「軽井沢郵便局最初の電話加入者」 明治43年(1910年)8月1日付け 

という表がある。

本格的な電話サービスは明治23年(1890年)に東京・横浜間で開始されたが、その20年後である。

軽井沢では22軒が電話を備えていた。

『軽井沢避暑地100年』国会図書館デジタルコレクションより

 

どのような人物、会社が最初に電話を設置したのであろうか?

以下判読できた範囲で読みやすく書き直し、コメントを加える。

 

番号 加入者氏名  機械設置場所・職業 

 

1  青木商店   新軽井沢150 米類雑貨商

→電話番号が軽井沢1番で人々に親しまれた。

『かるゐざわ』の広告では「御避暑中各宮家、華族御用、米殻雑貨、薪炭卸売り、貸しきり自動車営業」となっている。

 

2  川村市之助  新軽井沢129-1 魚類雑貨商 新聞取次所

 

3  桂太郎     離山   

→桂太郎は3度にわたり内閣総理大臣を務めるが、リストの1910年時点も総理大臣であった。別荘は現存。

 

 かつての桂太郎の別荘

 

4  軽井沢警察署  新軽井沢

 

5  江木 衷   精進場520    法学博士

→今日、軽井沢の歴史ではあまり語られることはない人物。

司法省参事官として1880年代ころの書物にはかなり名前が登場する。

 

6  山六出張店 山本六郎 旧軽井沢558  果実雑貨商(?)

 

7  綿屋 泉幾多郎    旧軽井沢22   製氷業

→泉太郎が新軽井沢(駅のそば)で製氷業を始めた。こちらはその販売店か?

 

8  三井三郎助      旧軽井沢1341

 

9  軽井沢共同製氷所   新軽井沢119  製氷業

 

10 江戸屋 佐藤愛三郎 旧軽井沢69   牛肉商

 

11 白木屋 土屋保造  旧軽井沢80   牛乳搾取業

 

12 軽井沢停車場    新軽井沢     (駅)

 

13 油屋 小川三郎   新軽井沢128  旅館

 

14 三澤屋 上原九一  旧軽井沢56   果実雑貨商

  (750番にお菓子屋 三澤屋があった)

 

15 三笠ホテル 山本直良 西山1337  

 

16 田丸屋  土屋富太郎 旧軽井沢55 穀類雑貨商

 

17 エル・グルミセー   桜の沢17番

→最初に電話を所有した外国人は、1930年代に1246番、1248番を所有したアメリカ人Grimmaseyか?

『続 心の糧 戦時下の軽井沢』

 

18 内国通運会社取引店  土屋源一郎 新軽井沢278  運送請負業

→ツチゲンと親しまれ、土屋源一郎は後に軽井沢町長を務める。

 

19 山屋 神山萬蔵   新軽井沢129ノ2 〇〇菓子製造業  (パン屋)

 

20 軽井沢ホテル    旧軽井沢61    旅館

 

21 桶上専治郎     新軽井沢182-2

 

22 万平ホテル 佐藤国三郎  桜の沢68

 

小諸の旧脇本陣の旅館「粂屋」には古い電話室が残っている。

こちらの番号は「長67番」である。

 

とりあえずはリストの書き下しが中心となった。

こうした人物のかなりの部分は筆者の『又々 心の糧 戦時下の軽井沢』で詳しく説明している。こちら

興味を持たれた方はぜひお読みください。

 

 

メインのホームページ「日瑞関係のページ」はこちら
私の書籍のご案内はこちら (アマゾン)

『又々 心の糧(戦時下の軽井沢)』はこちら

 

 

第二次世界大戦中、ドイツに駐在していた日本の軍人の主な任務の一つは、ドイツの高い技術の習得であった。

そうした一環で、1942年秋に航空機メーカー フォッケウルフ社を訪問したが、彼らはしっかりしたアルバムにして後に訪問者に贈った。

この時に訪問した一人であった末松茂久陸軍少佐の遺族の方のご厚意で、以前に見せていただいたので、その一部を紹介する。

 

見開き

Für Erinnerung an die Besichtigung 

der Fabrikation der Fw 200

"CONDOR"

Focke-Wulf Flugzeugbau G.M.B.H Bremen

 

