人材は、どこにでもいる。発見し、育て上げることが大事だ…!

  昭和の三十年代は、まだまだ戦争の後遺症も癒えていない時代で、情報手段や情報量も少なく、連絡のやり取りも今と違って、不自由な状況でした。アメリカの現地に行くまでは、学会人などいないし、信心して題目を唱えている人などいないだろう、いたとしても一人、二人で細々としているに違いないとしか想像しえなかったと思いです。しかし、ハワイでもそうだったですが、フンフランシスコでも、創価学会に何らかのか形で縁し、妙法を唱える人がいました。多くの場合、日本で折伏され入会し、渡米してきた人たちでした。アメリカ人のご主人に付いて行った人がほとんどでしょう。きっと米国の地でも使命に燃えたご婦人が、近隣に住む日本人に話しかけ、打ち解け合い、愚痴を言い合いながらも、信心の話をしていった違いありません。何時でもどこでも、先陣を切るのは婦人部の皆さんですね。自分の体験を話し、友の悩みを聞き、知っている限りの大聖人の御書を話し、体験を話し、輪を少しずつ広げていったに違いありません。それでも、着実に妙法の火種は広がっていたのです。サンフランシスコのギルモア宅ではそんな人たちが、毎月10人位の人が集まって座談会らしきものをし、徐々に参加者の増えていったようです。まだ組織もできていなく、指導的な立場の人もいない、聖教新聞や御書もない、そのような状況でも、信心の火をともしていたのです。そのような折に、今回山本伸一一行を迎えて座談会をもったのです。きっと集まった人たちにとっては、先生を、夜の荒海から見える赤々と光をともし目的地に導く燈台のように思えたことでしょう。一方で、山本伸一一行は、皆無と思わた学会員が、現地に行ってみると、何人かいることに驚き喜びました。きっと、その人達がきらりと光る原石を見つけたように思えたことでしょう。宝石の原石は、実は初めから光を放っているわけではなく、見出す目が無ければ、やり過ごしてしまいます。洗ったり叩いたりしながら原石を見出し、見出した後には磨きに磨きをかけて宝石となります。山本伸一も、会場にいた人たちと話をし、状況を知り、そしてその人となりを判断し、指導し原石を見出したことでしょう。実際に、サンフランシスコの隣のネバダ州から来たという2~3人の人が、ギルモアさん宅で勤行をしている声を、山本伸一は偶然に聞きました。三十歳前後のアメリカ人男性が中心になっての勤行でしたか、発音がしっかりとしていて声も朗々としていて驚かされたと言います。初めて行ったアメリカで、初めて出会ったアメリカ人男性が、朗々した勤行唱題をしているのを目の当りにしたら、まさに”地涌の菩薩”が出てきたとしか思えませんね。よくよく話を聞いてみると、この男性は、生前に戸田第二代会長に会ったこともあり指導を受けたこともあるという、不思議なご縁の持ち主でした。そして、戸田先生が亡くなられて今後の創価学会はどうなってしますのかと、アメリカにいて心配していたということでした。山本伸一は、この話を聞いて、ネバダ州にも地区を作ると即決されました。地区結成と言ってもメンバーは、他に誰もいない状況です。しかし、米国広布の人材、原石を発見するや即決で決断されました。その部分が書かれているところを紹介します。

 

 山本伸一が、別室で打ち合わせを終えて懇談していると、座談会会場にあてられた部屋から、勤行の声が響いてきた。彼は、その部屋に顔を出した。導師の男性の発音は、実に正確で、朗々とした勤行であった。伸一は別室に戻り、しばらくしてから、その男性と妻である女性を招いて懇談した。「お名前は、何とおっしゃいますか」 伸一が尋ねると、彼は微笑みながら、両手を広げて首を左右に振った。隣の夫人が代わって答えた。「すみません、主人は日本語がよくわからないものですから…。主人の名前は、ジョージ・オリバーと申します。私は、妻のヤスコです」 ジョージ・オリバーは、6年前に日本で入会し、三年前、妻のヤスコとともにアメリカに帰ってきた。日本では、大学で英文学を教えていた中野支部長の神田丈治に指導を受けながら、活動にも参加し、着実に信心に励んできた。アメリカに帰ってきてからも、夫婦で信心を続け、弘教も実られてきた。「どちらから、いらしたんですか」「はい、ネバダ州のリノから来ました。」「どうも、遠くからご苦労様です。何時間かかりましたか」「車で五時間ほどかかりました」「そう、大変でしたね。それじゃあ、遅くなるといけないから、座談会が終わったら、すぐお帰りください」 ヤスコは、その言葉を夫に伝えた。「ドウモ、アリガトウゴザイマス」 ジョージは日本語で答えると、続けて英語で語り始めた。それを正木永安が通訳した。「山本先生にアメリカにおいでいただき、大変光栄です。私たちは、かつて、アメリカに帰るべきか、日本に残るべきか、戸田先生に指導を受けたことがあります。その時、先生は『仏法は世界に広宣流布されなければならないのだから、アメリカに帰って頑張りなさい』と言われました。私は、その言葉を聞き、戸田先生の世界公布を願う心に触れたおもいでした。山本先生は、会長に就任されて、まだ五ヵ月しかたっていないのに、こうしてアメリカにおいでくださいました。それは、世界広布を願う、戸田先生の精神の実践にほかならないと思います」 ジョージの話に、同行の幹部たちは耳をそばたてていた。「私は、戸田先生が亡くなられてから、学会がどうなってしまうのか、不安に思っていました。しかし、こうして山本先生にお会いし、学会は若々しい山本先生とともに、限りない未来に向かって、新しい出発をしたことを感じました。今日、先生にお会いできたことは、私にとって貴重な人生の思い出となりました」 オリバーの話を聞き、日本の幹部たちは驚いて顔を見合わせた。彼らには、日本でなければ、信心や学会の精神はわからないのではないかという思いが、心のどこかにあった。だが、このアメリカ人の同志を目の当たりにして、その考えがいかに見当違いであったかを、実感せざるを得なかった。十界を互具した人間の心は普遍である。ゆえに、人種、民族を超えて、信心もまた普遍である。山本伸一は、ジョージ・オリバーの話を聞きながら、ネバダ州にも地区を結成し、この夫妻を地区部長と地区担当員に任命すべきではないかと思った。彼は、ネバダには、ほとんど会員がいないことも聞いて知っていた。そこに、アメリカ人の地区部長を誕生させることは、確かに賭けとはいえば、大きな賭けにちがいなかった。しかし、種を植えなければ芽は出てこない。それに、やがては世界各国に、日系人ではないリーダーが誕生していかなければ、本格的な広布の展開はありえない。また、組織といっても人で決まる。中心者が一人立てば、すべては、そこから開けていくものである。瞬時のうちに、伸一の頭脳は、目まぐるしく回転していった。彼は言った。「ネバダにも地区を結成します」 同行の幹部にとっては、もはや理解を超えた決断といえた。            <第一巻 新世界 p119~>

