここで話を変えて錺屋庄六さんの寄進物をみてみましょう照れ

錺屋庄六さんが杉屋佐助さんと共同寄進したのは現在2基見つかっています。

 

 地蔵菩薩立像長谷寺(奈良県桜井市)

錺屋庄六と杉屋佐助が寄進した地蔵菩薩像

杉屋佐助さんと錺屋庄六さん、柴山藤蔵さんら5名で嘉永元年(1848)に寄進されました。

ちなみに錺屋庄六さんの住所は「名古屋本町」で柴山藤蔵さんは「清洲本町」の本町コンビ爆  笑

 

錺屋庄六の墓石、佐助塚の銘板

この地蔵尊は「三谷地蔵」と呼ばれ、「長谷寺(奈良)」「華厳寺(谷汲)」「黒谷(山城)」にそれぞれ寄進されたそうです。

現在の地蔵尊は平成20年に再建されたもの。(台座は当時のままと思われます)

 

 

 命地蔵菩薩立像松林寺(岐阜県揖斐郡揖斐川町)

錺屋庄六 寄進の地蔵菩薩像

杉屋佐助さんと錺屋庄六さんの2人で嘉永5年(1852)に寄進された銅製の地蔵尊です。

 

錺屋庄六 銅像 inscription

 

錺屋庄六 杉屋佐助 寄進銘文

私が知りうる範囲において錺屋庄六さんが手がけたと思われる仏像が現存するのはここだけ!!花火

 

あと、あるとしたら錺屋庄六さんが作成した仏具や寄進物が永平寺など取引先に残っているかもしれません照れ

 

 

 

  唯一つの疑問

話は再び錺屋庄六は増田庄六さんなのか?に戻ります。キョロキョロ

 

墓石に供花、杉屋佐助と錺屋庄六の関係

この写真は愛知県清須市新川町「堀江山 長谷院」にある佐助塚です。(正確には田内家分家のお墓)

 

佐助塚に刻まれた増田庄六の文字

花立てには「増田庄六」という名前が刻まれていますニコニコ

増田庄六さんは佐助塚の世話人であり、元治2年(1865)の改修の施主であったように見えます。

問題はそこに刻まれた地名です。

 

私が見る限り「當町」なのですあせる

つまり、増田庄六さんは長谷院がある「西堀江(現新川町)」の住人ということです。

これが「富田町」なら何の問題もなく、100%間違いなく錺屋庄六さんと増田庄六さんは同一人物と言えるのですが、風化もあり残念ながら「當町」の2文字にしか見えませんあせる

いや、「當」も怪しいけど...

 

都合良く理由を考えると、ここに増田庄六さんの別宅があった...とか?キョロキョロうーむ

 

 

以上により、錺屋庄六さんが増田庄六さんである可能性は98%~~っ!照れほぼ間違い無し!

 

 

 

新発見を求めて、佐助さん探しの旅はつづく。

またねー!
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今回の杉屋佐助さんは、名古屋市西区にある新福寺の観音像ですニコニコ

 

新福寺の観音像については、かなり前にフォロワーさんから教えて頂き一度訪れていました爆  笑

その時の記事が↓です。

 

 

 

 

  資料を見つけた!!

 

2022年に訪れた時は境内に入って参拝する事ができず、観音像の確認もできませんでした。

それから3年ちょっと。

資料を見つけました!!

しかも2つも!!爆  笑やったね!

 

 

一つ目は、『名古屋街かど歴史散歩』という平成6年(1994)に発行された文献です。

p.75に新福寺の伝説?について記されていました。

(22) 即身成仏

今から百五十年程前のことである。

いず方よりか一人の行者僧が新福寺に入寺したのは、丁度、初冬の頃で、門前の満天星の紅葉もほとんど落葉していた。

その僧は心の痛みを持ってこの寺に来て、薬師如来に帰依せんとして住僧となった。

当時、天台、真言の密教では即身成仏の信仰があり、心身と真言を整えることによって人間は生身のまま仏身になり得ると信じられていた。

まず、穀物を口に入れることをやめ、更に水を飲むことをやめたその僧は印を結び、真言をとなえながら、棺おけに入り、三密修行に入った。

棺が土中に埋葬されると、娑婆との往来は一本の竹筒だけだ。

眠気と邪気を払うため鈴を持ち、土中から時折聞こえる音も始めはしっかりしていたが、次第にとだえがちになって、いつしか成仏していった。

当時、このことは大変な噂になり、伝え聞いた杉屋佐助はその僧の冥福を祈って弘化二年二月に建立したのが石造の観音坐像だ。

今もなお、香華も絶えることなく参道の脇に東向きになっている。

 

