4月に入ってから、軽井沢の方がSNSに「こぶしの花が咲いた」と投稿するようになった。

こぶしの花というと筆者が思い出すのは、内山章子さんが「軽井沢120年」に寄せた「こぶしの花」という短文である。本はご本人からいただいた。

 

内山章子さんは著述家で衆議院議員などを務めた鶴見祐輔と、明治から昭和初期にかけて活躍した政治家、後藤新平の娘・愛子の間に1928年に生まれる。兄は哲学者の鶴見俊輔である。

 

章子の楽しい生活は、1945年2月、母が脳溢血で倒れたことで一変した。女学校卒業の直前、看病のための軽井沢暮しが始まった。16歳だった。

 

牧場から牛ふんを分けてもらうのだが、昼は疎開の人に分けると村八分になるから、夜来てくれと牧場主は言う。リヤカーを引き、提灯をつけてとぼとぼと六本辻にあった牧場に行き、分けてもらった。

 

あの年の早春、離山に咲いた「こぶしの花」の白さは忘れられないと記している。

 

それから今日まで軽井沢での別荘生活は続き、父から孫の代まで5代でお世話になっている。2000年の早春、運よくこぶしの花の盛りに軽井沢に来た。

町のそこかしこにこぶしの花は咲き満ちていた。その美しさに心うばわれ、息のつまるほどの感動を覚えた。

 

恥ずかしながら筆者はこぶしの花の写真は一度も撮影したことがないので、フリー画像から写真を使用させていただく。

 

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日比谷の三信ビルディングは、いつまでも心に残る建物である。

1929年に建築され、2007年に解体された。

大学生時代、中の三信書店にドイツ語授業の参考図書を購入に行った。先生の指定の本であった。繋がりがあったのであろう。

 

隣接の日比谷三井ビルディング跡地とともに再開発して2018年に完成したのが、東京ミッドタウン日比谷である。

「ミッドタウン日比谷」はかつてあった「三信ビルディング」の薫りを残しているのが嬉しい。

これは新しくビルを建てる際の傾向のようだ。先日オープンしたばかりのBASEGATE横浜関内にも同じようなコーナーがある。


1 アーチ形の天井は三信ビルディングにインスピレーションを受け再現。


2 建材の一部も使用されている。

 

隣の日本生命日比谷ビルも味のある建物だが、建築が1963年、近くの明治生命館(1934年)、第一生命館(1938年)が戦前であるのに比べてやや新しい。

設計は村野藤吾で、奇しくも先に述べたBASEGATE横浜関内の前の建物「旧横浜市庁舎行政棟」も彼の設計。

 

1階に入るお店(CAFE A LA TIENNE)の前、および店内の目の詰まったタイル状のシックな床は、建設当時からのものか。

 

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『春の遺跡』は小説家藤代肇が1981年に刊行した小説である。

作者の藤代肇は1920年生まれであるが、没年が不明となっている。小説家の没年不明は、現代においてどこか不思議だ。

 

小説という形を取りながらも、学術論文でも引用されているので、内容はほぼ事実と捉えてよいのであろう。

一方作者自身は1943年に学徒出陣で動員され、中国の海口で終戦を迎えている。そして私家版のあとがきには「戦没学徒兵たちの日記や手記から、彼らの短くとも燃焼しきった青春時時代を掘り起こす」と書かれている。よって自身の体験ではない。

 

主人公の名前は帝大生の「井出太郎」、婚約者は音楽家の美村陽子である。そして建築家として、軽井沢とも縁の深いウィリアム・メレル・ヴォーリズは「ヴォリス」と記され、作中には実名で登場する人物も多く見られる。

本編では「戦時下の軽井沢」という視点から3か所を紹介し、筆者の解説を加える。

筆者にとって久々の「戦時下の軽井沢」シリーズである。

 

1 軽井沢からの通勤

 

ヴォリスが(帝国)大学の講師になったのも、戦争勃発後で、ヴォリスはそれまでやっていた仕事を全部やめて、今は軽井沢に住んでいた。

そして週に1度、そこからサンドウィッチを携えて東京に出て来た。そのサンドウィッチは三人分は優にあって、いつも講義の後の英会話教室で包みを解かれ、井出もよくお相伴にあずかったが、バター付きで、その上、レタスにマヨネーズまでつけてあって、当時としては珍しいご馳走であった。

 

ヴォリスの講義は水曜日の午後1時からで、講義に引き続いて英会話教室があり、それが終わるのが大体4時前後であった。ヴォリスはその晩は東京の知人の家に泊まって、翌日、軽井沢に戻った。

