ルーツというならば、「地湧の菩薩」こそ究極のルーツだ!

 シカゴ到着の翌日。1960年10月9日の日曜日の午前中に、山本伸一の一行は、リンカーン・パークを散策しました。天高く晴れ渡る緑豊かで、広大な公園は気もちの良いものでした。しかし、その清々しさを打ち消したのが、黒人の子供は対する、白人たちの行動でした。その厳しくも悲しい人種差別という一面を垣間見て、山本伸一は、”この陰湿な差別を絶対に無くしたい”、”君が本当に愛し、誇りに思える社会をつくるよ”という決意を深めました。その日の午後は、あるメンバーの家で座談会が行われました。それまでの座談会方式と違って、英語グループと日本語グループに分かれて行われました。英語グループの参加者の多くは、日系人の妻を持つ夫であり、妻の勧めで信心した人がほとんどで、参加者も多かったようです。そこは、山本伸一が担当し、質問会形式で行われました。質問会では「どうすれば広宣流布が進むか」とか「仏法者として社会に貢献したいが、何をしたらよいか」等の、真剣で前向きな質問が出てきました。午前中の鮮烈な印象が残像として残る中で、この座談会で、伸一が一番感じたことがありました。それは、真剣な質問もそうですが、黒人も白人も、仲良く座っていることでした。お互いの顔と顔が合い、視線が合うと、微笑みあったりしている光景が見られたことです。一歩外に出れば、厳しい現実に直面することが多いでしょう。しかし、この座談会に来れば、皆が立場がフラットで、そして意見をフランクに言い合えるという、安心感と自分らしさを表現できるという自己肯定感も得ることができたにちがいありません。それこそが、人間共和の大一歩であり、あの黒人少年にも示して見せたかった光景だったと思います。こうした状況を把握し、伸一は、参加者にあえて「人種問題が大きなテーマとなっていますが、この問題をどう考えていますか」と質問してみました。メンバー間の信頼と良識を認めた中にしかできない質問であり、発言になったと思います。黒人も、白人もそれぞれ率直に自分の意見を述べました。そのうえで、伸一は、大聖人の仏法とは「人と人との心を結ぶ、人類の統合の原理」であることを示しました。聞きなれない仏法の話でも、今までになかった、人間観や思想に触れ、大いに啓発されたことと思います。何よりも、今、目の前で見ている差別のない光景こそが、実証であると肌で感じたに違いありません。更に黒人の青年の一人は、自分のルーツについて語りました。自分の先祖の人間としての権利も尊厳も蹂躙されてきた話を率直に話をしました。それを聞いた山本伸一は、その話に共感しながらも、仏法では「地湧の菩薩」という教えが、究極のルーツであると青年に語りました。つまり、”人間は本来、誰もが社会の平和と幸福を実現していく使命をもった久遠の兄弟である”という考え方こそが、人種の壁も、戦争や紛争の泥沼も乗り越え、世界平和と人間の共和が築かれるキーワードであることを示されました。この場面が書いてある場面を紹介します。

