南の島のパラダイスのはずのハワイだが…!

 山本伸一を中心にした、世界広布の旅。初めての訪問地はハワイ島のワイキキでした。てんやわんやの到着劇から落ち着きを取り戻して、初めてハワイの創価学会のメンバーと座談会を持ちました。海外初の座談会でした。その際、会長の提案で急遽、ハワイに地区を発足させることになりました。その時集まったメンバーは、子供を含めて約30人ほどの日系人でした。メンバーと言っても、お互いに殆ど面識はなく、信心の日も浅く、またハワイの諸島にメンバーは分散もしています。そんな中で、山本伸一が、「地区を発足しようと思う」との提案は、同行の幹部たちも事前には聞いておらず、焦りと不安があったそうです。それもそうです。日本の感覚で言えば、30名前後の数は、当時でも「班としても少ない」イメージでした。しかし、先生は世界広布の先々を見通していました。「世界広布は今後急速に発展するだろう。アメリカの玄関口のハワイには、班ではなく地区が相応しい。地区ができたということの自覚は、さらに大きな地区になっていく。そうしたスケールで考えていく必要がある」という洞察からの提案でした。そして、この座談会で先生が質問会をしている間に、同行幹部が地区の人事を決め、質問会終了後には人事発表をするというものでした。正に、誰もが驚くような電光石火のスピード感での記念すべき海外第一号の地区結成でした。そして、地区の組織を練っている間の質問会もまた、海外初の質問会でしました。当然のことかも知れませんが、日本国内では出てこないだろうなという内容のものが続々と出ました。それらは、日系人としてハワイに渡ったからこそ体験した苦悩が滲み出ていたのです。言葉の壁、人種の差別、仕事が見つからずの貧困、配偶者からの暴力、地域や習慣になじめない孤独感、深い望郷の念等々です。ハワイと言えば、”常夏のパラダイス”で、誰もが行って生活をしたくなる楽園を想像します。ハワイに来た日系人の多くは、そうした世界を夢見ていたに違いありません。しかし、現実は違っていたのです。いろいろな壁が立ちふさがっていて、押しつぶされそうな日々を送っている人が多くいたのです。正に「願兼於業」の宿業の嵐の中で、海を漂流する船上の人のように、心細く不安の中で、誰にも相談もできなく生きてきたのです。そして、座談会・質問会という場が設けられて、自分の思いを一気に吐き出したのです。山本伸一も、その心情や苦悩を推し量って、全身全霊で目の前の人の思いを受け止め、「絶対に幸せにする」との思いで質問に答えて行きました。この質問会の場面では、いくつかの内容がありますが、先生とメンバーとのやり取りが伝わる場面を、一部を抜粋して紹介したいと思います。

 

  「今日は質問会にしますので、どんなことでもかまいませんから、自由に聞いてください」 すぐに、二、三人の手があがった。「私、日本に帰りたいんです。でも、どうしてよいのかわからなくて…」 こう言うと、婦人は声を詰まらせて。目が潤み、涙があふれた。しかし、嗚咽をこらえて婦人は話を続けた。彼女は東北の生まれで、戦争で父を亡くしていた。家は貧しく、中学を卒業すると東京に出て働いた。数年したころ、朝鮮戦争でアメリカの兵士として日本にやって来た、ハワイ生まれの夫と知り合った。母親は結婚に反対したが、それを押し切って一緒になった。そのころ、彼女は知人から折伏され、入会した。二年前のことだ。そして、ハワイに渡り、夫の実家での生活が始まった。 自由と民主の豊かな国アメリカーーそれは、彼女の憧れの天地だった。いや、彼女だけでなく、当時の日本人の多くが憧れ、夢見た国といってよい。しかし、彼女の夢は、あえなく打ち砕かれた。夫の実家の暮らしは経済的に決して楽ではなかった。また、言葉も通じない日本人の彼女に、家族は冷たかった。更に、夫までも、彼女に暴力を振るうようになり、夫婦の間にも亀裂が生じていたのである。日ごとに、後悔が増していった。孤独の心は、次第に暗くなり、海に沈む真っ赤な夕陽を見ながら、彼女は泣いた。”この海の向こうには日本がある。帰りたい” 頬を伝う涙は、傷ついた心に冷たく染みて、悲しみをますますつのらせた。伸一は、婦人の話をじっと聞いていた。「…それで私、主人と別れて、日本に帰りたいのです。でも、母の反対を押し切って結婚しましたから、日本に帰っても、誰も迎え入れてはくれません。どうしたらよいのか、わからないんです…」 婦人はここまで話すと、肩を大きく震わせて泣きじゃくった。その涙に誘われるように、会場の婦人たちからも嗚咽が漏れた。 座談会の参加者の中には、似たような境遇の婦人が少なくなかった。国際結婚という華やかなイメージとは裏腹に、言語や習慣の異なる異国での生活は予想以上に厳しく、多くの障害が待ち受けていた。「敵国人」であった日本人に対する偏見もあった。彼女たちの多くは、そんな生活に落胆し、暗澹たる思いで暮らしてきたといってよい。 伸一は大きく頷くと、静かに語り始めた。「毎日、苦しい思いをしてきたんですね。辛かったでしょう。…でも、あなたにはご本尊があるではありませんか。信心というのは生き抜く力なんですよ。」彼の言葉には力がこもっていた。<第一巻 旭日 P55>

