前回の記事で林政治郎さんが名古屋旭廊で2つのお店をやっていた事がわかりました。

そして、大正12年(1923)に街中にあった旭廊が風紀上の問題等から中村遊郭へと移ることになります。

移転に伴ってお店を辞める人も居た中、林政治郎さんはどうしたのでしょうか。

 

名古屋の地図:中村遊郭、名古屋駅、旭廊

※今昔マップから引用・加工

これは大正9年測図の地図です。

密集地帯にある旭廊に対して移転先の中村遊郭は周りに何もない僻地ですあせる

 

中村遊郭の移転先を示す地図

ちょうど大正9年から移転の為の整地が始まったため、中村遊郭の場所には更地と区画を表す堀だけ見えています。

これから大正12年にかけて徐々に独特の雰囲気のある建物が建てられていくことになりますニコニコ

 

まだ名古屋駅から近いのが救いでしょうか。

 

中村遊郭と名古屋駅の地図

※GoogleMapより引用・加工

こちらは現在の地図です。

旭廊より中村遊郭の方が面積が少し大きくなっているのがわかりますニコニコ

移転の理由に旭廊が手狭になったというのもあったそうです。

そして名古屋駅は若干北に移動しました。

 

中村遊郭と名古屋駅周辺地図

※GoogleMapより引用・加工

中村遊郭の拡大地図です。

遊郭の4つ角の入り口は斜めの道となっており、中の様子が見にくくなるよう配慮された設計と思われます。

町の名前がより縁起の良いものになっていますね照れ

 

 

さて、林政治郎さんのお店「中嶋楼」と「政中嶋」はどうなったのでしょうか!?びっくり

 

『歓楽の名古屋』という本に載っていた中村遊郭の地図です。

年代は恐らく本が発行された直前の昭和12(1937)年頃と思われます。

中村遊郭が誕生して約14年後の地図ですが、ちゃんと「中嶋楼」と「政中嶋」がありました!爆  笑

林政治郎さんは無事中村遊郭へ移転できたようですお祝い

良かった良かった照れ


林政治郎 新加島樓 加島樓

※『名古屋・愛知県・岐阜県・三重県職業別電話名簿 大正12年版』国立国会図書館デジタルコレクションより引用・加工

こちらは大正12(1923)年版の電話帳で、中村遊郭移転の年の情報となります。

ただ、店名が「中島楼」が「新加島楼」、「政中嶋」が「加島楼」に変わっていますびっくり

両店舗とも町名は羽衣町と賑町で同じです。

オーナーも「政中嶋」の方が変わっていますね。同じ"林"姓なので親族でしょうか。

 

それで、なぜ電話帳と名前が違うのかという理由ですが、移転する時は心機一転で新しい屋号にしようと電話帳に登録したけど、お客さんから前の馴染みのある名前のがいいと言われて、もとに戻した...とか?てへぺろ憶測です。

 

次回は、現在の中村遊郭を見に行った様子です。

はたして遺構は残っているのでしょうか?あせる

 

 

以下、余談です。

花火花火花火花火花火花火

昭和12年の名古屋

 

歓楽の名古屋』という本は昭和12年(1937)3月に発行されています。

時は中村遊郭の最盛期(貸座敷138軒、娼妓2000人)で、花魁道中が開催された年でもありました。

名古屋駅が北側へ少し移動したのもこの年です。

 

本の内容は前半は昼間のデパートや寺社などの名古屋観光、後半は夜の観光...という構成となっています。

これは丁度この年の3月から「名古屋汎太平洋平和博覧会」が熱田神宮の南側で開催されるため、来場客を取り込めるよう観光ガイドブック的な本にし、博覧会に合わせて発行したようです。

持ち歩きしやすいよう、本のサイズも小さめに作られていますグッド!

当時の遊女名鑑も掲載されており、『吉原細見』ならぬ『中村細見』ウインク

林政治郎さんの中島楼は14人、政中嶋は19人の遊女が紹介されています照れ

 

しかし、「平和博覧会」とした平和の願いも届かず、この年の後半から日中戦争が始まり、いよいよ日本は戦争一色に染まっていく...。

昭和12年はそんな年だったんですね。

 

 

 

 

またねー!

 

 

これまで堀江山 長谷院林政治郎さんの寄進物を見てきました。

 

名古屋旭廊 中嶋楼 林政治郎 寄進碑

そこには「名古屋旭廊」、そして「中嶋楼」と「政中嶋」と刻まれています。

 

まず「名古屋旭廊」を調べると、明治7年から大正12年(1923)にかけて名古屋市中区大須あたりにあった「遊郭」である事がわかりましたニコニコ

 

「遊郭」というと江戸の「𠮷原遊郭」が有名ですが、名古屋にもあったんですねー!