 休みなく、伸一のアメリカ指導は続いた。 この日の午後は、座談会であった。会場は前日と同じニュー・ポートのクラーク通りにあるメンバーの家である。 座談会は、日本語と英語の二つのグループに分かれて行われ、伸一は英語グループを担当した。通訳は正木永安である。英語グループの参加者の多くは、日系人を妻に持つ夫であり、妻の勧めで信心を始めた人たちが大半を占めていた。 伸一は、座談会を質問会とした。「どうすれば広宣流布が進むか」など、建設の息吹に満ちた問いが次々とだされた。質問に答えながら、彼は会場の前列に”黒人”と”白人”のメンバーが仲良く座っているのを、注意して見ていた。彼らは互いに視線が合うと、微笑を浮かべ頷き合っている。その”黒人”の青年の手があがった。「私は、仏法者としてアメリカ社会に貢献したいと思っていますが、そのために何をすべきでしょうか」 この質問に、伸一は喜びを隠しきれなかった。「素晴らしい考えです。あなたの心に、気高さと美しさを感じます。まず、あなた自身が、地域でも、職場でも、周囲の人から人間として尊敬され、信頼される人になることです。それが戦いです。それが、アメリカ建国の精神を蘇らせることであり、社会への最大の貢献となります」 青年は大きく頷いた。伸一は、この青年とは後でさらに対話をし、励ましたいと思った。 質問会が終わると、しばらく休憩とした。自然に歓談が始まった。会場には、さまざまな人種や民族の人たちがいる。そうしてメンバーが嬉しそうに握手し、互いの決意を語り合っていた。少なくとも、その姿からは、偏見や差別を感じ取ることはできなかった。肌の色の違いなど、意識さえしていない様子だった。公園で肩を震わせて去って行った少年の姿が、人種差別を物語る一光景だとすれば、この座談会は、人間共和の縮図といえる。 伸一にはそれが、かけがえのないさわやかな一幅の名画のように感じられた。そこに、未来の希望の曙光を見出す思いがした。彼はみんなの輪に入っていくと、メンバーに率直に尋ねた。「アメリカでは、人種問題が大きなテーマになっていますが、皆さんは、この問題をどのように考えていますか」 正木永安が、伸一の言葉を訳して伝えると、一人の”白人”の青年が答えた。「”黒人”への差別は、社会の随所にあります。また私自身も、全く偏見がないとは言えません。しかし、信心を始めて、さまざまな人たちと接し、一緒に活動するなかで、肌の色の違いはあっても、私たちは、ともに広宣流布をしていく同志なんだと感じられるようになりました」「そうですか。大事なことですね。ひとことに人類といっても多様うです。人種も、民族も、言語も、文化も、国籍も異なっている。また、全く同じ顔をした人が二人いないように、出生を始め、職業も、立場も、考え方も、好みも、一人ひとり違います。この多様性の上に成り立っているのが、人間の社会であり、仏法でいう『世間』なんです。」 しかし、人間は、ともすればその差異にこだわり、人と人とを立て分けて、差別してきた。本来、一つであるべき人間が、差異に固執することによって、分断に分断を重ね、果てしない抗争を繰り返してきたのが、人間の歴史であったと言ってもよいでしょう。大聖人の仏法は、その分断された、人間と人間の心を結ぶ、人類の統合の原理なんです」 伸一の話に、一番、目を輝かせて聞いていたのは、先ほど質問した”黒人”の青年であった。その彼が尋ねた。「山本先生は、人間の心を結ぶのが仏法であると言われましたが、人と人とのつながりを、仏法では、どのように説いているのでしょうか」 「いい質問です。仏法の基本には、『縁起』という考え方があります。これは『縁(よ)りて起(お)こる』ということです。すべての現象は、さまざまな原因と条件が相互に関係し合って生じるという意味です。」つまり、いかなる物事もたった一つだけで成り立つということではなく、すべては互いに依存し、影響し合って成立すると、仏法では説いているのです。同じように、人間も、自分一人だけで存在しているのではありません。互いに、寄り合い、助け合うことで、生きているのだと教えています。この発想から、人を排斥するという考えは生まれません。むしろ、他者をどう生かすか、よりよい人間関係をどう作り、いかにして価値を創造していくかという思考に立つはずです」 質問した青年は、頷きながら、胸の思いを吐き出すように語り始めた。「私は、この信心をするまでは、どうしても、自分のルーツに対するこだわりがありました。私たち”黒人”は、”白人”によって、奴隷としてアメリカに連れてこられたという思いが抜けなかったのです。その意識は、きっと”白人”の人たちにもあると思います。かって奴隷だった人間を対等に扱いたくない。自分たちと同じように、すべての権利を与えたくはない、という意識です。 ですから、私は”白人”が嫌いでした。私たちは、両親も、祖父や祖母も、いえ、更にそれ以前から”白人”に利用され、虐待され、差別されてきたのだと思うと、どうしても好きになれなかったんです。子供のころから、いじめられ、差別されるたびに、自分が”黒人”であることを思い知らされました。自分の体に流れている血を、恨めしく思ったことも、幾度となくありました。しかし、学会では、みんながわけへだてなく、私に接し、温かく励ましてくれました。まるで、人種の問題など、ささいなことだといわんばかりに…。その時、私は、利他の心に触れたのです。そして、今先生がおっしゃるように、肌の色の違いという差異に、自分がとらわれていたということに気づきました」 伸一は、微笑みながら言った。「そうですか。あなたが自分のルーツにこだわってきた気持ちは、よくわかります。しかし、仏法では、私たちは皆『地涌の菩薩』であると教えています。『地涌の菩薩』とは、久遠の昔からの仏の弟子で、末法全ての民衆を救うために、広宣流布の使命を担って、生命の大地から自らの願望で出現した、最高の菩薩のことです。 もし、ルーツと言うならは、これこそが、私たちの究極のルーツです。つまり、私たちは、いや、人間は本来、誰もが社会の平和と幸福を実現していく使命をもった久遠の兄弟なんです。自己自身に立脚点をどこに置くかによって、人生の意味は、全く異なってきます。たとえば、緑の枝を広げた大樹は、砂漠や岩の上には育ちません。それは、肥沃な大地に育つものです。同じように、豊かな人間性を開花させ、人生の栄冠が実る人間の大樹になるには、いかなる大地に立って生きていくかが大事になります。その立脚点こそ、『地涌の菩薩』という自覚なんです。この大地は普遍であり、人種や民族や国籍を超え、全ての人間を蘇生させ、文化を繁茂させます。その地中には、慈悲という泉が湧いています。皆がこの『地涌の菩薩』の使命を自覚し、行動していくならば、真実の世界の平和と人間の共和が築かれていくことは間違いありません」 ”黒人”の青年の瞳は、キラキラと輝いていた。伸一は、彼に鋭い視線を注ぐと、力強く言った。 「これまでに、あなたは何度となく、人生の悲哀を味わい、辛酸を舐めてきたことでしょう。しかし、あなたは『地涌』の生命に目覚めた。新しい人生の旅立ちをしたんです。過去を振り返るのではなく、未来に向かって、強く生き抜くことです。そして、あなたが味わった不当な差別の苦しみを根絶するために、共に立ち上がりましょう。不幸という鉄鎖からの人間解放の闘士として」