 

 ネバダ州の州都がリノです。調べたところによりますと、サンフランシスコから北東に向かって進み、およそ三百五、六十km離れたところにあります。日本で言えば、東京-名古屋間よりも距離があります。サンフランシスコからは、ロッキー山脈に向かっていくようになるので、標高が1300mから1500m位です。日本で言えば、長野県の美しが丘高原や上高地くらいの高さになります。車でも相当厳しく険しい道を通ったことでしょう。当時は、おそらく高速も道路も少なく、街灯も少なかったでしょう。特に、夜になると山道は真っ暗で、悪路の中を走り続けることになると、体力的にも精神的にも相当な負担がよそうされます。そうした状況で、先生にわざわざ会いに来られたわけです。その求道心たるやいかばかりでしょうか。これを、例えば、日本に置き換えて考えてみてください。東名や中央高速のような高速道路も無い中で、中山道のような山道を5,6時間かけて、名古屋から東京の学会本部に駆け付けるようなものです。それほどの、求道心をもった人材が、ネバダ州の山奥の街にいたのです。しかも、戸田先生にお会いし、直々に指導まで受けているという縁の持ち主です。ですから、山本伸一は、無事故、無違反で安全にという思いで、帰りのことも気を使いました。そんな人材ですから、「”日本人じゃないから”とか”日本語が理解できないから”とか、一切関係がない。そこに”仏性があるから”、そこに”求道心があるから”人材なのです」と考えられた先生の判断は、まさに私たちの判断基準を、否、当時の大幹部の判断基準をもはるかに超えていたということです。「見つけた原石を磨き上げていけば、必ず玉となり光を放つ人材に生まれ変わり、そして広布の人材へと育っていく」この方程式を、文字通り実践して示されました。当にアメリカ広布の西部開拓史版といえるような場面ですね。これが、アメリカ人材の”ゴールド・ラッシュ”の先駆けとなったでしょう。

 

 初めから力があって、地域の中心者になったり幹部になったりするわけではありません。誰もが、必ず、”初めの一歩”から始まるのです。南無妙法蓮華経も知らず、勤行も知らず、日蓮も知らず、御書も聞いたこともない、そんな状況からすべては、始まります。鎌倉時代も、そうです。誰もが、日蓮、法華経、南無妙法蓮華経等聞いたことも無いのです。日蓮大聖人も、初めから素晴らしい人材に巡り合えたわけではありません。妙法の原理、仏性、謗法等を説きながら、人々の無知、無理解の壁を壊していき、次第に信奉者に、そして有能な弟子や門下を育てていったのです。自分達もそのようにして育てられてきました。この方程式は、時代、場所、人種、性別、老若、貴賤等一切関係が無いのです。「十界を互具した人間の心は普遍である。ゆえに、人種、民族を超えて、信心もまた普遍である。」と先生は、新人間革命に記されいます。今年は、「世界青年学会の年」と銘打たれました。少子化問題は、学会の中でも喫緊の課題だと思います。でも、いくら喫緊の課題でも、この方程式を無視しては、人材を見つけられず、育てていくことも出来ません。また、常にそのように、見守り育てていくんだという視点と気概を持っていなければ、そういう働きかけはできないでしょう。この、ハワイやサンフランシスコの例をとっても同様でした。日本から同行した最高幹部達でも、ハワイやサンフランシスコで地区を作り、現地の信心の浅い人を地区部長・地区坦にしようなどとは考えられなかったのです。しかし、山本伸一は、たとえ信心は浅くとも、またしていなくても、その人が誠実であり人間性も素晴らしいと認めたなら積極的に役職に付けました。結局は、アメリカの創価学会は見事に発展し、現在は、東部、中部、西部そして南カリフォルニア・パシフィックと、全米が4方面体制になり、広布が拡大しました。三三蔵祈雨事という御書に「夫れ木を植え候には大風吹き候へども、強き扶(すけ)を介ぬれば、たうれず。本より生いて木なれども根の弱きはたうれぬ」とあります。力が無くて弱々しく見えても、周りの強き支えと励ましがあれば、人材として必ず大成していくということを、先生は確信されていたのだと思います。