こんにちは。

今回は定められた時への備えについて、書いて参ります。

昨今、終末の兆候が益々目に見えるようになっているので、終わりに対する認識と終わりの時に備えた自己改善の大切さを改めてお伝えしたいと思いました。拙文ですが、よろくお願い致します。

 

〇時は定められており、人間はその時を変えることは出来ない

 

事が起こる時を神はお定めになっており、基本的に人が時を変えることは出来ません。ただその認識でおられる人は非常に少ないのではないかと思います。分かりやすい例は死期を延長したいとか、外的環境を変えたいという人の願いは、神の御心に沿わない限り叶いません。人はその大事な節目の時がいつ来るのか事前に分からない為、明日も確実に生きているという認識には誤りがあります。故に「定められた終わりが訪れる」、「今日も無事活動が出来ていることを神に感謝して一日を大切に生きる」ということを意識して、人生の優先事項に力を尽くしていく必要があると思います。以下の聖句をご紹介致します。

 

何事にも時があり

天の下の出来事にはすべて定められた時がある。

生まれる時、死ぬ時

植える時、植えたものを抜く時

殺す時、癒す時

嘆く時、踊る時

石を放つ時、石を集める時

抱擁の時、抱擁を遠ざける時

求める時、失う時

保つ時、放つ時

裂く時、縫う時

黙する時、語る時

愛する時、憎む時

戦いの時、平和の時

人が苦労してみたところで何になろう。

わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。

神は全てを時宣にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。

(コヘレトの言葉三章一節~十一節)

 

わたしはこうつぶやいた。正義を行う人も悪人も神は裁かれる。全ての出来事、全ての行為には、定められた時がある。

人の子らに関しては、わたしはこうつぶやいた。神が人間を試されるのは、人間に、自分も動物にすぎないということを見極めさせるためだ、と。

(コヘレトの言葉三章十七節、十八節)

 

分かることは、人が行うことは全て自分の意思で決めているように思えてそうではなく、神の御計らいが介在しているということです。人の意思だけで歴史が作られてきたわけではないことが、旧約聖書に書かれた数々の預言が実現したこと、終末預言が現代において実現しつつあることからも分かり、上記の聖句は正しいなと思うところです。何事も思い通りには進まない事も、人が高ぶらないように(上記聖句では、人間に、自分も動物にすぎないということを見極めさせるためだ、と書いてある)気付きを得させる労苦を適宜与えられている故だと考えられます。また、今の時代が極めて悪く権力者達の悪事が一向に裁かれない事も、世の中全体が拝金主義に陥り人の品性が悪化し、悪に抗う為の大きな抵抗勢力が出来ず、不法が蔓延り、愛が冷え込む定められた時が到来していると実感しております。世相が悪くなりつつある時代において、いつ人生を終えるかは分からず、悔い改め未完了のまま死を迎えた先には、誰もが望まない裁きを待つのみです。厳しい裁きを避けようとするのなら、聖書に書かれた貴重な教えの理解に努め、忌まわしい自我を認識して悔い改める貴重な機会を頂けるように祈り、主イエスが天の父が完全であられるように、あなたがたも完全になりなさい(マタイ五章四十八節参照)と仰ったことの達成に向けて日々必死に改善したり、善い行いに努めていく必要があります。この点を言葉でいうのは容易ですが、完全になることは全く容易ではないと感じております。自身、ミカエル氏や兄弟達のブログや聖書を読み始めて数年が経ち、自身もブログの定期更新を始めて一年程が経ちましたが、ミカエル氏や兄弟達のブログを読んで励まされる一方、文章を読者の方に分かりやすく伝えさせて頂くことの難しさや、まだ悔い改めるべき部分があると感じております。自分の中にあって炙り出される問題は行動することによってはじめて分かると気付きました。逆に言えば、実践しなければ自分の問題点さえ把握出来ず、出来ると勘違いしたまま時間が過ぎていくであろうと思います。神は心を読まれる御方であるので、悔い改めきれないのは心の持ち方のどこかに問題が潜んでいるのだと思います。自分の考えや経験に頼って独りよがりで隣人愛を忘れたり、油断して娯楽を楽しんでしまったり、真心から遜れていなかったりする等、神の律法遵守の面で不完全で自己の思いが優先されてしまっているところ等です。神は確かに人が聖書に書かれた神の律法、掟、戒め、御言葉を固く守ろうとするかを御覧になり、万人に死という定められた時を備えられており、人が悔い改めが出来るのは生きている内なので、早めに悔い改めに取り掛からないと、悔い改めが未完の内に大艱難が訪れ手遅れになります。今後の社会情勢と神の裁きへの備え | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)は太陽暦二千十七年のミカエル氏の記事ですが、この時から今すぐ悔い改めるようにと警告されてから七年もの時間が経とうとしており、御存じの通りこの時から今に至るまで世相は悪化している一方なので、忠告を無視せず、備えをしていただけるきっかけになれば幸いです。

 

〇前提として:現状と達成すべき目標の差が見えなければ、改めようがない

 

現在の人生に課題が無い人は、私自身もそうですが、ほぼいないと個人的には思っております。そこで現状と達成すべき目標の差をはっきりと認識できることが改善の為の必要且つ、大切な一歩だと思います。仕事や年収や地位といった世の事に関しても現状分析を行い、目標との乖離を埋める為に努力をする人がいるように、聖書が伝えるところの「悔い改め」に向けて自己分析を行い、神が御要請されている基準との差を体感し、改善に至る努力を続けることが望ましいです。それにはまず聖書を学び、実際に悔い改めの行動に移すことで、自己の現在の状態を見える状態にしておく必要があると思います。

 

〇問題提起:正しい自己分析を阻害する高慢さに多くの人は気付かない/高慢の弊害

 

