前回の記事からのつづきです
フォロワーさんから教えていただいた『谷汲山の栞』という岐阜県揖斐郡揖斐川町(いびぐん いびがわちょう)にあるお寺「谷汲山 華厳寺(たにぐみさん けごんじ)」について書かれた本。
この本に杉屋佐助さんが寄進された「三谷地蔵」が華厳寺に建立されているとあります。
残念ながら現在の華厳寺において三谷地蔵のお姿は確認できませんでしたが、今回は『谷汲山の栞』にある三谷地蔵の記述を深堀りしていきたいと思います。
注)素人の考察を含みます
『谷汲山の栞』とは
・谷汲山華厳寺のガイドブックのようなもの
・岐阜県図書館では3つの版を所蔵

- 明治発行版と大正発行版は同じ内容
- 発行年不明版はガイド対象を絞って記されている
・杉屋佐助さんが寄進された「三谷地蔵」について記されている(明治・大正発行版)
・「三谷地蔵」とも思える写真が掲載されている(明治・大正発行版)

※『谷汲山の栞』明治40年版より引用・加工
・境内地図も掲載されており「三谷地蔵」が描かれている

※『谷汲山の栞』明治40年版より引用・加工

※『谷汲山の栞』発行年不明版より引用・加工
「三谷地蔵」の記述
杉屋佐助さんが寄進された「三谷地蔵」について記された部分を以下に引用します。
又大玄関の奇松を一瞥して振返し、更に東に向ひて本門を出づれば、右手に銅像の、延命地蔵尊(一名三谷地蔵)立たせ給ふ。
嘉永二酉年の鋳造にして、願主発起人名古屋市杉屋佐助外数名が、三界萬霊及祖先供養の為めに、長谷(大和)、黒谷(山城)、谷汲(美濃)の三ヶ所へ奉納せるを以て、三谷地蔵とも云ふ。
例年八月廿四日、追善供養を営む。
次に本堂の正面なる敷石を横切りて、東に向へば
三十三所観音堂
あり。
※『谷汲山の栞』明治40年版p.20より引用
<訳>
大玄関の変わった松をちらっと見て振り返り、東に向いて本門を出たら、右側に銅像の延命地蔵尊(別名を三谷地蔵)が立っている。
嘉永二年の酉年に金属を型に流して固める方法で造られ、願主・発起人に名古屋市の杉屋佐助とその他数名が、三界萬霊と祖先供養の為に、長谷(大和)、黒谷(山城)、谷汲(美濃)の三ヶ所へ奉納した。
こういうわけで、三谷地蔵ともいう。
次に本堂の正面の参道敷石を横切って、東に向かうと三十三所観音堂がある。
三谷地蔵という名や、三ヶ所への奉納など、これらの情報は地蔵尊や台座に刻まれていたのか、記録帳に記されているのか知りたいところです。
整理すると以下4つの情報が記されています。
①嘉永2年に造られた銅製の延命地蔵尊
②長谷(大和)、黒谷(山城)、谷汲(美濃)の三ヶ所へ奉納
③寄進者は杉屋佐助さん他数名
④8月24日に追善供養
ひとつずつ考察してみます。
考察①「嘉永2年の銅製の延命地蔵尊」
銅製の地蔵尊といえば、華厳寺と同じ揖斐川町にある松林寺の「延命地蔵尊」を思い出します。

↑こちらがその松林寺の延命地蔵尊の写真です。
台座に嘉永5年と寄進者の佐助さん・錺屋庄六(増田庄六)さんの名前が彫られています。
じっくり観察してみると、『谷汲山の栞』にあった写真のお地蔵様と似た特徴があるような?
まさか華厳寺から松林寺へ移された!?
白黒写真に合わせ、並べて比較してみます。

お姿は同じような特徴があります。
しかし、台座が異なるので華厳寺から松林寺へ移されたということは無さそうですね
それでもお姿は似ているので特徴を見ていきます。

お地蔵様の右腕は、長さといい曲げ方といいとてもよく似ているように思います。

左手に持たれている宝珠。
華厳寺の写真は見づらいですが、黄丸で示した部分に、日が反射しててっぺんが白っぽくなった宝珠が写っているように見えます。
松林寺のお地蔵様がお持ちになっている宝珠と形が似ています。
ほかのお地蔵様も同じ特徴なのか?
大正時代に建立された華厳寺の延命地蔵尊と比較してみます。