「フォッケウルフ社のFw 200(航空機) コンドルの生産現場訪問の思い出」(訳)

手書きで「昭和17年秋見学 ]

と書かれている。

 

「有名なしかし旧式のコンドル機の見学

所々に予の顔が見える」とアルバムを所有していた末松少佐の書き込みがある。

旧式なとあるので、ドイツ側も最新鋭の機種は同盟国人でも見せなかったのであろう。

 

同機は4発エンジンの長距離旅客機/輸送機である。第二次世界大戦の勃発により軍に徴用され、長距離哨戒爆撃機として船舶攻撃に活躍した。

 

 

写真の順番からして到着直後か。

中央で鞄を持つのはおそらく豊田隈雄海軍駐在武官補佐官で、訪問団の代表格か。

服装からして陸軍、海軍の主に技術将校、それに平服の民間の商社の駐在員の、混合メンバーであったと思われる。

 

機体をバックに。写真は片ボケしている。

 

操縦席の計器類。会社側が用意した写真と思われる。

こうして得た技術、情報なども、まれに日本に向かう潜水艦で送るくらいしか、手段を持たない日本軍であった。

 

メインのホームページ「日瑞関係のページ」はこちら
私の書籍のご案内はこちら (アマゾン)

本編に関連する書籍「第二次世界大戦下の欧州邦人(ドイツ・スイス編) 」はこちら

戦時中にドイツに留学していた千足高保さんの

「伯林(ベルリン)雑記 昭和15年9月12日から昭和19年4月4日」という手書きの手記のコピーを、以前にいただいた。

欧州で戦争が始まって1年後から、敗戦1年前までである。日々几帳面に付けた日記ではなく、時々思い出したように長い文章を書いているのは本人の性格か。

最近訳あって読み返したら、戦時下のドイツの郵便事情に関し、次のような興味深い記述があった。

 

なお日記の著者千足高保さん(下の写真)については「ベルリンオリンピックの証人」補遺などで筆者は何度か紹介している。

ベルリンオリンピックの記録映画「オリンピア」より

 

1940年9月18日
外国にいて最も嬉しいのは故郷からの手紙で、度々便りをくれる妹たちや娘には感謝に堪えない。
綾子の手紙は可愛い。小さい封筒からして可愛い。しかしこの可愛い手紙も、ドイツの検閲にぶつかっては無残だ。戦時の必要からの厳しい検閲であることはよく解る。むしろ聖戦3年に及びながらも外国との通信を自由にしている日本政府が寛大すぎるのだ。

→日本が「聖戦3年目」とある。今日われわれは日本が米英と戦争に入った1941年12月を開戦と考える。しかし1937年の日中間の衝突である第二次上海事変以降、当時の人は日本は戦争状態にあると理解していたようだ。そして検閲に関してはドイツに対して日本は寛大であったという。

戦時検閲の必要に対する理解はあっても、さて可愛い妹の手紙を手にして、その封筒が破られてしまい、べたべたと糊で貼り合わせ、その上に「開封せり」の大字と「ドイツ軍大本営」の円判を印刷した紙が貼ってあるのも見るとすごく恨めしくなる。
時には中身を取りかえてしまって、他人の手紙が入っていることがあるという。
早くから郵便制度の発達したヨーロッパでは、すでに郵便に細工をして外国と秘密の通信を行うことが多かったのであろう。そして取り扱いはだいぶ荒っぽかったようだ。

「ドイツから外国への通信は次の様な規制がある」と書いている。(1940年7月7日より有効)
‐手紙は4ページ以内の事。
‐封筒は2重であってはならない。

→二重封筒とは内側に内紙が貼られており、中身が透けて見えないようになっているもので、普通青い薄紙が用いられている

千足の所に届いた、文字が透けないようにと2重封筒で送られた手紙は、内側は破り取られていた。

「検閲の連中が如何なものかは、2,3の例で知っているが、実に心無い手合いだ」とこれまでの経験からも怒りを綴っている。


‐絵葉書を送ることは不可。

→ドイツの景色は軍事機密になったか?