しかし、自己の現状を自身で正しく把握することは結構難しいです。後述します信仰の兄弟との交流が必要だと思う所以です。多くの人が正しい自己分析が出来ない原因は高慢さにあり、その高慢さに気付かないことの究極的な原因は神に対する不信仰から来ていると自身は思います。なぜなら、神の律法という絶対基準が無ければ、人間の基準で自分や他人を偏り見る高慢さに繋がるからです。無意識の内にでも高慢さが心に残っていると、利己的な行動に及んで、悪い点を指摘されても、「何故そんなことを指摘されないといけないのか」とか、「他の人もやっていることだから問題ない」等という具合に開き直る性質の悪さがあります。世俗的に普通であることこそが正しいと言えるのか振り返るべきですが、その観点が欠落しています。こちら (FNNプライムオンライン)は分かりやすい例ですが、不信仰者の鈴木財務相は「納税は議員の判断」と高慢にも開き直り、一般人であれば懲役刑か罰金の厳罰が処されるところ、脱税議員を庇う発言をしたうえで大した御咎めもなく、国民の非難を買いました。納税義務が国民に厳しく課され国民の負担は大きくなる一方で、公務員同士では脱税行為の容認を示すという国民を蔑ろにする高慢さから来ている発言です。こうした違法行為が堂々と行われながら、真っ当な裁きが下されない日本は無法国家であることを意味しており、ミカエル氏の記事動画五回目投稿 ほんまもんの愛と暦とはの掲載動画で述べられているように、現在の警察、検察、裁判所は不法行為を正せる組織ではなく、彼ら自身も適切に弾劾される機会が無いので、組織の体質が変わらず、高慢な状態での職務遂行になっていることすら気付いていない(正義感のある人は退職してしまう)はずです。そこで国民の団結によって彼らを正すことに活路を見出す必要がありますが、貧しい人が虐げられていることや、不正な裁き、正義の欠如などがこの国にあるのを見ても、驚くな。なぜなら身分の高い者が、身分の高い者をかばい更に身分の高い者が両者をかばうのだから(コヘレトの言葉五章八節参照)の通り、高位の者に盲従する人が多いので、長い物にまかれることが当然だという風潮が蔓延しており、正義は実に遂行されにくい状態です。このように役人だけではなく、国民もまた不義に甘く、国が決めたことに盲従する一方で弱い人には強気に出る高慢な気質を持って生きていることに気付かず、不正がまかり通る世を助長しています。不信仰者やパウロ教徒等の多数派が神の律法を守ることに異議を唱える点に関しても同じことが言えます。特にパウロ教徒は神の御心を考えておらず、巷で主流となっている主イエスの十字架によって罪を贖われたので救われている、神の律法を守れると思うのが高慢だ等といいたいのでしょうが、人を殺すな、盗むな、姦淫するなといった人として当然の道徳基準を守ろうとするのが高慢だと言っているに等しく論理破綻を起こしています(神は誰もが自滅の道を歩むことは望んでおられない一方で、一人一人の行動に報いた公正な裁きも用意しておられるのは聖書を読めば明確に分かること)。いずれにしても、神の律法を守らなくてもよいと考える不信仰が神を畏れぬ高慢さであるにも関わらずそれに気付かないのはサタンによる惑わしの働きの結果です。サタンは嘘付きの父(カトリック、統一教会、神道、仏教、イスラム教等はすべて嘘/ヨハネによる福音書八章四十四節ミカエル氏訳)であり高慢(エゼキエル書二十八章十七節参照)、主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢い(創世記三章一節参照)ので、高慢で人間よりはるかに才知にたけ、嘘が上手いです。人の欲望や弱い心に働きかけて快楽や妥協といった偽りの解決策を提示して油断させたり、サタンに唆された人を使って、地獄に人を投げ込むという教えは酷いよね等と言って大衆の感情に訴えかけ不信仰のままで安住させたり、主イエスによる十字架の贖いによって律法違反の罪は赦されているので、現代人は主イエスを信じれば罪を犯しても構わないんだよ等という様々な嘘や罠を張り巡らしているので、非常に手強く、巧みに多くの人々を人間至上主義の高慢体質にさせ、事実を誤認させ、第二の死に向かわせようとしています。サタンに惑わされていると、人の力だけでもサタンに抵抗出来ると高慢になったり、自らの不義を正当化して律法違反の不義を認めなかったり、高慢の自覚がなく、見栄を張るという行為が外に現れることにも繋がります。見栄を張るとは嘘をつくこと (taiwashi.jp)の通り、見栄を張るということは、嘘をつくに等しいですが、多くの人がついやってしまう行動だと思います。嘘をつくことは、嘘つきの父であるサタンの気質であり、第二の死に至る罪なのでやめなければなりません。人間よりもはるかに長い間、世に存在しているサタンに対して人の力だけで抵抗することは絶対に無理なので、抵抗するには、自己を低くして神の律法に完全に服従しておれるように常に自分自身の考えや行いには警戒しておらねばいけません。主イエスは、人からの誉れは受けない(ヨハネ五章四十一節)と仰ったように、神の律法を固く守り、人々によく思われようと歓心を買おうとして本心と言葉をたがえるようなことは一切されませんでした。聖書を正しく読んで神の律法を実践し信仰心を持つことが出来れば、サタンの気質と一致する高慢さを認識出来ると思いますが、そうでなければ、脱税容認発言のようにその場凌ぎで心の内の高慢な本音が出て、それを憚ることもしないので、同じような高慢な状態に陥る危険性は誰もがあり、他人事として捉えてはいけない問題です。

 

蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。(マタイによる福音書/ 12章 34節)

 

日本国憲法前文には、国政は国民の厳粛な信託によるもので、国政による福利は国民が享受する旨が書かれているので、脱税容認発言は憲法前文にに違反しています。こうした官僚や国会議員による国民を蔑ろにする高慢さの行きつく先は、弊ブログでも度々触れている通り、国家権力の暴走を抑制している憲法の改悪です。憲法改悪問題は国民の死活問題で、改憲問題 | キリスト道 (themedia.jp)ではかねてよりその危険性について警告されておりますので、是非とも読んで頂きたいと思います。官僚や国会議員の性質に問題はおおいにある一方で、憲法第十二条の通り、国民の自由や権利は、国民の不断の努力によって保持しなければならないと規定されている通りで、問題を知らねば憲法改悪によって自由や権利を剥奪されても後から文句を言えません。日本は非常に危機的な状況にありますが、多くの国民が大切な自由や権利を保持する努力をしていないように見受けられます。現状は多くの国民が官僚や国会議員に対して大勢が団結して物申すことがなく(工作員による大型抗議活動はたまにあるが基本的には権力者主導で不満ガス抜きなので無意味)、差し迫った危険性が無いので茹でガエルの状態で、自由や権利を保持する努力する必要性さえ感じていないのではないかと思われる為です。全力で改憲反対してワクチンも拒否せいはミカエル氏の三年前の記事ですが、抗議(デモ)活動もせいぜい数百人という少人数でやっても意味がなく、何万人、何十万人、百万人規模でやらんと意味無いと書かれています。なぜなら、立法、行政、司法が正常に機能していない、少人数で抗議しても無視される、少数勢力では社会的影響が全くない等の理由で、国民の多くが団結して抵抗するしか手段がない為です。一方、集団抗議は抗議者を暴徒化させて、緊急事態条項を適用させる言い訳作りになるので悪手だという意見がありますが、それは大型の集団抗議にはガス抜き要員の工作員が派遣されているからであり、それらの工作員は度を越した抗議活動をして、政治活動をする人は危ないという世論を作らせようとするからです。結局同調しているだけでは、権力者の意向が通ります。工作員以外の無視できない程の国民の大多数により猛抗議したり、政治監視体制を作ることができれば、また別ではありますが、行動に移す人は稀有であり、呼びかけも虚しく、何十万人、何百万人もの数の人による団結抗議には至らないという問題が生じています。それも自由や人権が将来的にも保障されていると思い、危機を認めようとしなかったり、有益な助言を軽視する高慢な体質の人が多いことが原因としてあるかと感じております。このような改善するべき内面性を持ち合わせていることが、第一優先でやるべき、神から頂いている図り知れない恩恵を知ろうと聖書を日々読んで、神の律法に服従することを拒むという行動にも表れているように思います。

