神戸北野サッスーン邸は明治25年(1892年)に、外国人貿易商デヴィッド・サッスーン氏の私邸として建てられた。今は結婚式場として活用されている。このように結婚式場として第二の人生を歩む洋館は多い。

 

門からは建物はよく見えない。結婚式にでも呼ばれないと駄目かと思った(笑)

 

しかし横の坂をさらに上ると、後ろからその端麗な姿が、よく見えた。

同時に直線的な建物に白い壁に緑色の窓枠の洋館は多いなあと思った。

 

以下に思いつく同じ配色の建物を載せる。

まずは同じく神戸北野異人館はスターバックスコーヒー

 

同じく北野のスタジオハローズ・アメリカンハウスは壁は下見板張りではないが色は白と緑。大正時代に建てられた旧ハムウェイ邸アメリカンハウスをリノベーションしたものという。

 

山手のエリスマン邸は白と緑の横浜代表。

 

東京、雑司ヶ谷の旧宣教師館(旧マッケーレブ邸)も典型的配色。

一方別荘地軽井沢にはこの配色はないようだ。壁は茶系ばかりである。

この白と緑の組み合わせの建物は、欧米に元々多いのであろうか?

 

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昨年出版した『続続 心の糧(戦時下の軽井沢)』に「戦前の雑誌『国際建築』に見る軽井沢の別荘」という章の中で「南薫造氏山荘 谷口吉郎設計」もいくつかの別荘と共に紹介した。場所は星野温泉であったが、谷口吉郎設計ということに正直筆者は惹かれた。

 

 

南薫造の別荘 『国際建築』1936年10月号(国会図書館所蔵)より

 

その南薫造のご遺族の方から嬉しい連絡をいただいた。

知人がたまたま軽井沢書店で手に取った、前掲の『続続 心の糧(戦時下の軽井沢)』に南薫造の別荘を見つけ、連絡してくれたというのだ。そして筆者に連絡をいただき、その別荘は現存することを教えていただき、また『洋画家南薫造交友関係の研究 』と同『補遺と余話 』という立派な本を2冊送っていただいた。

そこには上の写真のベランダでくつろぐ、ご子孫の最近の写真も載っている。

 

『洋画家南薫造交友関係の研究 』南八枝子

 

そこから分かったことは次の様な別荘に関係する歴史だ。

昭和8年(1933年)、南はゴルフで初めて軽井沢を訪問する。翌年「唯一つだけ残っていた貸別荘を借り受けることを決めた」と星野温泉別荘12番で夏を過ごす。気に入ったのであろう、1935年に谷口吉郎に同じく星野温泉に別荘の設計を依頼する。


南は1929年から東京工業大学講師になり絵を教えていたが、谷口は1931年から若い同僚としてそこに居合わせた。そして谷口は1932年に東京工業大学水力実験室を初めて設計し、次がこの南の別荘であったという。

外観は樹皮のついたままの丸太の丸みを残した板を使った山小屋風は施主(南薫造)の好みか。内部のアトリエは漆喰塗りの天井に梁を露出、窓枠は薄いブルーのペンキ塗りで洋風、あとは畳式の純和風の部屋であった。

 

遺族が夏の間、殆どそのままの形で現在まで使用してきた。温泉地なので昔はどの家も内風呂はなく、星野温泉に入りに行った。よって南別荘は今も風呂がない数少ない別荘なのである。

南が家族とここで夏を過ごしたのは戦前、戦中は1942年の夏が最後であった。1943年の夏には、疎開用の荷物を送り込み、10月6日から2泊で行って星野旅館の新館に泊まりながら、送った荷物の整理と畳上げをする。こうして別荘は家財の疎開場所として利用された。
1944年3月、南は生まれ故郷の広島県賀茂郡安浦町内海に家族と疎開する。終戦から2年経った1947年6月7日に別荘に行って、荷物の無事を確認した。

 

筆者の著書から軽井沢書店を経由して、南薫造のご親族と繋がった嬉しい話である。

 

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軽井沢書店でのトークショーまで、あと10日余りとなりましたのでリマインドさせていただきます。

ハイチェアを合わせて定員が20名から25名に増えました。

ご興味のある方は直接お店か、または私にコンタクト下さい。

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軽井沢書店での第3回目のトークイベントを行います。

 

昨年のヘンリー・玉置さんに続き、今年は旧軽井沢銀座通りで「ぎゃらりい一色」を営む一色文枝さんを迎えて、旅籠屋時代から戦時中、そして現在までの軽井沢について語ります。ぜひご参加ください。

 

日時:7月21日(日) 17時00~18時30分

場所:軽井沢書店内 Mototeca Coffee Karuizawa

申し込み:軽井沢書店カウンター、もしくは電話にて(0267-41-1331)

詳細は以下のパンフレットを参照下さい。

 

 

<追加>

 

一昨日、軽井沢書店を訪問したら、私の本のそばにトークショーのPOPがありました😃

頑張らねば!

