生きたい。先生との誓いを果たすために!

 昭和35年10月2日に羽田空港を飛び立って、世界広布の第一歩を進めてから、このシアトルまで山本伸一の一行は、休みなく進んできました。時には、予定外の事に時間をロスすることもありました。また、次又いつ会えるかわからない現地の人々のために、熱くそして遅くまで話し込んだこともあったでしょう。そして、その合間を縫っては、総本山大石寺に寄進するための建築資材を見て、選び、購入するするために、遠く山奥まで車で長い時間走り続けたことでしょう。まだ、1週間も経っていないのに、ここまで、超過密なスケジュールをこなし続けてきました。今後のアメリカ広布を、そして世界広布を考えた時に、どうすればよいかと瞬時に判断を下さなければならないことも多くあったと思います。また、初めて会う多くの人に、励ましや信心の指導をしていくことも、体力的にも精神的にも多大なエネルギーを使ったことと思います。もともと結核を患っていて強健で丈夫とは言えない体質でした。医者からも30歳まで生きられるかどうかと宣告をされているほどでしたから、この強硬日程は、身体的にも精神的にも、相当な負担であったと思ます。体力の消耗、睡眠不足、生活環境の不慣れ、極端に気候の違う場所への移動の連続、時差ボケ、食事の違い、過度の精神的なストレス等々、それらは当然に、いくら丈夫な人でも、疲労の蓄積、回復の遅れを引き起こし、それらが免疫力の低下につながります。当然ながら、それによて、食欲の不振、睡眠不足、発熱や悪寒などの体調不良を引き起こします。山本伸一も、広布の使命を推進する責任感で、力強く気丈に進んできましたが、ここにきて病魔との闘いに悩まされることになりました。 ”皆が自分を待っている”、”できるだけ多くの人に会って激励したい”という気持ちと、”ここで自分が倒れたら”、 ”皆に心配はかけられない”という気持ちとの葛藤が起こりました。自分は、戸田先生との世界広布の約束を果たすために来たの…”という、強い使命感の中で、山本伸一の中で、仏と魔との闘い、葛藤する場面が描かれています。先生のこうした闘いがあってこそ、今の世界広布があるのだな感じる場面がありますので、紹介いたします。

 一行は、しばらく車で街を見てから、ホテルに戻った。そのころから、伸一は、体の異常を感じ始めた。胸から首筋にかけて、強烈に痒いのである。鏡に映してみると、胸や首だけでなく、顔にも赤い腫れが広がっていた。全身の蕁麻疹であった。しかし、それだけでは終わらなかった。間もなく腹がゴロゴロして痛み出し、下痢が始まった。熱も相当出ているらしい。山本伸一は、しばらく休めばよくなるだろうと、ベッドに横たえたが、発熱のせいか、悪寒に襲われ、体がガタガタと震えた。彼は、ベッドの上で唇を嚙み締めた。昼食のステーキが体に合わなかったようだ。それに、時差による疲労と、睡眠不足、常夏のハワイとの激しい温度差も重なって、もともと病弱な彼の体力は著しく低下していたのであろう。持参した薬を飲んでみたが、痒みも、下痢も、悪寒も、なかなか治らなかった。この夜は、座談会が組まれていた。いつまでも休んでいるわけにはいかなかった。彼は、ベッドから起き上がった。その時、ドアをノックする音がした。ドアを開けると、十条潔が立っていた。十条は、蕁麻疹の広がった伸一の顔を見ると、驚いて尋ねた。「先生!どうなさったんですか」「蕁麻疹らしい。少し下痢もしていてね」「医者を呼びましょう」「大丈夫だよ。薬も飲んだから、しばらく休めばよくなるよ」 十条は意を決したように言った。「先生、今日の座談会はお休みください。さきほど、かなりのメンバーとお会いしていただきましたし、まだ、これからも旅は続きますので、体調を整えていただきたいのです」「しかし、みんなが、楽しみにして、待っているじゃないか。行かなければかわいそうだよ」「でも、ご無理なさって、倒れでもしたら、取り返しのつかないことになります。座談会も、地区の結成も、私たちで行います。せめて、今日だけはお休みになってください」 伸一は、同志のことを考えると、座談会を欠席することは、身が切られるように辛かった。しかし、十条の言うことも頷けた。海外歴訪の旅は、まだ始まったばかりであり、これから、カナダにも、ブラジルにも行かなくてはならない。もしも、病に倒れ、後の行動に支障をきたすようになれば、更に多くの同志を悲しませるようなことになる。それに、蕁麻疹で晴れた顔をして座談会に臨めば、かえって、同志に無用な心配をさせてしまうことにもなりかねない。彼は、やむなく、十条の意見に従うことにした。午後五時過ぎ、同行の幹部たちは、座談会に出かけていった。 外は雨になっていた。皆が出発すると、山本伸一はベッドの上に正座し、しばらく唱題を続けた。病魔との、真剣勝負というべき闘いの祈りであった。伸一は、唱題の後、ベッドで体を休めた。広宣流布の長途の旅路を行かねばならぬ自分の体が、かくも病弱であることが不甲斐なく、悔しかった。(中略)伸一は、もとより広宣流布に命をなげうつ覚悟はできていた。広布の庭で戦い、散ってゆくことは、微塵の恐れも、悔いもなかった。もともと医者からも、三十歳まで生きられないと言われてきた体である。いつ倒れても不思議ではない。しかし、恩師の志を受け継ぎ、世界広布の第一歩を踏み出したばかりで、倒れるわけにはいかなかった。伸一は、シアトルのホテルのベッドに伏せながら、自らの体の弱さが悔しくてならなかった。”生きたい。先生との誓いを果たすために” 彼は「南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さわりをなすべきや」とのご請訓を思いつつ、熱にうなされながら祈った。激しさを増した雨が、ホテルの窓を叩いていた。                            <第一巻 錦秋 P154~  >

