ドタバタから始まった、アメリカ広布の第一歩…!

 このブログの一番最初のタイトルは、「何事も始めが肝心だ」でした。戸田先生の夢の実現の為に繰り出す世界平和の第一歩。池田先生も学会の本部も、それまでの弘教活動の経験を活かし、また現地からの情報を得ながら、用意周到に計画が進められたと思います。未知の旅だからこそより一層、いろいろな事を事前に調べ、そして現地と連絡を取り、万端の準備をして臨まれたに違いありません。最初の世界広布の旅は、ハワイのホノルル、サンフランシスコ、シアトル、シカゴ、トロント(カナダ)、ニューヨーク、ワシントン、サンパウロ(ブラジル)、ロサンゼルスの三カ国九都市の25日間の予定でした。そして訪問の目的は、各地に誕生しはじめた会員の激励と指導。さらには、総本山に建立寄進する大客殿の建築資材の買い付けのためであると、新人間革命に書かれています。広大な国土、点在する同志、資材買い付けの場所と現物の確認等々、これらの行程と内容を25日間でこなすためには、相当な下準備が必要で、日本にいる時から頻繁に現地との連絡のやり取りや確認・確約等、事細かになされていなければ不可能なことでしょう。ちょっとした、ミスでも重大な混乱が予想されます。しかし、実際にはどうだったでしょうか。昭和三十二年十月二日に、大勢の人々に送られて意気揚々として、羽田空港を飛び立ちました。最初に降り立ったのは、ホノルル空港でした。飛行機は、到着予定より約1時間遅れの十月一日午後11時でした。いざ空港に着いてみると、迎えに来ているはずの創価学会の責任者(正木)や現地の人々など誰もいなかったのです。結局同便に搭乗した他の人達がいなくなった後は、今回の学会の数名のメンバーだけ、真っ暗の空港に取り残される形になりました。英語にも不自由し、夜遅くて、店は開いていないし、空腹だし、地理は分からないし…⁉この時の、池田先生を始め、同行のメンバーの不安や焦りはいかばかりだったでしょう。中には、気の短い幹部は、迎えに来るはずの米国の責任者に怒りと不満をぶちまけ始めたとも書いてありました。仏法者といえども、このような状況に置かれたならば、”致し方無い”かなと同情をします。これを自分に置き換えたら分かりますね。言葉も通じない見知らぬ地で、しかも深夜で人通りもほとんどなく、物騒な感じもします。恐らく、心の中で、皆が題目を唱えていたことでしょう。ようやくタクシーを捉まえて、宿泊予定のホテルにたどり着いたそうです。その時刻は、午前二時。ホテルでは、夜食も頼めず、先生が持参された海苔を分け合って食べたとも書いてありました。これらの状況は、この旭日の章に詳しく書かれています。長いので、このドタバタ騒ぎとその時の心情が伝わる部分を、一部抜粋して紹介します。

 

  「先生、正木君はいませんでしたが、外にはカイマナ・ホテルの車が待機しておりました。もう夜遅いですから、その車でひとまずホテルに行くことにしてはいかがでしょうか」 十条の提案に従い、一行はホテルに向かった。そこはワイキキの海岸の外れに建つ、三階建ての質素なホテルであった。一行が着いたのは既に午前二時近かった。 それぞれが自分の部屋に荷物を置くと、誰ともなく山本伸一の部屋に集まってきた。機内の夕食からかなり時間もたっており、皆、空腹をかかえ、疲れ切った顔をしていた。「お腹がすいたね」 みんなの思いを代弁するように伸一が言った。 しかし、繁華街を離れたこのホテルの周辺には、店は一軒もなかったし、深夜のせいかルームサービスもしていなかった。伸一は、日本から持ってきた海苔を取り出すと、皆に分けた。 誰もが浮かぬ顔をしていた。初めての外国で、迎える人もなく、海苔を口にして空腹を紛らわすことに、わびしさを覚えていたのである。 すると、伸一が愉快そうに笑いながら言った。「こうやって、みんなで海苔を食べたことが、将来、最高の思い出になるよ。これが人生の歴史に残る、壮大なドラマの幕開けの一夜だと思えば、楽しいじゃないか」 そういわれても、誰も伸一の言う”楽しさ”を実感することはできなかった。しかし、悠々と笑みを浮かべる彼に接していると、不安が拭われていくような気がした。窓の外は、夜明け前の深い闇に包まれていた。 (第一巻 旭日 p24)