 

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今回の神戸訪問の中で特に訪問したかった所はクラブ・コンコルディア跡。先の大戦の終わりまでクラブの建物あった場所は、現在メディセオ北野坂ビルとなっている。そしてクラブ・コンコルディア当時の礎石銅版が塀の一角に保存されているからだ。

 

 

そこには次のように書かれてる。左側のドイツ語は

「クラブ・コンコルディアの建物の礎石

1926年5月1日、

以下3名の名前(略)」

日本のビルに「定礎」と埋め込まれているものと同じ位置づけである。

 

右側の日本語は

「ドイツクラブ(コンコルディア)跡

左の銅板はドイツクラブの礎石として埋設されていたものを本館改築に際して発掘、記念のために保存したものです 昭和56(1981)年12月」と、土地を買収した株式会社三星堂の名で彫られている。数少ない終戦までのドイツ人の痕跡だ。

 

居留ドイツ人の親睦組織としてクラブ・コンコルディアが京町79番地に設立されたのは1879年であった。会員数は38名で内7名はオランダ人であった。

1896年に焼失し、翌年新しい建物を東町117番に建てた。1918年、第一次世界大戦でドイツが敗北すると日本政府によって接収される。会員数も63名まで落ち込む。以降はドイツ領事館の建物内などを利用する。

 

その後1927年に山本通り2丁目に建てられた鉄筋コンクリートの建物が、1945年に連合軍によって接収されるまで使われた。1929年には会員数が173名まで増える。

 

GHQが終戦直後に移した写真によれば空襲による全壊は免れた様だ。

戦前の写真と比べると手前の壁の曲線がそのままである。

 

この建物にはドイツ人学校も入った。しかし手狭になると予想して1936年に北野町3丁目に土地を取得し、立派な近代的校舎を建てたが、1945年6月5日に爆撃で校舎は破壊される。

(以上、主として「Die Deutschen in Kobe (神戸のドイツ人)」 オットー・レファートより)

 

当時の史料に出ている生田区北野町3丁目53の場所は特定出来ていないが、ドイツ人学校については戦時下の「ドイツ人学校神戸」の疎開(終戦直後の写真付き)で詳しく述べた。

 

同じ港町で開港当時から栄えた横浜には1863年に同様の組織、クルップ・ゲルマニアが設立されている。また「Die Deutschen in Yokohama (横浜のドイツ人)」という本がクルト・マイスナーの手で書かれている。

 

レファートもマイスナーも研究者ではなくビジネスマンであり、1873年に東京で設立されたOAG(ドイツ東洋文化研究協会)のメンバーであった。同時に神戸支部も設立されている。そしてそこでの活動報告が2冊の本としてまとまっている。両市の類似性をよく語っている。

 

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神戸北野坂に建つ1907年(明治40年)のこの洋館は、M.J.シェー邸として北野町1丁目に建設された。

後にNHK朝の連続テレビ小説『風見鶏』の主人公のモデルであるドイツパン職人ハインリヒ・フロイントリーブが所有者となって、その息子のフロイントリーブ2世に受け継がれた由緒のあるコロニアルスタイルの西洋館。(ウィキぺデイアより)

 

フロイントリープと言えば第一次世界大戦で青島で日本軍の捕虜になって日本に連れて来られるが、終戦後も日本に留まり、日本人高木ヨンと結婚、その後パン屋を開店するがそれが「フロイントリープ」である。一家は自分の研究分野であり、外せないところだ。

 

洋館は2001年に現在地に移築し、2009年からスターバックスが営業している。日本第一号の登録有形文化財を使ったスタバという。こういう洋館に入ろうとするスタバの見識は素晴らしいと思う。

建物に合わせて入口のロゴ(左下)は黒バックの昔のロゴに近いものが付けられている。気配りであろう。

現在のスターバックスの姿。

 

店内は若者、インバウンドのお客さんで普通のスタバと変わらない。

店内

 

もう一点、大事なことがある。入り口の前にはかつての入場券売り場であった小屋も残っている。

この小屋の屋根をよく見ると木立に隠れるように風見鶏が付いているのである。気づく人はほとんどいない様だが、風見鶏ファンとしてはたまらない。

洋館ファンであり、ドイツの歴史ファンであり、風見鶏ファンでもある自分にとって、一度に三回おいしいスターバックス神戸北野異人館店!