今回の旭廊は明治から大正時代ですが、名古屋にも江戸時代に遊郭がありました。

 

旭廊の古地図と遊郭の賑わい

※『享元絵巻』名古屋市博物館から引用・加工

今の名古屋市中区橘町や古渡町あたりで遊郭が存在していたそうです。

 

 

 

名古屋の遊郭「旭廊」の地図

※GoogleMapより引用・加工

さて、名古屋旭廊のあった場所を地図でみるとこんな感じのようです。

大須観音の北西側一帯にあったようですね!ニコニコ

 

大須旭廊の風情ある提灯祭の様子

※那古野山古墳公園案内板より引用・加工

大正時代、花園町で行われた「提灯祭」の様子。

いい雰囲気ですね~照れ

 

 

名古屋の街並みと矢印

現在の花園町の様子。往時の面影はありませんあせる

 

名古屋旭廓の地図「大須大福帳」

 

これは『大須大福帳』に載っていた大正12年3月の旭廊の地図です。

よく見ると遊郭の中には遊女屋だけでなく、いろんなお店がありますね爆  笑

寿司屋、床屋、ハリ医者、駄菓子屋、仕出し屋、湯屋、下駄屋、酒屋などなど揃ってます。

 

名古屋旭廊の地図と地名

※Googleマップより引用・加工

GoogleMap地図と無理やり合成するとこんな感じニコニコ

ちょっとわかりにくいですねあせる

ど真ん中を国道22号が南北に通っています。

 

旭廊地図「中島楼」と「政中島」

そしてそして、赤く塗った場所には、「政中島」と「中島楼」がちゃんと載っているではありませんか!爆  笑おぉっ

 

名古屋旭廊 林政治郎 中島楼

※『大阪を中心とせる近県電話帳 大正12年用』国立国会図書館デジタルコレクションより引用・加工

さらに、この大正12年の電話帳に「中島楼」が載っています。

中島楼 林政治郎 中区常盤町16

住所の常盤(ときわ)町も人名も一致しました。

 

これにより、林政治郎さんは旭廊で2軒の貸座敷(遊女屋)オーナーである事が判明しました照れ

 

政中嶋跡、旭廊跡地の現在の様子

現在の政中嶋跡。今は居酒屋さんになっているようです。

政中嶋跡。現在のシブヤパイピング付近

※訂正

よくよく調べてみると若松町通りは当時少し南にありました。

従って、政中嶋は現在の「株式会社シブヤパイピング」が正しいと思います。

 

 

中嶋楼跡:常盤町、建物と車

現在の中嶋楼跡。奥の建築中のマンションと思われます。

間口狭くて奥に長い構造は一緒ですね!ニコニコ

 

 

花火花火花火花火花火

 

さて、大いに賑わった旭廊ですが、大須という街中にあり風紀等の問題で大正12年4月から名古屋市中村区(名古屋駅西側)の「中村遊郭」へと移る事になりました。

そこは周りに何もない僻地!

移転に伴い、客足が遠のくのを恐れてお店を辞める人もいる中、林政治郎さんはどうしたのでしょうか。

 

次回は林政治郎さんと中村遊郭についてです。

 

 

オマケウインク

富士浅間神社鳥居の寄進者名

こちらは大須2丁目にある富士浅間神社の鳥居です。

大正9年の鳥居は旭廊の人達で寄進されました。

 

右側には、若福、玉の家、増相生、美の(野)家、三喜廼恵、喜廼恵、福の家、三国家、福萬、新喜廼恵、新春喜(㐂)、福鶴、新喜月と妓楼と娼妓の名前が並んでいます。

各お店の場所分布をみると、旭廊の東側に集中しているのが興味深いです。

そして鳥居の左側は杵屋の一族(?)11名(全員名前の最初に「三」が付く)。

 

このうち福鶴と新喜月、杵屋は上記の旭廊地図には載っておらず、少し悲しいですえーん

旭廊初期(明治10年)の地図にもありませんでした。

 

 

鳥居に林政治郎氏の寄進銘。大須

こちらは富士浅間神社と同じ区域にある北野神社の鳥居です。

本家長寿楼の林長十郎さんご夫婦で大正4年11月(大正の御大典)に寄進されています。

手水鉢にも壽楼や福岡など楼名が刻まれています。

また、玉垣は長寿楼、福の家、福岡楼、楽長寿、㐂の恵(喜廼恵)、芸者部屋の金波楼などから大正6年に寄進されています。(いずれのお店も旭廊地図に載っています)

 

現在、旭廊の遺構はこれぐらいしか残っていないかもしれません。

興味のある方はぜひ見に行ってみてくださいニコニコ

 

マンション entrance ACCESS 1924

最後に、こちらは大須1丁目の常盤通り沿いにあるマンションです。

エントランスに「ACCESS 1924」とあります。

1924年は大正13年。

これがsince1924のことであれば、旭廊の人達が中村遊郭へ移った翌年ということになりますね!
 

 

 

またねー!