 

→ヴォーリズは戦争中は軽井沢から東京に週一回通う稀有な存在であった。特別な移動許可が必要であった。

戦時下の東大では、政府の「敵性語排除」の方針と、学術研究に必要な「英語」というツールとの間で、限定的ながら英語教育が続けられていた。

 

軽井沢駅「旧駅舎口」

 

2 軽井沢に疎開した音楽家

 

東京では、ピアノを奏くにも隣近所に遠慮しながら奏かねばならなかったが、ここではまだあちこちでピアノの音がした。それもバイエルとかソナチネでなく、専門家が奏くような名曲がよく聞こえてきた。

実際、専門家も大勢来ていたようで、軽井沢ホール(集会堂)で音楽会を催すときなど、軽井沢在住の音楽家だけで十分間に合うそうであった。

新響の常任指揮者でピアニストのヨーゼフ・ローゼンストックも、万平ホテルの裏山の中腹に山小屋を建てて住んでいた。毎日、下のホテルまで新聞を読みに降りてきた。井出もホテルのロビーで2,3度それらしい姿を見かけた。

“旧軽”の表通りでも一度会った。外人が二人手を組んで、同じように手を組んだヴォリスと井出の横を、キビキビした足取りで追い抜いていった。

「小さい方、ローゼンストックですね」と井出が言うと、ヴォリスは

「大きい方、レオ・シロタ、デショウ、ピアニストノ」と言った。

ヴォリスの話では、シロタの家は草軽線の線路ぎわにあって、そこからはいつもスバラシイ音が聞こえてきた。

 

→外務省の史料によるとローゼンストックは軽井沢710番、レオ・シロタは1068番のハウスナンバーである。

レオ・シロタの1068番はまさに旧草軽線(軽井沢本通り)のすぐ側の元青年会の建物で、ぴったりと符合する。一方の710番は、万平ホテルとは全く離れた、本通りの反対側で、両者のつじつまは合わない。戦時中に借りる別荘を変えた可能性もある。

 

万平ホテルに備えられていた新聞は「ジャパンタイムス」(1943年に「ニッポンタイムズ[に改称)であろう。

その「ニッポンタイムズ」の1944年9月22日に、訪問記として
「涼しい軽井沢で彼らは学び、遊んでいる」(In Cool Karuizawa They Study and Play)という記事を掲載している。

 

ヴォーリズ設計の集会堂


 

3 軽井沢駅前の光景

 

井沢は婚約者の音楽家、美村陽子と軽井沢に向かう。

軽井沢で降りたのは二人だけだった。昇降口の扉を開けた途端、鋭い冷気が二人を包んだ。風が笛のような甲高い音を響かせながら、人影のないホームの上を吹きまくっていた。

以前ここへ来たときは避暑客で賑わっていた駅前広場も、いまは人気が全く絶え、国道ぞいにに何軒かあったはずの旅館や商店も、ちょっと見たところ、開いているのは一軒もなさそうだった。


右手に草軽電鉄の停車場のあかりが見えたので、国道を横切って行ってみると、ちょうど終電車が出たあとだった。井出はヴォリスの家の近くの万平ホテルに泊まるつもりでいたが、この風のなかを旧軽井沢まで歩いていくわけにもいかなかった。だが、そこを出て駅に戻る途中、運よく案内所が見つかったので、そこで聞いてみると、万平ホテルはもうだいぶ前に閉鎖になり、いまはソ連大使館になっているそうだった。結局、案内所の紹介してくれた所に泊まるよりほかなかった。二人は案内所のだるまストーブでしばらく暖をとってから、また寒風のなかにとびだしていった。

着いた先は国道ぞいの、例の駅前旅館の一つだった。二人は廊下の曲がり角にある八畳の部屋へ案内された。

3月の軽井沢は東京の寒中に等しかった。

→3月とあるがこれは1944年の3月か45年のか?帳場のラジオが、B29の本土接近を告げているとの記載があることから、終戦半年前の1945年3月という事になる。

 

筆者の近著「又々心の糧」で詳しく取り上げた軽井沢駅前の描写である。このころ国道は駅の真ん前を線路に沿って走っていた。駅前の旅館は戦時下のお客減少で閉まっていたが、一軒だけ開いていた。これはおそらく油屋であろう。

こういう証言を拙著に於いて紹介した。

「終戦時の話である。開戦前に特命全権大使としてアメリカに派遣されていた来栖三郎の姪である小川八重子が、油屋の女将を務めていた。小川の回想である。その油屋旅館に吉田茂から電話が入った」