‐写真は台紙に貼らぬこと。
‐暗号を用いぬこと。秘密インキを用いぬこと、速記文字を用いぬこと。(等々一部省略)
‐郵便切手は自分で貼ってはならない。郵便局へもって行き、局員に貼らせること。

発送者の住所氏名を明記し、これを郵便局員に渡す時は、旅券かあるいは他の身分証明書を見せること。
→写真、切手の裏に秘密のメッセージを書いて貼り付けるという手段が、以前にはに多用されたのであろう。

 

10月17日には次のような面白い記述がある。
静子から手紙が来たる。9月15日付け。この手紙の中にその前になくなった筈の写真が入っていた。母の久し振り(の写真)だ。恐らく検閲がこの写真を後で見つけて入れたものだろうが、いかにしてこれが僕宛のものか分かったのが不思議だ。

→日本からの手紙は少なくて、ドイツの検閲官にも五分の魂があったという事か。

 

1941年12月に日本も参戦すると、日独間の郵便は完全に止まる。そこで代わりにスイスのような中立国から日本へ郵便を送ったのが、ドイツ駐在末松茂久少佐で、

末松茂久少佐の戦時日欧通信記」として紹介した。

 

以上

 

メインのホームページ「日瑞関係のページ」はこちら
私の書籍のご案内はこちら (アマゾン)

本編に関連する書籍「第二次世界大戦下の欧州邦人(ドイツ・スイス編) 」はこちら

間もなくイタリアで開催される冬季オリンピックはミラノとコルティナ ダンペッツォ(以降コルティナ)の二つの都市を中心に開催される。

 

その内のコルティナは北イタリアのドロミテ山脈の麓にある、ウィンタースポーツの一大拠点である。

今から80年以上前の第二次世界大戦中には日本の陸軍武官室、満州国領事館が連合国軍の進出に対し、ローマから疎開して事務所を構えた。また日本大使館はヴェネチアに事務所を構えたが、家族のみが疎開した事例もあった。

 

筆者は当時小学生でこの地に疎開した3人の方にお会いして話を伺い、写真を見せていただいた。そして2021年『第二次世界大戦下の欧州邦人(イタリア編)』という本にまとめた。こちら

 

ここではコルティナの写真を中心にその時代を振り返るものである。今日、テレビ等でオリンピックを観戦する際に、彼らの当時の苦労に、少しでも思いを馳せていただけると幸いだ。

 

当時の絵葉書。中央の尖塔はサンティフィリッポエジャコモ教会で街の中心である。

当時から裕福な人が訪れるリゾート地で、戦時中はドイツ軍の野戦病院があった。

 

小学生たちの通学風景。

ドイツ空軍のカメラマンErwin Seegerによって撮影され、おそらく南チロルのドイツ語新聞に掲載されたもの。

撮影のため、カメラマンの要求に応じた光景になったと思われる。

 

ラジオ体操をする光景。教師は疎開した、もう仕事もない満州国外交官が主に務めた。

「背景の山はポマガニョン山の南壁のよう」とある方が教えてくれた。

 

疎開中とは思えない母と子供の明るい笑顔が印象的。

左の子供は筆者の本の出版と前後して亡くなったと連絡をいただいた。

写真の右下に「1943 コルティナ・ダンペッツォ 」と手書き文字が入っている。

歴史的価値のある貴重な写真である。

 

1944年5月、海軍武官室のあったメラーノからヴェネチアに向かう途中に寄ったコルティナと思われる光延東洋海軍武官。

この一か月後に武官は山中でイタリアのパルチザンに襲われ”戦死”するので、武官の生前最後の写真のはずだ。

 

1945年元旦。ヴェネチアから日高新六郎大使(中央)が来ての記念撮影。

この4か月後、ドイツとムッソリーニ政権の崩壊で、彼らは山中を彷徨う大変な逃避行を強いられた。

 

これらが今から80年以上前の日本人の姿である。

 

筆者のメインのサイト『日瑞関係のページ』はこちら

筆者の著書一覧はこちら (アマゾン)

本編に関連する『第二次世界大戦下の欧州邦人(イタリア編)』はこちら

 

戦前の外国人の別荘というと筆者は軽井沢位しか頭に浮かばないが、他にもいくつかあった。

本編ではそれらを含めて地域別に外国人の避暑客の数および特徴を紹介したい。

筆者にとっても認識を改めなければならない史実が数多く見つかった。

 