改憲問題も神の律法に不服従であることも、神に逆らう者は高慢で神を求めず何事も神を無視してたくらむ(詩編/十編四節)と書いてある通り、過去の行為の罪深さを認めず、神が喜ばれることを考えずに物事を計画したり実行する高慢さに諸悪の根源があります。高慢は神の教えよりも自分の考えを優先することです。旧約時代に預言者サムエルが、イスラエル王国の初代サウル王に対して反逆は占いの罪に、高慢は偶像崇拝に等しい。主の御言葉を退けたあなたは王位から退けられる。(サムエル記上十五章二十四節参照)と発言した例からも分かるように、自分本位な高慢さは偶像崇拝(神の御心よりも、自らの思いや欲望を優先させることも含む)と同義で、偶像崇拝はヨハネの黙示録二十一章八節に第二の死に至る罪として書かれており、致命的な罪です

高慢さや偶像崇拝は、何が善なる行為なのかを正しく理解出来ない状態に陥ります。憲法改悪によって国民の人権が喪失し、戦争参加が義務付けされれば、多くの人の命が失われるにも関わらず、高慢な国会議員等は是々非々で遂行せんとしていますが、仮に彼らが隣人愛を説く神の律法に服従していれば、決して現在の平和憲法をかえようとは思わないはずです。また、施政者だけではなくこちら(Yahoo!ニュース)のように、財界人も緊急事態条項について主張し始めているので、財界人も政治家と繋がり世相が悪化することを容認していることが窺いしれ、憲法改悪に向けた外堀は着々と埋められ、神の律法に従わない高慢さによる世相の更なる悪化が罰として日本人に臨もうとしております。神の律法に従わない(不法)負の帰結として現代社会は不法が増大することにより、多くの人の慈愛が冷やされるだろうからや(マタイによる福音書二十四章十二節/聖書の終末預言一)の通りに各々が自己保身に走り隣人愛が失われている為、官僚や政治家、財界人、宗教法人の悪事に対する抑止力は全く働いておりません。愛する意味 | 本がすき。 (honsuki.jp)では、日本人が幸せになれない一番の大きな理由は愛していないことにある。とまえがきで書かれているように、誰もが高慢さを他人事ではなく、自己の問題、ひいては隣人に関わる問題になると捉えて改善していくべきことと思います。

 

〇高慢さを客観的に自己認識して治す大切さ

聖書が伝える人間のあるべき善と元々持つ悪(高慢、貪欲、好色、妬みや憎しみ等の悪意、利己心、愚かさ、怠惰等)を知れば、世の人達や自分がいかに悪い方へと傾いているかを知ることができます。それを知って他責するに留まらず、また、他人より自分は全然マシ等と思うのではなく(そう思うのは単なる高慢である為)、あくまで神の律法と自らの過去を比較した上で自分の悪を認識し、現在および今後の行いを改めていく必要があると思います。

成功するためには | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)には、以下のように書かれています。

怒られるとしても、それは悪い点を認知しようとせえへんとか改善しようとせえへん等と怒られるような状態で在り続ける人が悪いんですよ。自分自身が悪いと思う自責をしなはれ。「自分は間違ってない。他人のせいだ。」、「お前に言われる筋合いは無い」等と思う高慢で自己愛に満ちた人は、手に負えへんし、早々にその認識を改めるべきや。そうでないと、何も変わらんよ。早よそのことを認識しなはれ。

 

私自身も主イエスの御前に非常に罪深い人間として、今までの過ちを忘れて高慢になってはいけない、大丈夫だ等と決してうぬぼれてはいけないと認識しております。大丈夫と思ったすぐそばから油断が生じて、サタンのあらゆる誘惑に陥る隙を作ることになる為です。神が人を御覧になる基準と自分が自らを査定する基準には、大きな隔たりが生じるので、細心の注意が必要です。

 

〇正しい自己認識をして改善をするために

繰り返しになりますが、聖書から神の律法を知ることが大前提です。最初は理解出来ないこともあるかもしれませんが、読むごとに徐々に理解出来るようになってくると思います(分かったとしても、何も人が誇れることではありませんが)。

その後は先述した通り、神の律法と比較して、正しい自己認識を持つこと、自己改善に動くことが課題となって参ります。正しい自己認識が出来ない(自分の非に気付かない)のは、指摘や叱責されることを拒み、自身の非に気付かないままであったり、自分が正しいと思い込んでいたり、好きなように生きたいという自分を通そうとする高慢さ故と思いますが、それでは聖書や他者からの有難い言葉を心から受入れることが出来ないと思います。自身も経験致しました。しかし、主イエスは、わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。(ルカ五章三十二節)と仰ったように、正しいと思い込んでいる高慢な人ではなく、罪の意識のある人を悔い改めに導こうとされています。

