ハワイの座談会では、どんな服装がよいのか…⁉

  ハワイと言えば、開放的で燦燦と陽が注ぐワイキキのビーチのイメージです。水着を着て海岸で泳いだり、サーフィンをしたりと、常夏の国だからこその情景です。ホテルにはヤシの木が生えており、その下で夕日の傾くころから、ハワイアンのフラダンスと夕食を楽しむ光景がよく似合います。そこに集う人たちは、男性ならば彩色鮮やかなアロハシャツで、女性ならばフワフワゆったりとしたムームーを着こんで、歌や踊りをし、食事を楽しむ、そんな日常が思い浮かびます。常夏で一年中温暖な気候ですので、スーツやドレスで着飾る機会も必要もなく、皆一様に明彩色でヤシやハイビスカスなどをモチーフにした図柄の服で、街が溢れているのが印象的です。世界広布の第一歩を記した日本から来た学会の幹部たちも、この時初めてアロハシャツやムームーを見たくらいです。当時はまだまだ日本ではテレビなど普及していなかったので、ハワイの景色や服装など殆ど目にすることは無かったと思います。ハワイに来て初めてそれらを目にし、初めて着たのではないでしょうか。日本を出発した時は、10月の半ばの秋。少し肌寒さを感じる季節です。学会の一行は、皆スーツ姿でした。ネクタイを締めていて見るからに暑苦しい姿から、アロハやムームーで一気に解放されて、ハワイの情緒を感じたのではないでしょうか。ところで、今回の旅の目的は観光ではなく、学会メンバーに会うことです。現地で座談会を開いて、集った人一人一人の状況を聞いたり、激励することにあります。座談会の話になった際に、「座談会にはどんな服装が相応しいでしょいうか」という話になりました。日本から来た幹部たちは、”背広でネクタイが常識”。そこから離れることは、なかなか想像がつかなく、何を着ていくかを決めるのが難しいようでした。しかし、一方では、現地の人達にとっては背広は普段見馴れないし、しかも日本の学会の幹部は堅苦しくて怖いイメージを持つのではないかという話にもなりました。確かにそうですね。世界初の海外座談会で、垣根を取り払って仲良くやりたいと思っても、共にかたくなな感情を持っていては、上手く馴染み溶けあうのは難しいかも知れません。結局、池田先生の考えのもとに、現地にふさわしい服装で座談会に参加することになったのです。ここでは、”たかがアロハやムームーを着るかどうか”というどうでもいいような、笑い話として流せるようなことだけれども、世界広布という視点で考えれば、重要な問題であると見逃さない先生の視点が伺えます。これらのことが記されている場面があるので紹介します。

 

  ホテルを出発する前に、伸一は、案内役のハワイの友に尋ねた。「座談会には、どんな服装で言ったらいいですか」 違和感なく現地の友に溶け込み、和やかな語らいをするための心配りである。 「そうですね。こちらでは女性はムームーですし、男性はアロハシャツですから、背広は着ないで、シャツだけで行かれた方がいいと思います」「シャツの色は?」「アロハの色は派手ですから、明るいブルーがいいのではないでしょうか」「ブルーのシャツは持ってこなかったな。じゃあ、白いシャツにしよう。みんなも気楽な服装がいいよ。清原さんは、ムームーがいいね」「ムームーですか」 清原かつは、こう言われて首をかしげ、小声で案内役のメンバーに聞いた。「むーむーって、どんな服かしら?」「さっき、ここに来た女性が着ていた服です」「あのアッパパみたいな服?あれ、寝間着じゃなかったの?」「いいえ、ハワイではどこに行くにも、たいていムームーを着ていきます。」「あら、そうなの。私、さっきね、みんなに『今日は歴史的な座談会になるんだから、まさかそんな格好でこないでしょうね。きちんと正装していらっしゃいよ』って言おうかと思っていたのよ」 伸一は笑いながら、清原に言った。「清原さん、ここは日本じゃないんだよ。ハワイにはハワイの風俗や習慣があるんだから、それをそんちょうすることだよ。日本とは気候も文化も違うのに、学会では、日本と同じ服装やヘアスタイルでなければいけないなんて言われたら、みんな信心をするのがいやになってしまうよ。まるで、戦時中の国防婦人会みたいでさ。そんなことは御書にも書かれていないし、仏法の本義とは違うのだから、それぞれの良識に任せ、自然な形でいいんだよん。ましてや、今日の様な座談会では、みんなの悩みや疑問をよく聞いて、納得できるように、的確に指導し、励まして行くことが主眼になる。そのためには、自由で和やかな、どんなことでも話せ合える雰囲気をつくることが大事なんだ。みんなにも気楽な服装で来てもって、こちらもそれにあわせていくべきだね」 清原は自分の考えの浅さを恥じた。                                        <第一巻旭日 p40~>

 

