今回の杉屋佐助さんは、名古屋市西区にある新福寺の観音像ですニコニコ

 

新福寺の観音像については、かなり前にフォロワーさんから教えて頂き一度訪れていました爆  笑

その時の記事が↓です。

 

 

 

 

  資料を見つけた!!

 

2022年に訪れた時は境内に入って参拝する事ができず、観音像の確認もできませんでした。

それから3年ちょっと。

資料を見つけました!!

しかも2つも!!爆  笑やったね!

 

 

一つ目は、『名古屋街かど歴史散歩』という平成6年(1994)に発行された文献です。

p.75に新福寺の伝説?について記されていました。

(22) 即身成仏

今から百五十年程前のことである。

いず方よりか一人の行者僧が新福寺に入寺したのは、丁度、初冬の頃で、門前の満天星の紅葉もほとんど落葉していた。

その僧は心の痛みを持ってこの寺に来て、薬師如来に帰依せんとして住僧となった。

当時、天台、真言の密教では即身成仏の信仰があり、心身と真言を整えることによって人間は生身のまま仏身になり得ると信じられていた。

まず、穀物を口に入れることをやめ、更に水を飲むことをやめたその僧は印を結び、真言をとなえながら、棺おけに入り、三密修行に入った。

棺が土中に埋葬されると、娑婆との往来は一本の竹筒だけだ。

眠気と邪気を払うため鈴を持ち、土中から時折聞こえる音も始めはしっかりしていたが、次第にとだえがちになって、いつしか成仏していった。

当時、このことは大変な噂になり、伝え聞いた杉屋佐助はその僧の冥福を祈って弘化二年二月に建立したのが石造の観音坐像だ。

今もなお、香華も絶えることなく参道の脇に東向きになっている。

 

二つ目は、『庄内 創立百周年記念』という昭和48年(1973)に発行された文献です。

p.185に新福寺の伝説について記されていました。

新福寺の伝説

本堂の左手前に高さ五尺ほどの一基の石仏(観音菩薩)が東向きに祀ってある。

昔ある男が仏教に深く帰依し、仏行三昧に入り、その後この寺にやって来た。

そして寺内に穴を掘り、生きながらその穴の中に入り念仏を唱えながら遂に大往生をとげたのである。

まことに奇特な所行であるというので伝え聞いた名古屋の杉屋佐助という仁が、その成仏した跡に観音像を建立して冥福を祈った。

向かって左側に「ナゴヤ杉屋佐助」と寄附者の名、裏には「弘化二年巳二月」と、建立の年月が刻してある。

弘化二年(一八四五)は江戸末期、アメリカの黒船が浦賀にやって来た年である。

 

 

要約すると、

ひとりの僧が生きながらにして新福寺の土中で念仏を唱えていたが、やがて成仏していった、という話を聞いた杉屋佐助さんが観音像を建立し冥福を祈った

というもの。

 

 

以前、子安観音寺を訪れた時、住職さんとの会話の中で「佐助さんが昔話になっている」とお聞きしましたが、もしかするとこの即身仏の話かもしれませんね!?びっくり

 

 

 

  観音像の刻字が判明

 

文献にはそれぞれ一枚ずつ写真が掲載されていました。

新福寺の観音菩薩像(杉屋佐助寄進)

2つの文献によって観音像の表と裏の様子がわかりました照れ

 

 

[正面]

観音菩薩坐像浮彫り

 

[右面]

参考文献に記載なし

 

[裏面]

弘化二年巳二月

 

[左面]

ナゴヤ 杉屋佐助

 

弘化2年(1845)2月といえば、佐助さんの息子の佐太郎さんが亡くなった年月でもあります。

 

 

 

 

  ふたたび現地「新福寺」へ

 

新福寺のGoogleストリートビューを見ていたところ、驚いたことに、境内の東側にあったビルが解体されて更地化している様子が写っているではありませんか!

 

 

これは、もしかすると前回訪問時では見れなかった境内がみれるかもしれない!?びっくり

という事で、現地へ行ってみました!!ロケット

 

 

 

新福寺の観音像と境内風景

現地に着くと、以前ビルがあった場所は整地されてアスファルトが敷かれていました。

これは境内の様子をうかがえそうだゾ!爆  笑

...と思っていると、なんと幸運な事に住職さんとコンタクトをとることができたのです!

 

住職さんから参拝の許可を頂くことができました照れ

ありがとうございますお願い

 

 

 

新福寺の門(2022年と2026年)

なお、以前は「関係者以外立入禁止」となっていた境内でしたが、いまはその注意書きはありませんでした。

門も新しくなったようにみえますね。

前回は入れなかった境内なので入れることの喜びは大きいです照れ

 

 

新福寺の観音菩薩像と建物

まずは本堂前で参拝お願い

 

 

その後、佐助さんの観音像を探しますが見つかりませんあせる

やはり無くなってしまったのか...!?

ガッカリして気が抜けますショボーン

 

新福寺の境内と本堂、佐助観音像

最後に覆屋(おおいや)へ鎮座されているお地蔵様に参拝してから帰ります。

 

 

...と、その覆屋の中を覗いてよくよくお顔を拝んでみると、

 

なんと佐助さんが寄進した石仏(観音坐像)ではありませんか!お祝い

 

現存されていましたよ!!

一気に心がおどります爆  笑

ありがとう~!と叫びたい気持ち爆  笑

 

 

2つの覆屋のうち、写真手前はお地蔵様で、本堂側が佐助さんの観音坐像でしたニコニコ

 

 

こちらが佐助さん寄進の観音像↓

杉屋佐助寄進の石造観音菩薩像

佐助さん、見つけたよ~っ!爆  笑

文献に書いてあるように東向きです照れ

 

名古屋新福寺の杉屋佐助寄進観音像

優しいお顔をしておいでの観音様です。

左上が欠けているのも文献の写真と同じ。

まさか囲いの中にいらっしゃるとは!!お願い

 

新福寺の杉屋佐助寄進観音像

↑覆屋の背面(手前が佐助さん寄進の観音様)

この覆屋は平成7年に造られたようで、風化を防いでくれていますニコニコ

ありがたいことです。

しかし刻銘を見たい私としては、背面に隙間も無くなかなか厳しい状態ですあせる

 

杉屋佐助 観音像 寄進銘

ほぼ隙間が無いため、何枚か撮った中でかろうじて判別できそうな写真が一枚。

左面の「杉屋佐助」がなんとか。

裏面は目視不可でした。

 

 

それにしても、境内に入れて喜び、見つからず落胆して、見つけて喜んで、刻銘が見えずまた落胆という、なんとも感情が忙しいあせる

 

観音像をじっくりみていると、住職さんが出てきてくださりました照れ

お礼ついでに観音像について聞いてみましたが、ご存じないとの事でした。

少し残念でしたが文献と実物を拝めただけでも大満足です!グッド!

 

 

杉屋佐助寄進の観音菩薩像、新福寺

 

 

新発見を求めて、佐助さん探しの旅はつづく。

またねー!
 

 

 

 

私が杉屋佐助さんに興味を持ち始めた頃、笠寺観音にある番頭与吉さんの供養碑に刻まれた「是をよむ人、念仏授けたまへかし」という一文にとても感銘を受け、これは念仏を唱えに行かなければ!と強く思ったことを覚えています。

 

供養碑と裁断橋の擬宝珠

正面は善光寺如来が浮き彫りにされた供養碑は、杉屋佐助さんの息子、佐太郎さんが天保11年(1840)によって建てられました。

碑文全体や供養碑については↓の記事にて。

 

 

 

当時、碑文を読むことができない私は、横井在時さんが執筆した『郷土文化50巻』杉屋佐助なる人物は(補遺) でその内容を知りました照れ

その中で、この一文は熱田区にある「裁断橋」の擬宝珠に刻まれた銘文の結句に似ていると横井在時さんは記しています。

該当箇所を引用します。

「是をよむ人、念仏授けたまへかし」
筆者は、この供養文を読んだとき、ふと、熱田裁断橋の青銅擬宝珠に刻まれた仮名書き銘文の最後の言葉を思い出した。
日本女性文三名作の一つとされている、この銘文の結句は、

 

いつかんせいしゅん(逸岩世俊)と後のよの又のちまて
此かきつけを見る人ハ念仏申給へや三十三年のくやう也

 

この銘文は、豊臣秀吉の小田原征伐に参加し、陣没した十八歳の少年堀尾金助の三十三回忌にあたり、その母が橋供養をし、擬宝珠に、子を先立たせた母親の切々たる心情を世の人びとに訴えている。

当時は佐助さんの寄進物を追いかける事に必死で、この裁断橋についてはほとんど意識しませんでしたあせる

最近『郷土文化50巻』を読み直したところ思い出して、裁断橋を見に行こうとなった次第ですニコニコ

それにしても「日本女性文三名作」の一つとは凄いですね!

