今回の杉屋佐助さんは、三重県津市の下弁財町津興(しもべざいまちつおき)にある阿漕山 眞教寺(あこぎさん しんきょうじ) 地蔵堂の手水鉢です![]()
こちらの寄進物は私の佐助さん寄進物リストには無かったもので、文献から探り出した新情報なのです!![]()
佐助さんの新情報は主にフォロワーさんからいただいてばかりでしたので、やっとこさ自力で探せた文献からの発見です![]()
▼参考にした文献
『伊勢街道:朝熊岳道・二見道・磯部道・青峰道・鳥羽道 2版』
・昭和62年(1987)
・三重県教育委員会 発行
・p.47に下記の記載がありました。
津片浜町中嶌屋三四郎・清五郎を世話人とし、尾州名古屋米穀問屋杉屋佐助・与吉の寄進によるエンマ堂前の手洗鉢には、天保三年壬辰(一八三二)初夏の年紀がある。
エンマ堂の左手には、地蔵三体をまつる小さな祠がある。
延命子安地蔵尊と呼ばれている。
本の発行は今から約40年前。
今は無くなってるかも!?
早速Googleマップで確認してみました。
すると....今年撮影されたストリートビューにちゃんとありましたよ!![]()
いや~便利な世の中ですね![]()
という訳で、早速現地へGO!!![]()
三重県津市の阿漕山真教寺
真教寺に到着しました![]()
伊勢街道沿いにあるお寺さんです。
「東海近畿地蔵霊場」という巡礼もあるんですね。
ここ真教寺は「第十三番札所」のようです。
まずは真教寺に参拝![]()
ご本尊は閻魔大王様とのことで、個人的にはあまり参拝経験のないご本尊です。
真教寺は比叡山延暦寺の直轄地で、慶長19年(1614)に津藩主の藤堂高次が寄進したお寺だそうです。
エンマ堂の愛称で親しまれ、お堂の真ん中にドン!と高さ197cmの閻魔大王様がお座りになってこちらを睨んで
います。
さすがの番人!なかなかの迫力です!![]()
左の十一面観音立像は円空さん初期の作品との事で、円空さんの作品としてはかなり大きいそうです。(235cm)
そしてエンマ堂の隣にあるのが地蔵堂です。
地蔵堂の奥には、20センチくらいの小さなお地蔵さんが10体ほどいらっしゃいました。
道中安全をお祈りしました![]()
ここ真教寺の山号は
「阿漕山」
または
「阿古木山」
どちらも「あこぎさん」と読みます。
文献によって異なる漢字が使われていました。
現地では上の写真のとおり「阿漕山」が使われていますね。
佐助さんの手水鉢
さぁそしていよいよ、杉屋佐助さんが寄進された手水鉢(ちょうずばち)とのご対面です![]()
地蔵堂の横にひっそりと。
佐助さんの手水鉢が現存しているのを見て安堵![]()
そして佐助さんの刻字を確認![]()
深く、太く、力強さを感じる美しい刻字です![]()
岐阜大仏にある佐助さんの寄進物と似ているので、別の記事で比較してみます。
上からみると削れた痕がありました。
柄杓を置いていた跡かな? そうだとすると、かなりの人が使ったのでしょうね![]()
それでは、いつもの四面画像です![]()
[正面]
(梵字)カ
※「カ」は地蔵菩薩を意味する
[右面]
世話人
津片濱町
中嶌屋三四郎
同 清五郎
※「嶌」は「島」の異体字なので「中島屋」または「中嶋屋」ですね
[裏面]
天保三年 壬辰 初夏
[左面]
尾州名古屋
米穀問屋
杦屋佐助
同 與吉
※「杦」は「杉」の異体字
※「與」は「与」 の異体字
佐助さんの天保3年(1832)の寄進物は全て番頭の与吉さんとの共同寄進となっています。
杉屋家にとって何か大きな動きがあったのかもしれません![]()
世話人の中嶌屋さん
世話人の中嶌屋三四郎さんは、佐助さんが再建に関わった愛知県のお寺「堀江山 長谷院」へ、寄進者として石造物を建立されています。
その寄進物とは西国三十三所燈明で、中嶌屋三四郎さんは「第6番 壺阪寺」の燈明を寄進されていました。
寄進者名の面↓
当初は見づらくて解読できませんでしたが、
あら不思議!今見ると読めるではないですか!