そこで、聖書とこれまでの経験上、正しい自己認識と改善をするために大切だと思うことを五つ列記させて頂きます。尚、本来、正しい自己認識と自己改善は一緒にやるべきこと(やれること)だと思います。正しく自己認識出来ていれば、結果として自己改善しようと思えるはずだろうからです。何かの試験を受ける時に、このままでは合格基準に未達で不合格になるだろうから、もっと頑張ろうと自然に思って改善していく行為と似ているかもしれません。いつまでも改善出来ないとしたら、前段の自己認識が適切に出来ていない可能性があります。例えば悔い改めようと表層では思っていたとしても、律法主義者のように、心の奥底では悔い改めを拒んでいる状態にいる可能性を疑う必要があるのかもしれません。神は心を読まれ、憐れもうとする者を憐れむというように、自らの弱さを知って必死になって神の憐れみを乞わなければ、真に正しい自己認識を持って改善することは叶わないのではないかと考えられます。以上の点は自戒を込めてお伝え致します。

 

一.神の律法の正しさから自己と世俗社会の悪さを知って、主イエスへの信仰心を持ち自我と戦う

まず、神の律法を知ることが大前提と申しましたように、神の律法は創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記(以下モーセ五書)に書かれているので、読んで頂ければと思います。主イエスが仲介者となり、神は律法の内容は一部更新(祭司制度、死刑制度、贖罪の為の動物の生贄、食物規定等は廃止)されていますが、全体の内容として、神の律法の全規定が人が慈愛をもって平和に生きることを願われて書かれています。しかしモーセ五書だけを読んでも完全に真意を理解することは出来ないし、神の教えを全て守ることには至らないので、旧約聖書と新約聖書全体を通して理解する必要があります。真のキリスト者になる道 | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)の②で、聖書全体理解の為に、短期間での聖書複数回通読と通読の仕方が説明されているので改めて御覧になり、聖書の通読を早急に開始されることを推奨いたします。世相は悪化の一途を辿っている為です。通読を完了した上で聖書の内容を理解出来ることが前提にはなりますが、ミカエル氏は主イエスへの信仰によって高慢という病が治されると、聖霊の働きの確証 | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)に書かれていますので、以下に引用致します。

高慢とは自分が優れている、自分が正しい、間違っていないと思い込むことです。それも何の根拠も無いのにです。過去記事「主権は神にあり、人間にあらず」でも述べたことですが、人間が制定した法律や法廷で裁かれなければ犯罪者ではないから罪人ではなく自分は善人だと思う者は高慢という第二の死に至る病気に罹っています。このような高慢の病に罹っている人は、地上の医者、病院、いかなる薬によっても治されることはありません。それはただ主イエス・キリストへの信仰によってのみ治されるのです。聖書は明確に神の律法(モーセの律法)、掟、戒めに背いたら罪を犯すことになり、それをもって罪人とされると教えています。基準は神の律法なのであり、人間が制定した法律等ではないのです。そのような頑なで高慢な者は死後に神によって断罪されます。

繰り返しますが、高慢さは主イエスへの信仰によってのみ治されると書かれており、この記述は正しいと思います。なぜなら、神の律法を知り、守っていく過程で人間が罪深く弱い存在であること、この世が悪いこと、真に畏敬するべき神である主イエスの偉大な御功績を知り、神への畏敬の念から誇ろうとする高慢さが薄れ、他者に配慮したり憐れむ気持ちが生まれると思う為です。且つ、神の力による恵みを得させて頂くことで、人が正しい行動を実践できるようになっていく(人単独では正しい行動は出来ない)という認識が前提です。プロテスタントの致命的な間違い | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)の内容を抜粋させて頂きます。

真のクリスチャンは、主イエスを神でありながら人となった唯一の救い主と信じ、主イエスを模範として神に従順に従うことの証拠として神の律法、掟、戒めにすべて従うことが当たり前と考えるようになり、キリストに近い品性を形成し、清い生活をすることができます。これは人間自身の努力の成果ではありません。聖霊の力、即ち、神の力です。

また、ヨハネの手紙一/ 三章十節においても、神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです。正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様と書かれていることからも、ミカエル氏の言及が正しいことを裏付けています。

正しいという言葉は誰もが知る単語ですが、改めてその意味を調べてみます。

 

 形や向きがまっすぐである。

㋐形が曲がったりゆがんだりしていない。「線に沿って―・く並べる」「―・い姿勢を保つ」
血筋などの乱れがない。「由緒―・い家柄
 道理にかなっている。事実に合っている。正確である。「―・い解答のしかた」「―・い内容」「公選法は―・くは公職選挙法という」「―・いトレーニング方法」
 道徳・法律・作法などにかなっている。規範規準に対して乱れたところがない。「行いを―・くする」「礼儀―・い態度」「―・い判決」

正しい(タダシイ)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)より引用


上記の通り、正しいの意味は、道理にかなう、事実に合っている、正確である、道徳・法律・作法にかなっている等があります。しかし、世に無数にある教えの中で、各人によって正しさの基準が異なれば、それは欠点の無い全き真理とはいえませんので、どれが真に正しい道徳、法、作法なのかを人が見分ける必要があります。それには、ミカエル氏が推奨しているように聖書を複数回通読して正しい解釈を理解することでしか、真に正しいことは理解出来ないと思います。聖書にはその羊もわたし(主イエスのこと)の声を見分ける(ヨハネ十章十六節参照)と書かれていて、ここで書かれている羊は主イエスを信じるようになる人の例えで、主イエスはわたしは道であり真理であり、命である(ヨハネ十四章六節参照)と仰いましたので、主イエスの羊は聖書複数回通読を経て、神の教えの正しさを見分けることが出来るようになっていくのだと思います。聖書が正しいと見分けられるのは、まだまだ不完全な状態であっても、神に御招き頂いた人が、聖書を読んだり、世の事情を調べて理解し、神の正しさと世の悪さと共に、自分の悪い面をも炙り出され気付かされるようになるからだと思います。