 

裁断橋跡の供養碑と擬宝珠

 

裁断橋供養碑と説明板

という訳で、裁断橋跡にやってきました爆  笑

 

裁断橋跡の解説板には名古屋市教育委員会の文字

まずは解説板ニコニコ

 

裁断橋跡

宮の宿の東のはずれを流れる精進川の東海道筋に架かっていて、現在の姥(うば)堂の東側にあった。
天正十八年(一五九〇)に十八歳になるわが子堀尾金助を小田原の陣で亡くし、その菩提を弔うために母親は橋の架け替えを行った。
三三回忌にあたり、再び架け替えを志したがそれも果たさず亡くなり、養子が母の意思を継いで元和八年(一六二二)に完成させた。
この橋の擬宝珠(ぎぼし)に彫られている仮名書きの銘文は、母が子を思う名文として、この橋を通る旅人に多くの感銘を与えた。
現在は裁断橋も縮小されたが、擬宝珠は市の指定文化財で市博物館に保存されている。
名古屋市教育委員会

現在の擬宝珠はレプリカで、本物は名古屋市博物館にあるという事ですね。

五条橋にあった慶長年間の擬宝珠もそうでしたね!

 

 

裁断橋 擬宝珠の銘文

これがその擬宝珠です。

念仏お願いを唱えさせて頂きました。

南無阿弥陀仏。


堀尾金助さんは愛知県丹羽郡大口町の土豪出身で、豊臣秀吉配下の武将として活躍した堀尾吉晴の一族で、天正18年(1590)の小田原城の北条攻めに18歳で従軍、戦場で病死したそうです。

 

擬宝珠は4つあり、3つは漢文で1つは仮名書きだそうです。

これを見る人が誰でも読めるように配慮する、それぐらい念仏を唱えて欲しかったというのがわかりますえーん

 

以下、「わが国屈指の名文」として知られる銘文の全文です。

 

【かな銘文】
てんしやう十八ねん二月十八日に、をたはらへの御ちん、

ほりをきん助と申、十八になりたる子をたゝせてより、

又ふためとも見さるかなしさのあまりに、いまこのはしをかける事、

はゝの身にはらくるいともなり、そくしんしやう ふつし給へ、

いつかんせいしゆんと、後のよの又のちまて、
此かきつけを見る人は念仏申給へや、卅三年のくやう也

【書き下し文】
天正十八年二月十八日に、小田原への御陣、堀尾金助と申す、

十八になりたる子を立たせてより、又ふた目とも見ざる悲しさのあまりに、

今この橋を架ける事、母の身には落涙ともなり、即身成仏し給え、

逸岩世俊と、後の世の又後まで、
此書付を見る人は念仏申し給えや。三十三年の供養也。

※「逸岩世俊」は金助の法名

後の世のまた後まで、念仏を唱えて欲しいという母の願い。

 

杉屋佐助さん、佐太郎さんもこの擬宝珠をみたのでしょう。

同じく感銘を受け、その銘文をモチーフにして与吉さんの碑文を作ったのかなぁと照れ

杉屋家にとって与吉さんは家族同然ですからね!ウインク

 

 

裁断橋と姥堂の浮世絵風景

※『尾張名所図会 前編巻四』より引用・加工

これは『尾張名所図会』に載っている裁断橋です。

東海道ということで賑わっていますね!

 

裁断橋の手前に「姥堂」が描かれています。

この姥堂は、裁断橋の下を流れる精進川を三途の川と見立て、死者の衣服を奪い取る奪衣婆(閻魔大王の妻)を祀る場所だそうです。
そして橋の名前の由来は死者を閻魔大王が裁断する場という説があるそうです。

 

三途の川は現世とあの世の境目にある川と言われ、善人は橋を渡り、軽い罪を犯した者は浅瀬、重い罪を犯した者は深い瀬を渡らなければならないそうです。

 

この橋の名前がいつから「裁断橋」となったかはわかりませんが、亡くなった当時からであれば、子が三途の川を「橋」で渡れるように定期的に橋の建替えをしたのかもしれませんね照れ

 

 

裁断橋跡の姥堂と供養碑

※Googleストリートビューより引用・加工

「姥堂」は現在も裁断橋跡の2階にあります!


 

裁断橋跡の古地図と精進川

 

※「今昔マップ」より引用・加工

 

さて、この裁断橋は大正時代までは架かっていたようです。

明治時代の地図をみると、確かに橋記号がありますねニコニコ

 

※Googleストリートビューより引用・加工

実際の橋の場所は今の裁断橋跡よりも少し東側だったそうです。

現在の地図に重ね合わせるとこんな感じかな爆  笑

 

 

裁断橋跡が未来永劫残る事を祈っていますお願い

 

 

新発見を求めて、佐助さん探しの旅はつづく。

またねー!
 

 

 

 

 

前回、杉屋佐助さんが寄進された手水鉢を訪ねて三重県津市の真教寺へ行きました。

こちらの手水鉢が、ほかの地域にある佐助さんの手水鉢とよく似ているので比較してみましたよニコニコ

 

 

 

  3つの手水鉢

 

杉屋佐助寄進の手水鉢3地点マップ

比較する手水鉢は

岐阜県岐阜市の正法寺 (岐阜大仏)

愛知県名古屋市南区の西方院

三重県津市の真教寺 (エンマ堂)

この3ヵ所にあり、いずれも佐助さんの寄進物です。

 

佐助寄進の手水鉢3選:正法寺、西方院、真教寺

①正法寺の手水鉢は、線香を立てる「香台(香炉)」として位置付けられているようにも見受けられますが、今回の記事では便宜上「手水鉢」とします。

 

 

  比較:梵字

 

正面

3つの手水鉢の梵字比較

同じサイズ感の梵字が刻まれています。

(手水鉢の長さや大きさを計測しておけば良かったあせる)

 

 

①の梵字は「バク」と読み、釈迦如来をあらわすそうです。

調べると①正法寺のご本尊でした!

緑色の着色は現代に入って施したのかな?

 

②は「キャ」で十一面観音のこと。

しかし、②西方院のご本尊ではありません。

お寺の向かいにある笠覆寺(笠寺観音)のご本尊が十一面観音なので関連があるのかもしれません。

 

③の読みは「カ」、地蔵菩薩をあらわしています。

地蔵堂が③真教寺にあるので一致しています!ニコニコ

 

 

 

 

  比較:寄進年

 

佐助寄進の手水鉢3種比較

天保2~3年に彫られたものです。

 

①については、ご本尊の釈迦如来(岐阜大仏)の完成が天保3年4月だったようです。

佐助さんは同じ年の冬に手水鉢を寄進されているので、お祝いだったのかもしれませんね照れ

 

そう考えると、②③の手水鉢もお世話になったお礼というよりは何かのお祝いで寄進された可能性がありますね!キョロキョロ

 

 

 

  比較:寄進者

 

杉屋佐助 寄進 手水鉢 比較

①正法寺と③真教寺の刻字がそっくりです。

②西方院は中央に水道管が設置されていて、ちょうど佐助さんの名前が隠れてしまっていますが、①③とは異なる文字の並びです。

 

①③を比較してみます。

正法寺・真教寺の手水鉢比較

杉屋佐助の「佐」の字が異なっていますが、他は複製かと思えるほどそっくり!

文字間や行間の間隔といい、筆文字のハネやハライといい、同じ人の筆跡に見えます!

どうやったらこのように同じ刻字が出来上がるのでしょう?

当時の石を彫る工程が知りたい爆  笑

 

ちなみに「佐」の字は②西方院と③真教寺が同じ崩し文字と思われます。

西方院と真教寺の手水鉢の梵字比較

①は分かりづらいですが精一杯の撮影と加工ですあせる

 

 

 

 

  比較:水を溜める凹みの部分

 

手水鉢3種比較:正法寺・西方院・真教寺

撮影する角度が微妙に異なっていますが、3つとも似ています。

 

実は、別のお寺に佐助さんが寄進された香台があるのですが、形や大きさがこれらの手水鉢とよく似ているのです。

杉屋佐助寄進の手水鉢(三重県津市)

↑愛知県稲沢市の「性海寺」にある佐助さんの寄進物

どうですか?

梵字はありませんが形は似てるでしょ?

 

 

ただ、灰を溜める凹み部分の広さが手水鉢とは異なります。

性海寺の香台と真教寺の手水鉢

こんなに違っていますびっくり

 

水が入れば手水鉢、灰が入れば香台と思っていましたが、

手水鉢と香台の違いは凹み部分のサイズなんでしょうかね。

佐助さんが意図した用途を知りたい爆  笑

 

 

 

 

  比較:デザイン

 

手水鉢はすべての面に、枠のようなラインが彫られています。

手水鉢のイメージ画像

 

杉屋佐助の手水鉢3選:正法寺・西方院・真教寺

機能性ではなくデザイン性のラインに見えますがどうなんでしょう。

いずれにしても丁寧な彫刻をされる職人さんの作品という印象を受けますニコニコ

 

参考までに、さきほど挙げた性海寺の香台にはこのようなラインは彫られていません。

 

 

 

  考察

 

これらの3つの手水鉢は、同じ職人さんが手掛けられたのではないかと思えます。

水を溜める凹みの部分や、梵字の彫り部分など、細部まできちんと平らに整えてボコボコしている様子がありません。

佐助さんが腕を見込んで発注された職人さんなのかもしれないと思えてきますニコニコ

 

この他にもまだ、梵字の入った佐助さん寄進の手水鉢がどこかにあるかもしれません!

見つけたいゾ爆  笑

 

 

 

新発見を求めて、佐助さん探しの旅はつづく。

またねー!
 