二つ目は、『庄内 創立百周年記念』という昭和48年(1973)に発行された文献です。

p.185に新福寺の伝説について記されていました。

新福寺の伝説

本堂の左手前に高さ五尺ほどの一基の石仏(観音菩薩)が東向きに祀ってある。

昔ある男が仏教に深く帰依し、仏行三昧に入り、その後この寺にやって来た。

そして寺内に穴を掘り、生きながらその穴の中に入り念仏を唱えながら遂に大往生をとげたのである。

まことに奇特な所行であるというので伝え聞いた名古屋の杉屋佐助という仁が、その成仏した跡に観音像を建立して冥福を祈った。

向かって左側に「ナゴヤ杉屋佐助」と寄附者の名、裏には「弘化二年巳二月」と、建立の年月が刻してある。

弘化二年(一八四五)は江戸末期、アメリカの黒船が浦賀にやって来た年である。

 

 

要約すると、

ひとりの僧が生きながらにして新福寺の土中で念仏を唱えていたが、やがて成仏していった、という話を聞いた杉屋佐助さんが観音像を建立し冥福を祈った

というもの。

 

 

以前、子安観音寺を訪れた時、住職さんとの会話の中で「佐助さんが昔話になっている」とお聞きしましたが、もしかするとこの即身仏の話かもしれませんね!?びっくり

 

 

 

  観音像の刻字が判明

 

文献にはそれぞれ一枚ずつ写真が掲載されていました。

新福寺の観音菩薩像(杉屋佐助寄進)

2つの文献によって観音像の表と裏の様子がわかりました照れ

 

 

[正面]

観音菩薩坐像浮彫り

 

[右面]

参考文献に記載なし

 

[裏面]

弘化二年巳二月

 

[左面]

ナゴヤ 杉屋佐助

 

弘化2年(1845)2月といえば、佐助さんの息子の佐太郎さんが亡くなった年月でもあります。

 

 

 

 

  ふたたび現地「新福寺」へ

 

新福寺のGoogleストリートビューを見ていたところ、驚いたことに、境内の東側にあったビルが解体されて更地化している様子が写っているではありませんか!

 

 

これは、もしかすると前回訪問時では見れなかった境内がみれるかもしれない!?びっくり

という事で、現地へ行ってみました!!ロケット

 

 

 

新福寺の観音像と境内風景

現地に着くと、以前ビルがあった場所は整地されてアスファルトが敷かれていました。

これは境内の様子をうかがえそうだゾ!爆  笑

...と思っていると、なんと幸運な事に住職さんとコンタクトをとることができたのです!

 

住職さんから参拝の許可を頂くことができました照れ

ありがとうございますお願い

 

 

 

新福寺の門(2022年と2026年)

なお、以前は「関係者以外立入禁止」となっていた境内でしたが、いまはその注意書きはありませんでした。

門も新しくなったようにみえますね。

前回は入れなかった境内なので入れることの喜びは大きいです照れ

 

 

新福寺の観音菩薩像と建物

まずは本堂前で参拝お願い

 

 

その後、佐助さんの観音像を探しますが見つかりませんあせる

やはり無くなってしまったのか...!?

ガッカリして気が抜けますショボーン

 

新福寺の境内と本堂、佐助観音像

最後に覆屋(おおいや)へ鎮座されているお地蔵様に参拝してから帰ります。

 

 

...と、その覆屋の中を覗いてよくよくお顔を拝んでみると、

 

なんと佐助さんが寄進した石仏(観音坐像)ではありませんか!お祝い

 

現存されていましたよ!!

一気に心がおどります爆  笑

ありがとう~!と叫びたい気持ち爆  笑

 

 

2つの覆屋のうち、写真手前はお地蔵様で、本堂側が佐助さんの観音坐像でしたニコニコ

 

 

こちらが佐助さん寄進の観音像↓

杉屋佐助寄進の石造観音菩薩像

佐助さん、見つけたよ~っ!爆  笑

文献に書いてあるように東向きです照れ

 

名古屋新福寺の杉屋佐助寄進観音像

優しいお顔をしておいでの観音様です。

左上が欠けているのも文献の写真と同じ。

まさか囲いの中にいらっしゃるとは!!お願い

 

