シアトルでも広布の出会いが…‼
アメリカで、三番目の訪問地シアトルでも、無作の行動で…! アメリカの広布の旅は、「旭日」の章ではハワイ、「新世界」の章ではサンフランシスコが舞台となりました。今回の「錦秋」の舞台は「シアトル」になります。シアトルというと「イチロー選手が活躍したシアトル・マリナーズ」を思い浮かべる人は多いと思います。カナダに近い位置にあります。緯度で言えば、北海道の宗谷岬よりもさらに北になります。しかし、海流の影響で、気候的には東京より少し寒い程度だそうです。サンフランシスコ空港からジェット機で約2時間ほどです。とはいっても、距離的には1,000㎞ほど離れています。日本で言えば、青森から下関まで日本海の上空を通っての直線距離は1,200㎞程ですので、それを考えれば、近いようで遠い街に移動したと言えます。昭和35年10月6日のことでした。当時の海外部担当の人の報告では、シアトルには20数名のメンバーがいるとの報告でした。しかし、山本伸一一行が空港に到着した折に、出迎えに来ている人がいるかどうか分からないということでした。ハワイの時もそうでしたが、まだまだ電話が普及しておらず、しかも海底ケーブルが敷設されたのはもっと後のことで国際電話もありません。メンバーとのやり取りは、全て手紙です。船便なら片道30日、エアーメールでも1週間はかかりました。ですから、お互いに確認もできないままの出会いだったのです。しかし、空港に着いてみると10数名のメンバーが出迎えに来てくれました。山本伸一一行のアメリカの広布旅も、ここまで約1週間は、タイトなスケジュールで、休みなく来ました。相当疲労も溜まっていたことと思います。でも、この期せずして大人数の出迎えにより、更に一層士気が高まったのではないかと想像されます。山本伸一は、この瞬間の出会いを最大限に大切にしました。常に、”会員を最大一に”と考えていたからです。この中には、小さい子供を連れてきた婦人もいました。皆が初めて会う会長の山本伸一。誰もが、緊張していたと思います。その緊張を、山本伸一が子供を抱き上げてあやす姿が、和らげていきました。これこそ、先生の”無作三身の姿”だと思いました。子供は、嘘つきません。無邪気に笑う子供の反応が、山本伸一の無作の行動に反応していたのです。また、出迎えた一行が「記念撮影を撮ってください」と要望しました。快く引き受けてくれた先生を取り囲むように一行が並びました。しかし、写真を撮る瞬間に先生は、さっと一番後ろに移動しました。それは、ここまで苦労してきた現地の会員を温かく「後ろから見守るよ」という姿勢を示したということです。どこかの宗派のように、自分がトップで胡坐(あぐら)をかいて、下っ端を奴隷のような扱いをする構図とは、まるで違います。シアトルのメンバーは、どれほど安心し、どれほど頼もしく思ったことでしょう。この邂逅の場面を記した場面がありますので。紹介します。 十月六日の朝、伸一たち一行は、サンフランシスコを発って、シアトルに向かった。ジェット機で西海岸を北上する、約二時間ほどの空の旅である。 海外係からの報告では、シアトルには二十人ほどのメンバ―がいるが、まだ座談会さえ開いたことがない状態であるとのことであった。また、今回の訪問についても、手紙でしか連絡が取れておらず、でむかえがあるのかどうかもわからないというのだ。不安をつのらせる旅であったといってよい。午前十時過ぎ、ジェット機はシアトルに到着した。ところが、空港には、意外にも十数人が、「先生!ようこそ、おいでくださいました」 一行の姿を見ると、メンバーが駆け寄ってきた。「やあ、ありがとう」 伸一は手をあげ笑顔で応えた。「あのー、私のこと覚えておいででしょうか。去年の三月に、日本を発つ時に、本部で会っていただいたものですが…」一人の婦人が、頬を紅潮させて言った。 「ええ、覚えていますよ」その折、伸一は、婦人の話から、アメリカの軍人である夫との不和を感じた。そして、一家和楽こそ幸福の基盤であると訴え、激励として青年部の体育大会の記念メダルを送ったことを記憶していた。 彼女の傍らには、歩き始めたばかりの男の子と、三歳くらいの女の子が、スカートにまとわりつくように立っていた。男の子は、アメリカに渡ってから生まれたのであろう。明るい婦人の表情から一家の幸せが感じられ、彼は喜びを覚えた。 一言の激励で、人生が大きく開けることがある。ゆえに伸一は、一瞬の出会いを大切にし、心から友を励ますことを常に心がけてきた。「可愛いお子さんだね」彼は腰をかがめると、男の子を抱き上げた。そして、片方の手でコートのポケットを探り、リンカーン大統領の肖像が刻まれた一セント銅かをつかみ出すと、それを男の子の手に握らせた。「ごめんね。何もお土産なくて…」 男の子は、伸一の腕のなかで銅貨を握り、キャッキャッと声をあげて無邪気に笑っていた。小さな子供をあやす、山本伸一の親しみあふれた姿に触れ、緊張していた婦人たちの表情はすぐに和らいでいた。 カメラを手にしていた、若い婦人から声が上がった。 「先生、写真撮影をしてください」「撮りましょう。せっかく、皆さんがきてくださったのですから」 伸一を中心にして、皆が並ぼうとすると、彼は、さっと後ろに退いた。