 

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徳島県鳴門市のドイツ館を訪問。人生初の四国上陸だ。

ここは第一次世界大戦中、中国の青島で捕虜になったドイツ兵約1000名が収容された板東俘虜収容所があった。

捕虜達によって演奏会がしばしば開かれ、日本のみならずベートーヴェン「第九」、アジア初演の地として有名である。記念館である「ドイツ館」は立派な建物。姉妹都市であるリューベックの市庁舎を模している。現在の建物は2代目で1993年竣工と意外と新しい。

それにしても今から100年以上も前、当時はかなりの田舎であったこの地に連れてこられたドイツ兵たちは、相当不安だったのではないか?

 

 

 

館内の説明を受けた後、続いて訪問したのは近くの大麻比古神社の境内の奥の散歩道にかけられた石橋、眼鏡橋とドイツ橋。木橋も含み10個の内ふたつが残る。

ドイツ兵が設計施行した石積アーチ橋で現在この二つが残る。状態はとてもよく100年以上前のものとは思い難い。似た話として第二次世界大戦で箱根に疎開していたドイツ海軍兵が掘った阿字ヶ池がありすでに紹介した。

 

ドイツ館で聞いた話では青島で捕虜となったドイツ兵の内、生粋の職業軍人は100名ほどで他は徴兵された者であった。彼らは元々パン屋であったり、ソーセージを作っていたり、そして建築関係の仕事をしていたからそれらの技術が収容所で生かされたのだ。

 

眼鏡橋

 

こちらがドイツ橋。今は通れない。

 

橋のたもとには旧字で「独逸橋」、ドイツ語でDEUTSCHE BRÜCKEと彫られた石が残っている。ある地元の方が近くに倒れてあったのを見つけたそうだ。自分的には今回の訪問で最も嬉しい発見だ。

 

松山・丸亀及び板東の各収容所で亡くなった11名の兵士の慰霊碑で1919年に捕虜の手によって建てられた。現在は隣に新しい慰霊碑も建つ。

 

兵舎第5棟の跡。片側は当時の煉瓦の基礎部分?

 

これらは場所が異なるが、参加したバスツアーのお陰で、それぞれの場所に案内してもらえた。またボランティアのガイドがついてくれたが、彼女に密着し、その言葉をひとことも聞き漏らさないようにした成果だ。

 

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大規模改修中の万平ホテルが8月16日から30室を先行オープンする。ソフトオープンというらしい。そしてその30室は全室温泉付きとのこと。

 

改修前の万平ホテル

 

この記事にピクッときたのは、筆者はかつて旧軽井沢にあった「軽井沢温泉」について少し調べたからだ。旧軽井沢には戦前、温泉が湧いていたのかという興味からであったが、残念こちらは三笠ホテルと同じく「湯ノ澤温泉」から引いてきたとのことであった。今度はどこからであろう?

 

今回の万平ホテルは軽井沢の”塩沢温泉”から引いているとのことだ。調べると南軽井沢の塩沢湖近くの『(旧)塩沢温泉 高林閣』の跡地を、森トラストグループが2016年に取得している。そこは豊富な湯量の自家源泉を備えている。そして万平ホテルは森トラストグループと資本提携している。つまりグループ内の協業ということのようだ。

 

各部屋ということは蛇口をひねって湯船に貯めるお湯が温泉ということか。トラックもしくはタンク車が定期的に温泉を運ぶのであろうが、大きな浴場ではない温泉もやはり喜ばれるのであろうか。一度泊って味わってみたい。

軽井沢温泉があった場所

 

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東横線の車内の広告に御殿場アウトレット行のバスの広告を見つけ、何気なく読むと面白い事に気付いた。

 

日吉駅を8時10分に出発するバスは、御殿場プレミアム・アウトレットに10時35分に着く。自分は車に乗らないので、それが時間がかかり過ぎかどうかは判断できなかった。しかし日吉を出るとセンター北駅、たまプラーザ駅、市ヶ尾駅に寄って、市が尾発が9時20分、ようやくそれから高速に乗り御殿場方面に向かうことが分かった。つまりお客さんを何カ所かでピックアップすることに1時間強、その後目的地までも1時間強である。

 

これを見た時、やや唐突ではあるが筆者はかつて書物にもした、戦前の日本郵船の欧州航路を思った。今から80年以上前の1938年の配船表を見ると、7月30日に横浜港を出帆した「照国丸」は最終目的地ロンドンに到着するのが9月15日、45日以上の船旅である。

 