主に参考になったのは「国際観光」(1933年 国際観光協会編)である。時期的にはまだ戦争の影は弱く、外国人の日本滞在も制約のない時代といえる。斜線部分が筆者の考察である。

 

1 宮城県 高山

 

太平洋に面した外国人専用避暑地。戦前は「高山外人部落」とも呼ばれた。
明治時代に、仙台在住のアメリカ人医師フランク・ハレルが病気の妻の療養地として見出し、アメリカ人宣教師らによって避暑地として開発された。外国人の間では「山の軽井沢、湖の野尻湖、海の高山」と称され、「日本三大外国人避暑地」の一つとされた。

 

1932年夏期滞在者数 106名

国別 

アメリカ人  86名

イギリス人  15名

ドイツ人    5名

全員国内在住外国人で居留地は青森市、仙台市が多く大阪、京都、茨木、兵庫、東京などからも来ている。大部分はキリスト教の伝道師で旧制中学校教師も若干名いる。

 

→筆者にとってほとんどノーマークであった高山は1941年、日本とアメリカの関係が悪化して開戦必至の状況になると、高山の外国人達が土地の権利と動産、不動産の売却を七ヶ浜村に申し出て受け入れられた。

戦時中、東北地方の各地の教会に仕えていた宗教関係者は、そのままそこに留まった。空襲の危険も少ない疎開場所となった。

そして戦後は戦前のような外国人別荘地として戻ることはなかった。

 

 

2 日光付近

 

1932年8月10日時点で63名の外国人で、過半数はホテルに宿泊。

ホテル居住者のうちの半数は上海居留者で、国内居住者は全体の2割のみ。

国別

アメリカ人  27名

イギリス人  31名

ドイツ人    5名

フランス人   2名

その他    18名

 

→日光で外国人向けホテルといえば1873年開業の金谷ホテルである。ほとんどがこちらに宿泊か。

中禅寺湖畔のアントニン・レーモンド設計のイタリア大使館別荘が出来たのは1928年であるから、彼らイタリア人は「その他」に含まれたか。

 

現在のイタリア大使館別荘記念公園

 

3 軽井沢

 

8月5日の時点で滞在客数1043名

国別

イギリス人  219名

カナダ人    31名

アメリカ人  512名

ドイツ人   109名

フランス人    3名

中華民国人  104名

その他     65名

 

ほとんどが国内在住者で、外国より来たものはわずかに45名。その出発地は中華民国(28名)、朝鮮(6名)など。

旅行者の節約志向が強く、外国人客数は増えたのに客室の利用率は増加しなかった。一流ホテルにおいても例年の3分の1にも達しなかった。

 

一方ニューグランドロッジ(横浜のニューグランドホテルの経営)は宿泊客をいかに配分するかに苦心する状態であった。

ロッジは森林、(雲場)池を擁する土地に大小27個のコテージを有し、極めて安い使用料で貸し出した。

 

カナダ人が31名となっているのは、軽井沢の父としても知られるアレクサンダー・クロフト・ショーはカナダ聖公会の宣教師で、以降もカがナダ人の宣教師が多く滞在したことが分かる。

広く中国他から宣教師が夏を過ごした軽井沢といわれるが、その数は45名とあまり多くない。本編からは他の地域にも散らばっていたことが分かる。

こうした外国人客の減少から「軽井沢ホテル」が閉鎖になったのは1937年の事であった。

 

軽井沢の集会堂(ヴォーリズ設計)

 

4 野尻湖畔

 

8月5日時点で685名の外国人

国別

イギリス人  325名

アメリカ人  320名

フランス人   19名

ドイツ人     7名

中華民国人   10名

その他      4名

 

高山と同様、外国人が自治的に建設した。キリスト教青年(女子)同盟の経営のバンガロー風の宿泊所が14軒ある。

軽井沢から移築した木造の宿泊所(貸別荘?)が104軒ある。

この地にやってくる外国人はほとんど全部(90%)が日本居住者で、職業は宣教師、(旧制)学校教師である。昨年度は上海、大連等からも若干名渡来した。

 

野尻が外国人避暑地として今日の地位をもつに至った理由として、もちろんこの地の地理的条件によるものであろうが、一方軽井沢は近年日本人の避暑に赴くもの多く、物価なども高くなったので、この事情が外国人をして新しい土地を探させるこのになり、この地が選ばれるに至った。

 

→野尻湖の避暑客の多さに驚く。イギリス人の325名は軽井沢より多い。彼らが率先して、物価が高く俗化した軽井沢から移ったか。そして104軒もの別荘を移築したのは、別荘業者か?