新福寺の杉屋佐助寄進観音像

↑覆屋の背面(手前が佐助さん寄進の観音様)

この覆屋は平成7年に造られたようで、風化を防いでくれていますニコニコ

ありがたいことです。

しかし刻銘を見たい私としては、背面に隙間も無くなかなか厳しい状態ですあせる

 

杉屋佐助 観音像 寄進銘

ほぼ隙間が無いため、何枚か撮った中でかろうじて判別できそうな写真が一枚。

左面の「杉屋佐助」がなんとか。

裏面は目視不可でした。

 

 

それにしても、境内に入れて喜び、見つからず落胆して、見つけて喜んで、刻銘が見えずまた落胆という、なんとも感情が忙しいあせる

 

観音像をじっくりみていると、住職さんが出てきてくださりました照れ

お礼ついでに観音像について聞いてみましたが、ご存じないとの事でした。

少し残念でしたが文献と実物を拝めただけでも大満足です!グッド!

 

 

杉屋佐助寄進の観音菩薩像、新福寺

 

 

新発見を求めて、佐助さん探しの旅はつづく。

またねー!
 

 

 

 

私が杉屋佐助さんに興味を持ち始めた頃、笠寺観音にある番頭与吉さんの供養碑に刻まれた「是をよむ人、念仏授けたまへかし」という一文にとても感銘を受け、これは念仏を唱えに行かなければ!と強く思ったことを覚えています。

 

供養碑と裁断橋の擬宝珠

正面は善光寺如来が浮き彫りにされた供養碑は、杉屋佐助さんの息子、佐太郎さんが天保11年(1840)によって建てられました。

碑文全体や供養碑については↓の記事にて。

 

 

 

当時、碑文を読むことができない私は、横井在時さんが執筆した『郷土文化50巻』杉屋佐助なる人物は(補遺) でその内容を知りました照れ

その中で、この一文は熱田区にある「裁断橋」の擬宝珠に刻まれた銘文の結句に似ていると横井在時さんは記しています。

該当箇所を引用します。

「是をよむ人、念仏授けたまへかし」
筆者は、この供養文を読んだとき、ふと、熱田裁断橋の青銅擬宝珠に刻まれた仮名書き銘文の最後の言葉を思い出した。
日本女性文三名作の一つとされている、この銘文の結句は、

 

いつかんせいしゅん(逸岩世俊)と後のよの又のちまて
此かきつけを見る人ハ念仏申給へや三十三年のくやう也

 

この銘文は、豊臣秀吉の小田原征伐に参加し、陣没した十八歳の少年堀尾金助の三十三回忌にあたり、その母が橋供養をし、擬宝珠に、子を先立たせた母親の切々たる心情を世の人びとに訴えている。

当時は佐助さんの寄進物を追いかける事に必死で、この裁断橋についてはほとんど意識しませんでしたあせる

最近『郷土文化50巻』を読み直したところ思い出して、裁断橋を見に行こうとなった次第ですニコニコ

それにしても「日本女性文三名作」の一つとは凄いですね!

 

裁断橋跡の供養碑と擬宝珠

 

裁断橋供養碑と説明板

という訳で、裁断橋跡にやってきました爆  笑

 

裁断橋跡の解説板には名古屋市教育委員会の文字

まずは解説板ニコニコ

 

裁断橋跡

宮の宿の東のはずれを流れる精進川の東海道筋に架かっていて、現在の姥(うば)堂の東側にあった。
天正十八年(一五九〇)に十八歳になるわが子堀尾金助を小田原の陣で亡くし、その菩提を弔うために母親は橋の架け替えを行った。
三三回忌にあたり、再び架け替えを志したがそれも果たさず亡くなり、養子が母の意思を継いで元和八年(一六二二)に完成させた。
この橋の擬宝珠(ぎぼし)に彫られている仮名書きの銘文は、母が子を思う名文として、この橋を通る旅人に多くの感銘を与えた。
現在は裁断橋も縮小されたが、擬宝珠は市の指定文化財で市博物館に保存されている。
名古屋市教育委員会

現在の擬宝珠はレプリカで、本物は名古屋市博物館にあるという事ですね。

五条橋にあった慶長年間の擬宝珠もそうでしたね!