人や世の悪さに関して例を挙げると、人が心に思うことは、幼いときから悪い(創世記八章二十一節参照)とも書かれていますように、幼い頃であっても、悔い改める前の人の心は少しずつ自我が芽生えてきて利己的な悪い思いが内在するようになることは事実です。また、この世全体が悪い者の中にあります(ヨハネ一 五章十九節参照)と書かれていますように、多くの人が高慢であることが悪いと口では言いながらも、サタンや悪魔崇拝者が作った高慢になる世の仕組みそのものを容認し、自らが律法違反を悔い改める行為は蚊帳の外です。会社には代表取締役社長、専務取締役、本部長、部長、課長、主任、担当等といった階級や役職があり、本来は指示系統を確りする、役割分担するといったことが趣旨で、階級が高位であれば人間的に優れているという意味はないですが、現実には役職が高いというだけで高慢になって理不尽な指示を出して罵倒したり、高位者に不必要にご機嫌伺いに走ったり、金銭取得の為に法を無視したり、売れる商品という理由だけで売国行為に等しいことを推進したり、道徳心を蔑ろにする事例が多くあります。従業員は年を重ねる毎に企業体質に馴染み、会社利益の目標達成の為に部下に必要以上に厳しくあたる組織内虐待(パワハラ)や不合理な会社規定によって、社員が離職する事例や自殺者を生み出したり、添加物満載の食品や遺伝子組み換え食品の流通、5G基地、AI、機械化、自動化が日本の至るところで推進されて、人を不健康にしたり、人手を減らして日本人の労働場所を減らす片棒を担いでいます。日本の労働社会は法や道徳を重視せず拝金主義になっているので、高慢な人が非常に多く、神の律法が説く慈愛が欠如した行いは日常茶飯事になっております(この構造は労働社会に限ったことではないですが)。

このような悪い構造の世俗社会で、周りの人と自分を比較して自分は高慢ではないと自己判断を下したところで、その判断は正しくないことは明らかで、むしろ人の地位、給与、外見、人当たり等という表面的な比較基準で隣人より自分はマシ等という悪い思いを抱きやすく、神の教えに反しやすい社会構造となっています。

対して、主イエスは以下のように仰っており、人が高慢になる必要性や要素は無く、むしろ人に仕えるように仰っており、人の正しいあり姿として明白です。

 

だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。(マタイによる福音書/ 23章 08節)

『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。あなたがたのうちで一番偉い人は、仕える者になりなさい。(マタイによる福音書二十三章十節)

 

聖書全体を理解することで、主イエスこそを畏敬すべき師として仰ぎ、仕える気持ちが生まれるので、他者を憎む、見下す、嘲笑する、高慢な思いを抱く、不毛な論争等の行為をすることに無理が生じます。

纏めますと、聖書の複数回通読によって、人としての模範を学び、自己や世と対比することで悪い点に気付き、神の正しさを認め、自身の悪事から足を洗うように心を向けることが信仰の入り口だと思います。信仰者が戦うべき敵はサタンであり、サタンの誘惑に付け入る隙を与える品性を持つ自分と戦う必要があります。

主よ、あなたの道をお教えください。わたしはあなたのまことの中を歩みます。御名を畏れ敬うことができるように一筋の心をわたしにお与えください(詩編/八十六編十一節)の通り、ダビデは神の道を歩む決意を表明して、神を畏れ敬う心を与えて頂けるように願っており、苦境の中、己と必死に戦い神に遜っていたのだと想像致します。

自我との戦いは悔い改めを伴う信仰であり、自我との戦い | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)には人が持つ自我とどう戦うべきかが非常に分かりやすく書かれていますので、是非ともお読みください。

補足にはなりますが、現代に生きる人が信仰心を持ち、悔い改めるか否かは、神からお招きいただいて聖書をどう読むかにかかっておりますので、聖書と悪い世の内情を読み取る「読解力」が必要と思います。現代日本人の読解力は低下していると言われています。読解力の低下は現代日本人の読書量が少いこと(活字離れ)、学校や社会人生活を通じた丸暗記教育、テレビ、SNSや娯楽等の普及による文字離れ等が原因かと思われますので、なおのこと、聖書を読むために読解力や持続力の向上は大切です。こちら(プレジデントオンライン)では、GIGAスクール構想(文科省が「一人一台端末と高速大容量の通信ネットワークを整備することで、多様な子どもたちを誰一人取り残すことなく、個別最適化された教育によって個々人の資質・能力を伸ばす環境を実現すること」を目指す教育改革)で「個々人の資質・能力を伸ばす環境を実現する」ことができるのか、大いに疑問を感じる、デジタル端末を使うことで学力があがる証拠がない、むしろ紙ではなくデジタル端末を学習に使うことで学力が下がる等の警鐘が鳴らされております。

川上氏は、読書をしたとき、音読したとき、紙に文字を書いたとき、人と対面で話したとき、これらの時に脳が働くと述べています。

そのため、聖書を紙媒体の本を購入して読み、且つ音読をする(音読は時間がかかるので、時間との兼ね合いがあります)、聖書で読んで重要だと思う内容を紙に書いてみる、聖書の話を対面で話してみる、これらのことを取り入れてみてもよいのかもしれません。それと、聖書の読み方については、聖書預言の正しい解釈方法 | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)も是非ご参考の上、聖書を読み進めていっていただければと思います。

 

二.自らが犯した過去の罪を認める、最期の時まで悔い改めの道を歩いていく

この点は、先述した自我と戦うことと共通します。

聖書から神の正しさと共に、世の悪さ、自我の問題等に気付くと、自らが非常に罪深い行動ばかりをしてきたという思いに苛まれます。罪の思いに苛まれるのであれば、苛まれる程の致命的な行動をしたことを覚えておく必要があると思います。覚えると言うのは簡単なのですが、いつまでも心に留めておくのは自己愛に満ちた心では、苦しくなりかなり大変です。しかし、自己の重責を認めて忘れずに覚えていなければ同じような重い過ちを繰り返して、神や隣人を悲しませる可能性があるので絶対に忘れてはいけないし、もし、忘れたり、無かったことにしようとするのでは、心の中では悔いていない事を意味しています。こちら(X)のように、非常に著名なYoutuberのはじめしゃちょー氏が河野太郎氏と新型コロナワクチンに関する対談を行い動画を上げたことが、多くの人に対する新型コロナワクチンによる健康被害への加担行為だと追及されておりました。もし良心が残っていれば、このような動画掲載によって、多くの人が接種を心に決め、接種した結果、健康被害が発生したり、遺伝子を組み換えられたことを知った時、罪責の重さ、真実を公表した際に受けるであろう凄まじい批判を想像して、苦悩に苛まれるはずです(勿論、接種を決めた人にもその責任の一部はあるのですが)。やってしまったことは取り返せないので、その罪を忘れずに赦しを乞い、この先の行動で悔い改めるしかないと思うのです。