右腕の長さは違ってみえます。
こうして比較してみると、前回の記事で「舟形・丸彫り問題」を取り上げましたが、やはり丸彫りが正解かもと思えてきました
三谷地蔵と松林寺のお地蔵様は、同じお姿だったかもしれませんね!
考察②「寄進した場所3ヶ所」
『谷汲山の栞』にはこうあります。
三界萬霊及祖先供養の為に、長谷(大和)、黒谷(山城)、谷汲(美濃)の三ヶ所へ奉納せる
カッコ内は旧国名ですが、長谷は寺名、黒谷は地域名、谷汲は地域名または山号なので、お寺ごとの愛称から付けた「谷」でしょうか。
佐助さんがこの三ヶ所へ延命地蔵尊を奉納したとあります。
その三ヶ所とは、
- 長谷(大和) → 奈良の「豊山 長谷寺」
- 谷汲(美濃) → 岐阜の「谷汲山 華厳寺」
- 黒谷(山城) → 私が知る限りでは京都の黒谷町で佐助さんの寄進物は未確認です。おそらく「くろ谷さん」で親しまれる京都の金戒光明寺ではないかと思います。

それにしても、全てに「谷」が入って「三谷」
そこへ寄進したお地蔵様だから「三谷地蔵」
さすが佐助さん、おしゃれ
ちなみに「三谷地蔵」のように「三●●」というのは江戸時代、庶民の間で「社寺参拝」が爆発的に流行し、それに伴って「日本三景」や「日本三名園」のように、有名なものを3つ括りで呼ぶ習慣が一般化したそうです。
仏教的には日本三如来、日本三観音、日本三文殊などがありますね!
考察③「寄進者」
『谷汲山の栞』には
とあります。
一つ目の谷「長谷寺」では、以下5名の寄進者名が刻まれていました。
杉屋佐助
銭屋長右エ門
大野屋善七
錺屋庄六
柴山屋藤蔵
果たして長谷・黒谷・谷汲に建立された三体は同じ施主なのでしょうか?
『谷汲山の栞』の写真をみると、台座に縦書きで数行で何か刻まれているようにも見えますが...分かりません
考察④「8月24日」
最後に
とあります。
追善供養(ついぜんくよう)を検索すると、残された家族や親族が故人の冥福を祈り、代わりに善行(法要やお参り)を積む仏教の行事だそうです。
なぜ8月24日なのか?
少なくとも佐助さんの寄進物で私が把握している限りでは8月と特定できる寄進物はありません。
ネット検索すると「地蔵盆」がヒットしました。
Wikipediaには、
地蔵盆(じぞうぼん)は、地蔵菩薩の縁日(旧暦7月24日もしくは新暦8月24日)にかけて地蔵尊を祀る行事。
「地蔵会(じぞうえ)」や「地蔵まつり」と称されることもある。
特に近畿地方などを中心に盛んな行事である。道祖神信仰との結びつきも指摘されており、「路傍や街角のお地蔵さん」である「辻地蔵」を対象とする民間信仰ともいわれる
とあります。
この本が発行された明治40年は新暦なので8月24日ですね。
明治40年当時、華厳寺では地蔵盆の行事を例年やってみえたのでしょうか。
佐助さんが寄進された地蔵尊を前に、大勢の人たちが手を合わせていらしたかもしれない光景を想像するとなんともありがたい気持ちになります
令和の今もやっているのかも!?
境内地図
『谷汲山の栞』には境内地図も載っていました。

※『谷汲山の栞』明治40年版より引用・加工
燈籠などが複数描かれていますが、本堂などの建造物を除いて明確に名称が記されている寄進物は「三谷地蔵」のみです。
本の発行人が華厳寺であることからも、華厳寺にとって「三谷地蔵」は大切な寄進物と考えられていたのでしょうか。

※『谷汲山の栞』発行年不明版より引用・加工
こちらの発行年不明版の境内地図にも「三谷地蔵」が記されています。
「報恩燈」の名称も記されているので同じように大切にされている寄進物だったのかもしれません。
そしてこの地図、よくみると鉄道が描かれていました
谷汲駅まで鉄道が通ったのが大正15年らしいので、この本の発行はそれ以降と考えられます。
さらに描かれた鉄道の上方には “谷汲山境内案内図” とありますが、文字は昔の書き方で右から左へ向けて記してあるので戦前の可能性が高い。
つまりこの発行年不明版の発行年は
大正15年/昭和元年~昭和20年頃
と考えられますね。
その頃まで佐助さんの寄進物はそこにあったのに、100年経ったいまは見当たらないのが残念です
一つ目の谷「長谷寺」の地蔵尊
一つ目の奈良の長谷寺は以前参詣したことがあります。
その時たしかに佐助さんの寄進物を確認しました。
ですが当時は、「三谷地蔵」という三体のうちの一つのお地蔵様だとはまったくもって想像もしませんでした