 

 

裁断橋 擬宝珠の銘文

これがその擬宝珠です。

念仏お願いを唱えさせて頂きました。

南無阿弥陀仏。


堀尾金助さんは愛知県丹羽郡大口町の土豪出身で、豊臣秀吉配下の武将として活躍した堀尾吉晴の一族で、天正18年(1590)の小田原城の北条攻めに18歳で従軍、戦場で病死したそうです。

 

擬宝珠は4つあり、3つは漢文で1つは仮名書きだそうです。

これを見る人が誰でも読めるように配慮する、それぐらい念仏を唱えて欲しかったというのがわかりますえーん

 

以下、「わが国屈指の名文」として知られる銘文の全文です。

 

【かな銘文】
てんしやう十八ねん二月十八日に、をたはらへの御ちん、

ほりをきん助と申、十八になりたる子をたゝせてより、

又ふためとも見さるかなしさのあまりに、いまこのはしをかける事、

はゝの身にはらくるいともなり、そくしんしやう ふつし給へ、

いつかんせいしゆんと、後のよの又のちまて、
此かきつけを見る人は念仏申給へや、卅三年のくやう也

【書き下し文】
天正十八年二月十八日に、小田原への御陣、堀尾金助と申す、

十八になりたる子を立たせてより、又ふた目とも見ざる悲しさのあまりに、

今この橋を架ける事、母の身には落涙ともなり、即身成仏し給え、

逸岩世俊と、後の世の又後まで、
此書付を見る人は念仏申し給えや。三十三年の供養也。

※「逸岩世俊」は金助の法名

後の世のまた後まで、念仏を唱えて欲しいという母の願い。

 

杉屋佐助さん、佐太郎さんもこの擬宝珠をみたのでしょう。

同じく感銘を受け、その銘文をモチーフにして与吉さんの碑文を作ったのかなぁと照れ

杉屋家にとって与吉さんは家族同然ですからね!ウインク

 

 

裁断橋と姥堂の浮世絵風景

※『尾張名所図会 前編巻四』より引用・加工

これは『尾張名所図会』に載っている裁断橋です。

東海道ということで賑わっていますね!

 

裁断橋の手前に「姥堂」が描かれています。

この姥堂は、裁断橋の下を流れる精進川を三途の川と見立て、死者の衣服を奪い取る奪衣婆(閻魔大王の妻)を祀る場所だそうです。
そして橋の名前の由来は死者を閻魔大王が裁断する場という説があるそうです。

 

三途の川は現世とあの世の境目にある川と言われ、善人は橋を渡り、軽い罪を犯した者は浅瀬、重い罪を犯した者は深い瀬を渡らなければならないそうです。

 

この橋の名前がいつから「裁断橋」となったかはわかりませんが、亡くなった当時からであれば、子が三途の川を「橋」で渡れるように定期的に橋の建替えをしたのかもしれませんね照れ

 

 

裁断橋跡の姥堂と供養碑

※Googleストリートビューより引用・加工

「姥堂」は現在も裁断橋跡の2階にあります!


 

裁断橋跡の古地図と精進川

 

※「今昔マップ」より引用・加工

 

さて、この裁断橋は大正時代までは架かっていたようです。

明治時代の地図をみると、確かに橋記号がありますねニコニコ

 

※Googleストリートビューより引用・加工

実際の橋の場所は今の裁断橋跡よりも少し東側だったそうです。

現在の地図に重ね合わせるとこんな感じかな爆  笑

 

 

裁断橋跡が未来永劫残る事を祈っていますお願い

 

 

新発見を求めて、佐助さん探しの旅はつづく。

またねー!
 

 

 

 

 

前回、杉屋佐助さんが寄進された手水鉢を訪ねて三重県津市の真教寺へ行きました。

こちらの手水鉢が、ほかの地域にある佐助さんの手水鉢とよく似ているので比較してみましたよニコニコ

 

 

 

  3つの手水鉢

 

杉屋佐助寄進の手水鉢3地点マップ

比較する手水鉢は

岐阜県岐阜市の正法寺 (岐阜大仏)

愛知県名古屋市南区の西方院

三重県津市の真教寺 (エンマ堂)

この3ヵ所にあり、いずれも佐助さんの寄進物です。

 

佐助寄進の手水鉢3選:正法寺、西方院、真教寺

①正法寺の手水鉢は、線香を立てる「香台(香炉)」として位置付けられているようにも見受けられますが、今回の記事では便宜上「手水鉢」とします。

 

 

  比較:梵字

 

正面

3つの手水鉢の梵字比較

同じサイズ感の梵字が刻まれています。

(手水鉢の長さや大きさを計測しておけば良かったあせる)

 

 

①の梵字は「バク」と読み、釈迦如来をあらわすそうです。

調べると①正法寺のご本尊でした!