このワクチン接種推進の例とは異なりますが、個人的には、姦通の罪で捉えられた女性の話がヨハネによる福音書八章に記述されていることを思い出しました。主イエスはこの女性にあなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう罪を犯してはならない。と罪に対する赦しと共に将来的には罪を犯してはいけないことを勧告されました。

当該聖句からは、重大な罪を犯した事実はあるが、主イエスは人間の弱さを御存じで、罪に対する赦しと共に悔い改めを勧告する大きな愛をお持ちであること、律法学者やファリサイ派が他人に厳しい一方で自分に甘い(現代においてキリスト者に心無い野次を飛ばして自らは一向に悔い改めない多くの人達に重なる)こと、過去の罪を忘れず、自己を戒め続けねばならないこと等を学ぶことが出来ます。

死に至るまで忠実であれ。 そうすれば、あなたに命の冠を授けよう(ヨハネの黙示録二章十節参照)と書いてある通り、人間の罪への赦しを与えることが出来る権能をお持ちの御方は主イエス御一人であって、救われるかは人間には分かりませんが、確実に言えることは過去の過ちを真に悔いるのであれば、その後の行いがかわって悔い改めの行いを継続していくということです。悔い改めに関して、受け身をやめよ、行動せよ | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)で、簡潔に述べられているので引用させて頂きます。

知らなかった時に犯した過去の罪は、主イエスを信じて悔い改め、神の律法を守るようになれば赦される。過去がどうだったとかやのうて、現在及びこれからのことを言うてるんや。悔い改める(律法違犯をやめて遵守する)なら赦されるが、自分らの罪を認めずに悔い改めへん(律法を破り続ける)のなら赦されず地獄行き。これが単純明快な主イエス・キリストの教えや。もしこれを読んでるのが、日本人でないとしても、皆同じく改める必要がある。

過去の罪は悔い改めて、神の律法を守るようになれば赦されるという記述があります。現在およびこれから神の律法を守るようになるとは、一時的ではなく、継続を重ねることを意味しています。

はじめしゃちょー氏の例や姦通の罪を犯した女性の例や他人に無駄に厳しいファリサイ派や律法学者の例から見ても、罪を犯すのは一瞬であり、それは自分可愛さや愚かさから来るといっていいものです。正しい絶対基準」である神の律法と世の実情に対する無知や律法に対する不従順さ(慈愛や信仰心が希薄)が根源にあります。悪い者の支配下にある世で、自身を律することが出来なければ、それほどに罪を犯すことは非常に容易です。なので、聖書には浅はかな者は熟慮することを覚え、愚か者は反省することを覚えよ(箴言八章五節)とも書かれています。洗礼者ヨハネも悔い改めにふさわしい実を結べ(ルカ三章八節参照)と述べ伝えたように、悔い改めた後は実(行い)を結ぶはずなので、一時の油断でまた罪を犯してしまった・・・ではいけないと思います。仕事だから律法を守れなくても仕方ない、お金の為には律法を守れなくても仕方ない、親しい間柄の人の期待を裏切れない、周囲の人も同じようなことをしてるから律法を守れなくても大丈夫、欲望は抑えられないから律法は守れない等というもっともらしい理由をつけることは簡単です。しかし、それら一時の油断で罪の認識を甘くすることが罪へと繋がります。この自己愛を打ち消そうと頑張っても度々沸き上がってくる機会があるので、その都度、自己愛を打ち消して頂けるように祈り、罪なる行為に走ろうとする自我と戦い続けねばならず、常に神から何を求められているかという視点を失念してはいけないと思います。

また、命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない(ヨハネによる福音書六章六十三節)の通り、自身の経験からも、人間の力だけでどうにか頑張って律法違反をやめられるようになるとは到底思えません。自力で頑張ってなんとかなると思うのは、先程も申したように認識が高慢だからだと思います。過去の罪を悔いて、自分の保身を考えることをやめて、遜って神の律法を守り、御心であれば聖霊の賜物を頂くことが出来れば、苦難を経験しながら聖霊の御意向に従い続けることで、罪に完全に打ち勝つことが出来るように成長するのだと思います。

過去の失敗経験から学び、改善する気持ちと行いを続けていくことが大切であるという点を述べさせていただきました。


三.信仰の兄弟との交流

自己認識と自己改善に向けてすべきことの三番目に信仰の兄弟との交流を記述します。

兄弟を愛するようにという以下の主イエスの掟の達成の為に、そして正しい自己認識をして改善していく為にも、非常に大切だと考えます。

 

あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネによる福音書/十三章三十四節)

神を愛する人は兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。(ヨハネの手紙一/ 四章二十一節)

 

主イエスは人を愛しておられます。上記に記した新しい掟は、主イエスが模範を見せてくださったように、世俗社会を生きていく上でキリスト者が受ける試練に耐えられるように信仰の兄弟同士で励まし合うように、信仰の兄弟に苦難があれば助けるようにという愛ある御心遣いから来ております。真の友好関係は、金銭による一致ではなく、信条の一致によって築くべきだと思います。金の切れ目が縁の切れ目というように、金銭の力で築かれた人間関係は脆い一方、同じ信条で結ばれた人間関係は堅固です。信条とは、「固く信じて守っている事柄」のことを指し、キリスト者は、主イエスの教えを正しいと理解して、神の律法を守りぬくという信条を共通にしています。わたし(主イエス)はぶどうの木で、あなたがた(真のキリスト者)はその枝である(ヨハネ十五章五節参照)の通り、主イエスに対する信仰をもって枝として繋がっていれば、真の一体感があるはずです。繋がっていなければ、皆例外なく、学業、仕事、金銭、快楽、娯楽等に心を囚われ、例えそれらのことで成功したとしても自己満足に近く一体感はないと思います。今の日本人はエジプト出国前の過酷な労働環境下にいた古代イスラエル人に近い環境に立たされており、まともな人程心が折れる世です。世の苦難によって打ち負かされ、信仰から脱落せぬように、信条が一致し主イエスを仰いで労苦に耐えている兄弟達と共に励まし合わなければ愛に完成した人にはならないのだと思います。それは私自身もまだ出来ていない点です。また、一人だと信仰の兄弟からの的確な叱責や指摘を受ける機会を逸して、高慢という悪い自我を完全に排除しきれない可能性があるのでその点も解決出来ると思います(兄弟との交流なくば、主イエスが仰った完全になりなさいという御命令も達成できない可能性がある)。ミカエル氏の記事にも信仰の兄弟との重要性について書かれているので、抜粋させて頂きます。