 

 

 

 

<本記事で挙げた佐助さんの寄進物を訪問した時の記事>

 

岐阜県岐阜市「正法寺 (岐阜大仏)」

 

 

愛知県名古屋市南区「西方院」

 

 

三重県津市「真教寺 (エンマ堂)」

 

 

愛知県稲沢市「性海寺」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今回の杉屋佐助さんは、三重県津市の下弁財町津興(しもべざいまちつおき)にある阿漕山 眞教寺(あこぎさん しんきょうじ) 地蔵堂の手水鉢ですニコニコ

 

こちらの寄進物は私の佐助さん寄進物リストには無かったもので、文献から探り出した新情報なのです!お祝い

佐助さんの新情報は主にフォロワーさんからいただいてばかりでしたので、やっとこさ自力で探せた文献からの発見です爆  笑

 

 

▼参考にした文献

『伊勢街道:朝熊岳道・二見道・磯部道・青峰道・鳥羽道 2版』

・昭和62年(1987)

・三重県教育委員会 発行

・p.47に下記の記載がありました。

津片浜町中嶌屋三四郎・清五郎を世話人とし、尾州名古屋米穀問屋杉屋佐助・与吉の寄進によるエンマ堂前の手洗鉢には、天保三年壬辰(一八三二)初夏の年紀がある。
エンマ堂の左手には、地蔵三体をまつる小さな祠がある。
延命子安地蔵尊と呼ばれている。

 

 

本の発行は今から約40年前。

今は無くなってるかも!?

早速Googleマップで確認してみました。

すると....今年撮影されたストリートビューにちゃんとありましたよ!爆  笑

いや~便利な世の中ですね照れ

 

という訳で、早速現地へGO!!車

 

 

  三重県津市の阿漕山真教寺

 

阿漕山真教寺の地蔵堂と伊勢街道

真教寺に到着しました爆  笑

伊勢街道沿いにあるお寺さんです。

 

東海近畿地蔵霊場 第十三番札所

「東海近畿地蔵霊場」という巡礼もあるんですね。

 ここ真教寺は「第十三番札所」のようです。

 

 

真教寺のエンマ堂の看板と五色の幕

まずは真教寺に参拝お願い

ご本尊は閻魔大王様とのことで、個人的にはあまり参拝経験のないご本尊です。

 

真教寺の閻魔大王と仏像

真教寺は比叡山延暦寺の直轄地で、慶長19年(1614)に津藩主の藤堂高次が寄進したお寺だそうです。

エンマ堂の愛称で親しまれ、お堂の真ん中にドン!と高さ197cmの閻魔大王様がお座りになってこちらを睨んでムキーいます。

さすがの番人!なかなかの迫力です!びっくり

左の十一面観音立像は円空さん初期の作品との事で、円空さんの作品としてはかなり大きいそうです。(235cm)

 

 

三重県津市・真教寺の地蔵堂と閻魔堂

そしてエンマ堂の隣にあるのが地蔵堂です。

 

 

杉屋佐助 手水鉢 三重県津市 真教寺

 

真教寺の小さな地蔵像たち

地蔵堂の奥には、20センチくらいの小さなお地蔵さんが10体ほどいらっしゃいました。

道中安全をお祈りしましたお願い

 

ここ真教寺の山号は

「阿漕山」

 または

「阿古木山」

どちらも「あこぎさん」と読みます。

文献によって異なる漢字が使われていました。

現地では上の写真のとおり「阿漕山」が使われていますね。

 

 

 

  佐助さんの手水鉢

 

さぁそしていよいよ、杉屋佐助さんが寄進された手水鉢(ちょうずばち)とのご対面です照れ

 

杉屋佐助寄進の手水鉢。天保3年銘。

地蔵堂の横にひっそりと。

佐助さんの手水鉢が現存しているのを見て安堵照れ

 

 

そして佐助さんの刻字を確認お願い

 

杉屋佐助 寄進 手水鉢 刻字

深く、太く、力強さを感じる美しい刻字です照れ

岐阜大仏にある佐助さんの寄進物と似ているので、別の記事で比較してみます。

 

 

杉屋佐助寄進の天保3年手水鉢

上からみると削れた痕がありました。

柄杓を置いていた跡かな? そうだとすると、かなりの人が使ったのでしょうね照れ

 

 

それでは、いつもの四面画像です花火

 

杉屋佐助 寄進手水鉢 三重県津市 真教寺

 

[正面]
(梵字)カ
※「カ」は地蔵菩薩を意味する


[右面]
世話人
津片濱町
中嶌屋三四郎
同 清五郎

※「嶌」は「島」の異体字なので「中島屋」または「中嶋屋」ですね


[裏面]
天保三年 壬辰 初夏

[左面]
尾州名古屋
米穀問屋
杦屋佐助
同 與吉

※「杦」は「杉」の異体字

※「與」は「与」 の異体字

 

 

佐助さんの天保3年(1832)の寄進物は全て番頭の与吉さんとの共同寄進となっています。

 

杉屋佐助 寄進 手水鉢 刻字

杉屋家にとって何か大きな動きがあったのかもしれません照れ

 

 

 

  世話人の中嶌屋さん

 

杉屋佐助 寄進 手水鉢 刻字

世話人の中嶌屋三四郎さんは、佐助さんが再建に関わった愛知県のお寺「堀江山 長谷院」へ、寄進者として石造物を建立されています。

 

その寄進物とは西国三十三所燈明で、中嶌屋三四郎さんは「第6番 壺阪寺」の燈明を寄進されていました。

寄進者名の面↓

杉屋佐助 寄進 手水鉢 三重県津市

当初は見づらくて解読できませんでしたが、

あら不思議!今見ると読めるではないですか!

「津 中嶋屋三四(以下埋没)

やったね爆  笑

 

燈明が寄進されたのは嘉永7年(1854)

真教寺地蔵堂の手水鉢は天保3年(1832)

少なくとも、佐助さんと22年のお付き合いがあった中嶌屋さんニコニコ

何屋さんでしょうかね~。

 

 

真教寺周辺の地図、伊勢街道と片浜町

中嶌屋さんの住所「片濱町」は城下町で、手水鉢のある真教寺の地蔵堂から北へ1.5Kmほど行った所です。

 

今は使われていない町名ですが、かつての片浜町の一角(津市東丸之内30番地)へ「旧町名碑」があり、下記のように記されているそうです。

旧町名 片浜町
由来 津城下では、漁師や水夫などが住む町を「浜町」と総称した。
「片浜」と呼ばれた由来は明らかではないが、町が堀川に面していて、 はじめは片側だけの町であったからだと思われる。

 

片浜町沿いには堀川が開削されていたようなので、中嶌屋さんは舟を使った家業を営んでいた方かもしれませんねニコニコ

現在、堀川は埋め立てられ、岩田川の合流付近にわずかに名残りが見られました。

 

 

 

  移動された手水鉢

 

真教寺の杉屋佐助寄進手水鉢

※『円空巡礼 近江路 伊勢路 大和』より引用・加工

これは昭和54年発行本の真教寺の写真ですが、佐助さんの手水鉢がエンマ堂前に置かれています。

この時は手水鉢じゃなくて香台として使用されていたのかなニコニコ

 

真教寺の杉屋佐助寄進手水鉢(三重県津市)

こちらが現在(2026年)の真教寺

手水鉢は地蔵堂のすぐ横に移動しています。

 

 

手水鉢の梵字(地蔵菩薩)

佐助さんの手水鉢の正面には「地蔵菩薩」を表す梵字が刻まれているので、地蔵堂のすぐ横は適した場所ですね照れ

 

閻魔堂は慶長19年(1614)に建立されたようですが、地蔵堂の建立時期が分かりませんキョロキョロ

どの文献からもその記載を見つけることができませんでした。

 

真教寺の地蔵堂と閻魔堂の古地図

※『伊勢路見取絵図 第一巻』より引用・加工

ただ、文化3年(1806)に完成した『五海道其外分間延絵図並見取絵図』のうち『伊勢路見取絵図』にある真教寺をみると、既に地蔵堂が描かれています。

少なくとも佐助さんが手水鉢を寄進される26年前には存在していたようです。

 

 

 

  佐助さんの寄進でないもうひとつの手水鉢

 

真教寺にある佐助寄進の手水鉢

さて、手水鉢ですが閻魔堂の方にもありますので、見てみましょう爆  笑

 

杉屋佐助寄進 手水鉢 天保3年 尾張名古屋

こちらは水が使えそうですね!ウインク

 

杉屋佐助寄進の手水鉢 三重県津市

[正面]
清水

[右面]
安政五午年

[裏面]
三州岡崎
 炭屋松

 重尾屋□□
 笹屋忠兵衛
三州吉良一色浦
 信濃屋傳兵衛
尾州知多郡樽水
 紺屋助右エ門
□□
 
屋良右エ門
佐屋
 岩間代助
津嶋
 大野屋市良兵エ
 八百屋金兵衛
 河内屋宗兵衛
 吉文字屋与七
世話人
 大坂屋元七


[左面]
(無し)
 

 

裏面の名前は彫が浅いですができるだけ読んでみましたニコニコ

安政5年(1858)の手水鉢で、佐助さんの手水鉢から26年後の寄進のようです。

 

 

 

三重県津市真教寺の地図

※Googleマップから引用・加工

三河:岡崎(岡崎市)・吉良一色(西尾市)

尾張:知多半島の樽水(常滑市)・佐屋(愛西市)・津嶋(津島市)

各地から総勢11名での寄進です。

みなさん、どんな関係なのでしょうか爆  笑

佐助さんの寄進ではありませんが気になります。

 

 

ざっと調べたところ、とりあえず佐屋の岩間代助さんについては情報がみつかりました!