緑色の着色は現代に入って施したのかな?

 

②は「キャ」で十一面観音のこと。

しかし、②西方院のご本尊ではありません。

お寺の向かいにある笠覆寺(笠寺観音)のご本尊が十一面観音なので関連があるのかもしれません。

 

③の読みは「カ」、地蔵菩薩をあらわしています。

地蔵堂が③真教寺にあるので一致しています!ニコニコ

 

 

 

 

  比較:寄進年

 

佐助寄進の手水鉢3種比較

天保2~3年に彫られたものです。

 

①については、ご本尊の釈迦如来(岐阜大仏)の完成が天保3年4月だったようです。

佐助さんは同じ年の冬に手水鉢を寄進されているので、お祝いだったのかもしれませんね照れ

 

そう考えると、②③の手水鉢もお世話になったお礼というよりは何かのお祝いで寄進された可能性がありますね!キョロキョロ

 

 

 

  比較:寄進者

 

杉屋佐助 寄進 手水鉢 比較

①正法寺と③真教寺の刻字がそっくりです。

②西方院は中央に水道管が設置されていて、ちょうど佐助さんの名前が隠れてしまっていますが、①③とは異なる文字の並びです。

 

①③を比較してみます。

正法寺・真教寺の手水鉢比較

杉屋佐助の「佐」の字が異なっていますが、他は複製かと思えるほどそっくり!

文字間や行間の間隔といい、筆文字のハネやハライといい、同じ人の筆跡に見えます!

どうやったらこのように同じ刻字が出来上がるのでしょう?

当時の石を彫る工程が知りたい爆  笑

 

ちなみに「佐」の字は②西方院と③真教寺が同じ崩し文字と思われます。

西方院と真教寺の手水鉢の梵字比較

①は分かりづらいですが精一杯の撮影と加工ですあせる

 

 

 

 

  比較:水を溜める凹みの部分

 

手水鉢3種比較:正法寺・西方院・真教寺

撮影する角度が微妙に異なっていますが、3つとも似ています。

 

実は、別のお寺に佐助さんが寄進された香台があるのですが、形や大きさがこれらの手水鉢とよく似ているのです。

杉屋佐助寄進の手水鉢(三重県津市)

↑愛知県稲沢市の「性海寺」にある佐助さんの寄進物

どうですか?

梵字はありませんが形は似てるでしょ?

 

 

ただ、灰を溜める凹み部分の広さが手水鉢とは異なります。

性海寺の香台と真教寺の手水鉢

こんなに違っていますびっくり

 

水が入れば手水鉢、灰が入れば香台と思っていましたが、

手水鉢と香台の違いは凹み部分のサイズなんでしょうかね。

佐助さんが意図した用途を知りたい爆  笑

 

 

 

 

  比較:デザイン

 

手水鉢はすべての面に、枠のようなラインが彫られています。

手水鉢のイメージ画像

 

杉屋佐助の手水鉢3選:正法寺・西方院・真教寺

機能性ではなくデザイン性のラインに見えますがどうなんでしょう。

いずれにしても丁寧な彫刻をされる職人さんの作品という印象を受けますニコニコ

 

参考までに、さきほど挙げた性海寺の香台にはこのようなラインは彫られていません。

 

 

 

  考察

 

これらの3つの手水鉢は、同じ職人さんが手掛けられたのではないかと思えます。

水を溜める凹みの部分や、梵字の彫り部分など、細部まできちんと平らに整えてボコボコしている様子がありません。

佐助さんが腕を見込んで発注された職人さんなのかもしれないと思えてきますニコニコ

 

この他にもまだ、梵字の入った佐助さん寄進の手水鉢がどこかにあるかもしれません!

見つけたいゾ爆  笑

 

 

 

新発見を求めて、佐助さん探しの旅はつづく。

またねー!
 

