今回の杉屋佐助さんは、愛知県名古屋市南区にある笠覆寺(りゅうふくじ・笠寺観音)の供養碑です
訪れた時は丁度改修中でしたが、なんとか見る事ができました
この寺標をみると、「尾張四観音之一」と銘打っています。
以前の記事で一の宮、二の宮、三の宮がでてきましたが、今回は尾張四観音(おわりしかんのん)です。
さて、その四つの観音様は、
・荒子観音(名古屋市中川区)
・甚目寺観音(あま市甚目寺)
・龍泉寺観音(名古屋市守山区)
・笠寺観音(名古屋市南区)
となり、いずれも千年以上の歴史を持ち、古くより信仰を集めてきたお寺とされています。
wikiには、名古屋城築城の際、城から見て鬼門の方角にある上記4寺を鎮護として定めたとあります。
それでは佐助さんを探しに行きましょう!
伊藤萬蔵さんの花壺、柴山藤蔵さんの石灯籠はすぐみつかりましたが、佐助さんのはなかなか見つかりません
かなりうろうろして、多宝塔裏で見つけましたよ!
この供養碑を見たかった~!
その理由は後程
では四面を見て行きましょう
[東面]
為 釈了義菩提 建之
「釈了義」は番頭の与吉さんの法名のため、与吉さんの供養碑となります。
[北面]
釈智円信士
仏像彫刻3体 善光寺如来
釈妙海信女
善光寺如来(善光寺式阿弥陀三尊)を調べると、中尊の阿弥陀如来、両脇侍の観音菩薩・勢至菩薩の3体で表し、立像であるとの事。
改めて供養碑を見ると3体あり、真ん中の阿弥陀如来が少し大きくなっています。※風化で見えませんが、恐らく建立当時は光背もあったと思われます。
そして、立像であるように浮彫りとなっており、忠実に善光寺如来を再現していることがわかります
今まで見た中でほとんど「観音菩薩」と彫る佐助さんですが、最上位の「阿弥陀如来」と彫る事で哀悼の意と共に与吉さんを極楽浄土へと送り出したという事でしょうか。
なお、長谷院にある与吉さんの供養碑も3体の浮彫りがあり、恐らく善光寺如来と思われますが「善光寺」の文字は見当たりません。
わからない事が多いのですが、佐助さんを知る上で信仰の知識は避けられないため、少しずつでも勉強していかないと...だいたい3つ知ると1つ忘れるんですが
※「釈智円信士」「釈妙海信女」は『郷土文化 50巻』によると与吉さんのご両親ではないかと記載されています。
[西面]
天保十一 子 五月 名古屋 杉屋佐太郎
この供養碑は、佐助さんの息子である佐太郎さんが天保11年(1840年)に建てたようです
[南面]
濃州三ツ柳村住人、魚住六角倅二男乙左、十五才に名古屋中御園町杉屋佐助方へ奉公に参、改名乙吉、十九才に亢然与吉と改、主人の為に商売まけし、忠義一心、一生無妻、四十六才天保十一年五月十四日世去、扨者世にまれなる人かな
是をよむ人、念仏授けたまへかし
与吉さんの由緒が面一杯に彫られており、内容は長谷院にある供養碑よりも詳しく記載されています。
※文面は『郷土文化 50巻』に記載されている内容を参考にしており、自分で文字起こしはしていません。
漢字が多くて敬遠しがちですが、意外と読めるもんですね
ここで書かれている「名古屋中御園町杉屋佐助方」の「佐助」さんは初代佐助さんを意味します。(恐らく...)
佐太郎さん名義という事は、佐太郎さんにとって与吉さんは店の番頭さんだけでなく、仲の良いオジさん父親に近い存在だったのかもしれませんね。
※佐太郎さんと与吉さんの年の差は約20歳
そして、最後の「是をよむ人、念仏授けたまへかし」という一文
佐太郎さんの悲しみの深さがわかる一文ではないでしょうか。
そう、私は念仏を唱えるために、ここに来たかったのです。
しかし、どう念仏を唱えたらよいかわからないため、「南無阿弥陀仏」と唱える事にしました。
今回はここまで。
次回は、同じ笠寺観音にある佐助さん寄進の名号碑を見に行きますよ
伊藤萬蔵さんの花壺は本堂への階段脇に一対。
さすが萬蔵さん!
新発見を求めて、佐助さん探しの旅はつづく。
またねー!