差別、人権侵害を取り除くのは、日蓮仏法しかないと確信!

 シカゴのミッドウェー空港で、「威風堂々の歌」の学会歌で出迎えられた翌日のことです。それは、昭和35年10月9日で日曜日でした。日曜日の朝は、「のんびりと過ごしたい」だろうという地元の人たちへの配慮から、午前中は会合を持たず、山本伸一は同行の幹部とともにミシガン湖のほとりにあるリンカーン・パークを散策しました。高層ビルが立ち並んでいるが、公園の中には鬱蒼と木が茂り小動物が戯れるような芝生が広がっていました。何人かのこどもたちがボールを蹴って遊んでいるという、長閑な光景が見られました。子供達の笑い声やそれを見守る老紳士の声が響いたりという、日曜日や休日にはよくありそうな平和な光景と言えます。そこに、一人のジャンパー姿の少年が来ましたが、誰一人としてその子に声をかけることもしませんでした。遊んでいた子供達の一人がボールを蹴り損ねて、尻もちついたのをジャンパーの少年が大声で笑いはやし立てました。そると今度は、先ほどまで穏やかに子供達を見守っていた老紳士までが、ベンチから立ち上がって、その子に向かって、顔を真っ赤にして怒鳴りつけたのです。その少年は、怒りと悲しみをあらわにして老人に何か言葉を吐き捨て、走り去ったのです。そうです。彼は”黒人”の子どもでした。その様子を目の当たりにした、伸一は少年を追いかけて行きましたが、既に姿が無かったのです。伸一は、黒人の少年への非道な仕打ちが罷り通る社会に対して、強い憤りを感じました。当時は、リンカーンの奴隷解放宣言から百年を迎えようとしていた時でした。しかし、百年経っても黒人に対する「差別」や「隔離」がまだまだ日常生活の中に根付いていたのです。1950年代は、黒人革命といわれ、公民権運動が話題になりました。黒人女性のローザ・パークスさんがバス乗車の件で不当逮捕され、”バスボイコット運動”が行われたのは有名な話です。それをきっかけとして、黒人の公民権運動が拡大して行きました。この時にローザ・パークスさんとともに声をあげたのが、有名なマーチン・ルーサー・キング氏です。キング牧師と言った方が分かりやすい方も多いと思います。彼は、黒人の人権を守るために戦きました。しかし、それはガンジーと同様に「非暴力主義」に徹した闘いでした。後にその功績を称えられて、ノーベル平和賞も受賞しています。「私には夢がある…」という演説は特に有名です。このような、黒人の公民権運動が盛り上がってきた中での、山本伸一の目の前で起こった「黒人少年に対する非道な行為」は、アメリカ社会の人権の現実を目の当たりにし、その厳しさ、無情さ、やるせなさを感じ、そして日蓮大聖人の仏法こそが、この問題を解決していくということを確信と決意をしました。この場面が書かれている場面を紹介します。

 