 

 

 

 

<本記事で挙げた佐助さんの寄進物を訪問した時の記事>

 

岐阜県岐阜市「正法寺 (岐阜大仏)」

 

 

愛知県名古屋市南区「西方院」

 

 

三重県津市「真教寺 (エンマ堂)」

 

 

愛知県稲沢市「性海寺」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今回の杉屋佐助さんは、三重県津市の下弁財町津興(しもべざいまちつおき)にある阿漕山 眞教寺(あこぎさん しんきょうじ) 地蔵堂の手水鉢ですニコニコ

 

こちらの寄進物は私の佐助さん寄進物リストには無かったもので、文献から探り出した新情報なのです!お祝い

佐助さんの新情報は主にフォロワーさんからいただいてばかりでしたので、やっとこさ自力で探せた文献からの発見です爆  笑

 

 

▼参考にした文献

『伊勢街道:朝熊岳道・二見道・磯部道・青峰道・鳥羽道 2版』

・昭和62年(1987)

・三重県教育委員会 発行

・p.47に下記の記載がありました。

津片浜町中嶌屋三四郎・清五郎を世話人とし、尾州名古屋米穀問屋杉屋佐助・与吉の寄進によるエンマ堂前の手洗鉢には、天保三年壬辰(一八三二)初夏の年紀がある。
エンマ堂の左手には、地蔵三体をまつる小さな祠がある。
延命子安地蔵尊と呼ばれている。

 

 

本の発行は今から約40年前。

今は無くなってるかも!?

早速Googleマップで確認してみました。

すると....今年撮影されたストリートビューにちゃんとありましたよ!爆  笑

いや~便利な世の中ですね照れ

 

という訳で、早速現地へGO!!車

 

 

  三重県津市の阿漕山真教寺

 

阿漕山真教寺の地蔵堂と伊勢街道

真教寺に到着しました爆  笑

伊勢街道沿いにあるお寺さんです。

 

東海近畿地蔵霊場 第十三番札所

「東海近畿地蔵霊場」という巡礼もあるんですね。

 ここ真教寺は「第十三番札所」のようです。

 

 

真教寺のエンマ堂の看板と五色の幕

まずは真教寺に参拝お願い

ご本尊は閻魔大王様とのことで、個人的にはあまり参拝経験のないご本尊です。

 

真教寺の閻魔大王と仏像

真教寺は比叡山延暦寺の直轄地で、慶長19年(1614)に津藩主の藤堂高次が寄進したお寺だそうです。

エンマ堂の愛称で親しまれ、お堂の真ん中にドン!と高さ197cmの閻魔大王様がお座りになってこちらを睨んでムキーいます。

さすがの番人!なかなかの迫力です!びっくり

左の十一面観音立像は円空さん初期の作品との事で、円空さんの作品としてはかなり大きいそうです。(235cm)

 

 

三重県津市・真教寺の地蔵堂と閻魔堂

そしてエンマ堂の隣にあるのが地蔵堂です。

 

 

杉屋佐助 手水鉢 三重県津市 真教寺

 

真教寺の小さな地蔵像たち

地蔵堂の奥には、20センチくらいの小さなお地蔵さんが10体ほどいらっしゃいました。

道中安全をお祈りしましたお願い

 

ここ真教寺の山号は

「阿漕山」

 または

「阿古木山」

どちらも「あこぎさん」と読みます。

文献によって異なる漢字が使われていました。

現地では上の写真のとおり「阿漕山」が使われていますね。

 

 

 

  佐助さんの手水鉢

 

さぁそしていよいよ、杉屋佐助さんが寄進された手水鉢(ちょうずばち)とのご対面です照れ

 

杉屋佐助寄進の手水鉢。天保3年銘。

地蔵堂の横にひっそりと。

佐助さんの手水鉢が現存しているのを見て安堵照れ

 

 

そして佐助さんの刻字を確認お願い

 

杉屋佐助 寄進 手水鉢 刻字

深く、太く、力強さを感じる美しい刻字です照れ

岐阜大仏にある佐助さんの寄進物と似ているので、別の記事で比較してみます。

 

 

杉屋佐助寄進の天保3年手水鉢

上からみると削れた痕がありました。

柄杓を置いていた跡かな? そうだとすると、かなりの人が使ったのでしょうね照れ

 

 

それでは、いつもの四面画像です花火

 

杉屋佐助 寄進手水鉢 三重県津市 真教寺

 

[正面]
(梵字)カ
※「カ」は地蔵菩薩を意味する


[右面]
世話人
津片濱町
中嶌屋三四郎
同 清五郎

※「嶌」は「島」の異体字なので「中島屋」または「中嶋屋」ですね


[裏面]
天保三年 壬辰 初夏

[左面]
尾州名古屋
米穀問屋
杦屋佐助
同 與吉

※「杦」は「杉」の異体字

※「與」は「与」 の異体字

 

 

佐助さんの天保3年(1832)の寄進物は全て番頭の与吉さんとの共同寄進となっています。

 

