今回の杉屋佐助さんは、三重県津市の下弁財町津興(しもべざいまちつおき)にある阿漕山 眞教寺(あこぎさん しんきょうじ) 地蔵堂の手水鉢ですニコニコ

 

こちらの寄進物は私の佐助さん寄進物リストには無かったもので、文献から探り出した新情報なのです!お祝い

佐助さんの新情報は主にフォロワーさんからいただいてばかりでしたので、やっとこさ自力で探せた文献からの発見です爆  笑

 

 

▼参考にした文献

『伊勢街道:朝熊岳道・二見道・磯部道・青峰道・鳥羽道 2版』

・昭和62年(1987)

・三重県教育委員会 発行

・p.47に下記の記載がありました。

津片浜町中嶌屋三四郎・清五郎を世話人とし、尾州名古屋米穀問屋杉屋佐助・与吉の寄進によるエンマ堂前の手洗鉢には、天保三年壬辰(一八三二)初夏の年紀がある。
エンマ堂の左手には、地蔵三体をまつる小さな祠がある。
延命子安地蔵尊と呼ばれている。

 

 

本の発行は今から約40年前。

今は無くなってるかも!?

早速Googleマップで確認してみました。

すると....今年撮影されたストリートビューにちゃんとありましたよ!爆  笑

いや~便利な世の中ですね照れ

 

という訳で、早速現地へGO!!車

 

 

  三重県津市の阿漕山真教寺

 

阿漕山真教寺の地蔵堂と伊勢街道

真教寺に到着しました爆  笑

伊勢街道沿いにあるお寺さんです。

 

東海近畿地蔵霊場 第十三番札所

「東海近畿地蔵霊場」という巡礼もあるんですね。

 ここ真教寺は「第十三番札所」のようです。

 

 

真教寺のエンマ堂の看板と五色の幕

まずは真教寺に参拝お願い

ご本尊は閻魔大王様とのことで、個人的にはあまり参拝経験のないご本尊です。

 

真教寺の閻魔大王と仏像

真教寺は比叡山延暦寺の直轄地で、慶長19年(1614)に津藩主の藤堂高次が寄進したお寺だそうです。

エンマ堂の愛称で親しまれ、お堂の真ん中にドン!と高さ197cmの閻魔大王様がお座りになってこちらを睨んでムキーいます。

さすがの番人!なかなかの迫力です!びっくり

左の十一面観音立像は円空さん初期の作品との事で、円空さんの作品としてはかなり大きいそうです。(235cm)

 

 

三重県津市・真教寺の地蔵堂と閻魔堂

そしてエンマ堂の隣にあるのが地蔵堂です。

 

 

杉屋佐助 手水鉢 三重県津市 真教寺

 

真教寺の小さな地蔵像たち

地蔵堂の奥には、20センチくらいの小さなお地蔵さんが10体ほどいらっしゃいました。

道中安全をお祈りしましたお願い

 

ここ真教寺の山号は

「阿漕山」

 または

「阿古木山」

どちらも「あこぎさん」と読みます。

文献によって異なる漢字が使われていました。

現地では上の写真のとおり「阿漕山」が使われていますね。

 

 

 

  佐助さんの手水鉢

 

さぁそしていよいよ、杉屋佐助さんが寄進された手水鉢(ちょうずばち)とのご対面です照れ

 

杉屋佐助寄進の手水鉢。天保3年銘。

地蔵堂の横にひっそりと。

佐助さんの手水鉢が現存しているのを見て安堵照れ

 

 

そして佐助さんの刻字を確認お願い

 

杉屋佐助 寄進 手水鉢 刻字

深く、太く、力強さを感じる美しい刻字です照れ

岐阜大仏にある佐助さんの寄進物と似ているので、別の記事で比較してみます。

 

 

杉屋佐助寄進の天保3年手水鉢

上からみると削れた痕がありました。

柄杓を置いていた跡かな? そうだとすると、かなりの人が使ったのでしょうね照れ

 

 

それでは、いつもの四面画像です花火

 

杉屋佐助 寄進手水鉢 三重県津市 真教寺

 

[正面]
(梵字)カ
※「カ」は地蔵菩薩を意味する


[右面]
世話人
津片濱町
中嶌屋三四郎
同 清五郎

※「嶌」は「島」の異体字なので「中島屋」または「中嶋屋」ですね


[裏面]
天保三年 壬辰 初夏

[左面]
尾州名古屋
米穀問屋
杦屋佐助
同 與吉

※「杦」は「杉」の異体字

※「與」は「与」 の異体字

 

 

佐助さんの天保3年(1832)の寄進物は全て番頭の与吉さんとの共同寄進となっています。

 

杉屋佐助 寄進 手水鉢 刻字

杉屋家にとって何か大きな動きがあったのかもしれません照れ

 

 

 

  世話人の中嶌屋さん

 

杉屋佐助 寄進 手水鉢 刻字

世話人の中嶌屋三四郎さんは、佐助さんが再建に関わった愛知県のお寺「堀江山 長谷院」へ、寄進者として石造物を建立されています。

 

その寄進物とは西国三十三所燈明で、中嶌屋三四郎さんは「第6番 壺阪寺」の燈明を寄進されていました。

寄進者名の面↓

杉屋佐助 寄進 手水鉢 三重県津市

当初は見づらくて解読できませんでしたが、

あら不思議!今見ると読めるではないですか!

「津 中嶋屋三四(以下埋没)

やったね爆  笑

 

燈明が寄進されたのは嘉永7年(1854)

真教寺地蔵堂の手水鉢は天保3年(1832)

少なくとも、佐助さんと22年のお付き合いがあった中嶌屋さんニコニコ

何屋さんでしょうかね~。

 

 

真教寺周辺の地図、伊勢街道と片浜町

中嶌屋さんの住所「片濱町」は城下町で、手水鉢のある真教寺の地蔵堂から北へ1.5Kmほど行った所です。

 

今は使われていない町名ですが、かつての片浜町の一角(津市東丸之内30番地)へ「旧町名碑」があり、下記のように記されているそうです。

旧町名 片浜町
由来 津城下では、漁師や水夫などが住む町を「浜町」と総称した。
「片浜」と呼ばれた由来は明らかではないが、町が堀川に面していて、 はじめは片側だけの町であったからだと思われる。

 

片浜町沿いには堀川が開削されていたようなので、中嶌屋さんは舟を使った家業を営んでいた方かもしれませんねニコニコ

現在、堀川は埋め立てられ、岩田川の合流付近にわずかに名残りが見られました。

 

 

 

  移動された手水鉢

 

真教寺の杉屋佐助寄進手水鉢

※『円空巡礼 近江路 伊勢路 大和』より引用・加工

これは昭和54年発行本の真教寺の写真ですが、佐助さんの手水鉢がエンマ堂前に置かれています。

この時は手水鉢じゃなくて香台として使用されていたのかなニコニコ

 

真教寺の杉屋佐助寄進手水鉢(三重県津市)

こちらが現在(2026年)の真教寺

手水鉢は地蔵堂のすぐ横に移動しています。

 

 

手水鉢の梵字(地蔵菩薩)

佐助さんの手水鉢の正面には「地蔵菩薩」を表す梵字が刻まれているので、地蔵堂のすぐ横は適した場所ですね照れ

 

閻魔堂は慶長19年(1614)に建立されたようですが、地蔵堂の建立時期が分かりませんキョロキョロ

どの文献からもその記載を見つけることができませんでした。

 

真教寺の地蔵堂と閻魔堂の古地図

※『伊勢路見取絵図 第一巻』より引用・加工

ただ、文化3年(1806)に完成した『五海道其外分間延絵図並見取絵図』のうち『伊勢路見取絵図』にある真教寺をみると、既に地蔵堂が描かれています。

少なくとも佐助さんが手水鉢を寄進される26年前には存在していたようです。

 

 

 

  佐助さんの寄進でないもうひとつの手水鉢

 

真教寺にある佐助寄進の手水鉢

さて、手水鉢ですが閻魔堂の方にもありますので、見てみましょう爆  笑

 

杉屋佐助寄進 手水鉢 天保3年 尾張名古屋

こちらは水が使えそうですね!ウインク

 

杉屋佐助寄進の手水鉢 三重県津市

[正面]
清水

[右面]
安政五午年

[裏面]
三州岡崎
 炭屋松

 重尾屋□□
 笹屋忠兵衛
三州吉良一色浦
 信濃屋傳兵衛
尾州知多郡樽水
 紺屋助右エ門
□□
 
屋良右エ門
佐屋
 岩間代助
津嶋
 大野屋市良兵エ
 八百屋金兵衛
 河内屋宗兵衛
 吉文字屋与七
世話人
 大坂屋元七


[左面]
(無し)
 

 

裏面の名前は彫が浅いですができるだけ読んでみましたニコニコ

安政5年(1858)の手水鉢で、佐助さんの手水鉢から26年後の寄進のようです。

 

 

 

三重県津市真教寺の地図

※Googleマップから引用・加工

三河:岡崎(岡崎市)・吉良一色(西尾市)

尾張:知多半島の樽水(常滑市)・佐屋(愛西市)・津嶋(津島市)

各地から総勢11名での寄進です。

みなさん、どんな関係なのでしょうか爆  笑

佐助さんの寄進ではありませんが気になります。

 

 

ざっと調べたところ、とりあえず佐屋の岩間代助さんについては情報がみつかりました!

