教育家で、他にもいくつかの肩書を持つ西村伊作は1920年、軽井沢の星野温泉を見下せる丘の上の別荘に与謝野寛、晶子たちと1週間ほど滞在していた。そこで出た話が元になって、1921年に東京駿河台に文化学院が創設された。


文化学院は2018年に閉校となるが、学校の門は今も保存され残っている。
その後も旧軽井沢に多くのコッテージからなる別荘を建て、西村家と軽井沢の縁は深かった。
一方長野県においては1914、5年ごろから、軽井沢と木崎湖で夏期
大学が開かれて、全国の先駆けをなった。(『信濃教育』1937年604号)
有名な所では1918年に「学俗接近」を唱えた新渡戸稲造と後藤新平により創設され、今も続く「軽井沢夏期大学」がある。
文化学院も1937年夏、「文化学院夏の講座」が軽井沢で開かれた。伊作の長女石田アヤ夫婦と文化学院美術科2年生だった西村ソノの3人でやろうとなった。
「講師や会場の交渉から、印刷物、ポスター、飲み物を寄付してもらうことまであれこれと走り回って、結構楽しかった」とはアヤの回想である。
その際、ソノが文化学院の校庭を描いた絵を元に、プログラムが作成されたと書籍に書かれていると筆者は読んで知っていた。
最近筆者は何と、このプログラムのオリジナルを目にすることが出来た。その興味深い内容を説明する。
構成はA5サイズの見開きで表紙と裏表紙は赤と黒の2色印刷である。カラーは高いので2色に留めたという話である。
表紙:
上部「文化学院 夏の講座」
中央 文化学院の校舎をバックに、生徒が遊んでいる校庭のスケッチ。
下部 軽井沢 集会堂にて
8月10日(火)17日(火)24日(火)
夜7時半
会員券 ¥1.00(三同)3日とも同じの意味か?
裏表紙:
銀座鐘紡の1面広告 1887年創業の鐘紡は、一年前の1936年「絹石鹸」を発売し、化粧品分野に進出する。
軽井沢と思われるところで自転車にまたがる女性のイラストがあり、SONO(西村ソノ)のサインが入っている。
「軽井沢では
万平マーケット、ブレッツファーマシー、大城レース店
に店を出しております」とその化粧品の取扱店を書いている。
内側には
「軽井沢の『夏の講座』は文化学院主催で、今年から始められます。
夏といえども知識と趣味との栄養をとらなければ、精神の健康によろしくありません。
(後略)
文化学院学長 西村伊作」
との半ページに渡る開校に際しての文章がある。
そして講座の内容として
「8月10日 石井伯亭 美術 初夏として、また美術教育家としての現代の巨匠
他2名(名前省略 以下同)
8月17日 3名
8月24日 川端康成 文学 創作家としてのお話、或いは小説の読み方、又は文学について
他2名」
冒頭の石井伯亭、川端康成他の文化学院の講師が名前を連ねた。
夏期大学といっても基本はどこも講演会であったようだ。伊作は
「演説を聞かせるだけの講座でなく、この夏の講座は、紅茶なんかが出て、皆が打ちとけて、質問したり、各自の考えを言ったり、談話会の気持ちの会になることと思います」
とも書いている。おそらくその通りになったのであろう。
そして場所は今も残るヴォーリズが設計した集会堂であった。
今はない旧軽井沢の軽井沢会館も、ヒトラーユーゲントの来日記念講演会などで利用されたが、集会堂の方が格は上であったといえる。

集会堂
そして川端康成の講演の記録が残っている。
「信濃の話
私の演題は『文学』という事になっておりますけれども、文学はいまではもういわば私の体の様になっているものでありまして、仮にそういう所に立って、避暑にいらしている皆さんの前で、裸になってご覧にいれるのも、どうかと思われます」
(『川端康成選集 第6巻』より)
と始まり、専門的な文学の話をそのまま話をするのも、避暑地にはふさわしくないであろうと断っ。。
講演の内容は”得意な?”ドイツ人との遭遇の話なども入れて、全集で20ページを占めている。川端はそれほど周到に原稿を用意したのか?それともこのくらいは速記者が書き取ったのか?
ほとんど数行のみ情報が残り、幻のようだった文化学院の夏期講座がこうして蘇った。
この興味深いパンフレットは、皆さんの目にも触れる機会のあることを願っている。
そして時局の悪化のためであろう、翌年からは夏の講座は開かれなかったようだ。また西村ソノは1939年にプラハに留学に出る。
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