杉屋佐助 寄進 手水鉢 刻字

杉屋家にとって何か大きな動きがあったのかもしれません照れ

 

 

 

  世話人の中嶌屋さん

 

杉屋佐助 寄進 手水鉢 刻字

世話人の中嶌屋三四郎さんは、佐助さんが再建に関わった愛知県のお寺「堀江山 長谷院」へ、寄進者として石造物を建立されています。

 

その寄進物とは西国三十三所燈明で、中嶌屋三四郎さんは「第6番 壺阪寺」の燈明を寄進されていました。

寄進者名の面↓

杉屋佐助 寄進 手水鉢 三重県津市

当初は見づらくて解読できませんでしたが、

あら不思議!今見ると読めるではないですか!

「津 中嶋屋三四(以下埋没)

やったね爆  笑

 

燈明が寄進されたのは嘉永7年(1854)

真教寺地蔵堂の手水鉢は天保3年(1832)

少なくとも、佐助さんと22年のお付き合いがあった中嶌屋さんニコニコ

何屋さんでしょうかね~。

 

 

真教寺周辺の地図、伊勢街道と片浜町

中嶌屋さんの住所「片濱町」は城下町で、手水鉢のある真教寺の地蔵堂から北へ1.5Kmほど行った所です。

 

今は使われていない町名ですが、かつての片浜町の一角(津市東丸之内30番地)へ「旧町名碑」があり、下記のように記されているそうです。

旧町名 片浜町
由来 津城下では、漁師や水夫などが住む町を「浜町」と総称した。
「片浜」と呼ばれた由来は明らかではないが、町が堀川に面していて、 はじめは片側だけの町であったからだと思われる。

 

片浜町沿いには堀川が開削されていたようなので、中嶌屋さんは舟を使った家業を営んでいた方かもしれませんねニコニコ

現在、堀川は埋め立てられ、岩田川の合流付近にわずかに名残りが見られました。

 

 

 

  移動された手水鉢

 

真教寺の杉屋佐助寄進手水鉢

※『円空巡礼 近江路 伊勢路 大和』より引用・加工

これは昭和54年発行本の真教寺の写真ですが、佐助さんの手水鉢がエンマ堂前に置かれています。

この時は手水鉢じゃなくて香台として使用されていたのかなニコニコ

 

真教寺の杉屋佐助寄進手水鉢(三重県津市)

こちらが現在(2026年)の真教寺

手水鉢は地蔵堂のすぐ横に移動しています。

 

 

手水鉢の梵字(地蔵菩薩)

佐助さんの手水鉢の正面には「地蔵菩薩」を表す梵字が刻まれているので、地蔵堂のすぐ横は適した場所ですね照れ

 

閻魔堂は慶長19年(1614)に建立されたようですが、地蔵堂の建立時期が分かりませんキョロキョロ

どの文献からもその記載を見つけることができませんでした。

 

真教寺の地蔵堂と閻魔堂の古地図

※『伊勢路見取絵図 第一巻』より引用・加工

ただ、文化3年(1806)に完成した『五海道其外分間延絵図並見取絵図』のうち『伊勢路見取絵図』にある真教寺をみると、既に地蔵堂が描かれています。

少なくとも佐助さんが手水鉢を寄進される26年前には存在していたようです。

 

 

 

  佐助さんの寄進でないもうひとつの手水鉢

 

真教寺にある佐助寄進の手水鉢

さて、手水鉢ですが閻魔堂の方にもありますので、見てみましょう爆  笑

 

杉屋佐助寄進 手水鉢 天保3年 尾張名古屋

こちらは水が使えそうですね!ウインク

 

杉屋佐助寄進の手水鉢 三重県津市

[正面]
清水

[右面]
安政五午年

[裏面]
三州岡崎
 炭屋松

 重尾屋□□
 笹屋忠兵衛
三州吉良一色浦
 信濃屋傳兵衛
尾州知多郡樽水
 紺屋助右エ門
□□
 
屋良右エ門
佐屋
 岩間代助
津嶋
 大野屋市良兵エ
 八百屋金兵衛
 河内屋宗兵衛
 吉文字屋与七
世話人
 大坂屋元七


[左面]
(無し)
 

 

裏面の名前は彫が浅いですができるだけ読んでみましたニコニコ

安政5年(1858)の手水鉢で、佐助さんの手水鉢から26年後の寄進のようです。

 

 

 

三重県津市真教寺の地図

※Googleマップから引用・加工

三河:岡崎(岡崎市)・吉良一色(西尾市)

尾張:知多半島の樽水(常滑市)・佐屋(愛西市)・津嶋(津島市)

各地から総勢11名での寄進です。

みなさん、どんな関係なのでしょうか爆  笑

佐助さんの寄進ではありませんが気になります。

 

 

ざっと調べたところ、とりあえず佐屋の岩間代助さんについては情報がみつかりました!