しかし細かく見ると、照国丸は横浜を出た後、名古屋、大阪、神戸、門司と各港に寄ってそれぞれ1日停泊し乗客を乗せ、門司を発つのが8月5日、実質的な航海に入るまでにちょうど1週間を要しているのである。そしてその際に各港では一泊している。欧州航路の船は貨物も運ぶ貨客船であった。貨物の積み降ろしもあったからであろう。

まさに先のアウトレット行きバスと同じだ、いや先輩だ。

当時の日本郵船欧州航路の時刻表

 

そして欧州の入り口といえるイタリアのナポリに着くのが9月6日である。つまり門司からナポリまでなら33日の航海である。それもあり欧州航路を利用した人の回想を読むと、航海は30日と書く人から45日まで振れている。

 

ではこうした寄り道の多い船旅を、利用者はどのように対応したか?この寄り道をフルに活用したのが加賀山之雄だ。加賀は1927年に鉄道局(国鉄)に入社し、1949年4月には国鉄総裁に任命される。彼は1936年、在外研究員として欧米の視察を命じられる。

 

赴任に際し豪華船好きの加賀山は「どうせ乗るなら豪華船の照国丸か靖国丸」ということで、4月12日に横浜出帆する照国丸に決める。先に紹介した照国丸の配船表の1航海前の欧州行きだ。

 

経理局からは、会計年度内の3月中に日本を離れてくれ、ということで同行の三原と山川は3月30日に横浜を出帆する筥崎丸で見送ってもらい、神戸で照国丸を待つといういささかトリッキーな欧州行きだ。

 

一方加賀山はどうしても横浜から照国丸でなければだめだと言って交渉し、経理に4月12日出発を納得させた。豪華船好きには譲れない船の選択であった。この年には2・26事件も発生し、世の中は戦争に向けだいぶ不安定になっている。

当時の日本郵船横浜支店(現日本郵船歴史博物館)

 

そして12日に大勢に見送られ横浜港で乗船後、翌13日には名古屋で下船し、当地の叔父に会い、その後福井に行く汽車に乗る。14日は福井の姉の家に泊まり、15日は故郷の大野で、町の有力者の声掛けで料亭兼旅館において大送別会が行われた。16日には京都へ出て親戚を訪ね、夜は友人と待合で飲む。そして17日の朝神戸へ向かい、多くの親戚、知人の見送りを受けた。

 

最後の門司港でも白井穐丙と芥川治が清見丸(港と船を結ぶ小舟のことか)で迎えに来て下船、(現地の国鉄)全幹部が出席してお別れの昼食会をしてくれた。18日の午後3時に出帆して玄海に出た。ここから32日間の船旅である。(『鉄路の心 加賀山之雄』他より)

 

このように船の寄り道時間を有効に利用した加賀山だが、ここから分かるのは、当時の洋行は一大行事で親戚、友人の多くが今生の別れとばかりに別れを惜しんだことだ。そして当時すでに船も鉄道も非常に正確に運行されていたことも分かる。1本の汽車でも運休になったら計画は台無し、船に出帆前に戻ることも危うかったであろう。

一般には家族連れは横浜から乗船し、出張の男性は神戸まで鉄路を利用した場合が多い。

 

こんなことを考えた、御殿場行きのバス広告であった。

 

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「日本郵船 欧州航路を利用した邦人の記録 他三編」はこちら

鎌倉、由比ガ浜で65年間営業し、2022年11月に惜しくも営業を終えたドイツレストラン、シーキャッスル(Sea Caslte)が、横浜の元町でお店を再開させます。

 

以下がお店のホームページの情報です。

German Restaurant Captain Rolf

ドイツ家庭料理

横浜市中区元町3-121

6月29日オープン

 

下はシーキャッスルの看板ですが、新しい看板はSEA CASTLEの文字がCAPTAIN ROLFになっています。

しかし名物の「カーラおばさん」はかなり高齢でしたから、もうお店には立たないのではないでしょか?次の世代の運営かもしれません。いずれにしても開店が楽しみです。

 

新しいレストランのホームページを見ると「歴史」が書いてあり、1950年代初頭に横須賀にCaptain Chinaというドイツ人経営のお店が出来てドイツ、アメリカ、中華料理が提供された。そしてお店の写真とメニューの写真がある。

次いで1957年にシーキャッスルがオープンしたとなっている。つまりCaptain Chinaはその前身であろう。

 

 

シーキャッスルについては私の書籍の中でさらに詳しく、書いています。

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横浜の山手をブラブラ歩くことを時々行っている。何か変わったことはないかとチェックする自称山手ウォッチャーである。先日何気なくある家の表札を見たら"Meibergen"(メイベルゲン)と書いてある。

 

珍しい名前である。筆者はとっさに1942年1月、ドイツ大使館によってドイツ国籍をはく奪された次のユダヤ人の家族を思い浮かべた。彼らは戦後ずっと横浜に戻っていたのか?