 

夏の野尻湖

 

5 雲仙その他

 

雲仙は滞在費用が安いのと、中国の諸都市よりの距離が近く、多くの外国人避暑客が来遊する。

特に1932年の夏は円安の影響もあって、雲仙のホテルは完全にキャパが足りなくなった。8月中旬の調べで、485名の外国人避暑客が滞在した。

 

イギリス人  137名

アメリカ人   74名 

ドイツ人    78名

フランス人   58名

ロシア人    14名

中華民国人   25名


国内滞在の外国人は全体の1割で、多くは上海、天津、北京、香港などの外国公館および企業のクラーク階級(幹部階級の事であろう)。平均滞在期間は3週間。

→1929年の米国での恐慌発生に続く世界的不況を受け、日本の代表的な輸出産品であった生糸、綿糸等の国 際市況が急落し、これらの産品の円建て輸出物価も急落した。 このため、日本の円建て輸出物価は1929年 から1931年までの2年間に、40%程度下落した。これが円安の理由であろう。

 

中国に暮らす外国人が多く訪れた場所であった。後にその理由が述べられている。第二次世界大戦勃発直後は蘭印(現インドネシア)から引き揚げてきたドイツ人婦女子が滞在している。

 

6 別府

 

海岸の砂風呂へ療養の目的の者が多い。1932年8月中旬においての滞在者は35名であったが、最大時には200名にのったと言われる。多くは上海に居住している外国人で、(白系)ロシア人が占めている。

 

→中国に滞在した白系ロシア人の数(後述)を考えると驚くべき数字ではない。

 

7 小濱、茂木、唐津

 

雲仙のホテルが満員のため、小濱(現在の雲仙市小浜町)、茂木(長崎市の地域)、唐津の土地にも外国人が訪れた。すなわち同年8月10日の調べで、小濱の一角楼ホテルが41名、茂木のビーチホテルが62名、唐津の海浜ホテルが34名である。

 

彼らを九州に送り出した上海のツーリスト・ビュローがその理由を分析している。

1 日本円安の結果、往復の旅費、滞在費に雑費を加算してもなお、上海での平常の生活費より安上がりである。

2 長崎(港)、雲仙間の連絡は非常によく、婦人、子供、老人連れの家族には最も適する

他である。

 

筆者がドイツ人の避暑地と書いた地域などについては以下の様に補足している。

本牧その他湘南一帯の海浜地、箱根、鎌倉等また六甲付近等も外人避暑客が少数ながら来遊する。

また北海道の各地には1932年8月の調査日に152人の外国人が避暑をした。

 

丁寧に中国における外人居住者数も書いている。

イギリス人 13、015人

アメリカ人  6,875人

フランス人  8,575人

ドイツ人   3,006人

他ロシア革命でソ連を逃れた白系ロシア人は65,381人もいる。

 

まとめ

これらを総括すると次のようなことが言える。

第二次世界大戦末期に日本政府は外国人の疎開先として軽井沢、箱根、六甲をしたので外国人はこれらの地域に集中した。

しかし戦前は開戦近くまでかなり広く、全国に外国人向けの避暑地があった。

また中国大陸には相当数の西欧人が暮らし、彼らが避暑にやってきた。船で本国に一時的に戻るには時間がかかりすぎたからであろう。白系ロシア人には戻るべき故郷はなかった。

 

メインのホームページ「日瑞関係のページ」はこちら
私の書籍のご案内はこちら

「心の糧(戦時下の軽井沢) 」はこちら

 

 

連合国軍最高司令官のマッカーサーは仕事人間で行動範囲は非常に限定されていた。住居である大使館と第一生命ビルのオフィス往復に尽きていたといってよく、国内旅行は一切せず、例外的に厚木や羽田の飛行場に重要な来客を迎えに行く時ぐらいが外出とよべるものだったという。

 

日比谷の旧第一生命館

 