 翌日の十月九日は日曜日だった。休日のあさから地元の同士に負担をかけてはならないとの配慮で、この日の午前中はスケジュールを空けてあった。 伸一は、同行の幹部と一緒に、ミシガン湖のほとりにあるリンカーン・パークを散策した。背後には高層ビルが立ち並んでいるが、公園には鬱蒼と木々が茂り、リスが戯れ、芝生が広がっていた。 広場では、数人の子ども達が、ボールを蹴って遊んでいた。皆、七、八歳くらいの少年たちである。その傍らのベンチに白髪の老紳士が腰かけ、笑顔を浮かべて、遊びに興ずる子供たちを見守っていた。日曜日の、ほのぼのとした光景であった。 老紳士は、子供達がボールを蹴りそこねると、笑いながら声援を送った。一人、二人と、他の子どもがやって来るたびに、少年たちは声をかけ、遊びの輪は広がっていった。 そこに、ジャンパー姿の少年がやって来た。ところが、彼には誰も声をかけなかった。この少年だけが、”黒人(アフリカ系アメリカ人)”であった。彼は、傍らの木陰に立って、じっとボール遊びを見ていた。老紳士も、彼を無視していた。もう一人、別の子どもが駆けて来た。皆が手招きし、遊びの仲間に加えられた。しかし、”黒人”の少年には、声をかけられなかった。 子供たちの一人がボールを蹴りそこねて、尻餅をついた。すると、”黒人”の少年が大声で笑い、はやし立てた。その時、老紳士がベンチから立ち上がり、顔を真っ赤にして、彼を怒鳴りつけた。 少年は老紳士を睨め返した。怒りと悲しみをたたえ、燃えるような目であった。そして、吐き捨てるように何かを言うと、くるりと背を向け走り去っていった。その肩は、悔しさに震えていた。  伸一の顔は曇った。彼は、少年を追いかけようとしたが、少年の姿は既になかった。伸一は強い憤りを覚えた。彼の拳は震えていた。それは、”黒人”の少年への非道な仕打ちが罷り通る社会に対する、やり場のない怒りといってよかった。 リンカーン大統領による奴隷解放宣言から、間もなく百年を迎えようとしている時に、その名を冠にした公園で起きた出来事だった。 それは、ささいな、ひとつの光景であったかもしれない。しかし、彼は、その背後にある差別の暗い深淵を、垣間見た思いにかられた。 山本伸一は思った。”あの少年は、どんな思いでここを立ち去って行ったのだろうか。こうした仕打ちが、日常茶飯事であるとすれば、少年の心は、どれほど無残に踏みにじられているか計り知れない。その心の傷口は、憤怒と悲哀の血にさいなまれているにちがいない” 少年の未来を思うと、伸一の胸は苦しかった。 当時のアメリカは、後に「ブラック・レボリューション(黒人革命)」と呼ばれる一大転換期を迎え、公民権運動が大きく盛り上がった時代であった。 一九五四年、合衆国最高裁判所が出した、公立学校での生徒の人種差別を違憲とした判決を契機に、「隔離」すなわち「差別」の撤廃へ、人々の意識は急速に高まっていった。そして、翌55年十二月、南部のアラバマ州の州都モントゴメリーで、”黒人女性”ローザ・パークスの逮捕に端を発したバス・ボイコット運動が起こっている。 そのころ、アメリカの、ことに南部の各地では、”黒人”は就労や労働賃金の格差はもとより、学校、交通機関、食堂なども隔離され、不当な差別が公然と罷り通っていた。バスの座席をはじめ、随所で人種隔離がされ、市条例として定められていたのである。 バスの座席は後部が、”黒人用”、前の方が”白人用”とされていたが、”白人”の席が埋まっていれば、”黒人”は立たされるのが常だった。 ローザ・パークスはその日、デパートの仕立ての仕事を終えて、バスに乗り、”黒人用”の席の一番前に座った。そこに、”白人”が乗り込んできた。座席は既にいっぱいだった。それを見た運転手は、彼女と、ほかの三人の”黒人”乗客に立つように命じた。三人は席を立った。しかし、パークスの答えは「ノー」 だった。単に彼女は体が疲れていたというより、これ以上、白人の言いなりになることに疲れ切っていたのである。運転手は、脅迫的な言葉を浴びせた。 「お前を逮捕させるぞ」それでも彼女は席を立たなかった。そして、警察に逮捕されたのだ。 パークスの逮捕を聞くや、”黒人”の怒りは爆発した。不当に差別するバスをボイコットしようとの声が起こった。この運動の指導者がマーチン・ルーサー・キングであった。 彼らは、どこまでも非暴力で粘り強く差別への戦いを続けていった。 一年後、バスの会社は倒産寸前となり、更に、最高裁が交通機関での差別待遇に違憲判決を下したことから、強硬なモントゴメリーの市当局も、遂に差別条例を撤廃するに至ったのである。 このバス・ボイコット運動の勝利は、公民権運動のうねりとなって、全米各地に拡がって行った。そして、一九五七年には”黒人”の投票権なども認めた最初の公民権法が、議会で成立したのである。 しかし、”白人”の多くは、依然として難色を示した。 州権の強いアメリカでは、連邦政府の決定が、全てそのまま実施されるわけではない。”黒人”の隔離を違憲とされる判決が出されても、州権を盾に、これに反対する州議会が南部では少なくなかった。また、”黒人”と”白人”の共学は認められても、学校内の食堂も寄宿舎も、”黒人”は使用することができないケースもあった。更に、”黒人”の入学反対を叫んで、”白人”がデモを行ったり、”黒人”の学生にリンチを加えるといった事件も相次いでいた。 ー理不尽な差別を撤廃するうえで、”黒人”の公民権の獲得は不可欠な課題である。しかし、それだけで、人びとは幸せを獲得できるだろうか。答えは「ノー」と言わざるをえない。なぜなら、その根本的な要因は、人間の心に根差した偏見や蔑視にこそあるからだ。この差別意識の鉄鎖からの解放がない限り、差別は形を変え、より陰湿な方法で繰り返されるにちがいない。 人間は、人種、民族を超えて、本来、平等であるはずだ。その思想こそ”独立宣言”に表明されているアメリカの精神(マインド)である。しかし、”白人”の”黒人”に対する優越意識と恐れが、それを許さないのだ。 問題は、この人間の心をいかに替えていくかである。それには「皆仏子」「皆宝塔」と、万人の尊厳と平等を説く、日蓮大聖人の仏法の人間観を、一人ひとりの胸中に打ち立てることだ。そして、他者の支配を正当化するエゴイズムを、人類共存のヒューマニズムへと転じてゆく生命の変革、すなわち、人間革命による以外に解決はない。 伸一は、アメリカ社会の広宣流布の切実な意義を噛み締めていた。戸田城聖は生前、人類の共存をめざす自身の理念を「地球民族主義」と語っていたが、伸一は、その実現を胸深く誓いながら、心の中で、あの少年に呼びかけていた。”君が本当に愛し、誇りに思える社会を、きっとつくるからね”                                                                                                                                      第一巻「錦秋」P172~