 ここの場面で先生は、婦人たちの苦しみを全部受け止めます。仏法で言う”同苦”をします。しかし、同苦・同情だけでは、痛みは一時的に取り除くことはできますが、根本的な問題の解決にはなりません。その後に「あなたにはご本尊があるではありませんか」と信心の極意を注入しました。私は、この場面を読んだ時にこう思いました。恐らく、彼女たちはご本尊を受持はしていたとしても、ご本尊に確信をもって祈るという”勤行・唱題”はしていなかったのではないかと思います。そういう体験を十分に積んでいなかったかも知れません。ですから、「我並びに我が弟子、諸難ありとも疑う心なければ、自然に仏界にいたるべし。天の加護なきことを疑わざれ。現世の安穏ならざることをなげかざれ…つたなき者のならいは約束せし事を まことの時はわするるなるべし…」と言う「開目抄」の一節も入ってはいなかったと思います。もし、それまでにハワイに創価学会の組織があって、御書があって、指導してくれる同士がいたならば、この言葉を聞いて、もっと頑張れていたかもしれません。「たとえご本尊があったとしても、一人では信心は難しい」ということを証明してくれたような話にも思いました。だからこそ、先生は、ハワイでの地区結成を即決なされたのだと思います。そして、先生はこの婦人達には次のように指導しています。「ご主人と別れて、日本に帰るかどうかは、あなた自身が決める問題です。ただし、あなたも気がついているように、日本に帰れば、幸せが待っているというものではありません。どこは行っても、自分の宿命を転換できなければ、苦しみは付いて回ります。どこか別の所に行けば、幸せがあると考えるのは、西方十万億の仏国土の彼方に浄土があるという、念仏思想のようなものです。今、自分がいるその場所を状寂光土へと転じ、幸福の宮殿を築いていくのが日蓮大聖人の仏法なんです。」と。初めて聞くような、又何回も聞いていたけど改めて実感したような言葉だった思います。日蓮大聖人の、そして先生の、誰をも幸せにして見せるという大確信、大慈悲の精神ですね。

 

 誰しもが宿業をもって生きています。病気で苦しむ人、経済苦で困る人、家庭不和で悩む人、人間関係で上手くいかない人等々様々です。時にはそれらを複数同時に抱えて行き詰まっている人もいるでしょう。そしてそれらは、過去世における謗法の結果として、現在にその報いを受けているとも言われています。それがつまり自分の命に宿っている”宿命”と言われるものです。それこそ生命に刻み込まれているものなので、簡単には落とせません。謗法の報いですから、それを断ち切るには、良い因を積むしかないと言われています。その良因、善行こそが、南無妙法蓮華経の唱題、折伏の実践と、大聖人は教えられています。そして、先生もこの指導の場で「悩まなければならない自らの宿命を転換することです。自分の境涯を革命していく以外にありません。自分の境涯が変われば、自然に周囲も変わっていきます。それが依正不二の原理です。幸せの大宮殿は、あなた自身の胸中にあるのです。そしてその扉を開くための鍵が信心なんです。…真剣に信心に励むならば、あなたも幸福になれないわけは断じてない!」と強く激励されました。「日厳尼御前御返事」には「 叶ひ叶はぬ(叶い叶わぬ)は御信心により候べし 全く日蓮がとが(咎)にあらず、」とあるように、ご本尊を疑ったり真剣に題目を唱えることなく、ただ愚痴をこぼすだけの信心では、宿命は転換できません。それでは、逆に法を下げることになります。先ずは、腹を据えて勤行・唱題に励み生命力を蓄えて宿命転換の波に乗ること、そして自分の体験を伝えて似たような宿命に悩む人に語りかけていくことですね。先生の世界広布の旅で、このような宿命に苦しんだ日系人で、妙法で宿命転換でき救われた人は世界中でどれほどいたかと想像すると、妙法の偉大さ、先生の素晴らしいを改めて痛感し、感謝の気持ちでいっぱいになります。