カトリック、統一教会、神道、仏教、イスラム教等はすべて嘘

当たり前ですが、信仰を守るのは一人でも可能ですが引きこもりは駄目ですし、信仰の兄弟との交流は必要不可欠です。そうでないと主イエスの掟を守れへんさかい。

キリスト者の成長に必要なこと

一人っきりで居るっていうんはあかん。一人やと自分のやり方に固執して高慢になる危険性、自分が誤ってても指摘を受けへん故に気付かずそのまま改めへん危険性、他人に奉仕せえへん、他人のことを思いやらず自己中心的になる等といった問題点がある。もっとも、にわか信者どもが群れても無意味やけどな。主イエスが何故兄弟の交流を命令として下しはったのか。それは後の世では必要不可欠やからや。勿論、この世でも必要不可欠やし、その信仰の兄弟こそが真の肉親とも言えるようになるからや。主イエスもその旨を話しはったやろ(マタイ十二章四十六節〜五十節参照)。肉の親や兄弟は、主イエスにとって真の肉親のように捉えてへんことが明白やろ。

 

以上に述べられているように、一人では高慢になる、改める機会を逸失する、自己中心的になる危険性が述べられており、信仰の兄弟と交流し助け合い、自分本位な信仰に陥らないようにすることが不可欠です。

また、ミカエル氏や信仰の兄弟達が書く記事から新たな視点を学んだり、学びを投稿したり、分からないところを訊いたり出来る意義が非常に大きいです。私の場合ですが、励みになると共に認識が甘いと気付くと共に、記事を周知しております。ミカエル氏や信仰の兄弟達の各記事で非常に深い調査や考察がされていますので、聖書と共にお読みいただいて、共感頂いたり、信仰の兄弟達と励まし合い、更に信仰を強めていきたい方は、「兄弟の集いの場」に関する告知 再掲 | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)を御覧頂き、参加申請をご検討頂ければ幸いです。

 

四.世における苦難を知る

四番目に世における苦難を知ることについて、記述します。

だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない(詩編/十四編三節)とも言われる程の世俗社会で、神の律法を守ろうとする過程で、信仰や忍耐が試される機会があると思います。自身は世俗社会の構造と自我が原因で、神の律法を守ることに難しさを感じ、自らは高慢であったこと、善い行いをしようとしても大したことは出来ない者であることを改めて認識して参りました。大したことが出来ないままでは、役立たずなので、苦難を経験して打ちのめされたことで、諦めて罪を犯して成長しない状態を抜け出す努力を積み重ねる必要があります。苦難によって悪い部分を認識し、その上で悪い部分を改善することが大切だと思います。

主イエスの使徒のペトロや他の使徒達は人間に従うよりも、神に従わなくてはならない(使徒言行録五章二十九節参照)と述べたのは、「主イエスが御命令された伝道」をしないように大祭司から詰問されたことがきっかけでしたが、主イエスが捕らえられた際に自己保身の思いに駆られ迫害されぬように離散した経験から、己の弱さを知って、第一に神に従うことに希望を見出していたことから出た発言であり、この時は新生しており迫害に対する恐れはなかったと思われます。ダニエル書からも、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴが偶像崇拝をしなかった故、バビロンの王ネブカドネツァルより火炎の炉に投げ込む旨、命を脅されながらも、命を惜しんで偶像崇拝をしなかったことから分かるように、神に従うことを第一に優先しており、大きな苦難から人を救えるのは自分自身ではなく、神だという確固たる認識を持っていました。現在を生きるキリスト者は彼らが経験されたような命に危険が及ぶ迫害を受ける状態ではありませんが、その時が来ると預言されていますので、使徒達や旧約時代の預言者のように、自然に神の律法に従える状態に成長しておかなければならないことが分かります。

現時点では、房付きの和服で過ごす、安息日(金曜日日没~土曜日日没)を遵守、世の悪事の周知、世俗的な楽しみに興味を示さない、その他神の教えを守ることは、身近な人に理解されず関係が疎遠になるとか、世で言われる金銭や地位といったこの世の成功からはかなり遠ざかり、世間的に見れば低い者になりますので、それを受け入れざるをえない機会に遭遇します。福音伝道をしても、商品を提案して興味を持ってもらうのとは異なり、相手が興味を持って正しい信仰に入るようになることはほとんど無いので、苦悩する経験から、主イエスの御言葉は正しいと知り、畏敬の念が深まり信仰心が強くなっていき行動を続けていく原動力になると思います。今ある苦難は来る大艱難に比べれば序の口ではありますが、この段階を経験しておかなければ、来る大艱難は乗り越える強さを急に頂くことは出来ないだろうとも思います。苦いことを多く経験し自分は特別だという勘違いを一刻も早く捨てられるよう努めていくことが大切です。

大艱難の兆候は見え始めており、世界経済討論会(WEF)のユヴァル・ノア・ハラリ氏は、「聖書が真実ではない情報(フェイクニュース)と考えているか」という問いに対し、「そうだ」と答えたのはハラリ-聖書はフェイクニュース - ニコニコ動画 (nicovideo.jp)で確認可能で、また、こちら(hatenadiary.com)の記事から以下抜粋致しましたように主イエスを憎んでいることが明白です。

WEFはまた、キリスト教や主要な宗教に対してますます敵意をむき出しにしている。行間を少し読めば、WEFが意識的にイエスに取って代わろうとしていることは明らかです。WEFによれば、イエスはフェイクニュースであり、神は死んでおり、あなたには魂がない。あなたは自由意志を持たない「ハッキング可能な動物」なのです。

主イエスがこの地に来ておられた際、世はあなたがたを憎むことが出来ないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ(ヨハネ七章七節参照)と仰いました。今この時代においても主イエスは権力者から憎まれ、主イエスが預言された通り、主イエスの教えを伝道をするキリスト者も迫害されることが確定しています。あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。(マタイ二十四章九節)の通りの状況になることは、WEFや各国の権力者の動きを見ていれば、決して遠い未来では無いと思います。また、兄弟は兄弟を、父は子を死に引き渡すだろう。子は親に反抗して殺すだろう。また、我が名のためにすべての人に嫌われるが、最期まで耐え忍んだ者、その者は救われるだろう。(聖書の終末預言 四 | 真の聖書福音と預言/ミカエル氏訳より抜粋/マルコ十三章十二節)の通り、家族さえもキリスト者と敵対する関係になると書かれています。