佐屋街道の佐屋宿(佐屋代官所)で船年寄をされている船庄屋でした。

岩間家(岩間権右衛門)は佐屋宿の本陣を務めていたそうです!びっくり大物が出てきましたよ!

※参照『佐屋町史 史料編 1』p.176,368、『角川日本姓氏歴史人物大辞典 23』p.635

 

 

 

 

新発見を求めて、佐助さん探しの旅はつづく。

またねー!

 

 

 

名古屋城と大きな月が重なる写真を撮りたい!!カメラ

そう思い始めて2年半

タイミングを見計らい何回かチャレンジするも、いずれも位置がズレたり雲で出始めの月が見れず涙を呑むえーん

しかしこれらは失敗ではありませんロケット

チャレンジし続ければ撮れる日は必ず来る!爆  笑

 

とまぁ、そんなこんなで、今回なんとか撮影に成功しましたよ!

写真は全てコンデジ(FZ-1000m2)で撮影し、加工はトリミングのみです。

合成ではありませんよ花火

 

名古屋城と赤い月が重なる夜景

[時刻]19:38:52

おぉ!びっくり

何か暗く赤い物体がお城の後ろにいるゾ!!

双眼鏡で確認すると既に昇り始めていたので急いで撮影する。

 

名古屋城と赤く大きな月が重なる瞬間

[時刻]19:39:13

これがお月様かな!?びっくり

お月様「コンニチハ!」

 

名古屋城と赤く大きな月が重なる奇跡の瞬間

[時刻]19:39:53

念願の名古屋城の背後に大きなお月様!照れ

やったゾ~~~!!お祝い

素晴らしい天体ショー!!爆  笑

多少ブレててもピンボケでも気にしない!グッド!

 

名古屋城と満月が重なる写真

[時刻]19:40:55

もうズレてしまった...

ど真ん中で重なる瞬間は数十秒しかありません。

※[時刻]はカメラの時刻で正確な時間ではありません。時刻は月の移動速度をお伝えしたい意図で載せています。

 

名古屋城と月が重なる風景写真

[時刻]19:42:24

どんどん昇ってゆきます。

 

名古屋城と赤く大きな月が重なる夜景

[時刻]19:43:41

月が高くなると黄色っぽくなります照れ

 

 

 

この名古屋城と月の撮影、かなり難易度が高いんです。

山のてっぺんにある城ではなく地上にあることも難易度を高めています。

 

名古屋城と昇る月、撮影する忍者

まず、日中はダメ。

 

名古屋城と月、撮影する忍者

雨はもちろん、くもり空もダメ。

晴れていても城の後ろに分厚い雲があるとダメ。

 

名古屋城と月が重なる瞬間を捉える忍者カメラマン

山で月の出が隠れるとダメ。

 

城との間に高い建物があってもダメ。

 

城がライトアップされてないとダメ。

 

月を大きく見せるために城から距離を取らないとダメ。

 

名古屋城と月の重なり、約2分の撮影

月の出始めから時間が経つとダメ。

出始めで位置が低すぎてもダメ。

今回の撮影はわずか2分間の勝負でした!

 

 

 

今回これをクリアして、月の方位が合致してやっと撮れた写真です照れ

 

名古屋城と赤い月が重なる写真

スマホでも撮ってみた!ニコニコ

 

 

ブログをフォローさせていただいている方にならって、私も一句詠んでみたくなりました上差し

名古屋城と赤月が重なる幻想的な夜景

春の夜の

城の背に浮く茜月

わが心をも

満たしこそすれ

 

感動を記録にと、歌を考えてみました照れ

 

 

 

花火花火花火花火花火花火

 

とりあえず満足はしたものの、一回撮ると欲が出てきてしまう笑い泣き

今回はオートモードで撮ったのでブレもピンボケも...。

撮れない時はマニュアルで設定してたのにこのザマです(笑)

実は月の出直前にトイレに行きたくなって、戻ってきたらもう月が昇る時間!

設定する時間がありませんでしたあせる

次はもっとお城がちゃんと見えるようにも撮りたいね~照れ


 

 

またねー!

 

 

 

 

今回の杉屋佐助さんは、海山郷土史研究会の『封堠第27号 はまぐり石』という平成23年(2011)に発行された本についてですニコニコ

 

はまぐり石 供養碑 杉屋佐太郎 銘文

はまぐり石」といえば、杉屋佐助さんの息子の杉屋佐太郎さんが番頭の与吉さん供養のため、そして巡礼者のために建立した供養碑です。

三重県北牟婁郡紀北町の指定文化財にもなっています。

このブログでも以前記事にしていますので、「はまぐり石」自体についてはそちらをご覧ください照れ

 

 

 

そんな「はまぐり石」について地元の郷土研究の方が調べてくださった本。

もうこれだけで嬉しさ期待感MAX!!爆  笑

 

『封堠第27号 はまぐり石』は20~30ページほどの小冊子で、構成は、「はまぐり石」の調査のキッカケから始まり、準備と調査、現地視察と時系列に沿った内容で、やりとりの会話などを途中に挟み込んでとても楽しく拝読しましたニコニコ

『郷土文化 50巻』も大きく引用しており、あらためて本の影響力を実感します。

 

 

調査範囲は「はまぐり石」を寄進した佐太郎さんの故郷である尾州(愛知県の北西部)にも及んでおり、「堀江山 長谷院」を訪れ、小川住職や田内力さんともお会いになっています。

平成13年(2001年)頃のことであり、長谷院も無住となっている今となっては実現不可能でなんとも羨ましい限りです。あせる

『名古屋なんでか情報』の「名古屋奇人伝 No.15」で小川住職が「以前、三重県の海山町の方が訪ねてこられたことがあります。」とおっしゃってたのはこの事だったのかと、改めてつながりを確認でき感慨深い気持ちになりました照れ

 

 

与吉さんの供養碑を海山町に建立した理由については、商圏の南限という考察が記されていましたが、個人的にはそれだけではないように思います。

 

 

この本のタイトルは「はまぐり石」ですが、はまぐり石そのものの話より、杉屋佐助さんについて記された情報が興味深かったので、特に重要と思う部分を引用します。

 

 

付記(1) 杉屋家と長谷院との関係

二代杉屋佐助は、尾張十代藩主斎朝の庇護を受け、御用商人となり、名字帯刀を許され、尾張徳川家が浄土宗なので、佐助も浄土真宗より浄土宗に改宗して、真宗の願照寺より浄土宗の堀江山長谷寺を菩提寺として今日に至っている、と私の父森三郎(杉屋佐蔵の次男)より私の幼少の頃(主として戦前)に聞かされていました。(田内力氏談)

私にとって非常に興味深い話です!

徳川家が浄土宗だから真宗から改宗したとは驚きですびっくり

私が持っている佐助さんのイメージと全く反対だったため、非常に大きな収穫となりました。

田内家(佐助さん)の子孫である田内力さんからの情報なので間違いないと思います。

 

それで佐助さんが浄土宗に改宗したタイミングは長谷院を菩提寺にした時とすると、天保11年(1840)に初代佐助さんの顕彰碑(今の佐助塚)を建立した時でしょうか。

しかし、佐助さんが寄進した石造物をみるとそうではなく、もっと早い時期の可能性があります。

はたして佐助さんはいつ浄土宗に改宗し、長谷院を菩提寺にしたのでしょうか。

主な出来事を時系列で揚げると以下のようになります。

 

①慶長18年(1613)

真言宗の長谷院は清州越で阿弥陀寺境内へ移った時に浄土宗に改宗

 

②文化9年(1812)

初代佐助さんが亡くなり、佐助さんが家督を相続

 

③文政10年(1827)

佐助さんを庇護した藩主斎朝が隠居

佐助さんが浄土宗の高僧徳本上人の名号碑を3名による共同寄進で建立(尻冷やし地蔵、密蔵院)

 

④天保3年(1832)

長谷院が阿弥陀寺境内から西堀江村(現在地)の旧地へ戻る

 

⑤天保5年(1834)

旧藩主斎朝が最も帰依したとされる長谷院に多宝塔などを寄附

 

⑥天保7年(1836)

佐助さんが徳本上人の名号碑を佐助さん単独で建立(笠寺観音)

 

⑦天保11年(1840)

佐助さんが長谷院に両親の顕彰碑を建立

番頭の与吉さんが亡くなる

 

⑧弘化2年(1845)

佐太郎さんが亡くなる

浄土真宗の願照寺に両親と佐太郎さんの供養碑を建立

 

⑨弘化3年(1846)

長谷院再興に着手


 

年代的には藩主斎朝から庇護を授かったのは初代佐助さんの可能性もありますね照れ

藩主の庇護により御用商人となって城下碁盤割の中御園町で杉屋家が大きく飛躍し、佐助さんはそのお礼として斎朝が庇護した長谷院を菩提寺にし、更には一寺再興を目指した……とすれば、私のかねてからの謎であった「佐助さんが長谷院に関わった理由」がスッキリ解けるのです爆  笑