伸一は、青年に手を差し出した。彼はその手を、強く、強く握りしめた。彼の張りのある黒い顔に微笑が浮かび、白い歯が光った。歓談の場は、友情と誓いの、未来への出発の舞台となった。 そこに、座談会を終えた日本語グループが合流してきた。

                                             第一巻 <錦秋>p179~

 日本では、あまりピンとこない問題である人種差別。だから、大きな問題だと捉えることができない人が多くいると思います。しかし、アメリカでは、長い歴史の中で、いろいろと変遷してきた、とても大きな問題であり、デリケートな部分です。これは過去の問題ではなく、現在でも進行形です。最近では2023年2月に、「米テネシー州メンフィスで黒人警官5人に殴打され取り押さえられた29歳の黒人男性が死亡した事件によって、アメリカではまたしても、人種と警察の問題が注目される事態となっている。」というニュースがありました。また、「アメリカで2020年に、黒人のジョージ・フロイドさんが白人の警察官から暴行を受けて死亡した事件で、当時、事件現場にいた元警察官の男に対し、禁錮4年9か月が言い渡されました。この事件は、中西部のミネソタ州で3年前、黒人男性のフロイドさんが、当時、警察官だった白人男性に首を圧迫されるなどして死亡したものです。」というニュースもありました。更には、2020年5月25日には、「5月25日、アメリカでふたたび警察官により黒人が殺害されました。被害者のジョージ・フロイドさんは路上で突然警察官に捕らえられ、わずか10分ほどの間に命を奪われました。反差別国際運動はこの暴挙に抗議をするとともに、アメリカ社会に横たわる人種差別の撤廃に向けた合衆国政府の取り組みを促す声明をだしました。」という一大センセーションを巻き起こしたニュースです。これらはいずれも、国民や市民を守るべき警察官による、黒人に対する暴行事件ですが、人権軽視の根は一緒だと思います。権力を持った人たちが、公に黒人を法外で無謀に取り締まることが