佐屋街道の佐屋宿(佐屋代官所)で船年寄をされている船庄屋でした。

岩間家(岩間権右衛門)は佐屋宿の本陣を務めていたそうです!びっくり大物が出てきましたよ!

※参照『佐屋町史 史料編 1』p.176,368、『角川日本姓氏歴史人物大辞典 23』p.635

 

 

 

 

新発見を求めて、佐助さん探しの旅はつづく。

またねー!

 

 

 

名古屋城と大きな月が重なる写真を撮りたい!!カメラ

そう思い始めて2年半

タイミングを見計らい何回かチャレンジするも、いずれも位置がズレたり雲で出始めの月が見れず涙を呑むえーん

しかしこれらは失敗ではありませんロケット

チャレンジし続ければ撮れる日は必ず来る!爆  笑

 

とまぁ、そんなこんなで、今回なんとか撮影に成功しましたよ!

写真は全てコンデジ(FZ-1000m2)で撮影し、加工はトリミングのみです。

合成ではありませんよ花火

 

名古屋城と赤い月が重なる夜景

[時刻]19:38:52

おぉ!びっくり

何か暗く赤い物体がお城の後ろにいるゾ!!

双眼鏡で確認すると既に昇り始めていたので急いで撮影する。

 

名古屋城と赤く大きな月が重なる瞬間

[時刻]19:39:13

これがお月様かな!?びっくり

お月様「コンニチハ!」

 

名古屋城と赤く大きな月が重なる奇跡の瞬間

[時刻]19:39:53

念願の名古屋城の背後に大きなお月様!照れ

やったゾ~~~!!お祝い

素晴らしい天体ショー!!爆  笑

多少ブレててもピンボケでも気にしない!グッド!

 

名古屋城と満月が重なる写真

[時刻]19:40:55

もうズレてしまった...

ど真ん中で重なる瞬間は数十秒しかありません。

※[時刻]はカメラの時刻で正確な時間ではありません。時刻は月の移動速度をお伝えしたい意図で載せています。

 

名古屋城と月が重なる風景写真

[時刻]19:42:24

どんどん昇ってゆきます。

 

名古屋城と赤く大きな月が重なる夜景

[時刻]19:43:41

月が高くなると黄色っぽくなります照れ

 

 

 

この名古屋城と月の撮影、かなり難易度が高いんです。

山のてっぺんにある城ではなく地上にあることも難易度を高めています。

 

名古屋城と昇る月、撮影する忍者

まず、日中はダメ。

 

名古屋城と月、撮影する忍者

雨はもちろん、くもり空もダメ。

晴れていても城の後ろに分厚い雲があるとダメ。

 

名古屋城と月が重なる瞬間を捉える忍者カメラマン

山で月の出が隠れるとダメ。

 

城との間に高い建物があってもダメ。

 

城がライトアップされてないとダメ。

 

月を大きく見せるために城から距離を取らないとダメ。

 

名古屋城と月の重なり、約2分の撮影

月の出始めから時間が経つとダメ。

出始めで位置が低すぎてもダメ。

今回の撮影はわずか2分間の勝負でした!

 

 

 

今回これをクリアして、月の方位が合致してやっと撮れた写真です照れ

 

名古屋城と赤い月が重なる写真

スマホでも撮ってみた!ニコニコ

 

 

ブログをフォローさせていただいている方にならって、私も一句詠んでみたくなりました上差し

名古屋城と赤月が重なる幻想的な夜景

春の夜の

城の背に浮く茜月

わが心をも

満たしこそすれ

 

感動を記録にと、歌を考えてみました照れ

 

 

 

花火花火花火花火花火花火

 

とりあえず満足はしたものの、一回撮ると欲が出てきてしまう笑い泣き

今回はオートモードで撮ったのでブレもピンボケも...。

撮れない時はマニュアルで設定してたのにこのザマです(笑)

実は月の出直前にトイレに行きたくなって、戻ってきたらもう月が昇る時間!

設定する時間がありませんでしたあせる

次はもっとお城がちゃんと見えるようにも撮りたいね~照れ


 

 

またねー!