 

徳川斉朝と長谷院、杉屋佐助の関係図

もともと斎朝が長谷院を庇護していたのは『西春日井郡誌』や『新川町誌』からわかっていましたが、佐助さんと斎朝の関りが記載されたのは初めて見ました。

 

という事で、佐助さんの報恩の行動ですが、どのタイミングで...というのがはっきりしません。

今のところ佐助さんの寄進物で長谷院に最初に登場するのが⑦の天保11年となります。

もし初代佐助さんの時代に浄土宗に改宗したとすれば、④と⑤の長谷院に関わる出来事に佐助さんの名前が出てきてもいいような気がしますが、見つけられていません。

⑧の弘化2年の時に浄土真宗の願照寺に供養碑を建てたのも気になります。

 

結局、改宗と菩提寺の時期は不明のままですが、佐助さんと長谷院と藩主斎朝がそれぞれ関連していたことがわかったのは大きい!爆  笑

 

 

 

付記(3) 田内 力氏について

二代目杉屋佐助については「郷土文化」第五十巻に網羅されています。その子佐太郎(長男)は早世(多分二十五歳)なので、佐太郎名の石碑は大変少ないのです。当初佐太郎は二代目佐助の父かと間違えていましたが、今は二代佐助の長男と確信しています。二代佐助は大変長命で八拾歳近くまで杉屋を支配していたので、佐太郎、源助とも実権無くそのまま家督は佐蔵に譲られたと考えています。佐太郎は、願照寺では、釈了實です。堀江山長谷寺では、斎室實信士の戒名です。

(以下略)

佐助さん長生きだったんですね照れ

佐助さんが亡くなられたのが元治2年(慶應元年)で80歳と仮定すると、佐助さんは天明5年(1785)あたりに生まれたことになります。

そして初代佐助さんから家督を継いだのは27歳の時となります。

長谷院を再興し、寄進活動を終えたと思われる安政4年(1857)は72歳です。

これまたいろいろ想像できて楽しい爆  笑

ちなみに『関ケ原町史 資料編1』に記載されている佐助さんの妹と思われる「万寿」さんは元治2年の時に66歳なので、佐助さんとの歳の差は14歳ぐらいとなります。

 

 

ところで「源助」さんの名前は初耳ですびっくり

佐兵衛さんが改名されたのでしょうか???

 

「佐蔵」さんについては長谷院の本家のお墓に名前があり、大正11年に75歳で亡くられています。

逆算すると弘化4年(1847)生まれとなります。

 

 

花火花火花火花火花火花火

 

この本で知った興味深い情報がもうひとつ、蛤石がなんと『西国三十三所名所図会』に載っているとの事!びっくり

さっそく原本を見てみましたよ!

 

松本古趾 尾張杉屋佐助 genealogia

※『西国三十三所名所図会 2』国立公文書館デジタルアーカイブより引用・加工

嘉永元年(1848)発行の『西国三十三所名所図会 2』の「粉本」に「はまぐり石」つにいての記載がありました爆  笑


川岸の堤に蛤蜊石の観音あり

近年尾州の人建る所なり


「川岸」というのは銚子川の左岸、国道42号線下流あたりとの事です。

尾州の人=杉屋佐太郎さん照れ

 

 

花火花火花火花火花火花火

 

今回紹介した『封堠第27号 はまぐり石』の本文の中で数回でてくるお言葉、

「古いことやでわからんでもともとやで」

が何とも心に沁みました照れ

 

 

 

 

新発見を求めて、佐助さん探しの旅はつづく。

またねー!
 

 

 

 

 

 

 

 

前回の記事からのつづきですニコニコ

 

フォロワーさんから教えていただいた『谷汲山の栞』という岐阜県揖斐郡揖斐川町(いびぐん いびがわちょう)にあるお寺「谷汲山 華厳寺(たにぐみさん けごんじ)」について書かれた本。

 

この本に杉屋佐助さんが寄進された「三谷地蔵」が華厳寺に建立されているとあります。

 

残念ながら現在の華厳寺において三谷地蔵のお姿は確認できませんでしたが、今回は『谷汲山の栞』にある三谷地蔵の記述を深堀りしていきたいと思います。

注)素人の考察を含みますあせる

 

 

  『谷汲山の栞』とは

 

・谷汲山華厳寺のガイドブックのようなもの

 

・岐阜県図書館では3つの版を所蔵

 谷汲山の栞 発行年別比較表

 - 明治発行版と大正発行版は同じ内容

 - 発行年不明版はガイド対象を絞って記されている

 

・杉屋佐助さんが寄進された「三谷地蔵」について記されている(明治・大正発行版)

 

・「三谷地蔵」とも思える写真が掲載されている(明治・大正発行版)

谷汲山華厳寺の三谷地蔵

※『谷汲山の栞』明治40年版より引用・加工

 

・境内地図も掲載されており「三谷地蔵」が描かれている

谷汲山華厳寺の境内地図「三谷地蔵」

※『谷汲山の栞』明治40年版より引用・加工

 

谷汲山華厳寺の境内図「三谷地蔵」

※『谷汲山の栞』発行年不明版より引用・加工

 

 

  「三谷地蔵」の記述

 

杉屋佐助さんが寄進された「三谷地蔵」について記された部分を以下に引用します。

 

又大玄関の奇松を一瞥して振返し、更に東に向ひて本門を出づれば、右手に銅像の、延命地蔵尊(一名三谷地蔵)立たせ給ふ。

嘉永二酉年の鋳造にして、願主発起人名古屋市杉屋佐助外数名が、三界萬霊及祖先供養の為めに、長谷(大和)、黒谷(山城)、谷汲(美濃)の三ヶ所へ奉納せるを以て、三谷地蔵とも云ふ。
例年八月廿四日、追善供養を営む
 

次に本堂の正面なる敷石を横切りて、東に向へば

三十三所観音堂

あり。

 

※『谷汲山の栞』明治40年版p.20より引用

 

 

<訳>

大玄関の変わった松をちらっと見て振り返り、東に向いて本門を出たら、右側に銅像の延命地蔵尊(別名を三谷地蔵)が立っている。

嘉永二年の酉年に金属を型に流して固める方法で造られ、願主・発起人に名古屋市の杉屋佐助とその他数名が、三界萬霊と祖先供養の為に、長谷(大和)、黒谷(山城)、谷汲(美濃)の三ヶ所へ奉納した。

こういうわけで、三谷地蔵ともいう。

 

次に本堂の正面の参道敷石を横切って、東に向かうと三十三所観音堂がある。

 

三谷地蔵という名や、三ヶ所への奉納など、これらの情報は地蔵尊や台座に刻まれていたのか、記録帳に記されているのか知りたいところです。

 

 

整理すると以下4つの情報が記されています。

①嘉永2年に造られた銅製の延命地蔵尊

②長谷(大和)、黒谷(山城)、谷汲(美濃)の三ヶ所へ奉納

③寄進者は杉屋佐助さん他数名

④8月24日に追善供養

 

ひとつずつ考察してみます。

 

 

 

 

 

  考察①「嘉永2年の銅製の延命地蔵尊」

 

銅製の地蔵尊といえば、華厳寺と同じ揖斐川町にある松林寺の「延命地蔵尊」を思い出します。

 

杉屋佐助 寄進 延命地蔵尊

↑こちらがその松林寺の延命地蔵尊の写真です。

台座に嘉永5年と寄進者の佐助さん・錺屋庄六(増田庄六)さんの名前が彫られています。

 

 

 

じっくり観察してみると、『谷汲山の栞』にあった写真のお地蔵様と似た特徴があるような?キョロキョロ

まさか華厳寺から松林寺へ移された!?びっくり

 

 

白黒写真に合わせ、並べて比較してみます。

華厳寺と松林寺の延命地蔵尊比較

お姿は同じような特徴があります。

しかし、台座が異なるので華厳寺から松林寺へ移されたということは無さそうですねあせる

 

 

それでもお姿は似ているので特徴を見ていきます。

 

華厳寺と松林寺の延命地蔵尊比較

お地蔵様の右腕は、長さといい曲げ方といいとてもよく似ているように思います。

 

 

華厳寺と松林寺の延命地蔵尊比較

左手に持たれている宝珠

華厳寺の写真は見づらいですが、黄丸で示した部分に、日が反射しててっぺんが白っぽくなった宝珠が写っているように見えます。

松林寺のお地蔵様がお持ちになっている宝珠と形が似ています。

 

 

ほかのお地蔵様も同じ特徴なのか?

