今回の杉屋佐助さんは、三重県北牟婁郡紀北町(きたむろぐん きほくちょう)にある「無量壽山 眞興寺(しんこうじ)」のはまぐり石(供養碑)です
この石造物の施主は佐助さんの息子の杉屋佐太郎さんです。
距離があるのでなかなか行く機会が作れませんでしたが、ようやく
山門に近づくと、杉屋佐太郎さんが寄進した「はまぐり石」が見えています
ドキドキわくわく
と、その前にこの山門について触れておきます。
比較的新しいこの山門。令和2年にできたようです。
山門柱の上の方に「山門の想い」と記されていました。
山門の想い
阿弥陀さまに導かれ
念願の山門を建立することができました
この山門をくぐって
無量寿山 真興寺に
お参りくださること大きな慶びです。
これ歓喜躍動なり
令和二年八月
第十二世住職
釈 厚道
話を伺うと、山門は代々の住職さんから念願だったそうですが、敷地の関係から建てるのは難しかったそうです。
そして4年前に山門建立。
念願の想いが文章からひしひしと伝わって、こちらも嬉しくなってきます。感動しました
本堂。こじんまりとした中に綺麗にまとめられていました。
※GoogleMapより引用・加工
現在はお寺の裏に国道が通っていますが、昔、国道ができる以前は山肌まで境内だったそうです。
さぁそしてこれが「はまぐり石」です!
横幅1mぐらいあり、なかなか大きいです
たしかにハマグリの形に似ています
解説板がありました
結構しっかり書いてありますね!
町指定有形文化財
民族資料 はまぐり石
制作年代 江戸時代後期
町指定 昭和四十四年
蛤に似た形の自然石の正面円内に観世音菩薩像を浮彫りにし、周辺に銘文を刻んである。
[正面]
蛤石 順れい手引観音
尾州 名古屋船入町 杉屋佐太郎
南無阿弥陀仏
[裏面]
天保十一庚子五月
釈了義 為菩薩
中世末から近世にかけて熊野詣や三十三所巡礼に利用された旧熊野街道の道しるべを兼ねて観音像をまつり、あわせて先亡の菩提を弔ったものであろう。
この蛤石は、もと銚子川左岸の熊野街道沿いの人家の付近にあったものを、堤防工事などのため、施主の寺縁のある、近くの真興寺に移されたものである。
海山町教育委員会
町指定文化財です!
文化財になっているのは、岐阜県大垣市の「平の渡し跡」にある常夜燈(杉屋佐助さんと佐兵衛さんの寄進)に続いて2例目!
さすが杉屋佐助さん!
それではじっくりとハマグリ石をみさせて頂きましょう
横から見た写真。
土台は小さな石を積んでいます。
後ろから見た写真。
よく崩れなかったなぁ...
(今はコンリート補強されています)
上から見た写真。
正面となる東面に彫ってある観音菩薩座像。
かなり風化が進んでおり細かなところはわかりませんが、何か左手に持っているようです。
しかし、陽当りの関係で全体的に写真が見辛くなってしまいました
風化に加えて達筆なため所々見づらいですが、「順れい手引観音」、右下に「蛤石」と刻まれているようです。
石のてっぺんには深い彫りで「尾州 名古屋」の文字。
南面の上部は「船入町 杉屋佐太郎」。
写真では文字が浮き彫りに見えるかもしれませんが、光の当たる方向による目の錯覚です。写真を逆さまにして見ると凹んで見えるかも。
実物は凹んでいます
裏面(西面)の彫りもしっかり見えます。
「天保十一庚子五月 釈了義 為菩薩」。
「釈了義」は佐助さんの番頭だった魚住与吉さんの戒名(法名)です。
つまり、この蛤石は与吉さんのために造られたものです。
「はまぐり」の貝殻は一対となっており、決して他の貝と合うことはないそうです。
そのため、古くから縁起物としてされてきました。
「はまぐり」の形で供養碑を建立したのは、与吉さんが亡くなっても「常に一緒」という佐太郎さんの想いなのかもしれません。
観音像の左側には「南無阿弥陀仏」の文字が。
これはなんだか見覚えのある書体!?
特徴ある「南無」。
もしかすると徳本上人の筆跡かもしれません。
↓徳本上人の筆跡
最後に付ける署名「徳本(花押)」が見つけられませんでしたが、徳本上人の筆跡でたぶん間違いないと思います
この辺は実際に見に行かないとわからないものですね~。
※「南」の部分が葉っぱのように跳ね上がっているので、塩田の墓地でみた徳本上人のお弟子さんの徳住上人の筆跡ではないと思います。
住職さんにお話しを聞きたいと思いましたが、残念ながら留守のようでした。
ただ、たまたまお寺の関係のある方にお話しを伺うことができました
作業中のところ、ありがとうございました!
伺った話を以下にまとめます。
はまぐり石が眞興寺にある由縁
蛤石は元々旧銚子橋の左岸側に建立されていたが、現在の銚子橋を造る過程で施主と寺縁のある眞興寺に移されたそうです。
つまり佐太郎さんと真興寺とは人のつながりではなく、宗派による繋がりと思われます(付近に浄土真宗のお寺は無いとの事)。
はまぐり石の建立目的
銚子川ではその昔、上流で木材を採取し、下流にある材木市場へ船で運んでいたので船の安全を祈願したものではないかとのこと。残念ながら材木市場と杉屋との関係はわからないそうです。
まとめると「はまぐり石」建立の目的は以下3点が考えられるでしょうか。
①与吉さんの供養
②熊野詣や三十三所巡礼の道しるべ
③船の安全
お寺の名前
眞興寺は真田(さなだ)と関わりがあり、眞興寺の眞は眞田(真田)、興は再興の興で、「真田家を再興する」という意味があるそうです。
その昔、戦に追われてこの地へやってきた真田の侍。
捕らえられる身だったが、真田が阿弥陀様の絵像を持っていたことから寺にかくまわれた、との話が残っているとか。
その後阿弥陀様の絵像は「お寺に納めた」と文献に記載されているそうなのですが、お寺には預かった記録がないようです
そして一番大事な真田の誰さんであるかは確認し忘れました
「真田幸村」だと勝手に思い込んで話を伺っていましたが...
梵鐘(ぼんしょう)
この鐘はいろいろな成分を配合して造られているそうです。そのせいかは分かりませんが、一般的な鐘の音よりも高い音で軽い印象の音がしました。
これを貴重なものだとして、戦時中の回収を免れたそうです
銚子川
銚子川の左岸から
杉屋佐太郎さんも見たであろう山々。
橋の左側には旧銚子橋の橋桁が残っています。
もともと「はまぐり石」はこの辺にあったようです。
上流にダムができるまでは水量が多く、昔は子供達が橋から飛び込んで遊んでいたそうです
長くなりましたが以上です
新発見を求めて、佐助さん探しの旅はつづく。
またねー!