「津 中嶋屋三四(以下埋没)」
やったね![]()
燈明が寄進されたのは嘉永7年(1854)
真教寺地蔵堂の手水鉢は天保3年(1832)
少なくとも、佐助さんと22年のお付き合いがあった中嶌屋さん![]()
何屋さんでしょうかね~。
中嶌屋さんの住所「片濱町」は城下町で、手水鉢のある真教寺の地蔵堂から北へ1.5Kmほど行った所です。
今は使われていない町名ですが、かつての片浜町の一角(津市東丸之内30番地)へ「旧町名碑」があり、下記のように記されているそうです。
旧町名 片浜町
由来 津城下では、漁師や水夫などが住む町を「浜町」と総称した。
「片浜」と呼ばれた由来は明らかではないが、町が堀川に面していて、 はじめは片側だけの町であったからだと思われる。
片浜町沿いには堀川が開削されていたようなので、中嶌屋さんは舟を使った家業を営んでいた方かもしれませんね![]()
現在、堀川は埋め立てられ、岩田川の合流付近にわずかに名残りが見られました。
移動された手水鉢
※『円空巡礼 近江路 伊勢路 大和』より引用・加工
これは昭和54年発行本の真教寺の写真ですが、佐助さんの手水鉢がエンマ堂前に置かれています。
この時は手水鉢じゃなくて香台として使用されていたのかな![]()
こちらが現在(2026年)の真教寺。
手水鉢は地蔵堂のすぐ横に移動しています。
佐助さんの手水鉢の正面には「地蔵菩薩」を表す梵字が刻まれているので、地蔵堂のすぐ横は適した場所ですね![]()
閻魔堂は慶長19年(1614)に建立されたようですが、地蔵堂の建立時期が分かりません![]()
どの文献からもその記載を見つけることができませんでした。
※『伊勢路見取絵図 第一巻』より引用・加工
ただ、文化3年(1806)に完成した『五海道其外分間延絵図並見取絵図』のうち『伊勢路見取絵図』にある真教寺をみると、既に地蔵堂が描かれています。
少なくとも佐助さんが手水鉢を寄進される26年前には存在していたようです。
佐助さんの寄進でないもうひとつの手水鉢
さて、手水鉢ですが閻魔堂の方にもありますので、見てみましょう![]()
こちらは水が使えそうですね!![]()
[正面]
清水
[右面]
安政五午年
[裏面]
三州岡崎
炭屋松□
重尾屋□□
笹屋忠兵衛
三州吉良一色浦
信濃屋傳兵衛
尾州知多郡樽水
紺屋助右エ門
同□□村
□屋良右エ門
佐屋
岩間代助
津嶋
大野屋市良兵エ
八百屋金兵衛
河内屋宗兵衛
吉文字屋与七
世話人
大坂屋元七
[左面]
(無し)
裏面の名前は彫が浅いですができるだけ読んでみました![]()
安政5年(1858)の手水鉢で、佐助さんの手水鉢から26年後の寄進のようです。
※Googleマップから引用・加工
三河:岡崎(岡崎市)・吉良一色(西尾市)
尾張:知多半島の樽水(常滑市)・佐屋(愛西市)・津嶋(津島市)
各地から総勢11名での寄進です。
みなさん、どんな関係なのでしょうか![]()
佐助さんの寄進ではありませんが気になります。
ざっと調べたところ、とりあえず佐屋の岩間代助さんについては情報がみつかりました!
佐屋街道の佐屋宿(佐屋代官所)で船年寄をされている船庄屋でした。
岩間家(岩間権右衛門)は佐屋宿の本陣を務めていたそうです!
大物が出てきましたよ!
※参照『佐屋町史 史料編 1』p.176,368、『角川日本姓氏歴史人物大辞典 23』p.635
新発見を求めて、佐助さん探しの旅はつづく。
またねー!
































































































