 確かに衣装や頭髪なども無理強いされたら、それだけでこの上ない反発を示しかねないでしょう。過去の中国で、明という国がありました。長く続いた王朝でしたが、宦官の横暴や党派闘争による政治の乱れ、増税などで明の国内では反乱が続発するようになりました。その代表が李自成の乱です。1630年代以降、流賊と呼ばれる反乱集団がたくさん生まれるのですが、李自成の反乱軍もそのひとつでした。李自成軍は、1644年、40万の大軍で北京を占領してしまったのです。明朝最後の皇帝崇禎帝は、宮殿の裏山に登って首をつって死んでしまいました。あっけない明の滅亡でした。李自成は、明にかわって新しい王朝を建国し、皇帝になります。まだ混乱の中ですが、明の行政機構を掌握して、即位式の準備もはじめた。この混乱に乗じて満州の異民族の清が侵入してきました。李自成は清軍を迎え撃ちますが、簡単に撃破されてしまいました。騎馬民族にはかなわないと思った李自成は、皇帝の即位式だけ済まして北京を脱出。かわりに、清軍が入城して北京の新しい支配者となりました。李自成が北京を占領したのが3月19日、清軍の北京入城が5月2日。わずか、一月半の李自成の天下でした。清は北方の異民族で従来の漢民族と違い、文化も風俗も全く違っていたのです。辮髪(べんぱつは男子が頭髪を剃り、後頭部だけを長く伸ばして編み、背後に長く垂らす髪型です。辮髪の辮は「編む」と同じ意味で、北方狩猟民である女真(満州人)の風俗でした。満州民族の女真が建てた王朝である清は、1644年に北京に入城すると、まず占領地で降伏した漢民族に、服従の保証としてこの髪型にすることを強要したのです。頭部の半分を剃り上げ、後ろから長く編んだ髪の毛は非常に特徴的で、漢民族の人達には大変嫌われました。そして、清朝末期には、反清朝を象徴するために辮髪を止めて抵抗したということです。あの孫文でさえ、日本に留学した際には、辮髪を切り落としたということです。そして、反清朝、そして近代化をめざし辛亥革命を起こしたのです。これは一例です。一方的な価値観の押し付けは、表面的には征服や服従を成功させようにも見えます。しかし、深層においては、常に鬱屈した感情を秘めて、面従腹背の状況に成り兼ねます。その上更に、支配者たちや新しい指導者たちが傲慢で、自分たちの利益だけを貪り、現地の人々を冷遇するようなことが続けば、国や組織の安定や繁栄は全く望めないでしょう。このように、過去のいくつもの事実をもって、 歴史がそれを証明しているのです。

 

 日蓮大聖人は、「此の戒の心はいたう事 かけざる事をば 少少仏教にたがふとも 其の国の風俗に違うべからざるよし 仏一つの戒を説き給へり」と言われています。これは、「仏法の根本の法理に違わないかぎり、各国・各地域の風俗や習慣、時代ごとの風習を尊重し、随うべきである」とした教えです。これを随方毘尼(ずいほうびに)ともいいます。日蓮仏法の本義そして創価学会の本義は、南無妙法蓮華経の御本尊根本、日蓮大聖人の御書根本、三代会長から連綿と連なる師弟不二、謗法厳戒、そして広宣流布にあると思います。これらの要点を逸脱しない限り、各地の風俗や習慣、時代の風習に従っても良いということです。池田先生は、「日蓮仏法こそ、全人類を救済し、世界の平和を実現しうる最高の宗教であるとの確信に立ったのである。自分が揺るがざる幸福への道を知ったとの確信があるならば、人びとにも教え伝え、共有していくことこそ、人間の道といえよう。ゆえに学会は、布教に励むとともに、座談会という対話の場を重視し、他宗派や異なる考え方の人びとと語り合い、意見交換することに努めてきた。それは、納得と共感によって、真実、最高の教えを人びとに伝えようとしてきたからである。 宗教は、対話の窓を閉ざせば、独善主義、教条主義、権威主義の迷宮に陥ってしまう。対話あってこそ、宗教は人間蘇生の光彩を放ちながら、民衆のなかに生き続ける。座談会などでの仏法対話によって、共に信心をしてみようと入会を希望する人は多い。また、信心はしなくとも、語らいのなかで学会への誤解等は解消され、日蓮仏法への認識と理解を深めている。」とも指導されています。 ともあれ、記念すべき第一目のハワイでの海外座談会。先ずは、現地の人に違和感を持たれたならば、せっかくの対話も信心指導も、弾むことなく、入ることなく終わってしまったに違いありません。旭日のp45には「風俗や習慣の違いたいして、どう対応していくかということも、彼のなかで、検討しつくされた問題であった。彼の胸中には、既に世界広布の壮大にして精緻な未来図が、鮮やかに描かれていたのである。しかし、それを知るものはだれもいなかった」と書かれています。この時すでに戸田先生の構想から池田先生の未来図が完全に完璧に出来上がっていたのです。感謝!