SDGsというカルト教義の下で、食糧難が引き起こされたり、戦争が引き起こされたり、個人番号券と保険証や免許証の一体化によって、個人信用得点制度に結びつけられ、それらの制度に従わない人は、生活必需品の購入さえままならない状態にさせられ、社会的危険人物として拘束される時代が近い将来に到来するかもしれません。

民数記十一章でも、イスラエル人がエジプト出国後の日々の簡素な食事に飽き、エジプトにいた頃の美食に思いを馳せ、エジプト出国を先導したモーセに不平不満を言い出した例もあり、食や安全が保証されないと感じた時に人の本音が表出します。

過酷な時にあっても、神の御心を知って行い、迫害を喜びとしていける人になれればよいなと思います。

終末時代に神の預言通りの世相になることが確定している為、いくら「そんな悪い世の中になるはずはない」とか、「この世をよくしたい」等と思っても、悪人ばかりの世が改善される見通しはなく、残された手慰みの人生を楽しんで死後の裁きにおびえるくらいなら、むしろ今からでも苦難に耐える生活へと切り替える覚悟をして、神の御心に叶うことが何かを聖書からよく学んで、実現に向けて頑張っていくべきではないかと考え、以上の点を書きました。

 

五.継続すること

上記のような艱難を乗り越えるには、人の力ではどうにもならず、やはり神に依り頼むしかありません・・・しかし、そればかりではなく、繰り返しになりますが、主イエスが御命じになったことをぬかりなく行う必要があります。しかも、常に実践せねばならないことが以下聖句からも分かるので引用致します。

あなたは、あなたの神、主を愛し、その命令、掟、法および戒めを常に守りなさい。

(申命記/ 十一章一節)

この「常に」とは以下の意味があります。

  1. 1 どんな時でも。いつも。絶えず。

  1. 2 変わることなく。そのままに。常に(つねに)とは? 意味・読み方・使い方をわかりやすく解説 - goo国語辞書より引用)

説明で示されている「どんな時でも、いつも、絶えず」というのは、「何をしている時でも」ということを意味しています。世俗の仕事をしている時も、思いがけない不遇な事が起こった時等、聖書が手元にない時においても、神の律法、掟、戒め、御言葉に従い通せているかが試されております。成功するためには | 真の聖書福音と預言 (ameblo.jp)で書かれていることを引用させて頂きます。

 

言うても、今更という感じですが、実際は過去に何遍も言うてきたことであり、簡単に言えば、聖書に書かれてることを守り、実行し、それを死ぬまで継続すればええだけの話なんであり、何も複雑なことは無く、簡単なことです。違いは、継続してるか否かで、覚悟があるか否かです。やらへん人や途中でやめる人は、覚悟が甘いんや。主イエスの教えどおり、最期まで信仰を持って神の掟を守り抜く覚悟が備わってるなら、途中で脱落なんてせえへんし、臆病でうじうじして何もせえへんなんてことにはならへんから。
拙者は、生まれながらにこないな考えを持ってた訳ちゃうし、様々な知識も何の努力もせずに獲得した訳ちゃうで。すべて拙者自身の努力の賜物であり、神のお導きというお膳立てもあってこそ成し得たことや。せやから、努力をせずして、楽して結果を出すのではない。また、正義感を持つことに関して言えば、子供時代からずっとこれはありますし、今も変わらへん。せやから、この活動の原動力の一部になってる。気質の部分においては、人によって明確に差があるもので、この点については比較しても意味が無いし、望んでも手に入らぬものを得ようとしても無駄やし、そこについてあれこれ言うつもりはない。
ただ、伝えたいのは、「継続することは誰にでも出来る」ということ。やろうとさえ思わぬ者は論外で、やろうとしても続かへんのが問題です。この誰にでも出来ること、凡人にも出来ることをやらへんっていうのが問題なんや。三日坊主と言うように、非常に飽き易くてすぐにやめてしまう人は、何をしても成功せえへんよ。世俗の仕事についても同じことが言える。人間は全知全能やないし、生まれながらに才能に恵まれる人はごく僅かやし、ごく限られた分野でしかなく、何でも出来るのではない。せやから、凡人にあるのは特定の才能やのうて、努力する才能や。これと決めたら、それを「やり抜く力」がある人が成功するというのが普遍的な真理と言えよう。逆に、やり抜かへん人、継続的に努力せえへん人は必然的に負け組になる。

以上に書かれている「継続」と「覚悟」が鍵となる単語です。将棋の羽生義治九段の言葉に「追い詰められた場所にこそ、大きな飛躍があるのだ。」という覚悟に至らしめる環境の重要性や、「私は才能は一瞬のひらめきだと思っていた。しかし今は、十年、二十年、三十年を同じ姿勢で、同じ情熱を傾けられることが才能だと思っている。」という継続の重要性が分かる言葉があります。他にも、納得出来る言葉がいくつかあるので、興味のある方は羽生善治の名言・格言集。進化を続ける天才棋士の言葉 | 癒しツアー | Page: 2 (iyashitour.com)を読んでみて頂ければと思います。

人から一流だと思われている人は、最初からそうではなく、見えないところで凄まじい努力をしていることが励みになります。だから、今やろうと決めて、その後は大変な時も少しずつでもやることが、継続していくことになり、大きなものを作りあげる素地となるのだと思います。いきなり無理なことをやろうとするのではなく、現時点で出来ることを色々と試しながら気付きを得て成長していくことが大切だと思います。自分一人では何かしら偏屈な考えや無益な考えがあり、未熟さ故に、壁にぶつかることは確実にあるので、先にも申しましたように兄弟達との交流が非常に大切です。壁にぶつかった時には、ミカエル氏に正直な心の内を相談をされてみることをお勧め致します。非常に有益な御助言を頂くことができ、忙しい中、一緒に考えて頂いて今必要なことを伝えて頂けることに感謝の念が生まれると思います。信仰に入ってやるべきことを継続することで、心の在り方には確かに変化が生じると思います。聖書は難しい、律法に沿った生活や悔い改めは難しい、現状手一杯だから、死後どうなるか分からないから、今生きている時を楽しもうと思う人が多いと思いますが、そのままで本当にいいのかは立ち止まって考え、行動に移すきっかけとして頂けましたら嬉しい限りです。

お読みいただきありがとうございました。