 

現在の軽井沢駅前の風景。

油屋は以下の写真のBの位置にあった。

 

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元町。中華街の駅を元町方面に出ると、目につくのが「シドモア桜」。

エリザ・シドモア女史はワシントンのポトマック河畔を桜の名所にすることを、当時のアメリカ政府に働きかけたアメリカ人。

 

シドモア女史は山手の外国人墓地に眠るが、ワシントンから里帰りした桜がお墓のそばに植樹された。

その後、接ぎ木で増やした桜が「シドモア桜」として神奈川県のみではなく、全国に広がっている。

 

元町のシドモア桜

 

3月27日、墓前祭がシドモア桜の会の主催で行われ参加した。

式には第31代さくらプリンセスも和服姿で参加。

この会はとても積極的に活動し、シドモア桜の植樹を行っている。

外国人墓地の入り口 少し前の撮影

 

外国人墓地内のアメリカ記念碑の背後にも立派なシドモア桜(里帰り桜)の木。

 

お土産は中華街の江戸清のサクラあんまん。

江戸清はシドモア桜の会を応援してるそうだ。

この時期元町を訪問する際は、ぜひ満開のシドモア桜の見学を。

 

たまたま元町・中華街駅で見つけた江戸清の広告。

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旧横浜市庁舎行政棟を保存・活用しながら、建築されたのがBASEGATE横浜関内(ベースゲート横浜関内)。

3月19日のオープン。大きくは「タワー」と「ザ・レガシー(旧横浜市庁舎行政棟)」の二つの建物からなる。

 

関内駅南口を出ると目の前に見えるのがタワー。

 

タワーの右横がザ・レガシー。村野藤吾設計、横浜市認定歴史的建造物である旧横浜市庁舎行政棟を改修して利用。

外観はやはり地味な印象。

右上に書かれているのはOMO7 Hoshino Resortsという星野リゾートホテル。

 

「レガシー棟」には「継承の道」という通路があり、一角にまさに旧横浜市庁舎の遺構(レガシー)が展示されていた。

これまで市庁舎は7代に渡り作られ、中央には2代目と4代目の杭が展示されている。

 
左は過去の記念碑の一部が切り取られて展示されている。(中央のみ複製とのこと)
 
こちらも旧市庁舎から

 

これらはの一部はかつては旧横浜市庁舎の周囲に地味に展示されていた。

飛鳥田一夫市長の筆による「港町魚市場跡」と横の「港町魚市場を偲ぶ」のプレートはビルの壁に埋め込まれるように展示されていた。ここから中央部分のみ展示している。今の方がずっと注目度は高い。

 

二代目横浜市市庁舎基礎遺構のプレート。

 

少し顔を出している赤いレンガが基礎遺構。こちらは展示されていないと思われる。

この記事を書くためにすでに2回訪問した。「孤独のパスタ」レポートもこれから続きます😄

 

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筆者は第二次世界大戦を欧州で直接体験した日本人を「欧州邦人」と呼び、その数は独自の調査では総数900人と判断し、彼らの足跡を追いかけてきた。


調査を初めて30年近くなるが、お会いした後に亡くなられた方も多い。戦後も80年を経過し、いったい何人の方が生存していらっしゃるのであろうか?そんな中、新たな欧州邦人と知り合うことが出来た。それが千足道子さんである。

彼女は1945年2月15日の生まれ、ドイツが崩壊の3か月前の事である。そして道子さんが生まれて一ケ月も経たないうちに、母に抱かれてのドイツからの逃避行が始まる。もちろんその時の記憶はない。
本編は彼女から提供いただいた証言を元に、いくつかの情報を織り交ぜて、その足取りを追うものである。


両親

道子さんの両親について述べると父親千足高保(せんぞくたかやす)は、1910年8月、東京の浅草区神吉町に生まれた。高保の父勝之助は東京で一番大きな古紙問屋千足商店を営んでいた。


1931年、東京外国語大学露語専修科を修了し、翌32年4月に訪独、ドイツ語を習得し、34年にベルリン大学哲学部に入学した。恵まれたか家庭故か、私費留学であった。ただし勝之助は事前には知らなかったという。金庫から勝手に渡航費用を持ち出したのだ。

ある時、娘に暫く見かけない高保の様子を尋ねたので、ドイツに行ったと答えたところただ「そうか」、と言ったそうだ。
ほとんど公費留学しか考えられないような時代に、何とも優雅な話である。