 

 

 

今回も前回に引き続き、愛知県清須市桃栄の「堀江山 長谷院」にある林政治郎さんの石造物ですニコニコ

 

林政治郎 寄進の石造物

林政治郎さんは「西国三十三所巡道」の標柱を大正5年(1916)2月に寄進されました。

これだけかと思いきや、実は長谷院には他にも林政治郎さんの寄進物があったのです。

という訳で、見ていきましょう!ニコニコ

 

  西国三十三観音 第三番

林政治郎寄進の石仏と長谷院の五重塔

 

長谷院の石仏と手水鉢、林政治郎寄進

[花立]
(家紋) 林氏
※2本同じ

[台座正面]
三番 先祖代々

[台座右面]
大正三年七月

[台座裏面]
なし


[台座左面]

名古屋旭廊
中島楼 政中島

 

大正3年(1914)建立の石仏です。

「林政治郎」の名前はありませんが、西国三十三所巡道標柱と同じ「中島楼」「政中島」、花立には「林氏」と刻まれているので林政治郎さんの寄進と考えて問題ないと思います爆  笑

 

林政治郎寄進、西国三十三観音石仏

『新川町史 資料編1』によると、この西国三十三観音は大正2年(1913)から5年(1916)にかけて造立されたとあります。

 

西国三十三所巡道標柱、林政治郎寄進

前回の「西国三十三所札所巡道」の標柱は大正5年に建立されたため、三十三観音すべての石仏が揃ってから寄進されたのかもしれません。

 

 

 

  手水鉢(西堀江神明社)

手水鉢「洗水」 林政治郎寄進 旭廊

長谷院の境内東側にある神明社の手水鉢です。

 

林政治郎寄進の石仏と手水鉢

[正面]
洗水

[右面]
明治四十五年三月


[裏面]
なし

[左面]
寄附人 名古屋廊
中嶋楼 政中嶋
林政治郎

 

手水鉢は明治45年(1912)3月に寄進されています。(※7月30日に大正へと改元)

なお、神明社は手水鉢の他に社標(石工 角田六三郎)と鳥居(石工 荒木弥助)も明治45年(1912)3月に寄進されているので、この年に神社改修が行われたと思われます。

 

さて、そうすると林政治郎さんが寄進した順番は

①手水鉢(明治45年)

②西国三十三観音 第三番(大正3年)

③西国三十三所札所巡道標柱(大正5年)

となります。

 

まさか三つも寄進しているとは驚きですびっくり

ここで気になるのが、林政治郎さんは何故3つも寄進したのでしょうか。

巡礼関係は他所でも寄進されていますが、西堀江神明社に寄進したのは気になりますねキョロキョロ

長谷院あるいは西堀江村と何らか縁があったと思いますが、残念ながらわかりませんあせる

 

 

次回は林政治郎さんが刻んだ「名古屋旭廊」そして「中島楼」「政中島」についてです。

林政治郎さんは何者なのか!?

 

 

またねー!

 

 

 

 

久々の投稿です。

ネタはたくさんあるけど、なかなか書けないというあせる

 

今回は「堀江山 長谷院(愛知県清須市桃栄)」にある西国三十三所巡道標柱についてです。

 

長谷院の西国三十三所巡道標柱

江戸時代末期、名古屋の豪商「杉屋佐助」さんが再興し、菩提寺ともなっている長谷院。

そんな境内には佐助さんに関連する石造物が多数存在し、このブログでもいくつか記事にしていますニコニコ

 

長谷院には佐助さん関連以外の石造物も多数あり、今回の「西国三十三所巡道標柱」もその一つです。

時代は杉屋佐助さんの江戸時代末期から約50年後の大正時代となります。

 

それではみていきましょう!照れ

 

 

  西国三十三所札所巡道標柱

長谷院 政治郎 巡道標柱

[正面]

(梵字) 従是准西國三拾三所札所巡道

[右面]
施主 名古屋市旭廊 政中嶋 中嶋楼 林政治郎

[後面]
なし

[左面]
大正五年二月建之

 

大正5年(1916)に建てられたこの標柱の正面には「これより西国三十三所札所の巡道」と刻まれています。

 

長谷院の林政治郎寄進の石仏群

「西国三十三所」といえば、境内にある三十三所燈明三十三観音石仏と関係がありそうです。

 

長谷院の西国三十三所巡道標柱地図

※GoogleMapより引用・加工

この地図は現在の長谷院で標柱や石仏がそれぞれどこに配置されているかを示しています。

これをみる限り、「これより」とあるにもかかわらず標柱が立っている場所と三十三観音の場所も方向も違います。(反対方向にある)

もともとどこに立っていたのでしょうか?キョロキョロ

 

石造物寄進の生涯 伊藤萬蔵』の「長谷院 西国三十三所第五番札所石仏」の説明に

昭和四十五年、本堂再建時に現在のように祀る

と記載されています。

 

長谷院の西国三十三所巡道標柱

※『尾張名所図会』国立国会図書館デジタルコレクションより引用・加工
ということは、この標柱が立てられた大正5年(1916)当時は絵図のように参道に三十三所燈明と石仏があり、その入口(津島上街道沿い)に西国三十三所巡道標柱が建っていたと考えられなくもないですねニコニコ

まぁ、この方が自然なので、たぶんそうでしょう!