1922年に製造され、GHQに接収された10号御料車。この車両が「オクタゴニアン(Octagonian)」と呼ばれる第8軍司令官専用列車となり、アイケルバーガー司令官夫妻やマッカーサー夫人が軽井沢や日光に行く際に用いられた。(歴史のダイヤグラム 原武史より)
しかしマッカーサー自身は軽井沢を訪問したことはない。また彼は在任中に旅行をしたのは鎌倉(の大仏?)を訪問した時ぐらいであるともいう。

 

そうした中、本日(2026年1月16日)の朝日新聞にマッカーサーの鎌倉訪問に関しての記事が載った。

 

見出しは「宮司目線の『鎌倉案内』」である。

 

鎌倉の鶴岡八幡宮の吉田茂穂宮司が書籍「鶴岡八幡宮宮司の鎌倉案内」を出版した。

宮司は同宮が保管する記録に基づき、

「1945年9月2日にマッカーサーが前触れなく幕僚12人を連れ参拝した」と記した。

専用機「バターン号」で厚木に飛行場に降り立ったのが8月30日の事でそのわずか3日後である。治安の心配もすでになかったのであろう。

 

しかもこの日は午前中に東京湾上のアメリカの戦艦ミズーリ号の甲板で、日本の降伏文書の調印式が行われた。

その午後にマッカーサーは同宮をお参りしたのである。そして当時の宮司に、

「40年前にも来たことがある。その時と少しも変わっていない」と懐かしそうに伝え、「今日は急ぐからまた来ます」と話したという。おそらく日本側に伝えることもなく、占領軍として思うままに行動したのであろう。

そして戦前の新婚旅行も含め、マッカーサーは少なくとも4回(鎌倉を)訪れているとも書いてある。

 

調べるとそれから4週間後の9月29日には妻ジーン・マリーと参拝した。その2日前に昭和天皇との重要な初会談を終えたばかりだったが、それが参拝の動機と関係するかは不明だ。また、10月28日には同じ敷地で源頼朝と実朝をまつる白旗神社の祭礼に、自身の代わりに200人の将校を参列させた。(東京新聞デジタル 2024/11/09)

すでに鶴岡八幡宮に残る記録については知られていたようだ。また以上でマッカーサーの鎌倉訪問は2回である。

 

まさに40年前の1905年に父が日露戦争の観戦任務のための駐日アメリカ合衆国大使館付き武官となった。マッカーサー自身も副官として日本の東京で勤務した。本人が「40年前にも来たことがある」と語ったのだから、この時も鎌倉は訪問したのであろう。これで3回だ。

 

1937年に2度目の結婚をした際、新婚旅行で日本を訪れ、横浜のホテルニューグランドに宿泊した。新婚旅行の時も鎌倉を訪問したとすれば4回になる。

 

今は官邸に張り付きの記者がいて、首相の動向は細大漏らさずに把握されているが、当時は日本のマスコミはそんな余裕もないから、こうした記録でマッカーサーの足跡がわかるのは嬉しい。

 

鶴岡八幡宮の参道(若宮大路) 八幡宮に関し、筆者が撮影したのはこれくらい。

 

 

筆者の関連記事

マッカーサーの横浜の宿舎を探し歩く(写真付き)

 

マッカーサーと日比谷の第一生命館と明治生命館

 

メインのホームページ「日瑞関係のページ」はこちら
私の書籍のご案内はこちら

『第二次世界大戦下の滞日外国人』 
(ドイツ人・スイス人の軽井沢・箱根・神戸)は こちら

昨日、京浜急行の屛風浦に風見鶏の写真を取りに出かけた際、途中で見つけたお宅は素敵な和洋館。

右と後ろは増築された様だが、正面の洋館と和風の玄関は、和洋館の流行った昭和初期の建築と思われる。

 

全景。光の当たる部分と日陰の部分があり、撮影を難しくした。

 

 

ネットでいろいろ検索してもヒットしない。

代わりに和洋館でヒットしたのは近くの「根岸なつかし公園 旧柳下(やぎした)邸」。横浜市指定有形文化財でこちらは有名。

 

屛風浦はなかなか古いお宅の多い街という印象であった。

下のお宅はリノベーションしたようだが、奥には蔵がある。

 

この日のメインは風見鶏。別のアカウント「孤独のパスタ」の中で「日本一の風見鶏サイト」として紹介している。こちら

 