10年以上に及ぶドイツ滞在の中で、大きなトピックを一つ挙げると、1936年開催のベルリンオリンピックの記録映画「オリンピア」の中で、当時映画会社トビスでアルバイトをしていた千足が、マイクの前で開会式を中継する姿が、大写しにされたことだ。

ベルリンオリンピックの記録映画「オリンピア」より


映画が日本で公開されたのは1940年の事であった。欧州ではすでに戦争が始まり、日欧間の往来もとても困難になっていた。そんな状況下で高保の父親勝之助は、何度も映画館に足を運んで、息子の活躍を喜んだのであった。
そして高保の映っている部分だけを何度も繰り返し録画したベータ方式のビデオテープを、道子さんは今も持っている。

母親はリュドミラ・ジヴォトフスキー(リュダと千足は呼んでいた)、亡命ロシア人であった。
モスクワで商人であった父親サムイルは妻と一男四女を支えていたが、革命後の混乱する生活に見切りをつけて1927年、祖国を脱出、プラハ経由で29年にベルリンに移住する。実際には共産主義国家からの一家の脱出は楽なことではなかった。

サムイルは繊維商人であった。西側と取引関係がありソ連にとっては貴重な存在で、自由に出国が許されていた。西への商用の旅ごとに財産を金塊にして持ち出し、1927年の出国を最後にソ連には戻らなかった。
翌年、ソ連に留まっていた母は持病のリュウマチ治療を理由に出国許可を得て、子供達とリュウマチに効く温泉のあるチェコスロバキアに向かい、そこで父と合流した。そしてドイツに向かう。


1932年に撮られた母の家族全員の写真が残っている。一家でドイツへの亡命を果たし、ほっとしている頃だ。

 

ベルリンではアパート経営で生計を立てていたが、サムイルは39年に病死する。以降は洋品店や劇場を経営する長男が一家の面倒をみた。
 

 

出会い

父高保と母リュダが知り合ったのは、高保のドイツに赴いてから間もなくのことであった。
1934年にリュダの11ヶ月歳上の姉ガーリャが、朝鮮半島からの留学生であるアン(安)にパーティに招待された時であった。ガーリャに連れられて出席したリュダは、この時アンと親しかった高保に出会った。リュダはまだ17歳であった。
4女ナターシャが後に道子さんに送ってくれたリュダが18歳の時の写真には、「この頃、高保がジヴォトフスキー家に出入りする様になった」というメモが貼ってあるという。
そして1939年5月の写真には高保も写っている。

右から高保、リュダ、ガーリャ、母である。



2人は愛し合い、1941年6月22日、独ソ戦争が始まったその日は、ベルリン大学生の高保は市内のゲリヒト通り2番にある、ジヴォトフスキー家に泊まっていた。


日記から

千足の手書きの手記が残されている。「伯林雑記」 
自昭和15年9月12日 至昭和19年4月4日

これは日々の行動を綴ったものではなく、時々まとまったテーマについて、少し長めに書いている。そこから本人の職業 結婚に関する部分を紹介する。

1944年4月18日
自分のことを少し書こう。昨年12月初めから、すなわち1942,43年の冬学期からベルリン大学日本語の講師になり、1週に6時間は日本語を教えている。上武(正二)氏は12時間担当で、彼が主で、自分は副。
今年の4月1日から、ベルリンにある帝国大使館文化部の嘱託になった。牛場氏から話があって、直ちに応じたので、どういう筋道か自分でも解らないが、とにかく非公式の嘱託らしい。

学生時代は若気の至りか、それまではあまり大使館との関係もよくなさそうであったが、大使館の嘱託となったことは後に、大きな助けとなる。(筆者注)

昭和1944年4月4日

最も大きい出来事といったら結婚だ。リュダとはもう数年来親しくしていて、結婚は当然の事の様になっていた。唯、何分にも(自分の)両親から離れていて、この事を知らせるのが如何にも億劫だし、又、ドイツに於ける結婚は面倒臭いので、今までぐずぐずしていた。結婚後2人の生活がうまく行くか否か、それはしてからの上の問題で、そんな事を心配していたら、何時になっても結婚は出来ない。

又、一つの自分にとっての気がかりはリュダの母や兄姉妹との関係で、母といいその他もなかなかうるさいところがあるからそれも問題だが、それに関してはリュダに別に罪はないわけだ。

こうして千足は結婚に向け行動をとり始めるが、リュダとの結婚は戦時下の日本人と亡命ロシア人という事もあり簡単にはいかない。(筆者)