 

長谷院 巡道標柱 寄進者 林政治郎

さて、この標柱を寄進した人はというと、右面に刻まれています。

施主 名古屋市旭廊 政中嶋 中嶋楼 林政治郎

 

林政治郎さんが何者なのかは一旦置いとくとして、

実は 林政治郎さんの寄進物は長谷院境内にまだあったのです!爆  笑

 

次回は他の寄進物について見ていきます。

またねー!

 

レモン彗星と呼ばれる彗星が今見ごろとの事で、撮影にチャレンジしてみましたよ!爆  笑

 

このレモン彗星は今年(2025年)の1月に発見された彗星だそうで、公転周期は約1000年!

前回は約1300年前らしい。

周期にズレがあるのは木星とか惑星の重力の影響を受けるためだそうです。

当時の日本は奈良時代!びっくり平城京。

「お久しぶり~っ!元気だった?」というレベルを超えてますね。

 

さて、そんなレモン彗星が見ごろではありますが、なかなか天候に恵まれませんあせる

それでもなんとか撮れそうな星空になったのでチャレンジ!照れ

 

緑色のレモン彗星と星空

 

 

緑色のレモン彗星の写った星空

緑色した彗星。なんとか尻尾が写っています。

 

緑色のレモン彗星と星々

 

緑色レモン彗星、尻尾写る

FZ-1000M2  f/4  ss 4sec ISO3200 144mm(換算396mm)

ISOを3200まで上げて撮影。そのためノイズ多め。

下側にある白い線は衛星と思われます。

 

去年のアトラス彗星と違ってかなり見え辛いです。

アトラス彗星は双眼鏡でも尻尾がみえましたが、レモン彗星は尻尾まではみえませんでした。

 

 

そして、撮影から30分ほど経つと雲に覆われて見えなくなってしまいましたえーん

 

 

 

次回は約1100年後だそうですびっくりひぇ~っ

その時は宇宙船に乗って彗星の直ぐ傍から観測できそうですねウインク

 

またねー!

 

 

 

 

 

 

 

以前、長谷院の西国三十三所燈明の並び順について考察しましたが断定には至りませんでした。

かつての長谷院の様子を記した文献にもなかなか辿り着けません。

 

そこで、とりあえず古い長谷院の写真があれば何か手掛かりになるのではないかと思い、図書館で写真集を見てみる事にしました。

長谷院は美濃路の近くにあり、津島街道沿い(境内を津島上街道が通っている)にあるので、誰か参道からの写真を撮っている人がいるのではないか!?爆  笑

もし発見できれば燈明の方向がわかるかもしれない!

 

 

いくつか本を見ていると、古い長谷院の写真を見つけました!花火

稲沢・清須の昭和』という写真集のp.32に長谷院の本堂の写真が載っています。

見つけた時は小躍りしました爆  笑

 

昭和初期の長谷院本堂写真

 

堀江の観音さんの旧本堂

 

長谷院は、創建ははっきりしないが、十一面観音立像を本尊とする古刹である。
地元住民から「堀江の観音さん」と呼ばれ親しまれている。
真言宗の学問所でもあった。兵火と清洲越で名古屋大須の浄土寺院に移ったが、
そこで尾張西国三十三観音霊場2番札所として信仰を集めた。
一方堀江の人びとの要望で天保3年(1832)旧地に戻り、元尾張藩主の多宝塔仁王門の寄進や、
名古屋の商人・杉屋佐助らの尽力で再建。
津島街道が境内を通り、石造物が多い。
写真には昭和20年の空襲で失われた本堂が写る。<清須市桃栄・昭和初期・提供=加藤富久氏>

説明によると、この写真は昭和初期、昭和20年の空襲で失われる前の本堂との事です照れ

 

 

長谷院の旧本堂、昭和初期の写真

こちらは現在(昭和45年に再建)の本堂です。

 

長谷院 昭和45年再建 銘板

本堂にある銘板

昭和四十五年十一月八日再建
堀江山長谷院 十四世 誓誉代
堀江山長谷院再建奉賛会

 

二つの写真を比較すると、全然違いますねびっくり

本堂前の2対の常夜燈は笠と火袋があり、奥の方は「永代常夜燈」と刻まれているのがわかります。

この「永代常夜燈」の2基は長谷院の宅地化で掘り起こされた常夜燈かもしれません。長谷院 永代常夜燈 銘板

一つは天保15年の杉屋佐太郎さんと徳蔵さんが寄進したもの。

もう一つは嘉永3年の「為 有縁無縁菩提」で田内氏が寄進したもの。

これ以外に長谷院境内に「永代常夜燈」と刻まれた石造物は現存していません。

構造も基台に乗せるようになっていて写真と同じです。


 

 

写真を見比べて一通り満足すると、一つ疑問が浮かんできました。

この写真の本堂は佐助さんが建てた本堂なのだろうか?キョロキョロ

震災や戦災、火災で本堂はどうだったのでしょうか。

 

一つ発見すると一つ謎が増える笑い泣き楽しいな~♪

という訳で、今まで集めた文献を参考にまとめた長谷院の年表(建物系)をみてみましょう。

 