佐屋街道の佐屋宿(佐屋代官所)で船年寄をされている船庄屋でした。

岩間家(岩間権右衛門)は佐屋宿の本陣を務めていたそうです!びっくり大物が出てきましたよ!

※参照『佐屋町史 史料編 1』p.176,368、『角川日本姓氏歴史人物大辞典 23』p.635

 

 

 

 

新発見を求めて、佐助さん探しの旅はつづく。

またねー!

 

 

 

名古屋城と大きな月が重なる写真を撮りたい!!カメラ

そう思い始めて2年半

タイミングを見計らい何回かチャレンジするも、いずれも位置がズレたり雲で出始めの月が見れず涙を呑むえーん

しかしこれらは失敗ではありませんロケット

チャレンジし続ければ撮れる日は必ず来る!爆  笑

 

とまぁ、そんなこんなで、今回なんとか撮影に成功しましたよ!

写真は全てコンデジ(FZ-1000m2)で撮影し、加工はトリミングのみです。

合成ではありませんよ花火

 

名古屋城と赤い月が重なる夜景

[時刻]19:38:52

おぉ!びっくり

何か暗く赤い物体がお城の後ろにいるゾ!!

双眼鏡で確認すると既に昇り始めていたので急いで撮影する。

 

名古屋城と赤く大きな月が重なる瞬間

[時刻]19:39:13

これがお月様かな!?びっくり

お月様「コンニチハ!」

 

名古屋城と赤く大きな月が重なる奇跡の瞬間

[時刻]19:39:53

念願の名古屋城の背後に大きなお月様!照れ

やったゾ~~~!!お祝い

素晴らしい天体ショー!!爆  笑

多少ブレててもピンボケでも気にしない!グッド!

 

名古屋城と満月が重なる写真

[時刻]19:40:55

もうズレてしまった...

ど真ん中で重なる瞬間は数十秒しかありません。

※[時刻]はカメラの時刻で正確な時間ではありません。時刻は月の移動速度をお伝えしたい意図で載せています。

 

名古屋城と月が重なる風景写真

[時刻]19:42:24

どんどん昇ってゆきます。

 

名古屋城と赤く大きな月が重なる夜景

[時刻]19:43:41

月が高くなると黄色っぽくなります照れ

 

 

 

この名古屋城と月の撮影、かなり難易度が高いんです。

山のてっぺんにある城ではなく地上にあることも難易度を高めています。

 

名古屋城と昇る月、撮影する忍者

まず、日中はダメ。

 

名古屋城と月、撮影する忍者

雨はもちろん、くもり空もダメ。

晴れていても城の後ろに分厚い雲があるとダメ。

 

名古屋城と月が重なる瞬間を捉える忍者カメラマン

山で月の出が隠れるとダメ。

 

城との間に高い建物があってもダメ。

 

城がライトアップされてないとダメ。

 

月を大きく見せるために城から距離を取らないとダメ。

 

名古屋城と月の重なり、約2分の撮影

月の出始めから時間が経つとダメ。

出始めで位置が低すぎてもダメ。

今回の撮影はわずか2分間の勝負でした!

 

 

 

今回これをクリアして、月の方位が合致してやっと撮れた写真です照れ

 

名古屋城と赤い月が重なる写真

スマホでも撮ってみた!ニコニコ

 

 

ブログをフォローさせていただいている方にならって、私も一句詠んでみたくなりました上差し

名古屋城と赤月が重なる幻想的な夜景

春の夜の

城の背に浮く茜月

わが心をも

満たしこそすれ

 

感動を記録にと、歌を考えてみました照れ

 

 

 

花火花火花火花火花火花火

 

とりあえず満足はしたものの、一回撮ると欲が出てきてしまう笑い泣き

今回はオートモードで撮ったのでブレもピンボケも...。

撮れない時はマニュアルで設定してたのにこのザマです(笑)

実は月の出直前にトイレに行きたくなって、戻ってきたらもう月が昇る時間!

設定する時間がありませんでしたあせる

次はもっとお城がちゃんと見えるようにも撮りたいね~照れ


 

 

またねー!

 

 

 

 

今回の杉屋佐助さんは、海山郷土史研究会の『封堠第27号 はまぐり石』という平成23年(2011)に発行された本についてですニコニコ

 

はまぐり石 供養碑 杉屋佐太郎 銘文

はまぐり石」といえば、杉屋佐助さんの息子の杉屋佐太郎さんが番頭の与吉さん供養のため、そして巡礼者のために建立した供養碑です。

三重県北牟婁郡紀北町の指定文化財にもなっています。

このブログでも以前記事にしていますので、「はまぐり石」自体についてはそちらをご覧ください照れ

 

 

 

そんな「はまぐり石」について地元の郷土研究の方が調べてくださった本。

もうこれだけで嬉しさ期待感MAX!!爆  笑

 

『封堠第27号 はまぐり石』は20~30ページほどの小冊子で、構成は、「はまぐり石」の調査のキッカケから始まり、準備と調査、現地視察と時系列に沿った内容で、やりとりの会話などを途中に挟み込んでとても楽しく拝読しましたニコニコ

『郷土文化 50巻』も大きく引用しており、あらためて本の影響力を実感します。

 

 

調査範囲は「はまぐり石」を寄進した佐太郎さんの故郷である尾州(愛知県の北西部)にも及んでおり、「堀江山 長谷院」を訪れ、小川住職や田内力さんともお会いになっています。

平成13年(2001年)頃のことであり、長谷院も無住となっている今となっては実現不可能でなんとも羨ましい限りです。あせる

『名古屋なんでか情報』の「名古屋奇人伝 No.15」で小川住職が「以前、三重県の海山町の方が訪ねてこられたことがあります。」とおっしゃってたのはこの事だったのかと、改めてつながりを確認でき感慨深い気持ちになりました照れ

 

 

与吉さんの供養碑を海山町に建立した理由については、商圏の南限という考察が記されていましたが、個人的にはそれだけではないように思います。

 

 

この本のタイトルは「はまぐり石」ですが、はまぐり石そのものの話より、杉屋佐助さんについて記された情報が興味深かったので、特に重要と思う部分を引用します。

 

 

付記(1) 杉屋家と長谷院との関係

二代杉屋佐助は、尾張十代藩主斎朝の庇護を受け、御用商人となり、名字帯刀を許され、尾張徳川家が浄土宗なので、佐助も浄土真宗より浄土宗に改宗して、真宗の願照寺より浄土宗の堀江山長谷寺を菩提寺として今日に至っている、と私の父森三郎(杉屋佐蔵の次男)より私の幼少の頃(主として戦前)に聞かされていました。(田内力氏談)

私にとって非常に興味深い話です!

徳川家が浄土宗だから真宗から改宗したとは驚きですびっくり

私が持っている佐助さんのイメージと全く反対だったため、非常に大きな収穫となりました。

田内家(佐助さん)の子孫である田内力さんからの情報なので間違いないと思います。

 

それで佐助さんが浄土宗に改宗したタイミングは長谷院を菩提寺にした時とすると、天保11年(1840)に初代佐助さんの顕彰碑(今の佐助塚)を建立した時でしょうか。

しかし、佐助さんが寄進した石造物をみるとそうではなく、もっと早い時期の可能性があります。

はたして佐助さんはいつ浄土宗に改宗し、長谷院を菩提寺にしたのでしょうか。

主な出来事を時系列で揚げると以下のようになります。

 

①慶長18年(1613)

真言宗の長谷院は清州越で阿弥陀寺境内へ移った時に浄土宗に改宗

 

②文化9年(1812)

初代佐助さんが亡くなり、佐助さんが家督を相続

 

③文政10年(1827)

佐助さんを庇護した藩主斎朝が隠居

佐助さんが浄土宗の高僧徳本上人の名号碑を3名による共同寄進で建立(尻冷やし地蔵、密蔵院)

 

④天保3年(1832)

長谷院が阿弥陀寺境内から西堀江村(現在地)の旧地へ戻る

 

⑤天保5年(1834)

旧藩主斎朝が最も帰依したとされる長谷院に多宝塔などを寄附

 

⑥天保7年(1836)

佐助さんが徳本上人の名号碑を佐助さん単独で建立(笠寺観音)

 

⑦天保11年(1840)

佐助さんが長谷院に両親の顕彰碑を建立

番頭の与吉さんが亡くなる

 

⑧弘化2年(1845)

佐太郎さんが亡くなる

浄土真宗の願照寺に両親と佐太郎さんの供養碑を建立

 

⑨弘化3年(1846)

長谷院再興に着手


 

年代的には藩主斎朝から庇護を授かったのは初代佐助さんの可能性もありますね照れ

藩主の庇護により御用商人となって城下碁盤割の中御園町で杉屋家が大きく飛躍し、佐助さんはそのお礼として斎朝が庇護した長谷院を菩提寺にし、更には一寺再興を目指した……とすれば、私のかねてからの謎であった「佐助さんが長谷院に関わった理由」がスッキリ解けるのです爆  笑

 

徳川斉朝と長谷院、杉屋佐助の関係図

もともと斎朝が長谷院を庇護していたのは『西春日井郡誌』や『新川町誌』からわかっていましたが、佐助さんと斎朝の関りが記載されたのは初めて見ました。

 