アドルフ・メイベルゲン 商人    終戦時71歳
メタ・メイベルゲン   同妻   同 65歳
ハインツ・メイベルゲン 同子供  同 44歳

 

Meibergenの表札(住所は隠しています)

 

Meibergenはドイツ語に忠実に読めば、マイベルゲンとなるが戦時下の日本では英語読みで、メイベルゲンと記したのであろう。子供のハインツは戦前、横浜でアメリカのユダヤ人協会などから資金供与を受けながら、欧州から逃げてきたユダヤ難民の滞在と第三国への出国を手伝ったという。

 

商工信用録などによるとハインツ・メイベルゲンは山下町24番で1936年から輸出業に携わっていた。

一家は終戦時、軽井沢(24XX番)に疎開した。(あえて具体的番号は伏せる)そこも筆者は訪問したが建物は新しかった。石積みの門柱のみ当時のままかもしれない。

 

場所は旧軽井沢の奥の方で、隣はドイツ人のブルーノ・ペッツオルト家(実際はオーストリア人だが、国が併合されドイツ人に)で、他にも幾人かのドイツ人家族に囲まれて暮らした。彼らは特にユダヤ人に対しての反感も抱いていなかったのであろう。戦後鎌倉にシーキャッスルを開いたライフ家も、ナチスとは程遠いドイツ人だ。

 

メイベルゲンの疎開した住所

 

軽井沢には戦後はGHQによる救済委員会があり、居残る外国人に食糧、日常品の援助をしていた。彼らの連絡票によれば終戦の翌年の1946年10月、メイベルゲン家(2名)は日本を去り、対象者リストから消去された。メイベルゲン家はこうして日本を去ったと理解していた。そして筆者の調査も終わった。

 

しかし今回の表札発見からもう一度メイベルゲンについて調べると1951年、World Tradingというアメリカの会社の代表に就いている。住所は横浜市中区小湊町だ。アメリカの会社の代表になれたのは戦前のユダヤ人救済協会の繋がりからであろうか。53年には会社は銀座に移る。代表は依然メイベルゲンだ。

 

54年には独立し、中区滝之上に「ハインツ・メイベルゲン」という会社を興している。つまり3人家族であったメイベルゲン一家の内、先のGHQのリストにあるように高齢の両親(2名)が戦後まもなく日本を去り、息子ハインツは残留したと考えてよいであろう。

 

55年には「メイベルゲン商会」として中区海岸通9番の「横浜ビル」210号に移る。ビジネスは順調に拡大したようだ。「横浜ビル」は横浜では戦後初の高層ビルとして50年に竣工した。現在取り壊され、新しいビルが建つ予定である。

 

横浜ビル。たまたま筆者は地味なビルだと思いつつも、写真に撮っていた。

 

この1955年当時、同社は「鳥の倉庫」が中区池袋にあり、さらには同区宮川町にペットショップがあった。突然出てきたペットショップ、日本人の社員も多いから彼らのペットの会社を買い取ったのであろうか。横浜の従業員は12名で、東京にも支店(従業員4名)が出来る。扱い商品は雑貨で世界に代理店があると書いている。

 

「岡山畜産だより」54年7月号には

「笠岡市内でのローラーカナリヤの飼育は昨年からグッと増加し、岡山県輸出鳥農協を通じて横浜経由でアメリカに輸出されているが,このほど53年産の輸出を全部終った。カナリヤの輸出は8月から5月までの10ヵ月間行われるが,53年産は52年より約5割多く,オス3,000羽,メス2,000羽が横浜 H・マイベルゲン商会に送られた」

という記事がある。このH・マイベルゲンは先のハインツ・メイベルゲンであることは間違いない。そして当時は小鳥もアメリカへの輸出品であった。

 

そして1980年度版を見ると会社の住所は、山手XX-X番と筆者が今回見つけた住所に変わっている。こうして全て繋がった。メイベルゲンも横浜を愛した一人であろう。ちなみに大部分を覆った表札だが、そこには日本人の名前も書かれている。日本人と婚姻関係にあったと考えられる。

 

ところが筆者が見つけたちょうどこの日、玄関が開け放たれ、この家は引っ越しで出ていくところの様であった。調査を始めてからまさに最後の最後に、メイベルゲン家に巡り合えたのか?

荷物が全部出された様子のメイベルゲン家。恐らく孫の世代だ。国籍も再び取得しているはずだ。

 

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