大正時代に建立された華厳寺の延命地蔵尊と比較してみます。

華厳寺の三谷地蔵、昔と今の比較

右腕の長さは違ってみえます。

 

こうして比較してみると、前回の記事で「舟形・丸彫り問題」を取り上げましたが、やはり丸彫りが正解かもと思えてきました爆  笑

 

三谷地蔵と松林寺のお地蔵様は、同じお姿だったかもしれませんね!照れ

 

 

 

 

  考察②「寄進した場所3ヶ所」

 

『谷汲山の栞』にはこうあります。

三界萬霊及祖先供養の為に、長谷(大和)、黒谷(山城)、谷汲(美濃)の三ヶ所へ奉納せる

カッコ内は旧国名ですが、長谷は寺名、黒谷は地域名、谷汲は地域名または山号なので、お寺ごとの愛称から付けた「谷」でしょうか。

 

佐助さんがこの三ヶ所へ延命地蔵尊を奉納したとあります。

その三ヶ所とは、

 

  1. 長谷(大和) → 奈良の「豊山 長寺」
  2. 谷汲(美濃) → 岐阜の汲山 華厳寺」
  3. 黒谷(山城) → 私が知る限りでは京都の黒谷町で佐助さんの寄進物は未確認です。おそらく「くろさん」で親しまれる京都の金戒光明寺ではないかと思います。

三谷地蔵 奉納地 3ヶ所マップ

 

それにしても、全てに「」が入って「三谷照れ

そこへ寄進したお地蔵様だから「三谷地蔵照れ

さすが佐助さん、おしゃれ花火

 

 

ちなみに「三谷地蔵」のように「三●●」というのは江戸時代、庶民の間で「社寺参拝」が爆発的に流行し、それに伴って「日本三景」や「日本三名園」のように、有名なものを3つ括りで呼ぶ習慣が一般化したそうです。

仏教的には日本三如来、日本三観音、日本三文殊などがありますね!

 

 

 

 

 

  考察③「寄進者」

 

『谷汲山の栞』には

願主 発起人 名古屋市 杉屋佐助 外数名

とあります。

 

 

一つ目の谷「長谷寺」では、以下5名の寄進者名が刻まれていました。

 

杉屋佐助

銭屋長右エ門

大野屋善七

錺屋庄六

柴山屋藤蔵

 

 

果たして長谷・黒谷・谷汲に建立された三体は同じ施主なのでしょうか?キョロキョロ

『谷汲山の栞』の写真をみると、台座に縦書きで数行で何か刻まれているようにも見えますが...分かりませんえーん

 

 

 

  考察④「8月24日」

 

最後に

例年八月廿四日、追善供養を営む

とあります。

 

追善供養(ついぜんくよう)を検索すると、残された家族や親族が故人の冥福を祈り、代わりに善行(法要やお参り)を積む仏教の行事だそうです。

 

なぜ8月24日なのか?

少なくとも佐助さんの寄進物で私が把握している限りでは8月と特定できる寄進物はありません。

 

ネット検索すると「地蔵盆」がヒットしました。

 

Wikipediaには、

地蔵盆(じぞうぼん)は、地蔵菩薩の縁日(旧暦7月24日もしくは新暦8月24日)にかけて地蔵尊を祀る行事。

「地蔵会(じぞうえ)」や「地蔵まつり」と称されることもある。

特に近畿地方などを中心に盛んな行事である。道祖神信仰との結びつきも指摘されており、「路傍や街角のお地蔵さん」である「辻地蔵」を対象とする民間信仰ともいわれる

 

とあります。

この本が発行された明治40年は新暦なので8月24日ですね。

明治40年当時、華厳寺では地蔵盆の行事を例年やってみえたのでしょうか。

佐助さんが寄進された地蔵尊を前に、大勢の人たちが手を合わせていらしたかもしれない光景を想像するとなんともありがたい気持ちになりますお願い

令和の今もやっているのかも!?

 

 

 

  境内地図

 

『谷汲山の栞』には境内地図も載っていました。

 

谷汲山華厳寺の境内地図

※『谷汲山の栞』明治40年版より引用・加工

 

燈籠などが複数描かれていますが、本堂などの建造物を除いて明確に名称が記されている寄進物は「三谷地蔵」のみです。

 

本の発行人が華厳寺であることからも、華厳寺にとって「三谷地蔵」は大切な寄進物と考えられていたのでしょうか。

 

 

谷汲山華厳寺の境内地図「三谷地蔵」

※『谷汲山の栞』発行年不明版より引用・加工

 

こちらの発行年不明版の境内地図にも「三谷地蔵」が記されています。

「報恩燈」の名称も記されているので同じように大切にされている寄進物だったのかもしれません。

 

 

そしてこの地図、よくみると鉄道が描かれていましたびっくり

谷汲駅まで鉄道が通ったのが大正15年らしいので、この本の発行はそれ以降と考えられます。

 

さらに描かれた鉄道の上方には “谷汲山境内案内図” とありますが、文字は昔の書き方で右から左へ向けて記してあるので戦前の可能性が高い。

 

つまりこの発行年不明版の発行年は

大正15年/昭和元年~昭和20年頃

と考えられますね。

 

その頃まで佐助さんの寄進物はそこにあったのに、100年経ったいまは見当たらないのが残念ですえーん

 

 

 

  一つ目の谷「長谷寺」の地蔵尊

 

一つ目の奈良の長谷寺以前参詣したことがあります

その時たしかに佐助さんの寄進物を確認しました。

ですが当時は、「三谷地蔵」という三体のうちの一つのお地蔵様だとはまったくもって想像もしませんでしたえーん

 

石造の延命地蔵尊、三谷地蔵

↑こちらがその時の写真ですが、お地蔵様は銅造ではなく石造です。

平成20年に有志の方によって石像の地蔵尊が再建されていたのです。

ただし、佐助さんらの刻字がある台座は建立された当時のものと思われます。

 

地蔵尊は元々は銅製だったのでしょうか!?びっくり

しかし『谷汲山の栞』の情報では華厳寺は銅製ですが、3ヶ所全てが銅製かどうかまではわかりません

 

 

 

長谷寺の寄進物といえば、以前フォロワーさんから教えて頂いた本『豊山長谷寺拾遺』があったことを思い出しました。

 

なにか情報が記してあるかもキョロキョロ

そこで図書館で検索すると「第三輯 彫刻」と「第五輯之一 石造品」がヒット。

該当すると思い、目を通してみると...

 

ありました!!爆  笑

 

『第五輯之一石造品』に、長谷寺に寄進された佐助さん達の延命地蔵尊について、刻字の情報がありました花火

やったね!爆  笑

 

(心の声)現地で一生懸命判読した刻字に間違いはなかった~笑い泣き

 

 

116 地蔵菩薩像

[基礎正面]
「施主」

[台石正面]
尾州名古屋/御園町三丁目/杉屋佐助/
広井/銭屋長右エ門/
呉服町二丁目/大野屋善七/
冨田町/錺屋庄六/
清須本町/柴山屋藤蔵

[台石左側面・石板嵌入]
先人の志を尊び/東高野山長命寺/
檀信徒と共に/この尊像を再建す/
平成二十年六月二十四日/妙楽院亮弘/
総代増島一平/増島一男/宇多川辰男/
増島清/田中正治

[台石背面]
嘉永元年/戊申参吉日/発起/杉屋佐助

[附前垣正面]
「三谷」地蔵尊

 

※『第五輯之一石造品』#116より引用

 

最後に「三谷」地蔵尊と記されているではあませんか!!爆  笑

 

つまり、長谷寺にある佐助さん達が寄進した地蔵尊は「三谷地蔵」の一体に間違いなし!お祝い

 

長谷寺で撮った写真をよくよく見なおしてみると、確かに花立っぽい石造物に何か刻まれています。

 

谷汲山華厳寺の三谷地蔵の台座

 

谷汲山 華厳寺 三谷地蔵尊

なんとか「三谷」と「地」までは読めましたが他は厳しいあせる

当時はまさか地蔵尊のセット品とは思わず、ほとんど撮影しなかったのが悔やまれるあせる

 

苔むした石灯籠

遠景の1枚を部分拡大と明るさ調整。しかもブレてるあせる

「三谷」は確実爆  笑

GoogleMapの写真やストリートビューも見てみましたが良い画像は見つかりませんでした笑い泣き

 

 

 

 

  建立された順番

 

ところで3つの延命地蔵尊の建立年でみると、華厳寺は嘉永2年、長谷寺は嘉永元年、光明寺は...?

少なくとも1体目の嘉永元年に長谷寺に寄進する時点で「三谷地蔵」プロジェクトが計画されていたことが判明しました。

とするならば、三体の施主は同じ可能性が高い!?びっくり

 

そして光明寺の建立は弘化4年か嘉永3年と推測できそうです。

しかし『谷汲山の栞』には「長谷(大和)、黒谷(山城)、谷汲(美濃)」の順で記されているので、この順番での建立となると嘉永元年と嘉永2年の可能性もあり得るか?

 

 

------- 年表 -------

弘化3年(1846) 丙午
弘化4年(1847) 丁未
弘化5年/嘉永元年(1848) 戊申 → 長谷
嘉永2年(1849) 己酉 → 谷汲
嘉永3年(1850) 庚戌
嘉永4年(1851) 辛亥

嘉永5年(1852) 壬子

 

 

果たして...?