という事で、佐助さんの報恩の行動ですが、どのタイミングで...というのがはっきりしません。

今のところ佐助さんの寄進物で長谷院に最初に登場するのが⑦の天保11年となります。

もし初代佐助さんの時代に浄土宗に改宗したとすれば、④と⑤の長谷院に関わる出来事に佐助さんの名前が出てきてもいいような気がしますが、見つけられていません。

⑧の弘化2年の時に浄土真宗の願照寺に供養碑を建てたのも気になります。

 

結局、改宗と菩提寺の時期は不明のままですが、佐助さんと長谷院と藩主斎朝がそれぞれ関連していたことがわかったのは大きい!爆  笑

 

 

 

付記(3) 田内 力氏について

二代目杉屋佐助については「郷土文化」第五十巻に網羅されています。その子佐太郎(長男)は早世(多分二十五歳)なので、佐太郎名の石碑は大変少ないのです。当初佐太郎は二代目佐助の父かと間違えていましたが、今は二代佐助の長男と確信しています。二代佐助は大変長命で八拾歳近くまで杉屋を支配していたので、佐太郎、源助とも実権無くそのまま家督は佐蔵に譲られたと考えています。佐太郎は、願照寺では、釈了實です。堀江山長谷寺では、斎室實信士の戒名です。

(以下略)

佐助さん長生きだったんですね照れ

佐助さんが亡くなられたのが元治2年(慶應元年)で80歳と仮定すると、佐助さんは天明5年(1785)あたりに生まれたことになります。

そして初代佐助さんから家督を継いだのは27歳の時となります。

長谷院を再興し、寄進活動を終えたと思われる安政4年(1857)は72歳です。

これまたいろいろ想像できて楽しい爆  笑

ちなみに『関ケ原町史 資料編1』に記載されている佐助さんの妹と思われる「万寿」さんは元治2年の時に66歳なので、佐助さんとの歳の差は14歳ぐらいとなります。

 

 

ところで「源助」さんの名前は初耳ですびっくり

佐兵衛さんが改名されたのでしょうか???

 

「佐蔵」さんについては長谷院の本家のお墓に名前があり、大正11年に75歳で亡くられています。

逆算すると弘化4年(1847)生まれとなります。

 

 

花火花火花火花火花火花火

 

この本で知った興味深い情報がもうひとつ、蛤石がなんと『西国三十三所名所図会』に載っているとの事!びっくり

さっそく原本を見てみましたよ!

 

松本古趾 尾張杉屋佐助 genealogia

※『西国三十三所名所図会 2』国立公文書館デジタルアーカイブより引用・加工

嘉永元年(1848)発行の『西国三十三所名所図会 2』の「粉本」に「はまぐり石」つにいての記載がありました爆  笑


川岸の堤に蛤蜊石の観音あり

近年尾州の人建る所なり


「川岸」というのは銚子川の左岸、国道42号線下流あたりとの事です。

尾州の人=杉屋佐太郎さん照れ

 

 

花火花火花火花火花火花火

 

今回紹介した『封堠第27号 はまぐり石』の本文の中で数回でてくるお言葉、

「古いことやでわからんでもともとやで」

が何とも心に沁みました照れ

 

 

 

 

新発見を求めて、佐助さん探しの旅はつづく。

またねー!
 

 

 

 

 

 

 

 

前回の記事からのつづきですニコニコ

 

フォロワーさんから教えていただいた『谷汲山の栞』という岐阜県揖斐郡揖斐川町(いびぐん いびがわちょう)にあるお寺「谷汲山 華厳寺(たにぐみさん けごんじ)」について書かれた本。

 

この本に杉屋佐助さんが寄進された「三谷地蔵」が華厳寺に建立されているとあります。

 

残念ながら現在の華厳寺において三谷地蔵のお姿は確認できませんでしたが、今回は『谷汲山の栞』にある三谷地蔵の記述を深堀りしていきたいと思います。

注)素人の考察を含みますあせる

 

 

  『谷汲山の栞』とは

 

・谷汲山華厳寺のガイドブックのようなもの

 

・岐阜県図書館では3つの版を所蔵

 谷汲山の栞 発行年別比較表

 - 明治発行版と大正発行版は同じ内容

 - 発行年不明版はガイド対象を絞って記されている

 

・杉屋佐助さんが寄進された「三谷地蔵」について記されている(明治・大正発行版)

 

・「三谷地蔵」とも思える写真が掲載されている(明治・大正発行版)

谷汲山華厳寺の三谷地蔵

※『谷汲山の栞』明治40年版より引用・加工

 

・境内地図も掲載されており「三谷地蔵」が描かれている

谷汲山華厳寺の境内地図「三谷地蔵」

※『谷汲山の栞』明治40年版より引用・加工

 

谷汲山華厳寺の境内図「三谷地蔵」

※『谷汲山の栞』発行年不明版より引用・加工

 

 

  「三谷地蔵」の記述

 

杉屋佐助さんが寄進された「三谷地蔵」について記された部分を以下に引用します。

 

又大玄関の奇松を一瞥して振返し、更に東に向ひて本門を出づれば、右手に銅像の、延命地蔵尊(一名三谷地蔵)立たせ給ふ。

嘉永二酉年の鋳造にして、願主発起人名古屋市杉屋佐助外数名が、三界萬霊及祖先供養の為めに、長谷(大和)、黒谷(山城)、谷汲(美濃)の三ヶ所へ奉納せるを以て、三谷地蔵とも云ふ。
例年八月廿四日、追善供養を営む
 

次に本堂の正面なる敷石を横切りて、東に向へば

三十三所観音堂

あり。

 

※『谷汲山の栞』明治40年版p.20より引用

 

 

<訳>

大玄関の変わった松をちらっと見て振り返り、東に向いて本門を出たら、右側に銅像の延命地蔵尊(別名を三谷地蔵)が立っている。

嘉永二年の酉年に金属を型に流して固める方法で造られ、願主・発起人に名古屋市の杉屋佐助とその他数名が、三界萬霊と祖先供養の為に、長谷(大和)、黒谷(山城)、谷汲(美濃)の三ヶ所へ奉納した。

こういうわけで、三谷地蔵ともいう。

 

次に本堂の正面の参道敷石を横切って、東に向かうと三十三所観音堂がある。

 

三谷地蔵という名や、三ヶ所への奉納など、これらの情報は地蔵尊や台座に刻まれていたのか、記録帳に記されているのか知りたいところです。

 

 

整理すると以下4つの情報が記されています。

①嘉永2年に造られた銅製の延命地蔵尊

②長谷(大和)、黒谷(山城)、谷汲(美濃)の三ヶ所へ奉納

③寄進者は杉屋佐助さん他数名

④8月24日に追善供養

 

ひとつずつ考察してみます。

 

 

 

 

 

  考察①「嘉永2年の銅製の延命地蔵尊」

 

銅製の地蔵尊といえば、華厳寺と同じ揖斐川町にある松林寺の「延命地蔵尊」を思い出します。

 

杉屋佐助 寄進 延命地蔵尊

↑こちらがその松林寺の延命地蔵尊の写真です。

台座に嘉永5年と寄進者の佐助さん・錺屋庄六(増田庄六)さんの名前が彫られています。

 

 

 

じっくり観察してみると、『谷汲山の栞』にあった写真のお地蔵様と似た特徴があるような?キョロキョロ

まさか華厳寺から松林寺へ移された!?びっくり

 

 

白黒写真に合わせ、並べて比較してみます。

華厳寺と松林寺の延命地蔵尊比較

お姿は同じような特徴があります。

しかし、台座が異なるので華厳寺から松林寺へ移されたということは無さそうですねあせる

 

 

それでもお姿は似ているので特徴を見ていきます。

 

華厳寺と松林寺の延命地蔵尊比較

お地蔵様の右腕は、長さといい曲げ方といいとてもよく似ているように思います。

 

 

華厳寺と松林寺の延命地蔵尊比較

左手に持たれている宝珠

華厳寺の写真は見づらいですが、黄丸で示した部分に、日が反射しててっぺんが白っぽくなった宝珠が写っているように見えます。

松林寺のお地蔵様がお持ちになっている宝珠と形が似ています。

 

 

ほかのお地蔵様も同じ特徴なのか?

大正時代に建立された華厳寺の延命地蔵尊と比較してみます。

華厳寺の三谷地蔵、昔と今の比較

右腕の長さは違ってみえます。

 

こうして比較してみると、前回の記事で「舟形・丸彫り問題」を取り上げましたが、やはり丸彫りが正解かもと思えてきました爆  笑

 

三谷地蔵と松林寺のお地蔵様は、同じお姿だったかもしれませんね!照れ

 

 

 

 

  考察②「寄進した場所3ヶ所」

 

『谷汲山の栞』にはこうあります。

三界萬霊及祖先供養の為に、長谷(大和)、黒谷(山城)、谷汲(美濃)の三ヶ所へ奉納せる

カッコ内は旧国名ですが、長谷は寺名、黒谷は地域名、谷汲は地域名または山号なので、お寺ごとの愛称から付けた「谷」でしょうか。

 

佐助さんがこの三ヶ所へ延命地蔵尊を奉納したとあります。

その三ヶ所とは、

 

  1. 長谷(大和) → 奈良の「豊山 長寺」
  2. 谷汲(美濃) → 岐阜の汲山 華厳寺」
  3. 黒谷(山城) → 私が知る限りでは京都の黒谷町で佐助さんの寄進物は未確認です。おそらく「くろさん」で親しまれる京都の金戒光明寺ではないかと思います。

三谷地蔵 奉納地 3ヶ所マップ

 

それにしても、全てに「」が入って「三谷照れ

そこへ寄進したお地蔵様だから「三谷地蔵照れ

さすが佐助さん、おしゃれ花火

 

 

ちなみに「三谷地蔵」のように「三●●」というのは江戸時代、庶民の間で「社寺参拝」が爆発的に流行し、それに伴って「日本三景」や「日本三名園」のように、有名なものを3つ括りで呼ぶ習慣が一般化したそうです。

仏教的には日本三如来、日本三観音、日本三文殊などがありますね!