 

 この場面は、一行が途方に暮れながらも、ひとまずホテルに到着して安堵した場面です。安堵したと言っても、現地案内役の正木に出会えたわけではなく、窮地を脱したというには程遠い状況には変わりありません。そんな中で、山本伸一の機転によって、一行はどんなに救われ気が軽くなったことでしょう。海苔屋の息子の池田先生が、その海苔によって、皆の重たい気持ちを一瞬にして変え心を和ませたという、その気遣いと機知とには驚かされました。普通なら、同様に落胆して、「早く寝て気分転しよう。解散」と言いながらも気分が悶々としたまま、次の日の朝を迎えたかも知れません。更に、この暗澹たる出発も、「世界広布の残る輝かしい1ページになる」と断言されながら、笑い飛ばしたところにも感動しました。もし、池田先生がこの夜の事を新人間革命に記していなければ、記憶にも記録にも残らないで、埋もれて言ったことでしょう。今ある世界広布の進展が、このような苦難から始まったなどと、後世の人には誰も想像は及ばないでしょう。小説人間革命や新人間革命は、広布の歴史書でもあることを改めて感じ入りました。 一方で、現地の歓迎団は全力で先生一行を迎えようと事前に準備をしていたのです。しかし、空港へ迎えに行った時には、先生たち一行は見当たりません。焦った正木は、受け取った手紙を見直し、飛行機の到着の日や時間を確認して、間違いないと再確認しました。しかし、空港の職員確認したところ、先生の搭乗したJAL800便は前日の到着しているとのこと。そこで、ホノルルのホテルに片端から電話をして、先生の居場所を探索し、ようやくワイキキの外れにあるホテルに到着されたことを突き止め、合流できたことが書かれています。お互いに最善を尽くしていたのですが、落ち合えなかったということでした。後日談になりますが、この行き違いの原因を調べたところ、スケジュールの変更があったこと、旅行会社のメールの日付を間違えて伝えたこと等にミスがあったようです。当時は、海外旅行は珍しく、不慣れな点が多くあったと思います。また、時差によって日にちの違いも起こります。そのような想定外のことも、国内の広布旅とは違った苦難の一端となったのだと感じました。

 

 昭和35年というと、昭和26年にサンフランシスコ講和条約が締結されてから10年も満たない頃です。戦後の統治下から、世界から日本の主権国家として認められた段階です。政府間の国交が回復して間もない時期で、一般人の海外渡航などは殆どなかった時期と言えるでしょう。現代の感覚とは全く違います。また、現代のように、携帯、ライン、メール、GPSや位置情報を共有するソフトがあれば、こんなことは起きなかったことでしょう。今にしてみれば、「何でこんなことになったの?」と笑うかもしれません。しかし、通信網にしても、調べたところでは、国際電話も、日米間に海底ケーブルが繋がって自由にできるようになったのは、昭和39年です。ですから、最初の世界広布の旅の時には、各地、各国間の連絡は、全て手紙で行われていたということになります。船便では1か月、航空便でも1週間はかかりました。それが、往復となったらその倍はかかるわけです。ですから、細かい修正や調整は難しく、いろいろな不都合が起こっても不思議ではありません。逆に考えれば、こんな厳しい状況下でも、「会長就任直後にいち早く世界広布に乗り出したんだ」と驚嘆させられます。更に飛躍して考えるならば、鎌倉時代の熱原法難の折、法難が起こっている現場の富士市熱原(現在)、大聖人が居られた身延町、仲間をかくまった南条時光の居所の富士宮、平頼綱や四条金吾が居た鎌倉市、そして難を聞きつけて何とか同胞を救援しようとした、池上兄弟の東京大田区、富木常忍の居た千葉県市川市等々、こんなに離れていても、そしてまた、人馬しか交通・通信の手段がない中で、頻繁に連絡しあい、対応を検討したり、指導を仰いだりして、みんなの意思を確認し合って、心を一つにして戦いました。当に”異体同心の行動”だったと思います。振り返って考えれば、スマホやインターネットがあり便利になったからと言って、自然と広宣流布が進むわけではありません。不便だからと言って、広宣流布ができないという訳ではありません。最終的に”広宣流布”は、「やるぞと決めた人の”強い一念”がなせる大偉業なのだ」ということを強く感じました。