皆、怪訝な顔で伸一を見た。「皆さんが前に来てください。私はうしろでいいんです。後ろから皆さんを見守っていきたいんです」 それは、伸一の率直な気持であった。会長として広宣流布の指揮をとることは当然だが、常に影の人として同志のために尽くすことであった。伸一の言葉に、メンバーは驚きを隠せなかった。皆がいだいていた「会長」のイメージとは、大きく異なっているからだである。伸一の態度は、およそ世間の指導者や権威的な振る舞いとは正反対であり、ざっくばらんで、しかも人間の温かさと誠実さが滲み出ていた。 <第一巻 錦秋 P141~144> 最近読んだ本に「軍師の門」(火坂雅)という本があります。それは、豊臣秀吉を支えた二人の軍師、竹中半兵衛と黒田官兵衛のことを題材にした小説です。その中で、長い間幽閉された経験をもつ黒田官兵衛が、手下の供の者に語りかけた言葉があります。その一部を紹介します。…彼は、名のある武将たちのように、勇将というわけではない。だが、ほかのものたちにはない、知性に裏打ちされた血のぬくもりがあった黒田官兵衛。「善助。武士にとって最も尊いものは何か?」「何においても、まず強気ということでしょう。上に立つ者が強ければ、おのずと臣は服し、民もその威になびくはずです」「わしは、そうは思わぬ」官兵衛は笑って言った。「力強い者は、それのみに頼り、おのれを誇って、家臣や領民の心を見失うことが多い。高慢になって人をないがしろにすれば、臣下、万民の心は離れ、必ず家を失い、国後亡ぶもとになる。誠の威というものは、人を叱ったり、脅しつけることなしに、おのずと内からにじみ出てくるものでなければならぬ。」…この部分は、戦国の世にあって、天下を統一しようとする秀吉の下で、それを推進する知恵袋の軍師の言葉ですが、「武威一辺倒では、人心は掴めないとい」という、その時代らしからぬ眼をもっていたことに注目されます。当時は、まだ織田信長が生きていて、破竹の勢いでした。自分に従わないものは、武士であれ、農民であれ、僧侶達であれ、全部殲滅させるという、まさに”天下布武”を絵に描いたような行動をとっていたのです。その威を恐れて軍門に下った者達も多かったけれども、逆に反感をもち、抵抗・離反していった者たちも多かったのです。やはり、人心をつかむものは、その包み込むような度量の深さ、安心感を与える考え方や態度、相手を見下すのではなく尊敬し大切にする振る舞いにあるのだということでしょう。そういう観点で、このシアトル空港での最初の出会いは、山本伸一の飾ることのない無作の行動がにじみでていると感じられました。山本伸一に初めてまみえるシアトルのメンバーも安心し、瞬時に信心の息吹を感じたのではないでしょうか。 日蓮大聖人の「崇峻天皇御書」という御書に「一代の肝心は法華経、法華経の修行の肝心は不軽品(ふきょうほん)にて候なり。不軽菩薩の人を敬いしはいかなる事ぞ。教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候いけるぞ。穴賢穴賢。賢きを人と云い、はかなきを畜といふ。」という御文があります。要約すると、「釈迦一代の説法の肝心は法華経である。そして、法華経の修行という点で、その肝心をいえば、それは不軽品である。不軽菩薩が人ごとに敬ったというのは、どういうことをいうのであろうか。教主釈尊の出世の本懐は、人として振舞う道を説くことであった。穴賢穴賢。振舞いにおいて、賢いものを人といい、愚かなものを畜生というのである。」という意味です。これをいただいた四条金吾という人は、鎌倉時代の武士で医術にも精通した人でした。当時は、鎌倉幕府は、念仏、真言、禅、律宗などを篤く信奉していました。それらを「念仏地獄、真言亡国、禅天魔、律国賊」と掲げた”四箇の格言”をもって切り捨てた日蓮大聖人と、それを信奉する弟子・檀那等を厳しく弾圧しました。従って、日蓮大聖人に帰依する四条金吾も、同僚の讒言や主君からの減奉等々様々な困難に遭いました。それでなくても短気で切れやすい性格の金吾に対して、慎重な行動をとるように指南されたのです。その中で、不軽菩薩の話を通して、人の振舞の大切さを教えられました。不軽が、あらゆる人を敬い礼拝したということは、仏法というものが、ありのままの人間を尊重し、人間としての振舞い、人間存在を至尊のものとするということを象徴しています。したがって、釈尊が説こうとした究極の真理も、人間の尊厳を明確にし、これを樹立することにあったということです。仏性を顕現し成仏するということは、人間としての完成ということであって、人間とは別のものになるのではありません。この仏性の覚知を基盤としてあらわれてくる生命の特質は、人生のあらゆる面に発揮される広大な英知、賢明さなのです。ゆえに「賢きを人といい、はかなきを畜といふ」と結ばれているのです。この「賢き」とは、外の世界に対する場合の〝賢さ〟〝知恵〟よりも、自己自身に対した場合の〝賢さ〟に重点があります。四条金吾の短気を戒め、忍を強調されているのは、この自己に対する賢明さを意味しています。この万人を隔たり無く尊敬し受け入れる振る舞いを、このシアトルの山本伸一の姿に見ることができたのだと思います。「実るほど頭が下がる稲穂かな」ですね!