 

 

 

 

 

  考察③「寄進者」

 

『谷汲山の栞』には

願主 発起人 名古屋市 杉屋佐助 外数名

とあります。

 

 

一つ目の谷「長谷寺」では、以下5名の寄進者名が刻まれていました。

 

杉屋佐助

銭屋長右エ門

大野屋善七

錺屋庄六

柴山屋藤蔵

 

 

果たして長谷・黒谷・谷汲に建立された三体は同じ施主なのでしょうか?キョロキョロ

『谷汲山の栞』の写真をみると、台座に縦書きで数行で何か刻まれているようにも見えますが...分かりませんえーん

 

 

 

  考察④「8月24日」

 

最後に

例年八月廿四日、追善供養を営む

とあります。

 

追善供養(ついぜんくよう)を検索すると、残された家族や親族が故人の冥福を祈り、代わりに善行(法要やお参り)を積む仏教の行事だそうです。

 

なぜ8月24日なのか?

少なくとも佐助さんの寄進物で私が把握している限りでは8月と特定できる寄進物はありません。

 

ネット検索すると「地蔵盆」がヒットしました。

 

Wikipediaには、

地蔵盆(じぞうぼん)は、地蔵菩薩の縁日(旧暦7月24日もしくは新暦8月24日)にかけて地蔵尊を祀る行事。

「地蔵会(じぞうえ)」や「地蔵まつり」と称されることもある。

特に近畿地方などを中心に盛んな行事である。道祖神信仰との結びつきも指摘されており、「路傍や街角のお地蔵さん」である「辻地蔵」を対象とする民間信仰ともいわれる

 

とあります。

この本が発行された明治40年は新暦なので8月24日ですね。

明治40年当時、華厳寺では地蔵盆の行事を例年やってみえたのでしょうか。

佐助さんが寄進された地蔵尊を前に、大勢の人たちが手を合わせていらしたかもしれない光景を想像するとなんともありがたい気持ちになりますお願い

令和の今もやっているのかも!?

 

 

 

  境内地図

 

『谷汲山の栞』には境内地図も載っていました。

 

谷汲山華厳寺の境内地図

※『谷汲山の栞』明治40年版より引用・加工

 

燈籠などが複数描かれていますが、本堂などの建造物を除いて明確に名称が記されている寄進物は「三谷地蔵」のみです。

 

本の発行人が華厳寺であることからも、華厳寺にとって「三谷地蔵」は大切な寄進物と考えられていたのでしょうか。

 

 

谷汲山華厳寺の境内地図「三谷地蔵」

※『谷汲山の栞』発行年不明版より引用・加工

 

こちらの発行年不明版の境内地図にも「三谷地蔵」が記されています。

「報恩燈」の名称も記されているので同じように大切にされている寄進物だったのかもしれません。

 

 

そしてこの地図、よくみると鉄道が描かれていましたびっくり

谷汲駅まで鉄道が通ったのが大正15年らしいので、この本の発行はそれ以降と考えられます。

 

さらに描かれた鉄道の上方には “谷汲山境内案内図” とありますが、文字は昔の書き方で右から左へ向けて記してあるので戦前の可能性が高い。

 

つまりこの発行年不明版の発行年は

大正15年/昭和元年~昭和20年頃

と考えられますね。

 

その頃まで佐助さんの寄進物はそこにあったのに、100年経ったいまは見当たらないのが残念ですえーん

 

 

 

  一つ目の谷「長谷寺」の地蔵尊

 

一つ目の奈良の長谷寺以前参詣したことがあります

その時たしかに佐助さんの寄進物を確認しました。

ですが当時は、「三谷地蔵」という三体のうちの一つのお地蔵様だとはまったくもって想像もしませんでしたえーん

 

石造の延命地蔵尊、三谷地蔵

↑こちらがその時の写真ですが、お地蔵様は銅造ではなく石造です。

平成20年に有志の方によって石像の地蔵尊が再建されていたのです。

ただし、佐助さんらの刻字がある台座は建立された当時のものと思われます。

 

地蔵尊は元々は銅製だったのでしょうか!?びっくり

しかし『谷汲山の栞』の情報では華厳寺は銅製ですが、3ヶ所全てが銅製かどうかまではわかりません

 

 

 

長谷寺の寄進物といえば、以前フォロワーさんから教えて頂いた本『豊山長谷寺拾遺』があったことを思い出しました。

 

なにか情報が記してあるかもキョロキョロ

そこで図書館で検索すると「第三輯 彫刻」と「第五輯之一 石造品」がヒット。

該当すると思い、目を通してみると...

 

ありました!!爆  笑

 

『第五輯之一石造品』に、長谷寺に寄進された佐助さん達の延命地蔵尊について、刻字の情報がありました花火

やったね!爆  笑

 

(心の声)現地で一生懸命判読した刻字に間違いはなかった~笑い泣き

 

 

116 地蔵菩薩像

[基礎正面]
「施主」

[台石正面]
尾州名古屋/御園町三丁目/杉屋佐助/
広井/銭屋長右エ門/
呉服町二丁目/大野屋善七/
冨田町/錺屋庄六/
清須本町/柴山屋藤蔵

[台石左側面・石板嵌入]
先人の志を尊び/東高野山長命寺/
檀信徒と共に/この尊像を再建す/
平成二十年六月二十四日/妙楽院亮弘/
総代増島一平/増島一男/宇多川辰男/
増島清/田中正治

[台石背面]
嘉永元年/戊申参吉日/発起/杉屋佐助

[附前垣正面]
「三谷」地蔵尊

 

※『第五輯之一石造品』#116より引用

 

最後に「三谷」地蔵尊と記されているではあませんか!!爆  笑

 

つまり、長谷寺にある佐助さん達が寄進した地蔵尊は「三谷地蔵」の一体に間違いなし!お祝い

 

長谷寺で撮った写真をよくよく見なおしてみると、確かに花立っぽい石造物に何か刻まれています。

 

谷汲山華厳寺の三谷地蔵の台座

 

谷汲山 華厳寺 三谷地蔵尊

なんとか「三谷」と「地」までは読めましたが他は厳しいあせる

当時はまさか地蔵尊のセット品とは思わず、ほとんど撮影しなかったのが悔やまれるあせる

 

苔むした石灯籠

遠景の1枚を部分拡大と明るさ調整。しかもブレてるあせる

「三谷」は確実爆  笑

GoogleMapの写真やストリートビューも見てみましたが良い画像は見つかりませんでした笑い泣き

 

 

 

 

  建立された順番

 

ところで3つの延命地蔵尊の建立年でみると、華厳寺は嘉永2年、長谷寺は嘉永元年、光明寺は...?

少なくとも1体目の嘉永元年に長谷寺に寄進する時点で「三谷地蔵」プロジェクトが計画されていたことが判明しました。

とするならば、三体の施主は同じ可能性が高い!?びっくり

 

そして光明寺の建立は弘化4年か嘉永3年と推測できそうです。

しかし『谷汲山の栞』には「長谷(大和)、黒谷(山城)、谷汲(美濃)」の順で記されているので、この順番での建立となると嘉永元年と嘉永2年の可能性もあり得るか?

 

 

------- 年表 -------

弘化3年(1846) 丙午
弘化4年(1847) 丁未
弘化5年/嘉永元年(1848) 戊申 → 長谷
嘉永2年(1849) 己酉 → 谷汲
嘉永3年(1850) 庚戌
嘉永4年(1851) 辛亥

嘉永5年(1852) 壬子

 

 

果たして...?

 

 

 

 

 

  とりあえず今回わかった事爆  笑

 

①かつて華厳寺の中門前に佐助さん達が寄進した銅製の延命地蔵尊があった。

②それは三谷地蔵と呼ばれていた。

③三谷地蔵の3ヶ所のうち、奈良の長谷寺、谷汲の華厳寺の2ヶ所に存在していたことを確認できた。

 

引き続き調査し、新たな情報が得られれば記事にしていきたいと思います。

 

 

 

花火花火花火花火花火花火

 

佐助さん探しをするようになってから、お寺や道端でお地蔵さんや馬頭観音に出会うと「道中安全」をお祈りするようになりましたお願い

それまでは素通りでしたが...あせる

しかし、こうやってお参りする事で、より安全運転の意識付けができるようになったと感じています。

ありがたいことです。

 

 

 

新発見を求めて、佐助さん探しの旅はつづく。
またねー!
 