 

 戸田先生から広布のバトンを受け継いだ、山本伸一(池田先生)の意気込みや覚悟は、この場面を読んでも分かるように、相当なものです。戸田先生が亡くなられてから、周囲の幹部からの”会長就任への強い要請”があったにもかかわらず、池田先生は3年間会長就任を固辞し続けてきました。それには、いろいろな理由があったと思います。その一つには、大坂事件の裁判の係争中であったことです。もう一つは、やはり会長になれば自分は良いが、家族へも大きな負担や影響が出るという懸念ではなかったかと思います。そのために、会長就任は避けられないものの、気持ちの整理をつけるまでの時だったのではないかと、私は思います。前三後一という言葉がありますが、獅子が、獲物を獲る時のように、前に飛び出す力を出すために一度後ろに下がってその反動を利用するような時ではなかったかと思います。ですから、一度決心がつけば怒涛の前進があるのみというわけです。しかし、そのような広布への強い覚悟をされたのは、山本伸一だけではありません。先生の奥様も同様に強い覚悟を示しました。この部分が、ちょうどここに書かれています。…伸一は、三代会長として、一閻浮提広布への旅立ちをした、この年の五月三日の夜、妻の峰子と語り合ったことを思い出した。ーーその日、夜更けて自宅に帰ると、峰子は食事の支度をして待っていた。普段と変わらう質素な食卓であった。「今日は、会長就任のお祝いのお赤飯かと思ったら、いつもと同じだね」 伸一が言うと、峰子は笑みを浮かべながらも、キッパリとした口調で語った。「今日からは、わが家には主人がいなくなったと思っています。今日は山本家のお葬式ですから、お赤飯は炊いておりません」「確かにそうだね…」 伸一も微笑んだ。妻の健気な言葉を聞き、彼は一瞬、不憫に思ったが、その気概がうれしかった。それが、どれほど彼を勇気づけたか計り知れない。これからは子供たちと遊んでやることも、一家団欒も、ほとんどないにちがいない。妻にとっては、たまらなく寂しいはずだ。だが、峰子は、決然として広宣流布に生涯を捧げた会長山本伸一の妻としての決意を披歴して見せたのである。(中略)峰子は、伸一に言った。「お赤飯は用意はしておりませんが、あなたに何か、会長就任のお祝いの品を贈りたいと思っています。何がよろしいのかしら」「それなら、旅行カバンがいい。一番大きな、丈夫なやつを頼むよ」「カバンですか。そんなに大きなカバンを持って、どこにお出かけになりますの」「世界を回るんだよ。戸田先生に代わって」 峰子の瞳は光り輝き、微笑みが浮かんだ。「いよいよ始まるんですね。世界広布の旅が」 彼はニッコリと笑って頷いた。ーー山本伸一と奥様との会話には、広布の使命を自覚し、遂行するんだという、強い決意と覚悟が伝わってきました。恐らくは、その時に購入されたカバンを持っての、今回の広布旅ではなかったかと思います。決意が強ければ強いほど、行動が前進すればするほど、三障四魔も憤然と競い起こるということを、会長自らが示しています。また、一方で、魔を退散させるための方法は題目しかないという、実践証明もされていますね。