 

 

 

 

 

  とりあえず今回わかった事爆  笑

 

①かつて華厳寺の中門前に佐助さん達が寄進した銅製の延命地蔵尊があった。

②それは三谷地蔵と呼ばれていた。

③三谷地蔵の3ヶ所のうち、奈良の長谷寺、谷汲の華厳寺の2ヶ所に存在していたことを確認できた。

 

引き続き調査し、新たな情報が得られれば記事にしていきたいと思います。

 

 

 

花火花火花火花火花火花火

 

佐助さん探しをするようになってから、お寺や道端でお地蔵さんや馬頭観音に出会うと「道中安全」をお祈りするようになりましたお願い

それまでは素通りでしたが...あせる

しかし、こうやってお参りする事で、より安全運転の意識付けができるようになったと感じています。

ありがたいことです。

 

 

 

新発見を求めて、佐助さん探しの旅はつづく。
またねー!
 

 

 

 

 

今回の杉屋佐助さんは、岐阜県揖斐郡揖斐川町(いびぐん いびがわちょう)にあるお寺「谷汲山 華厳寺(たにぐみさん けごんじ)」です!ニコニコ


 

先日、フォロワーさんから凄い情報を頂きました!照れ

いつもありがとうございます!

 

教えていただいたのは『谷汲山の栞』という一冊の本。

内容は谷汲山華厳寺のガイドブックのようなもので、発行は明治40年(1907)、ボリュームは60ページほどの本です。

 

そしてなんと、この本に

杉屋佐助さんの名前が出てくる

というのです!!!!

 

いつもどこかで寺社を訪れてはいますがなかなか佐助さんの名前に遭遇する事ができずにいたところに、このニュース!!お祝い

心が躍った...のはもちろんですが、抑えきれずに

おぉぉ~っ!花火

と体が仰け反りましたあせる

 

本に書かれている内容はフォロワーさんが詳しく教えてくださっていたのですが、居ても立ってもいられず、まずは実物の本を拝見しに図書館へ飛んで行きましたよランニングダッシュ

 

 

  『谷汲山の栞』を閲覧する

 

改めて、『谷汲山の栞』にどのように書かれていたのかを以下に記します↓

 

又大玄関の奇松を一瞥して振返し、更に東に向ひて本門を出づれば、右手に銅造の、

延命地蔵尊(一名三谷地蔵)
立たせ給ふ。

嘉永二西年の鋳造にして、願主発起人名古屋市杉屋佐助外数名が、三界萬霊及祖先供養の為に、長谷(大和)、黒谷(山城)、谷汲(美濃)の三ヶ所へ奉納せるを以て、三谷地蔵とも云ふ。
例年八月廿四日、追善供養を営む。
 

次に本堂の正面なる敷石を横切りて、東に向かへば

三十三所観音堂

あり。

 

※『谷汲山の栞』明治40年版より引用

 

おぉぉ~っ!佐助さんの文字がある爆  笑

そしてなんと「三谷地蔵」という名前がついている!?

しかも「銅造の延命地蔵尊」であると!?びっくり

っっっと...他にも興味深いことが記してあるので触れたいのは山々ですが、内容の精査は次の記事で行いたいと思います。

 

 

同じ本にはさらに写真も載っていました。

華厳寺の仁王門と杉屋佐助の碑

※『谷汲山の栞』明治40年版より引用・加工

かなり見辛いですが、写真モードでコピーしたよりも見やすいのでこちらを掲載しますあせる

 

谷汲山華厳寺 延命地蔵尊

※『谷汲山の栞』明治40年版より引用・加工

 

赤丸の中に延命地蔵尊(立像)と思われる像があります。

おぉぉ~っ!花火

明確に「三谷地蔵」とは記されていませんが、佐助さんが寄進したかもしれないお地蔵様のお姿お願い

 

いやいやこんなに凄い情報があったとは驚きです。

そんなわけでこの日は大変満足して図書館をあとにしました。

 

しかし!

まだ入手していない情報は残されていたのです!

それは後日図書館を再訪して気が付きましたあせる

 

なんと同じ本に、

当時の谷汲山華厳寺の境内地図が載っているではありませんか!

それがこちら↓

谷汲山華厳寺 境内地図 杉屋佐助 三谷地蔵

※『谷汲山の栞』明治40年版より引用・加工

かなり細かく描かれた境内地図です。

そして★印の所に「三谷地蔵」とあるではないですか!爆  笑おぉっ

先日はすっかり見逃していましたあせる

 

境内地図を部分拡大してみましょう↓

谷汲山華厳寺境内地図 三谷地蔵

※『谷汲山の栞』明治40年版より引用・加工

三谷地蔵の絵を見ると、背後が舟形になっているようなお地蔵様に見えます。

 

さらに拡大↓

杉屋佐助 谷汲山華厳寺 三谷地蔵 境内地図

 

佐助さんが寄進した三谷地蔵は、いわゆる丸彫り地蔵ではなく、舟形地蔵と呼ばれるお地蔵様なのか...ん!?

 

舟形地蔵と丸彫り地蔵のイラスト

 

ということは、さきほどの写真にあったお地蔵様は三谷地蔵ではないということに?

谷汲山華厳寺 延命地蔵尊

※『谷汲山の栞』明治40年版より引用・加工

舟形ではなく、丸彫りに見えます

どういうことだ?

場所はあってるはずだけど...?キョロキョロ

 

まあ、ひとまず現地(谷汲山華厳寺)へ行ってみましょう爆  笑

 

 

 

  谷汲山華厳寺へ行って検証する

 

華厳寺と言えば、西国三十三所巡りの第三十三満願札所。

創建は延暦十七年(798)の平安時代、今まで巡礼や参拝で訪れた多くの人の祈りや感謝を受け止めてきた古刹です。

 

杉屋佐助さんも西国三十三所には強い思い入れがあると考えられ、華厳寺には佐助さんと息子の佐太郎さんが建立した弘化2年(1845)の先祖代々供養碑が満願堂近くにあります。(佐太郎さんが亡くなる1か月前というのがまた涙を誘います)

訪問した時の記事はコチラ↓

 

 

また、仁王門前には伊藤萬蔵さんが寄進した寺標、三十三所堂近くには柴山藤蔵さんが寄進した常夜燈があり、尾張の寄進ベストスリーが揃っています爆  笑

 

 

 

谷汲山華厳寺 満願霊場

到着しました「谷汲山華厳寺」

さっそく捜索開始ですニコニコ

 

 

まずは、『谷汲山の栞』にあった写真の場所はどこかということですが、文章には「本堂の正面なる敷石を横切り東へ向かへば三十三所観音堂」とあります。

 

つまり三十三所堂の西側に三谷地蔵があるということに。

その場所を事前にフォロワーさんのご意見も伺いながら、現在の中門であることを確信します。

 

 

華厳寺の延命地蔵尊らしき像

※『谷汲山の栞』明治40年版より引用・加工

写真に記したの門の奥の塀のさらに奥にみえるのは「客殿」とよばれる建物の障子のようにみえ、は本堂の傾斜のある石垣と思われます。

 

谷汲山華厳寺の境内、石垣と参道

現在の写真です。だいぶ様子が変わっていますねあせる

 

 

 

そして佐助さん達が寄進した延命地蔵尊があったと思われる場所は現在どうなっているか....

 

杉屋佐助 華厳寺 延命地蔵尊

別のお地蔵様(地蔵坐像)が鎮座されていました照れ

なお、台座が佐助さんの延命地蔵尊のではないかと思って調べましたが、左右背面は未加工のゴツゴツした状態で何か刻まれている形跡は見つけられませんでしたえーん

 

参道からの遠景です↓

谷汲山華厳寺の二体仏と中門

隠れてほぼ見えませんが赤い帽子が目印ですあせる

目の前の大きな二体の観音様は昭和26年にここへ寄進されたそうなので、『谷汲山の栞』が発行された頃はまだお見えになりません。

 

本筋とは離れますが、こちらの二体の観音様については興味深い経緯がありました。

愛知県一宮市の株式会社木村鉄工所のサイト内にある「木村鉄工所と一宮大仏」ページで紹介されています。

 

 

谷汲山華厳寺の延命地蔵尊

こちらはお地蔵様からの位置関係です。

石垣の下にも二体のお地蔵様が鎮座されていますが、佐助さんの寄進ではありません。

 

 

 

参道を少し戻った所にもお地蔵様がいらっしゃいます。

杉屋佐助 華厳寺 延命地蔵尊

「御本尊御杖白藤」の傍に石像の延命地蔵尊がありますが、こちらは台座に大正12年と刻まれていました。

丸彫り地蔵ですが『谷汲山の栞』の写真にあったお地蔵様とは異なるようです。

 

現地の地図看板で場所示すとこのようになります↓

谷汲山華厳寺境内図 杉屋佐助寄進の三谷地蔵位置

 

 

 

という訳で、他にも華厳寺境内で行ける範囲を捜索しましたが、残念ながら銅製の地蔵尊を見つける事はできませんでしたえーん

残すは奥ノ院ですが軽装備では危険な山なので行きません。

 

三谷地蔵が居なくなった理由は廃仏毀釈、濃尾地震、戦時の供出...いろいろありそうですが、少なくとも大正4年に存在しているという事は、供出の可能性が高いかもしれません。

三谷地蔵は銅造だったようなのでえーん

 