 

 

 

 

今回の杉屋佐助さんは、岐阜県揖斐郡揖斐川町(いびぐん いびがわちょう)にあるお寺「谷汲山 華厳寺(たにぐみさん けごんじ)」です!ニコニコ


 

先日、フォロワーさんから凄い情報を頂きました!照れ

いつもありがとうございます!

 

教えていただいたのは『谷汲山の栞』という一冊の本。

内容は谷汲山華厳寺のガイドブックのようなもので、発行は明治40年(1907)、ボリュームは60ページほどの本です。

 

そしてなんと、この本に

杉屋佐助さんの名前が出てくる

というのです!!!!

 

いつもどこかで寺社を訪れてはいますがなかなか佐助さんの名前に遭遇する事ができずにいたところに、このニュース!!お祝い

心が躍った...のはもちろんですが、抑えきれずに

おぉぉ~っ!花火

と体が仰け反りましたあせる

 

本に書かれている内容はフォロワーさんが詳しく教えてくださっていたのですが、居ても立ってもいられず、まずは実物の本を拝見しに図書館へ飛んで行きましたよランニングダッシュ

 

 

  『谷汲山の栞』を閲覧する

 

改めて、『谷汲山の栞』にどのように書かれていたのかを以下に記します↓

 

又大玄関の奇松を一瞥して振返し、更に東に向ひて本門を出づれば、右手に銅造の、

延命地蔵尊(一名三谷地蔵)
立たせ給ふ。

嘉永二西年の鋳造にして、願主発起人名古屋市杉屋佐助外数名が、三界萬霊及祖先供養の為に、長谷(大和)、黒谷(山城)、谷汲(美濃)の三ヶ所へ奉納せるを以て、三谷地蔵とも云ふ。
例年八月廿四日、追善供養を営む。
 

次に本堂の正面なる敷石を横切りて、東に向かへば

三十三所観音堂

あり。

 

※『谷汲山の栞』明治40年版より引用

 

おぉぉ~っ!佐助さんの文字がある爆  笑

そしてなんと「三谷地蔵」という名前がついている!?

しかも「銅造の延命地蔵尊」であると!?びっくり

っっっと...他にも興味深いことが記してあるので触れたいのは山々ですが、内容の精査は次の記事で行いたいと思います。

 

 

同じ本にはさらに写真も載っていました。

華厳寺の仁王門と杉屋佐助の碑

※『谷汲山の栞』明治40年版より引用・加工

かなり見辛いですが、写真モードでコピーしたよりも見やすいのでこちらを掲載しますあせる

 

谷汲山華厳寺 延命地蔵尊

※『谷汲山の栞』明治40年版より引用・加工

 

赤丸の中に延命地蔵尊(立像)と思われる像があります。

おぉぉ~っ!花火

明確に「三谷地蔵」とは記されていませんが、佐助さんが寄進したかもしれないお地蔵様のお姿お願い

 

いやいやこんなに凄い情報があったとは驚きです。

そんなわけでこの日は大変満足して図書館をあとにしました。

 

しかし!

まだ入手していない情報は残されていたのです!

それは後日図書館を再訪して気が付きましたあせる

 

なんと同じ本に、

当時の谷汲山華厳寺の境内地図が載っているではありませんか!

それがこちら↓

谷汲山華厳寺 境内地図 杉屋佐助 三谷地蔵

※『谷汲山の栞』明治40年版より引用・加工

かなり細かく描かれた境内地図です。

そして★印の所に「三谷地蔵」とあるではないですか!爆  笑おぉっ

先日はすっかり見逃していましたあせる

 

境内地図を部分拡大してみましょう↓

谷汲山華厳寺境内地図 三谷地蔵

※『谷汲山の栞』明治40年版より引用・加工

三谷地蔵の絵を見ると、背後が舟形になっているようなお地蔵様に見えます。

 

さらに拡大↓

杉屋佐助 谷汲山華厳寺 三谷地蔵 境内地図

 

佐助さんが寄進した三谷地蔵は、いわゆる丸彫り地蔵ではなく、舟形地蔵と呼ばれるお地蔵様なのか...ん!?

 

舟形地蔵と丸彫り地蔵のイラスト

 

ということは、さきほどの写真にあったお地蔵様は三谷地蔵ではないということに?

谷汲山華厳寺 延命地蔵尊

※『谷汲山の栞』明治40年版より引用・加工

舟形ではなく、丸彫りに見えます

どういうことだ?

場所はあってるはずだけど...?キョロキョロ

 

まあ、ひとまず現地(谷汲山華厳寺)へ行ってみましょう爆  笑

 

 

 

  谷汲山華厳寺へ行って検証する

 

華厳寺と言えば、西国三十三所巡りの第三十三満願札所。

創建は延暦十七年(798)の平安時代、今まで巡礼や参拝で訪れた多くの人の祈りや感謝を受け止めてきた古刹です。

 

杉屋佐助さんも西国三十三所には強い思い入れがあると考えられ、華厳寺には佐助さんと息子の佐太郎さんが建立した弘化2年(1845)の先祖代々供養碑が満願堂近くにあります。(佐太郎さんが亡くなる1か月前というのがまた涙を誘います)

訪問した時の記事はコチラ↓

 

 

また、仁王門前には伊藤萬蔵さんが寄進した寺標、三十三所堂近くには柴山藤蔵さんが寄進した常夜燈があり、尾張の寄進ベストスリーが揃っています爆  笑

 

 

 

谷汲山華厳寺 満願霊場

到着しました「谷汲山華厳寺」

さっそく捜索開始ですニコニコ

 

 

まずは、『谷汲山の栞』にあった写真の場所はどこかということですが、文章には「本堂の正面なる敷石を横切り東へ向かへば三十三所観音堂」とあります。

 

つまり三十三所堂の西側に三谷地蔵があるということに。

その場所を事前にフォロワーさんのご意見も伺いながら、現在の中門であることを確信します。

 

 

華厳寺の延命地蔵尊らしき像

※『谷汲山の栞』明治40年版より引用・加工

写真に記したの門の奥の塀のさらに奥にみえるのは「客殿」とよばれる建物の障子のようにみえ、は本堂の傾斜のある石垣と思われます。

 

谷汲山華厳寺の境内、石垣と参道

現在の写真です。だいぶ様子が変わっていますねあせる

 

 

 

そして佐助さん達が寄進した延命地蔵尊があったと思われる場所は現在どうなっているか....

 

杉屋佐助 華厳寺 延命地蔵尊

別のお地蔵様(地蔵坐像)が鎮座されていました照れ

なお、台座が佐助さんの延命地蔵尊のではないかと思って調べましたが、左右背面は未加工のゴツゴツした状態で何か刻まれている形跡は見つけられませんでしたえーん

 

参道からの遠景です↓

谷汲山華厳寺の二体仏と中門

隠れてほぼ見えませんが赤い帽子が目印ですあせる

目の前の大きな二体の観音様は昭和26年にここへ寄進されたそうなので、『谷汲山の栞』が発行された頃はまだお見えになりません。

 

本筋とは離れますが、こちらの二体の観音様については興味深い経緯がありました。

愛知県一宮市の株式会社木村鉄工所のサイト内にある「木村鉄工所と一宮大仏」ページで紹介されています。

 

 

谷汲山華厳寺の延命地蔵尊

こちらはお地蔵様からの位置関係です。

石垣の下にも二体のお地蔵様が鎮座されていますが、佐助さんの寄進ではありません。

 

 

 

参道を少し戻った所にもお地蔵様がいらっしゃいます。

杉屋佐助 華厳寺 延命地蔵尊

「御本尊御杖白藤」の傍に石像の延命地蔵尊がありますが、こちらは台座に大正12年と刻まれていました。

丸彫り地蔵ですが『谷汲山の栞』の写真にあったお地蔵様とは異なるようです。

 

現地の地図看板で場所示すとこのようになります↓

谷汲山華厳寺境内図 杉屋佐助寄進の三谷地蔵位置

 

 

 

という訳で、他にも華厳寺境内で行ける範囲を捜索しましたが、残念ながら銅製の地蔵尊を見つける事はできませんでしたえーん

残すは奥ノ院ですが軽装備では危険な山なので行きません。

 

三谷地蔵が居なくなった理由は廃仏毀釈、濃尾地震、戦時の供出...いろいろありそうですが、少なくとも大正4年に存在しているという事は、供出の可能性が高いかもしれません。

三谷地蔵は銅造だったようなのでえーん

 

とても残念ですが、かつてここに杉屋佐助さん達が建立した延命地蔵尊がいらっしゃったという事がわかっただけでもありがたい事です照れ

 

 

 

 

  中門前に建立されていた理由を考える

 

三谷地蔵はなぜ中門の入口に建立されていたのか。

現地に行って自分なりに腑に落ちました。

 

それは、三谷地蔵の先にある「客殿」。

谷汲山華厳寺 境内図 三谷地蔵

※『谷汲山の栞』明治40年版より引用・加工

 

こちらのご本尊が地蔵菩薩様らしいのです。

客殿の案内板、文久3年再建

それでこの場所には現在もいくつかのお地蔵様が建立されているのか、と自分なりに納得した次第です。

見当違いかもあせる

 

 

 

 

  舟形・丸彫り問題

 

そしてけっきょく、三谷地蔵は舟形なのか丸彫りなのか。

 

ここまで参考にしている『谷汲山の栞』とは別の版(発行年不明)の本にも境内地図があり、また違った三谷地蔵の絵図が載っていました。

 