=====================================

■阿弥陀寺末寺時代
尾張三十三観音霊場二番札所となる。


■天保3年(1832)

2月~3月、西堀江の有力者によって長谷院の旧地である観音山に仮堂が建てられ、本尊十一面観音像が安置された。
長谷院(仮堂)の古地図

※『津島の渡り』より引用・加工


■天保4年(1833)
2月18日から4月8日までの50日間、御開帳。


■天保5年(1834)
尾張徳川家下屋敷の多宝塔・仁王門を藩公より下賜され、その運搬費の捻出として「八銭講」を企画するがほとんど集まらず、村民総出で運搬して5月に建立した。


■天保12年(1841)
長谷院本堂の古地図
※『新川町史 資料編 天保12年6月 春日井郡西堀江村』より引用・加工


■弘化2年(1845)
長谷院本堂の古い絵と図
※『新川町史 資料編 弘化2年4月 春日井郡西堀江村』より引用・加工


■弘化3年(1846)
杉屋佐助さんにより本堂が完成する。
長谷院本堂と塔の絵


■嘉永7年(1854)
2月18日から4月8日までの50日間、御開帳。
長谷院の旧本堂と塔の絵

※『尾張名所図会』より引用・加工
9月ごろ尾張名所図会の景観が整ったと推測。



■安政元年(1854) ※11月27日改元

(嘉永7年)11月4日、安政東海地震が発生。

長谷院の被害については不明ですが、『尾張名所図会』の長谷院が明治時代に描かれたものなら大丈夫だったと言えますが、はっきりしません。

 


■明治24年(1891)
濃尾大震災のため庫裡・仁王門・多宝塔・鐘楼等全潰


■明治25年(1892)
5月、被災した仁王門を再建。


■明治27年(1894)
8月、被災した庫裡及び鐘楼堂を再建。


■明治29年(1896)
5月、被災した多宝塔を再建。


■大正12年(1923)

この時点で本堂、庫裡、鐘樓、明王堂、多宝塔、仁王門あり。


★昭和初期

本堂の写真を撮影

昭和初期の長谷院本堂写真

※『稲沢・清須の昭和』より引用・加工

 


■昭和20年(1945)
3月12日の空襲によって、本堂・庫裡・明王堂が失われる。


■昭和27年(1952)
2月28日、仁王門焼失。


■昭和34年(1959)
仁王門再建。
伊勢湾台風で本堂が失われる。


■昭和45年(1970)

11月、現在の本堂を再建。

長谷院 昭和初期 本堂写真

 

=====================================

 

こうしてみると、安政の大地震よりも明治24年の濃尾大震災で本堂がどうなったかがポイントのようです。

『新川町誌』には「鐘楼全潰」とあるので、その時本堂も倒壊してしまったのでしょうか。

ただ、震災後に多宝塔や仁王門の再建について記載はあるのですが、本堂についてはありませんあせる

 

長谷院旧本堂と尾張名所図会の比較

写真と尾張名所図会の本堂を比べてみると、階段や屋根の向き、上部飾り(宝珠)、柱、燈籠の配置など良く似ています爆  笑

もしかすると写真右端の木は図絵にも描かれているかもしれませんニコニコ

ただ、正面の屋根の形状が若干違うような...。

図絵では「でっばり」がありますが、写真の方ははっきりとわかりませんがでっぱりがないような...???

 

震災当時、本堂は潰れたのか、潰れた場合本堂がどのような方法で復元を行ったのかわかりません。

しかし私としてはこの写真は佐助さんが建てた本堂と同じ物と思いたい照れ

 


※参考文献

『西春日井郡誌』

『新川町史 資料編』

『新川町史 通史編』

『新川町誌』

『新川町八十年のあゆみ』

『稲沢・清須の昭和』

『名陽見聞図会』

『尾張名所図会』

 

 

新発見を求めて、佐助さん探しの旅はつづく。

またねー!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今年(2025年)も愛知県名古屋市港区の南陽地区にある「田んぼアート南陽」を観に行ってきましたよ!爆  笑

 

見に行き始めて5回目!

さて、今年はどんな絵が描かれているのでしょうか!?ニコニコ

 

田んぼアート南陽 2025 展望台

今年も無事開催!照れ

 

田んぼアート南陽、協賛企業一覧

協賛企業が毎年増えていっているようです!爆  笑よかった!

 

田んぼアート南陽2025 風神雷神

そして今年は「風神雷神」が描かれているようですヨ!爆  笑

それでは見てみましょう!

 

名古屋南陽の田んぼアート「風神雷神」

ジャジャーーン!!

 

あれれ?

今年は稲の様子がいつもと違う!?