とても残念ですが、かつてここに杉屋佐助さん達が建立した延命地蔵尊がいらっしゃったという事がわかっただけでもありがたい事です照れ

 

 

 

 

  中門前に建立されていた理由を考える

 

三谷地蔵はなぜ中門の入口に建立されていたのか。

現地に行って自分なりに腑に落ちました。

 

それは、三谷地蔵の先にある「客殿」。

谷汲山華厳寺 境内図 三谷地蔵

※『谷汲山の栞』明治40年版より引用・加工

 

こちらのご本尊が地蔵菩薩様らしいのです。

客殿の案内板、文久3年再建

それでこの場所には現在もいくつかのお地蔵様が建立されているのか、と自分なりに納得した次第です。

見当違いかもあせる

 

 

 

 

  舟形・丸彫り問題

 

そしてけっきょく、三谷地蔵は舟形なのか丸彫りなのか。

 

ここまで参考にしている『谷汲山の栞』とは別の版(発行年不明)の本にも境内地図があり、また違った三谷地蔵の絵図が載っていました。

 

※発行年不明の本には「大正4年」の記載があったため、発行年はそれ以降ということだけわかっています。

 

それがこちらです↓

谷汲山華厳寺 境内地図 三谷地蔵

※『谷汲山の栞』発行年不明版より引用・加工

 

 

部分拡大↓

谷汲山華厳寺 境内図 三谷地蔵

※『谷汲山の栞』発行年不明版より引用・加工

明治版とは異なる絵図ですが、三谷地蔵はやはり舟形に見えます。

 

 

 

谷汲山華厳寺の三谷地蔵の三種比較

※『谷汲山の栞』明治40年版・発行年不明版より引用・加工

 

それぞれ三体を並べてみました 照れ
写真の延命地蔵尊は立像で丸彫り、錫杖も持っているように見えます。
絵図の方は舟形は共通ですが坐像と立像の違いがあります。
 
はたして正解は? キョロキョロ
 
 
 
三谷地蔵の現物を確認できないので、他の建造物がどれほど忠実に描かれているのかを参考に考察してみます。

 

まずはじめに「報恩燈」の検証から。

※『谷汲山の栞』発行年不明版より引用・加工

「三谷地蔵」の右側には「報恩燈」という燈籠があります。

 

谷汲山華厳寺 報恩燈と二体の地蔵菩薩

※Googleストリートビューより引用・加工

これは2013年のGoogleストリートビューですが、「報恩燈」と刻まれた石燈籠があります。

個人的には、これは『谷汲山の栞』にあった写真や境内地図の絵図と同じ燈籠であり、当時と同じ場所にある可能性が高いと考えます。

 

 

華厳寺 杉屋佐助 延命地蔵尊

なお、こちらが現在の様子です。

「報恩燈」常夜燈が躍地蔵尊(坐像)に替わっているので、2013年のGoogleストリートビューの写真をお借りして検証してみます。

 

 

▼報恩燈の比較

報恩燈の比較、谷汲山華厳寺の燈籠

笠が少々異なるように見えますが、全体的なシルエットは似ています。

 

 

 

▼一切経堂の比較

谷汲山華厳寺の建物と「谷汲山の栞」の挿絵

上の屋根の大きさが異なりますが、全体的には似ています。

 

 

 

▼仁王門の比較

谷汲山華厳寺の境内地図と仁王門

こちらも屋根の大きさに若干違いがみられますが、ほぼ忠実に絵図にされていますね!

 

 

総合すると、境内地図の絵図にある建造物は、特徴を捉えた描き方をされているように思えます。

 

そう考えると、三谷地蔵は舟形を付けた方がお地蔵様として認識しやすい描き方(アイコン化)をされていると考えることもできますがいかがでしょう。

 

 

 

【結論】

場所的にも年代的にも写真に写っているのが三谷地蔵...だろうと思うのですが、現時点では確証が持てません。

逆に銅製で舟形の像だったら、めちゃレアな仏像かもびっくり

もう少し調査してみたいと思います照れ

 

 

次の記事では、『谷汲山の栞』の内容を深堀りしていきたいと思います。

②へつづく

 

 

 

今回の杉屋佐助さんは、『尾張名所図会』に載っている長谷院の詩についてですニコニコ

 

尾張名所図会、長谷院と桃林の絵図
---
長谷院の絵図、杉屋佐助の詩
---
桃林の風景、澤田眉山の詩
---
尾張名所図会、中河原桃林の情景
---
長谷院の様子、芝丸の詩
---
澤田眉山、春の朝の農村風景
---
野口道直、春の夕暮れの幻想風景
---
芝丸、仏教的な感謝と感動
---
杉屋佐助、長谷院の詩
---
尾張名所図会、嘉永年間〜明治初期の風景
---
廃刀令以前の刀を差した人々
---
絵師小田切春江の描いた風景
---
長谷院の仏教的な感謝
---
中河原桃林の色彩豊かな風景
---
長谷院の静かな佇まい

※『尾張名所図会』より引用・加工

『尾張名所図会 後編 巻3』の「中河原桃林 長谷院」の絵図です。

絵は小田切春江さんによるもので、景観から恐らく嘉永年間から明治初期あたりの様子でしょうか。

刀を差した人が何人か描かれていますが、明治9年(1876)の廃刀令によって一般の「帯刀」が禁止されたので、嘉永~明治9年の間と思われます。

※本の出版は明治13年(1880)

 

さて、絵図には3つの詩が掲載されていますニコニコ

上の二つ(①と②)は中河原の桃林(絵図の右上部分)について、下(③)は長谷院について詠まれています。

「中河原」という地名は長谷院から南東の新川を越えた場所にあります。

今は住宅地となって面影はありませんが、かつては桃の木がたくさんはえた長閑な風景だったようです。

 

最初に絵図を見てからずっと、このブログでも何回も出てきた絵図ですが、3つの詩の意味をわからずにいたので、AIの力を借りて現代文に訳してもらいました爆  笑

※AIなのであくまで参考程度に!ウインク

 

 

  ①澤田眉山

沢田眉山(さわだ びざん)


江戸後期の儒者。名は師厚、字は天爵、号は三堂、通称は三郎・良蔵。永井星渚に師事する。
また丹羽盤桓子に学び、四天王筆頭として名を馳した。明倫堂教授。嘉永6年(1853)歿、56才。
※weblio『美術人名辞典』より引用

 

澤田眉山 poem, "尾張名所図会" peach forest scenery

麦浪會風緑
桃花羅日紅
鶏声啼人語
摠在彩霞中

  澤田眉山

 

[AI訳]

風にそよぐ麦の波は緑一面に揺れ、
桃の花は日差しを透かして鮮やかに紅く染まり、
鶏の鳴き声や人々の話し声が聞こえてくる。
それらすべてが、美しい朝焼けの彩雲の中に包まれている。

 

細野要斎さんと同じ明倫堂の教授です爆  笑

この詩は、春の朝ののどかな農村の風景を色彩豊かに描いているとの事です。

 

 

  ②野口道直

野口 道直(のぐち みちなお)

尾張国の青物問屋商人。八代目野口市兵衛にあたる。号に梅居・汲古堂・全花楼・継志軒がある。
春日井郡枇杷島にあって枇杷島橋の橋守役を務めていた。
『尾張名所図会』の執筆に岡田啓・小田切春江らとともにかかわり、自費出版をする。
同書の出版に際して、財産の大半を費やしたとされる。
文久3年(1863)、野口姓を名乗る許可を得る。天明5年(1785)~慶応元年(1865)。
※Wikiより引用・加工

 

野口道直の詩「花の夕榮」

色深き 桃の
はやしの
中河原
よそめ奥ある
花の夕榮

  道直

 

[AI訳]

色の濃い桃の林が広がる中河原に、他人には伺い知れない奥深さを秘めた花のような夕暮れの輝きがある。
 

この詩は先ほどの春の朝ではなく、春の夕暮れ時の幻想的な風景を詠んだものだそうです照れ

『尾張名所図会』の作者ですね!

 

 

  ③芝丸

詠み人の芝丸は、杉屋佐助さんです爆  笑

長谷院にある「佐助塚」の裏面には佐助さんの辞世が刻まれており、最後に「芝丸翁」となっています。

 

 

芝丸翁 堀江山花慈悲

慈悲深う
花も見ゆるや
堀江山

  芝丸
 

[AI訳]

観音様の慈悲深いお心によって、お寺に咲く美しい花々もいっそう尊く見える。

 

上の2つは「中河原桃林」の情景を詠んだのに対し、佐助さんは長谷院の様子を詠んでいます照れ

仏教的な感謝と感動を表現しているそうです。

ちなみに長谷院の住所は愛知県清須市桃栄ですニコニコ

 

 

新発見を求めて、佐助さん探しの旅はつづく。

またねー!
 

 

今回の杉屋佐助さんは、杉屋佐助さんを中心とした人物相関図ですニコニコ

 

杉屋佐助さんを追いかけて2月でまる4年!照れ

5年目に突入です!