罷り通っていたのです。ですから、目には見えない暴行や嫌がらせ行為等は数知れない程でしょう。いつも白い目で見られ、何かあると過剰な取り調べを受け、頼るべき公的機関も味方にはならないとなれば、身の安心・安全は保てず、不安な日々を送らざるを得ません。生きた心地、気の休まる時間も空間もないと思います。そんな中で、入信し座談会で、「人は皆仏性をもっている。だから誰人も同様に仏を同じで、尊い存在」というを聞いたら、感動し、自分の尊厳を取り戻し、明るい未来を見通せるようになったことでしょう。小説の中で、黒人青年が語った言葉が、ひしひしと伝わってきます。”彼がもし自分であったら…⁉”と置き換えてみたらどうでしょうか。”今までの苦悩が、一瞬で吹き飛び、そして希望の光がいきなり差し込んできたような…” そんな夢のような姿が現実になったのです。少なくても、座談会場にいる間は仏国土です。一歩会場を出れば、まだまだ厳しい現実にぶち当たるかもしれません。しかし、それまでと違うのは、自分は”地涌の菩薩”の眷属であるという使命と確信を得たことです。そこには、尊さは有っても、卑屈さは生まれません。力強く邁進していくエネルギーを得て、進んでいけるし、共に歩める仲間もいるのです。自分一人では心細いですが、多くの味方・理解者がいれば、これほど力強いものはありません。ですから、アメリカの社会に日蓮大聖人の仏法を基調にした創価の輪が広がっていく理由は、明快といえます。

 

 山本伸一の話には、大きく二つの観点があります。一つは「誰にも仏性がある」ということです。それを礼賛できるかできないかです。もう一つは、「誰にも使命がある」ということです。「願兼於業」という道理です。一つ目に関して、大聖人は、不軽菩薩の修行を通して、「松野殿御返事」に、わかりやすく、こう教えられています。「過去の不軽行菩薩は一切衆生に仏性あり 法華経を持たば必ず成仏すべし、彼を軽んじては仏をかろんずるになるべしとて 礼拝の行をば立させ給いしなり」 要約すると、過去の不軽菩薩は「一切の衆生には、みな仏性がある。法華経を持つならば必ず成仏する。その一切衆生を軽蔑することは、仏を軽蔑することになる」と言って、一切衆生に向かって礼拝の行を立てられたのであるということです。
 ″人間を軽んずることは、仏を軽んずることである″――不軽菩薩の人間尊重の行動は、法華経の深遠な生命観に裏づけられている。ということです。不軽菩薩は、一切の衆生は皆、尊い仏を同じ生命をもっているから、誰に向ってもうやうやしく礼拝するという修行をしました。しかし、そのために逆に、誰にでも仏の生命があるという意味を理解されず、皆に馬鹿にされたり、石を投げつけられたりしました。誰をも仏の如く敬う尊い行為の反対は、人を傷つけたり貶めたりする行為です。しかし、考えてみれば、「その人にも自分にも仏と同じ尊い生命があるという道理」であれば、知っても知らなくても、他人を傷つける人は、仏を傷つける行為であり、更には自分をも傷つけているのと同じといえます。逆に、他人を礼賛していけば、仏を礼賛していくことでありその結果として、自分も礼賛されていくという原理になります。”黒人”といって侮蔑・差別した人は、仏を侮辱したことになり、結果として自分の仏性も傷つけてしまうことになるのです。仏法は、因果の理法ですから、自分の行った行為が因となって、不幸な結果として我が身に返ってきます。また、仏を褒めればほめるほど、同様に福運として自分に返ってくるのです。

 二つ目に関しては、「願兼於業(がんけんおごう)」です。これは、法華経には、「願兼於業」の法理が説かれています。願とは願生、業とは業生です。菩薩は願いの力で生まれ(願生)、普通の人々は業によって生まれます(業生)。願兼於業とは、修行によって偉大な福徳を積んだ菩薩が、悪世で苦しむ人々を救うために、わざわざ願って、自らの清浄な業の報いを捨てて、悪世に生まれることです。例えば、”黒人”として生まれ、”白人”に苦しめられ辛い思いを何度もしてきたとします。これは、現実の厳しい有様です。しかし、地涌の菩薩が「自分は、”黒人”として生まれ、同じ苦しみを味わっている人を、この仏法によって救うのだ」と願って、その地でその姿で出現してきたということです。ですから、その”黒人”の青年には、彼にしかできない使命があるのです。時には、”貧乏”や”病気”や”人間関係”といったことに深く悩んで苦しんでいる人もいるでしょう。その人が妙法をたもって、良い方向に変わっていく姿を示していくことにより、同じ悩みや苦しみをもつ人々を励まし、救っていくことができるのです。”仏縁”とはそういうものだということを示されています。だからこそ、自分には力がないではなく、自分にしかできない縁があり、使命があるということになります。それを信じて自信をもっていきたいですね。