 その後の少年は、本当にどのように成長したかと気になるところです。1960年で8歳とすれば、現在は70代後半の年齢になるでしょう。グレることなくまっとうな人生を歩めたか、白人に対して嫌悪感を持ち続け卑屈な人生を送っていなかったか等々、負のスパイラルに進んでしまっていないかと、不安になりました。全米では、現代でも時々黒人が不当逮捕されたり、警察に暴行を受けたりというニュースが流れ、大きな話題になることがあります。恐らくこれまでに、不当逮捕されて厳しい拷問を受けたり、正当な裁判がなされずに冤罪や有罪判決を受けて、多くの黒人が苦しんだに違いありません。それを思うと益々、その人種差別の根深さを、感じざるを得ません。しかし、この差別問題は、アメリカばかりではありません。世界各地に形を変えてあります。例えば、ナチスの、ユダヤ人虐殺は民族差別の典型でしょう。そんなに遠い昔の話ではありません。近年では、難民問題もそうです。国内の内戦で、他国に移動せざるを得なくなった人々に対して、受け入れ拒否や支援拒否も現実にあります。日本でも、同和問題や特定の病気は障碍者に対する差別が問題視されることがあります。特定の部落出身だからといって、人として何ら変わることはありません。むしろその人たちの方が、社会に正義を示そうとより一層の努力と成功体験を示した人もいるでしょう。また、外国人に対する偏狭な見方で差別することもあります。人間として何が違うのかということ、示してほしいですね。では、差別する側の人は、何が自分が優れているから人を見下すのか、証明してほしいです。結局は、自分が、自分たちが、自己満足したいために、歪んだアイデンティティーを作り上げ、強引に優位に立った気になっているだけに過ぎません。先ほどの部落問題も、元をただせば、江戸時代の士農工商の身分制度の弊害といえます。一部の支配者階級である士族が、自分たちは生産能力もないのに、力で農民から年貢を絞り切ろうとしました。当然農民からは強い不満が出ますが、それをかわすために、「穢多・非人という、農民のあなたたちよりも、もっと下層の人たちがいるのですよ」と屁理屈をこねて、支配し従属させてきました。穢多・非人と呼ばれる人たちは、特定の地域に居住させられ、仕事も人の嫌がるような仕事を請け負わされ、しかも転居も転職も結婚の自由も極端に制限され続けてきたのです。黒人たちは、白人の生活を満たすためにアフリカから強制的に拉致され移住させられ奴隷として強制労働され、人権も無視されてきました。人としての尊厳を奪われたことに何の変りもありません。ローザ・パークスさんは、この長い人権無視の白人の支配から、勇気ある行動で立ち向かったのです。最初の行動は、バス・ボイコットという些細と思われる行動かもしれません。しかし、水の滴りが、岩に穴をあけるように、百年以上続いた不当な人権蹂躙に立ち向かった第一歩は、大きな勇気が必要であり、強い精神力が求められ、鉄の団結が不可欠ですが、その戦いの扉を開いたのです。

 