メインのホームページ「日瑞関係のページ」はこちら
私の書籍のご案内はこちら (アマゾン)

2026年 新年おめでとうございます。

本年もよろしくお願いします。

 

今からちょうど90年前、1936年の元旦にベルリンの日本大使館で撮影した写真を紹介し、そこから分かることなどを読み解いていく。

 

この写真でまず興味深いのは、以下の文字が写し込まれていることだ。

 

背景の建物に「祝四方拝」の文字(元旦の儀式のこと)

また左下に「於伯林(ベルリン)」、右に「昭和11年(1936年)元旦」の文字が読める。

このようにして写真の記録的価値を高めている。

 

写真を焼く時に、文字の部分をマスキングして光を遮り、白い文字がとなって表れている。

当時すでにこのような技術が用いられていた。そこから読めるのは次の文字だ。

 

技術のしっかりした写真屋が撮ったのであろう。90年を経た今日でも写っている人物の顔が、しっかり識別できる。大事な年中行事ゆえに外交官、軍人、企業の駐在員はほぼ全員写っていると思われる。

中央は大礼服を着けた井上 康二郎臨時代理大使。その右が大島 浩陸軍武官(後に駐独大使)、その右が横井 忠雄海軍武官である。

井上は武者小路公共大使の在任期間の内、9か月ほど代理大使を務めている。おそらく武者小路が休暇で一時帰国したためであろう。


子供は前面に立つが、着ているおそろいの服装から、誰と誰が姉妹かがわかる。当時は受験の関係で、小学校高学年になると男子は日本に戻った。よって女子が圧倒的に多い。

 

中央、黒いワンピースの3人の子供たちが井上代理大使の娘で、最前列がピアニストの井上二葉さんとのこと。1930年の生まれで今も現役。

 

2026年1月1日、つまり90年後の元旦で昨日、「第67回毎日芸術賞受賞者」が発表されて、その一人に二葉さんが選ばれたのだ。

授賞理由は「ガブリエル・フォーレ歿後百年記念コンサート」「エラールピアノ演奏会」などであった。

彼女の写る90年前の写真、なんというタイミングだ。

 

前から2列目で白いワンピースで眼鏡をかけ、後ろの軍人が肩に手をかけているのが加藤綾子さん。お父さんは大倉商事の駐在員であった。彼女は戦前の写真を見せて、これはXXちゃん、こっちは〇〇ちゃんと教えてくれた。そうして二葉さんも筆者に示してくださった。

 

加藤綾子さんには何度か話を伺い、写真の提供を受け、『日本郵船 欧州航路を利用した邦人の記録 他三篇』という書籍の中で紹介した。こちら

その加藤さんは惜しくも2021年に亡くなった。

 

 

メインのホームページ「日瑞関係のページ」はこちら
私の書籍のご案内はこちら(アマゾン)

本編に関連する「日本郵船 欧州航路を利用した邦人の記録 他三編」はこちら

 

 

 

 

 

 

教育家で、他にもいくつかの肩書を持つ西村伊作は1920年、軽井沢の星野温泉を見下せる丘の上の別荘に与謝野寛、晶子たちと1週間ほど滞在していた。そこで出た話が元になって、1921年に東京駿河台に文化学院が創設された。

 

 

文化学院は2018年に閉校となるが、学校の門は今も保存され残っている。

 

その後も旧軽井沢に多くのコッテージからなる別荘を建て、西村家と軽井沢の縁は深かった。

 

一方長野県においては1914、5年ごろから、軽井沢と木崎湖で夏期

大学が開かれて、全国の先駆けをなった。(『信濃教育』1937年604号)

有名な所では1918年に「学俗接近」を唱えた新渡戸稲造と後藤新平により創設され、今も続く「軽井沢夏期大学」がある。

 

文化学院も1937年夏、「文化学院夏の講座」が軽井沢で開かれた。伊作の長女石田アヤ夫婦と文化学院美術科2年生だった西村ソノの3人でやろうとなった。

「講師や会場の交渉から、印刷物、ポスター、飲み物を寄付してもらうことまであれこれと走り回って、結構楽しかった」とはアヤの回想である。

その際、ソノが文化学院の校庭を描いた絵を元に、プログラムが作成されたと書籍に書かれていると筆者は読んで知っていた。

 

