以前、長谷院の西国三十三所燈明の並び順について考察しましたが断定には至りませんでした。
かつての長谷院の様子を記した文献にもなかなか辿り着けません。
そこで、とりあえず古い長谷院の写真があれば何か手掛かりになるのではないかと思い、図書館で写真集を見てみる事にしました。
長谷院は美濃路の近くにあり、津島街道沿い(境内を津島上街道が通っている)にあるので、誰か参道からの写真を撮っている人がいるのではないか!?![]()
もし発見できれば燈明の方向がわかるかもしれない!
いくつか本を見ていると、古い長谷院の写真を見つけました!![]()
『稲沢・清須の昭和』という写真集のp.32に長谷院の本堂の写真が載っています。
見つけた時は小躍りしました![]()
堀江の観音さんの旧本堂
長谷院は、創建ははっきりしないが、十一面観音立像を本尊とする古刹である。
地元住民から「堀江の観音さん」と呼ばれ親しまれている。
真言宗の学問所でもあった。兵火と清洲越で名古屋大須の浄土寺院に移ったが、
そこで尾張西国三十三観音霊場2番札所として信仰を集めた。
一方堀江の人びとの要望で天保3年(1832)旧地に戻り、元尾張藩主の多宝塔仁王門の寄進や、
名古屋の商人・杉屋佐助らの尽力で再建。
津島街道が境内を通り、石造物が多い。
写真には昭和20年の空襲で失われた本堂が写る。<清須市桃栄・昭和初期・提供=加藤富久氏>
説明によると、この写真は昭和初期、昭和20年の空襲で失われる前の本堂との事です![]()
こちらは現在(昭和45年に再建)の本堂です。
本堂にある銘板
昭和四十五年十一月八日再建
堀江山長谷院 十四世 誓誉代
堀江山長谷院再建奉賛会
二つの写真を比較すると、全然違いますね![]()
本堂前の2対の常夜燈は笠と火袋があり、奥の方は「永代常夜燈」と刻まれているのがわかります。
この「永代常夜燈」の2基は長谷院の宅地化で掘り起こされた常夜燈かもしれません。
一つは天保15年の杉屋佐太郎さんと徳蔵さんが寄進したもの。
もう一つは嘉永3年の「為 有縁無縁菩提」で田内氏が寄進したもの。
これ以外に長谷院境内に「永代常夜燈」と刻まれた石造物は現存していません。
構造も基台に乗せるようになっていて写真と同じです。
写真を見比べて一通り満足すると、一つ疑問が浮かんできました。
この写真の本堂は佐助さんが建てた本堂なのだろうか?![]()
震災や戦災、火災で本堂はどうだったのでしょうか。
一つ発見すると一つ謎が増える
楽しいな~♪
という訳で、今まで集めた文献を参考にまとめた長谷院の年表(建物系)をみてみましょう。
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■阿弥陀寺末寺時代
尾張三十三観音霊場二番札所となる。
■天保3年(1832)
2月~3月、西堀江の有力者によって長谷院の旧地である観音山に仮堂が建てられ、本尊十一面観音像が安置された。

※『津島の渡り』より引用・加工
■天保4年(1833)
2月18日から4月8日までの50日間、御開帳。
■天保5年(1834)
尾張徳川家下屋敷の多宝塔・仁王門を藩公より下賜され、その運搬費の捻出として「八銭講」を企画するがほとんど集まらず、村民総出で運搬して5月に建立した。
■天保12年(1841)

※『新川町史 資料編 天保12年6月 春日井郡西堀江村』より引用・加工
■弘化2年(1845)

※『新川町史 資料編 弘化2年4月 春日井郡西堀江村』より引用・加工
■弘化3年(1846)
杉屋佐助さんにより本堂が完成する。

■嘉永7年(1854)
2月18日から4月8日までの50日間、御開帳。

※『尾張名所図会』より引用・加工
9月ごろ尾張名所図会の景観が整ったと推測。
■安政元年(1854) ※11月27日改元
(嘉永7年)11月4日、安政東海地震が発生。
長谷院の被害については不明ですが、『尾張名所図会』の長谷院が明治時代に描かれたものなら大丈夫だったと言えますが、はっきりしません。
■明治24年(1891)
濃尾大震災のため庫裡・仁王門・多宝塔・鐘楼等全潰。
■明治25年(1892)
5月、被災した仁王門を再建。
■明治27年(1894)
8月、被災した庫裡及び鐘楼堂を再建。
■明治29年(1896)
5月、被災した多宝塔を再建。
■大正12年(1923)
この時点で本堂、庫裡、鐘樓、明王堂、多宝塔、仁王門あり。
★昭和初期
本堂の写真を撮影
※『稲沢・清須の昭和』より引用・加工
■昭和20年(1945)
3月12日の空襲によって、本堂・庫裡・明王堂が失われる。
■昭和27年(1952)
2月28日、仁王門焼失。
■昭和34年(1959)
仁王門再建。
伊勢湾台風で本堂が失われる。
■昭和45年(1970)
11月、現在の本堂を再建。
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こうしてみると、安政の大地震よりも明治24年の濃尾大震災で本堂がどうなったかがポイントのようです。
『新川町誌』には「鐘楼等全潰」とあるので、その時本堂も倒壊してしまったのでしょうか。
ただ、震災後に多宝塔や仁王門の再建について記載はあるのですが、本堂についてはありません![]()
写真と尾張名所図会の本堂を比べてみると、階段や屋根の向き、上部飾り(宝珠)、柱、燈籠の配置など良く似ています![]()
もしかすると写真右端の木は図絵にも描かれているかもしれません![]()
ただ、正面の屋根の形状が若干違うような...。
図絵では「でっばり」がありますが、写真の方ははっきりとわかりませんがでっぱりがないような...???
震災当時、本堂は潰れたのか、潰れた場合本堂がどのような方法で復元を行ったのかわかりません。
しかし私としてはこの写真は佐助さんが建てた本堂と同じ物と思いたい![]()
※参考文献
『西春日井郡誌』
『新川町史 資料編』
『新川町史 通史編』
『新川町誌』
『新川町八十年のあゆみ』
『稲沢・清須の昭和』
『名陽見聞図会』
『尾張名所図会』
新発見を求めて、佐助さん探しの旅はつづく。
またねー!