まだまだヒヨッ子ヒヨコ

でも、杉屋佐助さんを追いかけたおかけで人生が豊かになったのは間違いない花火

ありがとう!佐助さん爆  笑

 

という訳で? 杉屋佐助さんの相関図を作ってみました。

佐助さんと関わった人達はたくさんいますが、濃い繋がりと思われる人を対象としています。

 

杉屋佐助さん人物相関図

 

お馴染みの顔ぶれが並んでいるので説明は必要ないかと思います爆  笑

敢えていうなら、木村周衛門さん、正兵衛さん、甚九郎さんの木村家は杉屋佐助さんと親戚かなと思います。

長谷院にある西国三十三所燈明の十八番は木村正兵衛さんが寄進していますが、そこに「田内氏」と刻まれています。

 

同様に増田庄六(錺屋庄六)さんも親戚の可能性があると思っていますが、これは!という情報はありません。

ただ、佐助塚の前にある花立て(左側)に増田庄六さんの名前がある(右側は木村甚九郎さん)ので、佐助さんと近い人ではあるなぁと。

もともと天保11年に初代佐助さんの顕彰碑として建てられた「佐助塚」を、元治2年に佐助さんが亡くなった時に現在のように整えたのが木村甚九郎さんと増田庄六さんだと思っています照れ

 

 

新発見を求めて、佐助さん探しの旅はつづく。

またねー!
 

 

 

 

明けましておめでとうございます。

年明け最初の記事は前回年末からの続きで、遊郭の番外編ですニコニコ

 

六所神社 鳥居と石灯籠

いつものように「ぶらり散策」で名古屋市西区比良にある六所神社に行った時の事です。

 

石碑に刻まれた早川鎌治郎の名

これまたいつものように、鳥居の寄進者を調べていると....

 

大正四年十一月
献主 名古屋市中區常盤町
両川楼 早川鎌次郎

 

「両川楼」と刻まれている事に気づき、住所を読むと「中区常磐(トキワ)町」とあります。

もしかして?びっくり

と名古屋で明治から大正にかけて賑わった遊郭「旭廊(あさひくるわ)」の地図をみると...

 

ありました!爆  笑

 

 

 

しかも第二まである爆  笑

こんなところで楼主に出会うとは!!照れ

 

両川楼 早川鎌治郎 旭廊

※『大阪を中心とせる近県電話帳 大正12年用』国立国会図書館デジタルコレクションより引用・加工

例によって電話帳を調べると、大正12年(1923)の電話帳に載っていました。

「両川楼」に「早川鎌治郎」、そして「中区常盤」。

おおぉ間違いない照れ

 

別の電話帳『名古屋・愛知県・岐阜県・三重県職業別電話名簿 大正12年版』をみると、中村遊郭の賑町にも移転しているようです。

しかし『歓楽の名古屋』の地図には載っていませんでしたあせる

昭和12年までにお店を辞めちゃったのか、名前を変えたのか・・・分かりません。

 

まぁとりあえず、鳥居が楼主の寄進物である事がわかって

めでたしめでたし!爆  笑

 

....とはなりませんでしたあせる

次に着目したのが寄進者の苗字が「早川」ということです。

 

 

六所神社の住所は「名古屋市西区比良(ひら)」です。

ここ(比良)には、戦国武将の佐々成政(さっさ なりまさ)の父成宗(なりむね)が築城した「比良城」がありました。
 

 

比良城・佐々成政と「早川」の繋がりとは?

 

六所神社 本殿と黄色い葉の木

その碑が光通寺にあります。

 

比良城跡の解説板

お寺の入口に解説板があります。

比良城跡

比良城は、天文年間(一五三二~一五五五)に佐々成政の父成宗が築いたもので、東西六十八メートル、南北七十二メートル、二重堀が周りを囲んでいたといわれる。
南は庄内川を臨み、清須城を守る重要な城であったが、天正三年(一五七五)廃城となった。
成政は織田信長の家臣で、朝倉攻め、長篠の戦などの功により、越前(福井県)小丸の城主となり、その後、越中(富山県)に移った。
天正一五年(一五八七)肥後(熊本県)の領主となった。

名古屋市教育委員会

 

 

佐々成政城址の石碑と木々

佐々成政城址 愛知懸 大正4年建立

この碑は偶然なのか先ほどの鳥居と同じ大正4年に建立されています。

 

佐々成政はこの地で生まれ育ち、やがて織田信長に仕えて25歳で家督を継いで比良城主となりました。

その後、越中や肥後に赴任するのですが、側室(早川主水の娘)との間で三男(雄助)が生まれていました。

その三男は成政と共に北陸に行くこと無く、母方の姓(早川)を名乗りながら何故かこの地にとどまったという。

その後も子孫は比良に住み続け、「早川」姓を名乗る人は皆成政の末裔との事です。

そしてその早川家は土地改良や治水など、この地に尽力されてきたのも見逃せません。

 

以上の話から、もしかすると鳥居を寄進した「早川鎌治郎」さんは、その早川家一族、つまり佐々成政の子孫の可能性が高いのではないか!?びっくりと思ったのです。

しかし今のところ早川鎌治郎さんが比良出身かどうかの裏取りはできていませんあせる

ただ、六所神社に鳥居を寄進したのは、「早川」の氏神様だからじゃないかな~と思っています。

いや~まさか戦国武将につながるって、なんかワクワクしますねー!爆  笑

 

※「早川」姓については「成政ファン」というブログの内容を参考にしました。

 

佐々成政城址の碑と庭園

光通寺の墓地には確かに「早川」姓のお墓が多かったのですが、もっと興味深いものが「佐々成政城址」の碑の横にありました花火

 

佐々系統早川氏の石燈籠

一見すると自然石でできた石燈籠のような気がしますが、よくみると...

 

石灯籠に刻まれた梵字と早川姓

何か梵字のようなものが刻まれています。

更に横を見てみると...

 

佐々系統 早川源六 碑文

※暗くなってきたのでライトを照らしています。

の文字が刻まれていますびっくり

つまり、「佐々氏」って事でしょうか??

そして数名の名前が刻まれています。

 

 

可能な限り読み取った内容を記します。

 

[正面]
梵字?早川?

[右面]
佐々系統

早川源六
早川銀蔵
早川太蔵

早川音三郎
柴田直七
早川金五郎


[裏面]
早川新次郎
早川亀之丞

早川友七
早川喜重
早川時次
早川鍬吉

水野治良兵エ
早川
三郎
早川平八
早川

早川昌重
早川治助
早川勝次


[左面]
石工 早川新次郎
 

 

碑の横にひっそりと建つ石燈籠。

そこには「佐々系統」と共に「早川」の名前がビッシリと刻まれていました。

建立理由はわかりませんが、いろいろな訳あっての事と察します。

 

残念ながら年号は刻まれておらず、いつ造られたのかわかりません。

『山田村誌』と照らし合わせると何人か名前が載っているので大正から昭和初期あたりでしょうかキョロキョロ

もしかするとこの石灯篭も大正4年の建立かもしれません。

 

欲を言えば、ここに「早川鎌治郎」さんの名前が刻まれていれば、もっとスッキリワクワクできたのですけどね~笑い泣き

まぁ、多少もやもや感が残った方がアレコレ想像できて面白いという話もあるし爆  笑

とりあえず良しとしておきましょう照れ

 

またねー!

 

今回は林政治郎さんのまとめですニコニコ

 

林政治郎 寄進の石柱

林政治郎さんは、およそ明治後期から昭和の初期まで名古屋旭廊、そして移転先の中村遊郭で妓楼を2店舗(中嶋楼、政中嶋)経営していました。

 

 

林政治郎寄進の石碑と仏像
そんな中、堀江山 長谷院に「西国三十三所巡道標柱(大正5年)」や「西国三十三観音 第3番(大正3年)」を寄進しました。

 

林政治郎 寄進 手水鉢

そして長谷院境内にある西堀江神明社には「手水鉢(明治45年)」を寄進しています。

 

以前の記事でも触れましたが、林政治郎さんと長谷院と何か関係あるのでしょうか?

確証が無いので大きな声では言えませんが、ひょっとしたら関係あるのではないか、それも杉屋佐助さんと関係しているのでは!?と。びっくり

ただ、あまりにも確度が低いと思うので先日の記事には書きませんでしたが、あくまで一つの可能性としてウインク

 

「堀江山 長谷院」墓地の田内家分家領域(杉屋佐助塚)に、田内源太郎さんという方が昭和2年に建立されたお墓があります。

そこには大正13年に亡くなられた「 林次郎」さんという名前が刻まれているのです。

ということは、田内家(一族)の中に「林」姓の人がいるということになります。

ただそこに林政治郎さんの名前は無いので、政治郎さんと田内家を結びつける証拠はありません。

 

・長谷院境内に寄進物が多い

・田内家区画の墓石に「林」姓あり

この2つの事実から、林政治郎さんは杉屋佐助さんと繋がりのある人物か??と考えました。

しかしまぁ、世の中に「林」姓は多いですからなんとも言えません...あせる

 

 

花火花火花火花火花火

 

さて、林政治郎さんの寄進物は長谷院だけでなく、先人達によって他所でいくつか発見されています照れ

 

林政治郎の寄進物、甚目寺、中之坊寺

私は長谷院の他には愛知県あま市の「甚目寺」と愛知県常滑市の「中之坊寺」で林政治郎さんの寄進物をみましたが、どちらも大正6年(1917)5月に寄進されていました。

 

甚目寺の四国八十八カ所札所巡道内の寄進物も確認してみました。

第5番の寄進は中嶋楼の林政治郎さん。

 

第11番の寄進には政中嶋とありますが、林政治郎さんの寄進ではないようでした(「林」姓は同じですが、下の名前は判読できません)。

 

 

「林政治郎」さんをネット検索すると神社よりもお寺がメインで名古屋市内や知多半島などでも発見されているようです!