 たった一言が、歴史を動かすときがある。平凡な一日が、永遠の記念日になることがある。一庶民が、世界を変える指導者になる戦いがある。「ノー」パークス女史が、「黒人は白人のために席を立て」というバスの運転手の命令を拒否したときから、アメリカの黒人の歴史は、音をたてて変わり始めた。 動かない彼女の思いの背後には、無数の同朋の血涙の哀史があった。アフリカから奴隷船で連行され、家畜以下の扱いに苦しみ、死んでいった祖先たち。子どもの目の前で母が鞭打たれ、親は子が売られていくのを、ただ絶望のうめきで見送った。 ″奴裁解放″後も、人々はだまされ、搾り取られ、リンチされ、気まぐれに殺されていった──。女史は私に語られた。「悲しい出来事を、私はたくさん体験してきました。いくつも、いくつもです」「ある黒人少年は白人女性への暴行の罪を着せられました。完全な無実でしたが、十七歳で逮捕され‥‥やがて死刑にされました。二十一歳の若さでした」 女史は夫のパークス氏らとともに、そういう犠牲者を救おうと努力されていたが、抑圧の壁は厚かった。 権力も法律もマスコミも世間も、だれもが平然と、同じ人間の権利を踏みにじっていた。権力をカサに、いばる人間のいいなりになることに、彼女は、ほとほと疲れていた。我慢すればするほど彼らはつけ上がるのだ。 女史の逮捕をきっかけに町の黒人の怒りが爆発した。それだけ彼女が慕われていたのだろう。彼女は、いつも朗らかで、優しく、聡明な女性として尊敬されていた。バスを利用していた三万人もの人々が団結した。皆、歩いたり、車を乗りあわせた。黒人のタクシー会社はバスと同じ料金で皆を乗せた。 妨害は、ひどかった。女史はデパートをクビになった。脅迫電話も鳴りやまない。新聞はデマを流し、キング氏の家は爆破された。それでも団結は壊れず、「非暴力」に徹した抗議運動は、全米と世界の良心を揺さぶり始めた。一年後、ついに合衆国最高裁判所は、「バスの人種隔離は憲法違反」と宣言した。ここから怒涛のごとく、平等を勝ち取る公民権運動が広がっていったのである。「時を得た思想ほど強いものはない」(トマス・ペイン) 一人の婦人の勇気が、枯れ野に落ちた火のように、世界を変えていきました。

 パークス女史は、生前に二度池田先生と対談しています。じつは、(池田大作先生に)お会いする前、女史の周辺の人々は、日本の政治家の″差別発言等″から日本人に不信感をもっていたと言われていた。当然であろう。また女史の名声を利用しようという動きも絶えず、何ごとも慎重であられた。 そんな心配は、実際にアメリカ創価大学を訪問されてから吹き飛んでしまったようだ。〽ウィ・シャル・オーバーカム(私たちは必ず勝利する)‥‥。 歌声の中を女史が到着。お会いするや、ぱっと通いあうものがあった。 私も戦ってきた人間である。言わず語らずに、女史の信念と涙と希望が、わが胸の琴をかき鳴らした。 女史も「会ってすぐに、これほどまでに親しみを覚え、『友人だ』と実感できる人には会ったことがありません」と心境を告げてくださった。八王子の創価大学で、創価女子短大生の合唱に涙を流されていた女史。かつてアメリカで見た一人の被爆した若い日本女性を思い出されたのだという。 「彼女もコーラスが好きでした‥‥」。同じ日本人の乙女らの歌に、彼女を思って涙が止まらなくなった──。どこまでも優しい女史であった。いつも「心」を大切にされる女史であった。母は強し。民衆は強し。女史の強さを育てたのも、お母さんであったことを私は思い出す。 「母は私に自尊心を教えてくれました。『人間は苦しみに甘んじなければならない──そんな法律はないんだよ!』と」戦い続けて今、女史は八十歳を超えられた。世界の「人権の母」として、いついつまでも、お達者でと祈らずにおられない。(一九九四年九月十八日「聖教新聞」掲載より) 人権のために闘争した人たちは、瞬時にその人間性の素晴らしさ、偉大さを感じ合い、共感しあえるのでしょう。つまり、だれに対しても「同じ人間として」つき合える人こそ、「優秀な人」であり、本当の教養がある人です。自分の人間性が豊かな分だけ、他人の中にも人間性を発見できる。一方で人を、いじめたり、いばったりする人間は、その分、自分の人間性を壊しているのです。相手を貶めを、すればするほど、自分の人間性の低さを皆にさらしているといえます。