妙に「ふさふさ感」が...びっくり

 

 

名古屋 田んぼアート 南陽地区 稲穂

それもそのはず、見に行ったのは9月下旬あせる

実るほど頭を垂れる稲穂かな」状態上差し

風神はなんとかわかりますが、雷神の方は背負った太鼓はなんとかわかるものの、なかなか厳しいあせる

下部の「名古屋 南陽」の文字も稲が伸びすぎて解り辛くなってしまいました。

 

↓こちらは去年(2024年)の作品

これは2024年の8月中旬だったのでまだ青々として絵柄もクッキリと見えています。

 

この去年の作品は、現在のGoogleマップ航空写真でも見ることができました。

※Googleマップから引用・加工

時期的には田植え直後の航空写真でしょうか。

空から見ると間延びして見えますね。

展望デッキに立つと違和感なく見えるようデザインされているのがよく分かりました。

素晴らしい爆  笑

 

 

ここの田んぼアートの見頃は7月~8月といったところでしょうか。

今年はあまりの暑さに見学を見送っていたらちょっと来るのが遅すぎましたが、思ったよりも絵柄を見ることができました!

なにより今年も田んぼアートを見れたことに感謝感謝です照れ

 

田んぼアート南陽、稲穂の壁

既に一部の稲が刈り取られ、ガードレールに干してありましたニコニコ

 

 

異なる種類の稲を植えることで違った色を表現されています。

↑茶色の稲

 

↑緑色の稲

 

 

 

名古屋の田んぼアート、風神雷神

田んぼアートの刈り取りは10月13日との事です。

 

またねー!

 

 

 

【過去の田んぼアート見学】

 

↓2021年

 

↓2022年

 

↓2023年

 

↓2024年

 

以上

 

 

2025年9月8日午前1:30頃、皆既月食が始まりました!照れ

今回は深夜という事で、なかなか珍しいのかな?

 

欠け始めから皆既月食までを並べてみましたニコニコ

月食をズームで撮る天体写真も飽きてきたので、星景写真にチャレンジしてみましたよ!

 

手前の山みたいなのは前方後円墳(愛知県犬山市の青塚古墳)です爆  笑

暗くて見づらいですが、1段目の所に埴輪が置かれています。

そして左上の赤いのが皆既月食中のお月さまです照れ

 

暗闇で背景(古墳)を写すため長秒露光(SS20秒)しているため、月が流れて若干伸びてしまいましたあせる

赤道儀を使うと月が伸びるのは回避できますが、今度は背景がブレてしまいます。

悩ましいですね!

 

 

皆既月食。

何回見ても不思議。

宇宙の神秘です。

古墳時代、皆既月食をみた人々はどう思ったのでしょうか。

祭事が行われていたかもしれませんね!照れ

 

 

それにしても....月が小さいえーん

 

 

できればコレぐらい月を大きく写したい爆  笑欲ばり過ぎか?

そうすると古墳から2Kmぐらい離れ、望遠で古墳と月を撮る必要があります。

しかし残念ながら、そんな場所は近場にはありませんあせる

古墳から2Kmに渡って田んぼしかない場所があれば教えてほしいですニコニコ

 

次回は2026年3月3日の午後8時ぐらいだそうです。

撮影しやすい時間帯ですね!

 

またねー!

 

 

 

 

 

 

 

 

今回の杉屋佐助さんは、愛知県清須市にある長谷院の「三十三所燈明」。

前回からの続きですニコニコ

 

これまで見てきた三十三基の燈籠(燈明)が江戸時代には実際どのように配置されていたかを素人なりに考察してみます。

 

 

現在、三十三所燈明はこのような配置で建っています。

すぐとなりに20番以降の三十三所燈明がある。

 

場所は長谷院のこの場所↓

※Googleマップから引用・加工

 

 

では

江戸時代当時はどのように建っていたのか。

 

下の絵図は『尾張名所図会』に載っている長谷院です。

境内の様子から嘉永7年~明治初期の長谷院が描かれていると思われます。

※国立国会図書館デジタルコレクション『尾張名所図会』より引用・加工

 

よくみると、参道から仁王門、そして本堂まで少し背の低い燈籠(赤色)が参道に並んでいます。

恐らくこれが三十三所燈明ではないでしょうかニコニコ

『新川町史 資料編1』にも

長谷院にある33基の常夜燈(竿部のみ)は嘉永7年(1854)に造立され、かつて仁王門前の参道両側に立ち並んでいたもので、一番那智からはじまって三十三観音に対応している。

と書かれています。

「三十三観音」は三十三所燈明とは別に、大正時代に造られた観音像の事と思われます(伊藤萬蔵さんが寄進した石仏もあります)。

現在の三十三所燈明は参道から移動されて先ほどの場所に置かれたようです。

 

しかし、この図会だけでは元々どのような順番で、どのような向きで並んでいたのかよくわかりませんえーん

 

常夜燈の配置・向き・上座・下座について少し調べると、これといった決まりがなく各寺社それぞれだそうです。

実際に神社やお寺を見ても概ね法則はありそうですが、絶対という訳ではなく、むしろバラバラの方が多いかもしれません。境内の中でさえ統一されていないケースも見かけます。

天災や戦災で倒壊したものを建てなおす際にズレていったのかなと思います。

 

 

 

 

 

さて、前回の記事で前半(一番~)と後半(十八番~)で施主名が刻まれている面が違うという事を書きました。

 