※神社は西堀江神明社の手水鉢のみ?

※もしかすると林政治郎さんは知多に別荘を持っていたかもしれない。

 

 

林政治郎さんは、このように篤い信仰心をお持ちの方で、中でも巡礼(西国三十三、四国八十八、阿弥陀如来四十八願所など)に重点をおかれているように思えます。

 

寄進有名人を年代別にみると、杉屋佐助さんが江戸末期、柴山藤蔵さんが江戸末期から明治時代、林政治郎さんが明治から大正時代、伊藤萬蔵さんが明治から昭和。

煌めく偉人達のおかけで江戸末期から昭和まで万遍なく、楽しく勉強させてもらってます照れ

 

今回は林政治郎さんのおかけで、名古屋の遊郭について勉強させてもらいました爆  笑楽しいな!

 

花火花火花火花火花火

 

という訳で、林政治郎さんという人は、

 

・明治後期から昭和初期まで旭廊と中村遊郭で2つの妓楼(中嶋楼、政中嶋)を経営していた。

・遊郭には同姓(「林」)の楼主が何人かいるが関連は不明。

・長谷院、甚目寺をはじめ、知多四国巡礼などに石造物を寄進している篤志家でもある。

・寄進は明治後期から大正時代。

・長谷院の三十三観音の発起は林政治郎さんかもしれない。

です。

結局、新事実はほぼないです笑い泣き

昭和(中村遊郭に移ってから)の寄進物はあるのでしょうかね~??

 

それにしても林政治郎さんの寄進物一覧をまとめている方がいないのが残念です。

どれぐらいの寄進物があるのでしょうね爆  笑

 

 

花火花火花火花火花火

 

ところで平成寄進王っているのでしょうか?キョロキョロ

 

それがいるそうなんです!びっくりマジで!?

 

それは堀健一さん(通称:ホリケン)だそうです。

中之坊寺に訪れた時、たまたま出会った大先達さんから教えて頂きました照れ

ありがとうございますお願い

こういう出会いもまた楽しいものですね。

 

林政治郎 寄進の仏像と灯籠

※Googleストリービューより引用・加工

これは名古屋市昭和区八事にある興正寺の入り口にある大きな石造物で、堀健一さんが平成24年に寄進されています。

 

寺社巡りをするうちにウォッチする人物がどんどん増えていき困っている今日この頃あせる

 

またねー!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今回は中村遊郭跡を散策しますニコニコ

 

中村遊郭跡のマンホール蓋、大門

大正12年(1923)に移転した中村遊郭は戦争を挟んで形態を変化しながら続けていましたが、昭和33年(1958)4月に売春防止法(罰則規定含む)が施行される事となり、「中村遊郭(名楽園)」の閉園となりました。

その際、中村遊郭は全国に先駆けて昭和32年12月末に一斉に転廃業へと踏み切ったそうです。

 

それから約70年近くになりますが、数年前までは遺構が結構残っていたようですびっくりオドロキ

今行っても、ほとんど取り壊されて見どころはあまりないかと思いますが、探してみましょう照れ

 

ちなみに「中村遊郭」でネット検索するとたくさん記事や動画が出てきますあせるので、"なるべく"被らないような内容としました。

 

 

やはり最初に訪れるのは林政治郎さんのお店、「中嶋楼」と「政中嶋」ですね!爆  笑

 

中村遊郭の地図と史跡

 

 

 中 嶋 楼 

中村遊郭跡の建物と看板

中村遊郭跡 地図「中嶋楼」

羽衣町の「中嶋楼」跡。

今はマンション(黒色)と駐車場とシャッター付きの建物、そして二階建ての建物があります。

一応、中嶋楼だったと思われる敷地の一部に二階建てのそれらしい建物が残っていますが...どうなんでしょうか。

 

 

 政 中 嶋 

ネパール料理屋「ネパールキッチン」の外観

中村遊郭地図 政中島と撮影方向

賑町の「政中嶋」跡。

今はネパール料理屋と旅館になっています...。

 

 

次はピアゴ中村店の南側に少し遺構が残っていたので見てみましょうニコニコ

 

中村遊郭跡の地図


① 牛 若 楼 

中村遊郭跡:旧中嶋楼や庭園

牛若楼」は、今は「伊とう」という蕎麦屋さんになっています。

リノベーションされていますが、面影は残ってるいると思います照れ

遊郭の中で唯一、家の中を見る事ができる建物となってしまいましたあせる

 

 

② 森 田 楼 

中村遊郭跡:福岡楼の看板

「牛若楼」の右隣に建っています。

モダンなタイルの壁と和の丸い窓が特徴的です照れ

屋根の瓦に「森田」と、かつて森田楼であった名残を見る事ができます。

 

 

③ 福 岡 

中村遊郭跡「福岡」

「牛若楼」の左隣に建っている「福岡」です。

売春防止法で転業して現在まで続いている数少ないお店といえるでしょう。

建物(の表面)は現代風な造りに変わっていますが、中村遊郭の初期から営業しているという証拠(?)がありました。

 

「SINCE 1923」の文字。

1923年は大正12年で、旭廊の各お店が中村遊郭へぞろぞろと移転した年です照れ

名古屋旭廊では若松町に「福岡楼」として存在していますので、あくまでも中村遊郭に移転してからの1923ですね。

それとも旭廊の「福岡楼」とは別なのでしょうか。

突撃して話を聞いてみたいところですが...入りづらいあせる笑い泣き

 

 

 

中村遊郭跡地の地図

※GoogleMapより引用・加工

中村遊郭の北東の端に「素盞男(スサノオ)神社」があります。

祭神は素盞男尊、安永3年(1774)現在の千種区に創建され、昭和8年(1933)にこの地に遷座されたそうです。

遊郭が繁盛している時にできた神社ですウインク

ただ、鳥居は何故か大正13年(1924)と遷座前の年号が刻まれています。

元の場所から移設でしょうか。


中村遊郭跡 素盞男神社 鳥居と社標

ここは中村遊郭の楼主(オーナー)からの信仰が厚く、多くの寄進物があります照れ

遊郭の守り神ですね!

 

中村遊郭地図

 

先に神社に寄進した楼主の位置関係を示します。

 

 

①社標(大萬・金水楼)

素盞男神社 昭和十二年三月建之

素盞男神社
昭和十二年三月建之
金水 近藤重太郎
大萬 横山かぎ

※「大萬」と「金水楼」は同じ賑町。

 


②玉垣(和合楼)

中村遊郭跡の碑と植栽

奉納主 和合楼 松本清二
※「和合楼」は大門町筋にあり、別館が大門町の西角にあります。
 

 

③常夜燈(第二自由亭楼)

第二自由亭楼の常夜燈 奉納

廊内安全
奉納 第二自由亭楼 山田英夫

※「第二自由亭楼」は寿町筋の角にあり、自由亭は賑町、別館は寿町筋にあります。
 

 

④手水舎(本家長寿楼)

素盞男神社 手水舎と鳥居

昭和十二年七月建之
奉納 本家長寿楼

※「本家長寿楼」は日吉町に4軒分の広さを持ち、中村遊郭最大級。
 

 

⑤燈籠1(稲本別館)

稲本別館の石碑と緑葉

献燈 稲本別館 仲居中

※「稲本別館」は正式には「稲本楼別館」。日吉町の長寿楼の前にあります。
※「仲居中」と女性従業員?による寄進は珍しいのかもしれない。
 

 

⑥燈籠2(中村楼)

中村遊郭跡の石柱と常夜燈

昭和十四年七月
献燈 中村楼 林 久五郎

※「中村楼」は羽衣町にあります。
※同じ姓の林政治郎さんの「中島楼」も羽衣町にありますが関連は不明。
 

 

⑦狛犬(新福楼)

中村遊郭跡の素盞男神社狛犬

昭和十二年三月建之
賑町 鈴木佐治平

※調べると「新福楼」の楼主でした。

 

 

とりあえずザッと調べただけなので、境内にまだあると思います照れ

訪問時は真夏で、長時間の調査は無理でしたあせる

 

昭和12年(1937)の寄進が多いのは、中村遊郭の最盛期で花魁道中も行われたからでしょうか。

個人的には素盞男神社に林政治郎さんの寄進物が見つからなかったのが残念でしたね~えーん

 

中村遊郭跡の古い建物と街並み

以上で中村遊郭は終わりです照れ

 

次回は林政治郎さんについてのまとめです。

 

またねー!