※発行年不明の本には「大正4年」の記載があったため、発行年はそれ以降ということだけわかっています。

 

それがこちらです↓

谷汲山華厳寺 境内地図 三谷地蔵

※『谷汲山の栞』発行年不明版より引用・加工

 

 

部分拡大↓

谷汲山華厳寺 境内図 三谷地蔵

※『谷汲山の栞』発行年不明版より引用・加工

明治版とは異なる絵図ですが、三谷地蔵はやはり舟形に見えます。

 

 

 

谷汲山華厳寺の三谷地蔵の三種比較

※『谷汲山の栞』明治40年版・発行年不明版より引用・加工

 

それぞれ三体を並べてみました 照れ
写真の延命地蔵尊は立像で丸彫り、錫杖も持っているように見えます。
絵図の方は舟形は共通ですが坐像と立像の違いがあります。
 
はたして正解は? キョロキョロ
 
 
 
三谷地蔵の現物を確認できないので、他の建造物がどれほど忠実に描かれているのかを参考に考察してみます。

 

まずはじめに「報恩燈」の検証から。

※『谷汲山の栞』発行年不明版より引用・加工

「三谷地蔵」の右側には「報恩燈」という燈籠があります。

 

谷汲山華厳寺 報恩燈と二体の地蔵菩薩

※Googleストリートビューより引用・加工

これは2013年のGoogleストリートビューですが、「報恩燈」と刻まれた石燈籠があります。

個人的には、これは『谷汲山の栞』にあった写真や境内地図の絵図と同じ燈籠であり、当時と同じ場所にある可能性が高いと考えます。

 

 

華厳寺 杉屋佐助 延命地蔵尊

なお、こちらが現在の様子です。

「報恩燈」常夜燈が躍地蔵尊(坐像)に替わっているので、2013年のGoogleストリートビューの写真をお借りして検証してみます。

 

 

▼報恩燈の比較

報恩燈の比較、谷汲山華厳寺の燈籠

笠が少々異なるように見えますが、全体的なシルエットは似ています。

 

 

 

▼一切経堂の比較

谷汲山華厳寺の建物と「谷汲山の栞」の挿絵

上の屋根の大きさが異なりますが、全体的には似ています。

 

 

 

▼仁王門の比較

谷汲山華厳寺の境内地図と仁王門

こちらも屋根の大きさに若干違いがみられますが、ほぼ忠実に絵図にされていますね!

 

 

総合すると、境内地図の絵図にある建造物は、特徴を捉えた描き方をされているように思えます。

 

そう考えると、三谷地蔵は舟形を付けた方がお地蔵様として認識しやすい描き方(アイコン化)をされていると考えることもできますがいかがでしょう。

 

 

 

【結論】

場所的にも年代的にも写真に写っているのが三谷地蔵...だろうと思うのですが、現時点では確証が持てません。

逆に銅製で舟形の像だったら、めちゃレアな仏像かもびっくり

もう少し調査してみたいと思います照れ

 

 

次の記事では、『谷汲山の栞』の内容を深堀りしていきたいと思います。

②へつづく

 

 

 

今回の杉屋佐助さんは、『尾張名所図会』に載っている長谷院の詩についてですニコニコ

 

尾張名所図会、長谷院と桃林の絵図
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長谷院の絵図、杉屋佐助の詩
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桃林の風景、澤田眉山の詩
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尾張名所図会、中河原桃林の情景
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長谷院の様子、芝丸の詩
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澤田眉山、春の朝の農村風景
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野口道直、春の夕暮れの幻想風景
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芝丸、仏教的な感謝と感動
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杉屋佐助、長谷院の詩
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尾張名所図会、嘉永年間〜明治初期の風景
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廃刀令以前の刀を差した人々
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絵師小田切春江の描いた風景
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長谷院の仏教的な感謝
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中河原桃林の色彩豊かな風景
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長谷院の静かな佇まい

※『尾張名所図会』より引用・加工

『尾張名所図会 後編 巻3』の「中河原桃林 長谷院」の絵図です。

絵は小田切春江さんによるもので、景観から恐らく嘉永年間から明治初期あたりの様子でしょうか。

刀を差した人が何人か描かれていますが、明治9年(1876)の廃刀令によって一般の「帯刀」が禁止されたので、嘉永~明治9年の間と思われます。

※本の出版は明治13年(1880)

 

さて、絵図には3つの詩が掲載されていますニコニコ

上の二つ(①と②)は中河原の桃林(絵図の右上部分)について、下(③)は長谷院について詠まれています。

「中河原」という地名は長谷院から南東の新川を越えた場所にあります。

今は住宅地となって面影はありませんが、かつては桃の木がたくさんはえた長閑な風景だったようです。

 

最初に絵図を見てからずっと、このブログでも何回も出てきた絵図ですが、3つの詩の意味をわからずにいたので、AIの力を借りて現代文に訳してもらいました爆  笑

※AIなのであくまで参考程度に!ウインク

 

 

  ①澤田眉山

沢田眉山(さわだ びざん)


江戸後期の儒者。名は師厚、字は天爵、号は三堂、通称は三郎・良蔵。永井星渚に師事する。
また丹羽盤桓子に学び、四天王筆頭として名を馳した。明倫堂教授。嘉永6年(1853)歿、56才。
※weblio『美術人名辞典』より引用

 

澤田眉山 poem, "尾張名所図会" peach forest scenery

麦浪會風緑
桃花羅日紅
鶏声啼人語
摠在彩霞中

  澤田眉山

 

[AI訳]

風にそよぐ麦の波は緑一面に揺れ、
桃の花は日差しを透かして鮮やかに紅く染まり、
鶏の鳴き声や人々の話し声が聞こえてくる。
それらすべてが、美しい朝焼けの彩雲の中に包まれている。

 

細野要斎さんと同じ明倫堂の教授です爆  笑

この詩は、春の朝ののどかな農村の風景を色彩豊かに描いているとの事です。

 

 

  ②野口道直

野口 道直(のぐち みちなお)

尾張国の青物問屋商人。八代目野口市兵衛にあたる。号に梅居・汲古堂・全花楼・継志軒がある。
春日井郡枇杷島にあって枇杷島橋の橋守役を務めていた。
『尾張名所図会』の執筆に岡田啓・小田切春江らとともにかかわり、自費出版をする。
同書の出版に際して、財産の大半を費やしたとされる。
文久3年(1863)、野口姓を名乗る許可を得る。天明5年(1785)~慶応元年(1865)。
※Wikiより引用・加工

 

野口道直の詩「花の夕榮」

色深き 桃の
はやしの
中河原
よそめ奥ある
花の夕榮

  道直

 

[AI訳]

色の濃い桃の林が広がる中河原に、他人には伺い知れない奥深さを秘めた花のような夕暮れの輝きがある。
 

この詩は先ほどの春の朝ではなく、春の夕暮れ時の幻想的な風景を詠んだものだそうです照れ

『尾張名所図会』の作者ですね!

 

 

  ③芝丸

詠み人の芝丸は、杉屋佐助さんです爆  笑

長谷院にある「佐助塚」の裏面には佐助さんの辞世が刻まれており、最後に「芝丸翁」となっています。

 

 

芝丸翁 堀江山花慈悲

慈悲深う
花も見ゆるや
堀江山

  芝丸
 

[AI訳]

観音様の慈悲深いお心によって、お寺に咲く美しい花々もいっそう尊く見える。

 

上の2つは「中河原桃林」の情景を詠んだのに対し、佐助さんは長谷院の様子を詠んでいます照れ

仏教的な感謝と感動を表現しているそうです。

ちなみに長谷院の住所は愛知県清須市桃栄ですニコニコ

 

 

新発見を求めて、佐助さん探しの旅はつづく。

またねー!
 

 

今回の杉屋佐助さんは、杉屋佐助さんを中心とした人物相関図ですニコニコ

 

杉屋佐助さんを追いかけて2月でまる4年!照れ

5年目に突入です!

まだまだヒヨッ子ヒヨコ

でも、杉屋佐助さんを追いかけたおかけで人生が豊かになったのは間違いない花火

ありがとう!佐助さん爆  笑

 

という訳で? 杉屋佐助さんの相関図を作ってみました。

佐助さんと関わった人達はたくさんいますが、濃い繋がりと思われる人を対象としています。

 

杉屋佐助さん人物相関図

 

お馴染みの顔ぶれが並んでいるので説明は必要ないかと思います爆  笑

敢えていうなら、木村周衛門さん、正兵衛さん、甚九郎さんの木村家は杉屋佐助さんと親戚かなと思います。

長谷院にある西国三十三所燈明の十八番は木村正兵衛さんが寄進していますが、そこに「田内氏」と刻まれています。

 

同様に増田庄六(錺屋庄六)さんも親戚の可能性があると思っていますが、これは!という情報はありません。

ただ、佐助塚の前にある花立て(左側)に増田庄六さんの名前がある(右側は木村甚九郎さん)ので、佐助さんと近い人ではあるなぁと。

もともと天保11年に初代佐助さんの顕彰碑として建てられた「佐助塚」を、元治2年に佐助さんが亡くなった時に現在のように整えたのが木村甚九郎さんと増田庄六さんだと思っています照れ

 

 

新発見を求めて、佐助さん探しの旅はつづく。

またねー!