燈明に向かって、三十三所の札所(「一番 那智寺」など)が刻まれている面を正面、向かって右側を右面、同じく左側を左面としてまとめています。

<8番>

発起人である佐助さんの名前も彫られている特別な燈明です。四面すべてに文字が彫られており空白の面がありません。

<31番>

ここだけ何故か施主名が右面に刻まれています。謎です。

 

整理すると

1番から17番までは右面に施主名

18番から番外の34番までは左面に施主名が刻まれていることが分かります(31番は例外ですがあせる)。

これは燈明の配置が17番と18番を境に変わったのではないかと考えられます。

 

 

これをヒントにまずは並び順について考えてみます照れ

 

 

 推測1:参道右側から順に並んでいた場合

 

本堂に向かって右側を上座とし、そこから1番を配置したと考えてみます。

『尾張名所図会』の長谷院の図に番号を付けるとこんな感じに並んでいたとする。

 

しかしこれでは1番から順にお参りすると、18番でまた入口まで戻ることなり効率が悪いではないかあせる

 

 

ただ、こう並んでいると参道最初の燈籠施主が木村正兵衛さんと米屋長八さんで佐助さんと馴染みのある人が並び、仁王門を越えた最初の燈籠が松野屋久左衛門さん(発起人の杉屋佐助さん)となるではないかニコニコおぉぉっ!?

 

とはいえやはり参詣の効率が悪いあせる

 

 

 

 推測2:時計回りに並んでいた場合

そういえば四国八十八ヶ所のお遍路は時計回りで巡礼するそうですね。

ここも時計回りに配置されていたと考えてみます。

 

1~17番をお参り

長谷院の本堂へお参り

18番~番外へお参り

参拝終了

 

おぉ!効率の良い参詣じゃないですか!

正解に近づいたような気がします爆  笑

 

この並びだろうと思う理由はもう一つあって、

 

それが赤丸で囲んだ手水舎とおぼしきものが本堂の近くにあります。

これが本堂に向かって左側にあるという事は、左側通行とも言えると思います。

 

1~17番をお参り

手水舎で手と口を清める

長谷院の本堂へお参り

18番~番外へお参り

参拝終了

 

...この流れいかがでしょう。

手と口は最初に清めるのが好ましいとは思いますがあせる

 

 

 

 燈明の向き

 

時計回りに配置されていたと考えて、後は燈明が参道に対してどのような向きになっていたか!?ですが.....。

 

恐らく上図のように、正面が参道と平行になるように置かれていたのではないでしょうか。

 

そうすると、参道を歩いて行き横を向くと参拝できるようになりますお願い

イメージにするとこんな↓感じ照れ

 

気になるのは、参拝に"行くとき"は施主名が全く見えないあせる

逆に帰りに参道を歩くと施主名の面が両サイドこちらを向いているように見えます。

 

 

奉納寄進する人達の名前は大事にされるべきであると考えますが、ここは西国三十三所の御利益を優先したという事でしょうか照れ

 

もしも、下図のように正面がこちら向きになっていると、参道側が施主面となり、行きも帰りも施主名がよく見えるようになります。

 

さてさて、実際はどうだったのでしょうか。

何か資料を見つけれる事を期待して素人の考察を終わりとします照れ

 

 

花火花火花火花火花火花火花火

 

新発見を求めて、佐助さん探しの旅はつづく。

またねー!
 

 

 

今回の杉屋佐助さんは、愛知県清須市にある長谷院の「三十三所燈明」。

前回からの続きですニコニコ

後半の残り17基を紹介していきます。

 

後半では施主名が右面ではなく左面に刻まれています。

これは建立当初の並び順を示す手掛かりとなりそうです。(並び順の考察は次の記事にて)

 

 

【写真の見方】

  • 向きについて:燈明に向かって正面(番号の面)を見て、右側の面を右面、左側の面を左面としています。

 

 

 

【長谷院の御開帳について】

この三十三所燈明は寄進日から推察すると、長谷院で御開帳が行われた際の記念物であると考えられます。

しかし、刻まれた内容をみると全部は間に合わなかったようで、一部は御開帳後の寄進日になっているのです。

 

<御開帳期間>

・嘉永7年2月18日~4月8日まで(1854年)

 

<燈明寄進日>

・1~28番(8番除く) → 嘉永7年4月

・8番、29~33番、番外 → 嘉永7年9月

 

 

 

【施主について】

施主の地名をみると、佐助さんの幅広い交流がうかがえます照れ

その一方で、佐助さんと馴染みのある二人の名前が見当たりません。

一人は錺屋庄六(増田庄六)さんですが、『新川町史 通史編』によると御開帳時は燈明ではなく「大幕 麻二布幕 1張」を寄進されているようでした。

もう一人は近江屋市兵衛さんですが、残念ながらありません。

何故でしょうか?えーん悲しい...