最近筆者は何と、このプログラムのオリジナルを目にすることが出来た。その興味深い内容を説明する。

構成はA5サイズの見開きで表紙と裏表紙は赤と黒の2色印刷である。カラーは高いので2色に留めたという話である。

 

表紙:

上部「文化学院 夏の講座」   

中央 文化学院の校舎をバックに、生徒が遊んでいる校庭のスケッチ。

下部 軽井沢 集会堂にて

8月10日(火)17日(火)24日(火)

夜7時半 

会員券 ¥1.00(三同)3日とも同じの意味か?

 

裏表紙:

銀座鐘紡の1面広告 1887年創業の鐘紡は、一年前の1936年「絹石鹸」を発売し、化粧品分野に進出する。

軽井沢と思われるところで自転車にまたがる女性のイラストがあり、SONO(西村ソノ)のサインが入っている。

「軽井沢では   

万平マーケット、ブレッツファーマシー、大城レース店

に店を出しております」とその化粧品の取扱店を書いている。

 

内側には

「軽井沢の『夏の講座』は文化学院主催で、今年から始められます。

夏といえども知識と趣味との栄養をとらなければ、精神の健康によろしくありません。

(後略)

文化学院学長 西村伊作」

との半ページに渡る開校に際しての文章がある。

 

そして講座の内容として

「8月10日 石井伯亭 美術 初夏として、また美術教育家としての現代の巨匠

       他2名(名前省略 以下同)

8月17日  3名

8月24日  川端康成 文学 創作家としてのお話、或いは小説の読み方、又は文学について  

       他2名」

冒頭の石井伯亭、川端康成他の文化学院の講師が名前を連ねた。

 

夏期大学といっても基本はどこも講演会であったようだ。伊作は

「演説を聞かせるだけの講座でなく、この夏の講座は、紅茶なんかが出て、皆が打ちとけて、質問したり、各自の考えを言ったり、談話会の気持ちの会になることと思います」

とも書いている。おそらくその通りになったのであろう。

 

そして場所は今も残るヴォーリズが設計した集会堂であった。

今はない旧軽井沢の軽井沢会館も、ヒトラーユーゲントの来日記念講演会などで利用されたが、集会堂の方が格は上であったといえる。

 

集会堂

 

そして川端康成の講演の記録が残っている。

「信濃の話

私の演題は『文学』という事になっておりますけれども、文学はいまではもういわば私の体の様になっているものでありまして、仮にそういう所に立って、避暑にいらしている皆さんの前で、裸になってご覧にいれるのも、どうかと思われます」

 (『川端康成選集 第6巻』より)

と始まり、専門的な文学の話をそのまま話をするのも、避暑地にはふさわしくないであろうと断っ。。

講演の内容は”得意な?”ドイツ人との遭遇の話なども入れて、全集で20ページを占めている。川端はそれほど周到に原稿を用意したのか?それともこのくらいは速記者が書き取ったのか?

 

ほとんど数行のみ情報が残り、幻のようだった文化学院の夏期講座がこうして蘇った。

この興味深いパンフレットは、皆さんの目にも触れる機会のあることを願っている。

 

そして時局の悪化のためであろう、翌年からは夏の講座は開かれなかったようだ。また西村ソノは1939年にプラハに留学に出る。

 

メインのホームページ「日瑞関係のページ」はこちら
私の書籍のご案内はこちら

「心の糧(戦時下の軽井沢) 」はこちら

 

 


 

都市化が進み急行も停まるあざみ野駅の近くに、今も残る竹林に囲まれた茅葺屋根の家。
いつも鬱蒼とした竹林に囲まれているが、冬場のせいか家屋が垣間見えた。

 

竹林は左手にだいぶ広がる。

 

実は下の写真がオリジナルで電柱、電線、信号といろいろ邪魔の多い写真なのだが、今流行りの生成AIにこれらを取り除いてもらったのが上の写真。

節度を持ってこういう使い方をするのは、正しい生成AIの利用法かと思う。

そして加工した写真であることを明記する。

 

メインのホームページ「日瑞関係のページ」はこちら
私の書籍のご案内はこちら (アマゾン)