 

 日蓮大聖人の「兄弟抄」という御書に、「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る 乃至随う可らず畏る可らず 之に随えば 将に人をして悪道に向わしむ 之を畏れば正法を修することを妨ぐ」とあります。会長就任という時期に合わせての世界広布旅。戸田先生の御遺命を実現すべく、一気に世界へと羽ばたいた山本伸一の行動。それは、あたかもジェット機が大空に舞い上がる時のように、大きな船が白波をかき分けて進む時のように、強烈な前進には、空気や水の大きな抵抗が大きくなるように、山本伸一にも病魔という宿業が現れました。この御書の前には「此の法門を申すには必ず魔出来すべし 魔競わずは正法と知るべからず…」という文が書かれています。つまり、前代未聞の広布の行動を正しく進めているからこそ起こったものであります。しかし、後年このシアトルでは、あの悪僧が空前の痴態を行っていたことが世間に知れ渡りました。例の事件です。「シアトル事件」とは、今から32年前の昭和38年(1963年)3月19日の深夜から20日の未明にかけて、アメリカのシアトル市で日顕法主(当時・日蓮正宗教学部長)が、複数の売春婦とトラブルを起こし、警察沙汰になった事件のことです。昭和38年当時、創価学会員の真剣な弘教によって、海外においても信徒が急増しました。その海外の新入信の人たちのために御授戒(入信の儀式)をしてほしいとの要望が高まり、日蓮正宗史上初の海外における出張御授戒がアメリカで行われることになりました。この第1回海外出張御授戒には二人の僧侶が選ばれ、その一人が阿部信雄教学部長(67世法主日顕法主)だったのです。この出張御授戒は、同年(昭和38年)3月15日から30日までの全15日間の日程が組まれており、途中、別行動したため、シアトルでは阿部教学部長が一人で滞在しました。 阿部氏はシアトルで19日深夜、宿泊していたオリンピックホテルをこっそりと抜け出し、シアトル市内のセブンス・アベニューへ繰り出しました。そこで、売春婦とトラブルを起こし、路上で揉めていたところをパトロール中の警察官に発見されたのです。その時、英語の分からない日顕法主が現地創価学会シアトル支部・支部長のクロウ夫人の連絡先の電話番号を書いたメモを持っていたことから、その場にクロウ夫人が呼び出されました。日顕法主は、事情聴取のため、警察署に連行されるところでしたが、駆け付けたクロウ夫人は「何かの間違いだ」と警察官に抗議、日顕法主の代わりにクロウ夫人が警察署に出頭し、警官との交渉に当たりました。結局、クロウ夫人の懸命の訴えにより、日顕法主は無事、その後の法要をつつがなく終えることができ、帰国の途に就くことができたのです。しかし、日顕は、自分が起こした事件は、学会よるでっち上げであるし、無関係を装う”厚顔無恥”ぶりでした。片や広布のために固い決意のもとに行動した創価学会。片や日蓮正宗を代表する僧侶で、信徒の模範となるべきはずの痴態。この”世界広布にかけるという”一念の違いが、その後の命運を分けたことは言うまでもありません。池田先生は、医者から30年の命と言われたにもかかわらず、2023年11月15日に95歳で更賜寿命姿を示して霊仙に旅立たれました。一方、日顕によって汚された日蓮正宗は、衰退の一途をたどっています。今頃は、地獄の底で、大聖人より厳しい叱責を受けているに違いありません。そして、先生は、日蓮大聖人に大称賛を賜っていることでしょう。

 

                                                           <国立国会図書館資料より>