↑こちらがその時の写真ですが、お地蔵様は銅造ではなく石造です。
平成20年に有志の方によって石像の地蔵尊が再建されていたのです。
ただし、佐助さんらの刻字がある台座は建立された当時のものと思われます。
地蔵尊は元々は銅製だったのでしょうか!?
しかし『谷汲山の栞』の情報では華厳寺は銅製ですが、3ヶ所全てが銅製かどうかまではわかりません。
長谷寺の寄進物といえば、以前フォロワーさんから教えて頂いた本『豊山長谷寺拾遺』があったことを思い出しました。
なにか情報が記してあるかも
そこで図書館で検索すると「第三輯 彫刻」と「第五輯之一 石造品」がヒット。
該当すると思い、目を通してみると...
ありました!!
『第五輯之一石造品』に、長谷寺に寄進された佐助さん達の延命地蔵尊について、刻字の情報がありました
やったね!
(心の声)現地で一生懸命判読した刻字に間違いはなかった~
116 地蔵菩薩像
[基礎正面]
「施主」
[台石正面]
尾州名古屋/御園町三丁目/杉屋佐助/
広井/銭屋長右エ門/
呉服町二丁目/大野屋善七/
冨田町/錺屋庄六/
清須本町/柴山屋藤蔵
[台石左側面・石板嵌入]
先人の志を尊び/東高野山長命寺/
檀信徒と共に/この尊像を再建す/
平成二十年六月二十四日/妙楽院亮弘/
総代増島一平/増島一男/宇多川辰男/
増島清/田中正治
[台石背面]
嘉永元年/戊申参吉日/発起/杉屋佐助
[附前垣正面]
「三谷」地蔵尊
※『第五輯之一石造品』#116より引用
最後に「三谷」地蔵尊と記されているではあませんか!!
つまり、長谷寺にある佐助さん達が寄進した地蔵尊は「三谷地蔵」の一体に間違いなし!
長谷寺で撮った写真をよくよく見なおしてみると、確かに花立っぽい石造物に何か刻まれています。


なんとか「三谷」と「地」までは読めましたが他は厳しい
当時はまさか地蔵尊のセット品とは思わず、ほとんど撮影しなかったのが悔やまれる

遠景の1枚を部分拡大と明るさ調整。しかもブレてる
「三谷」は確実
GoogleMapの写真やストリートビューも見てみましたが良い画像は見つかりませんでした
建立された順番
ところで3つの延命地蔵尊の建立年でみると、華厳寺は嘉永2年、長谷寺は嘉永元年、光明寺は...?
少なくとも1体目の嘉永元年に長谷寺に寄進する時点で「三谷地蔵」プロジェクトが計画されていたことが判明しました。
とするならば、三体の施主は同じ可能性が高い!?
そして光明寺の建立は弘化4年か嘉永3年と推測できそうです。
しかし『谷汲山の栞』には「長谷(大和)、黒谷(山城)、谷汲(美濃)」の順で記されているので、この順番での建立となると嘉永元年と嘉永2年の可能性もあり得るか?
------- 年表 -------
弘化3年(1846) 丙午
弘化4年(1847) 丁未
弘化5年/嘉永元年(1848) 戊申 → 長谷
嘉永2年(1849) 己酉 → 谷汲
嘉永3年(1850) 庚戌
嘉永4年(1851) 辛亥
嘉永5年(1852) 壬子
果たして...?
とりあえず今回わかった事
①かつて華厳寺の中門前に佐助さん達が寄進した銅製の延命地蔵尊があった。
②それは三谷地蔵と呼ばれていた。
③三谷地蔵の3ヶ所のうち、奈良の長谷寺、谷汲の華厳寺の2ヶ所に存在していたことを確認できた。
引き続き調査し、新たな情報が得られれば記事にしていきたいと思います。






佐助さん探しをするようになってから、お寺や道端でお地蔵さんや馬頭観音に出会うと「道中安全」をお祈りするようになりました
それまでは素通りでしたが...
しかし、こうやってお参りする事で、より安全運転の意識付けができるようになったと感じています。
ありがたいことです。
新発見を求めて、佐助さん探しの旅はつづく。
またねー!