 

 

 

  十八番 紫雲山 六角堂 頂法寺

[正面]

十八番 京 六角堂

[右面]

(無し)

[裏面]

嘉永七年甲寅四月 田内氏

[左面]

丹羽郡北嶋 木村正兵衛

 

丹羽郡北嶋村の木村正兵衛さんです。真清田神社と荒子観音寺で佐助さんと一緒に寄進しています。

16番では同じ北嶋村の木村甚九郎さん。

小さく「田内氏」と刻まれていますが、もしかすると木村さんは佐助さんと親戚かもしれません。

 

 

  十九番 霊麀山 革堂 行願寺

[正面]

十九番 京 革堂

[右面]

(無し)

[裏面]

嘉永七年寅四月吉日

[左面]

ぎふ 山田源兵衛

 

 

  二十番 西山 善峯寺

[正面]

廿番 や満しろ 良峰寺

[右面]

(無し)

[裏面]

嘉永七年寅四月吉日

[左面]

濃州ぎふ 西圓講中

 

 

  二十一番 菩提山 穴太寺

[正面]

廿一番 たんば 穴穂寺

[右面]

(無し)

[裏面]

嘉永七年寅四月吉日

[左面]

ぎふ□□□□町 和久屋佐七

 

 

  二十二番 補陀洛山 総持寺

[正面]

廿二番 つのくに 総持寺

[右面]

(無し)

[裏面]

嘉永七年寅四月吉日

[左面]

□□田中町 高瀬久八

 

 

  二十三番 応頂山 勝尾寺

[正面]

廿三番 つのくに 勝尾寺

[右面]

(無し)

[裏面]

嘉永七年寅四月吉日

[左面]

大坂菅沼 津屋又三郎

 

 

  二十四番 紫雲山 中山寺

[正面]

廿四番 津のくに 中山寺

[右面]

(無し)

[裏面]

嘉永七年寅四月吉日

[左面]

尾州小方 小沢屋正左エ門

加納荒町 西川佐助

 

 

  二十五番 御嶽山 播州清水寺

[正面]

廿五番 はり満 清水

[右面]

(無し)

[裏面]

嘉永七年寅四月吉日

[左面]

ぎふ車町 米屋太助

 

 

  二十六番 法華山 一乗寺

[正面]

廿六番 はり満 法華山

[右面]

(無し)

[裏面]

嘉永七年寅四月吉日

[左面]

濃州武儀郡神渕村 大善辰藏

 

 

  二十七番 書寫山 圓教寺

[正面]

廿七番 はり満 書寫山

[右面]

(無し)

[裏面]

嘉永七年寅四月吉日

[左面]

なごや押切 山田屋仜左エ門

 

参考文献『名古屋城下町復元プロジェクト』には、山屋仁左衛門、山田屋仁衛門と似た名前がふたつ掲載されています。

同一人物か、それとも別人か?

 

 

  二十八番 成相山 成相寺

[正面]

廿八番 たんご 成相寺

[右面]

(無し)

[裏面]

嘉永七年寅四月吉日

[左面]

ぎふ中川原町 山田弥兵衛

 

 

  二十九番 青葉山 松尾寺

[正面]

廿九番 たんご 松尾寺

[右面]

(無し)

[裏面]

嘉永七寅年九月

[左面]

播州□□ 下村屋保兵衛

 

ここから寄進年が嘉永7年の9月となります。開帳期間を過ぎているためか「吉日」という文字が刻まれなくなります。

播州(今の兵庫県)の商人からも寄進されています。佐助さんとどのような繋がりか気になりますね照れ

 

 

  三十番 竹生島 宝厳寺

[正面]

三十番 あふみ 竹生嶋

[右面]

(無し)

[裏面]

嘉永七寅年九月

[左面]

名古屋大舩町 小川屋仙助

 

参考文献『名古屋城下町復元プロジェクト』にも寄進者の名前がありました。

それによると職業は「米穀上商」とあります。佐助さんとは同業者でしょうか。

 

 

  三十一番 姨綺耶山 長命寺

[正面]

三十一番 おうみ 長命寺

[右面]

安道 水井 丹羽 成田 傳

[裏面]

嘉永七寅年九月

[左面]

(無し)

 

後半は左面に施主名が刻まれていますが、ここだけ何故か右面に刻まれています。

何か手違いがあったのでしょうか?

 

 

  三十二番 繖山 観音正寺

[正面]

三十二番 ふみ 観音寺

[右面]

(無し)

[裏面]

嘉永七寅年九月

[左面]

名古屋 平田屋林之助

 

 

  三十三番 谷汲山 華厳寺

[正面]

三十三番 みの 谷汲山

[右面]

(無し)

[裏面]

嘉永七寅年九月

[左面]

名古屋台上 増田屋藤十郎

 

 

  番外 善光寺

[正面]

信州 信濃 善光寺如来

[右面]

(無し)

[裏面]

嘉永七寅年九月

[左面]

名去町壱丁目 八百屋佐吉

西万当町壱丁目 八百屋与兵衛

 

燈籠を2基で一対とするための数合わせで加えた番外と思われます。

 

 

 

花火花火花火花火花火花火花火

 

以上、三十三所燈明一覧でした。

 

次の記事では三十三所燈明の並び方について考察してみます。

またねー!