ドイツは国際結婚にもいろいろ干渉をしているとの事であった。実際には1943年10月26日に樽井と共に区役所に結婚に手続きについて問い合わせに行くが、それから各方面にたらい回しにされたりで、ようやく翌年の3月9日に、ノイシュタットの町の「広報」に二人の結婚が書かれていた。
よって結婚に関するこの記述は、これから1か月後の4月4日に書かれたことになる。

道子さん誕生

ドイツの劣勢で、チェコとの国境に近いブリュッケンベルクに疎開していた、主としてフランスの外交官と家族は、ホテル・サンスーシーで戦局のドイツ側への好転を待っていた。彼らは1944年8月に連合軍がパリに迫り、最初の避難を強いられた。
しかしそうはならずにソ連軍の接近でここも安全ではなくなる。そこで1945年1月31日、一行は大型バス2台に分乗して、ブリュッケンブルクを去った。

最初に着いたベルリンでは、道路にはドイツ軍の防衛陣地が敷かれ、銃を構えた兵士たちが厳戒態勢に入っていた。多くはベルリンには住む場所もないため、さらに北西約65キロの小さな町ノイルッピン(Neuruppin)を目指した。

ベルリンの日本大使館はノイルッピン町の中心より北西に約5キロ向かったモルヒョウ湖に臨んだ森の中に、別荘風の大きな館を確保して、元パリの館員たちの避難宿泊施設としていた。

45年2月5日、千足はリュダを連れて、それまで住んでいたケーリッツから東に約30キロ、ノイルッピンに移った。
リュダは妊娠9か月の身重であった。千足は大使館の総務部の外交官補中川進に「我々もそこに合流できないだろうか?」と聞いた。大使館関係者と一緒ならリュダも孤立しないで済む。部屋はありそうだった。それが認められたのは、千足は大使館の嘱託であったことだ。

続いて千足はノイルッピンに行ってリュダのための産院を探した。幸いなことに大使館の避難宿泊所からモルヒョウ湖を挟んで対岸に「ナチ党福利厚生機関(NSV)」が所有する産院があることが分かった。

リュダはノイルッピンに移る前日の2月4日、母親や兄妹と会い、別れを惜しんだ。
2月5日、千足とリュダは避難宿泊所に合流した。そしてこの時にフランスからの外交官家族と知り合うことになる。

しかしノイルッピンの外交官は、ベルリンでの市街戦を避けるため、さらに南チロルのバート・ガスタインへの疎開の準備を進めていて、リュダの出産のタイミングとはタイムレースであった。

2月15日、もうすぐ生まれると聞いて、千足は写真機をつかんで産院に走った。そして
10時22分に生まれた。彼女にはかねてから考えていた「道子」という名前を付けた。それが今回取り上げる千足道子さんである。

36時間にわたる難産であった。ドイツ人の看護婦は、産後直ぐの母に、「難産だったのは日本人と結婚したからだ」と言ったそうだ。早くも偏見の洗礼を受けた。

その写真機で撮った写真の貼られたアルバムから3枚紹介する。
1 ベッドの母子の写真の横に
1945.2.15. Molchow(モルヒョウ)と書かれている。
2,そして道子さんを抱く看護師
3、病院の建物と思われる。



避難→日本へ

父親千足高保がそれ以降の日本に引き揚げまでの日程を書き残している。避難が始まったのは道子さんの誕生から一ケ月も経たない1945年3月13日であった。


そこには次のように書かれている。
Molchow(住所はAlt-Ruppin) 3月13日朝まで
ベルリン 13日泊まり 14日朝出発 バスで1泊
ザルツブルク 15日泊まり
バート・ガスタイン 3月16日―7月25日(5月19日 米軍に抑留される)
ルアーブル近くの城 7月25日―8月4日         (フランス)
サンタ・ローザ(米軍チャーターの汽船)乗船       
ニューヨーク  8月12日着 エリス島泊まり
ベッドフォード/ペンシルバニア 8月13日―11月16日 (抑留)
16日 汽車でシアトルへ(4日間)
   シアトル(3日間) 11月20日―23日
11月23日 General Randallでシアトル発
12月6日  浦賀上陸→外務省→自宅

書かれているのは左下に薄く防大・外国語教室と書かれた原稿用紙である。(赤線部分)
上部右にはNo3とあるので3ページ目で、前にも何かメモがあったのであろう。



1958年防衛大学紀要に千足が記事を書いている。この頃防衛大に勤務したようだ。元は別の紙に書かれていたものをこのタイミングで、書き写したのであろう。
そして道子さんは「日程表は、18歳の頃から持ち歩いており、もうボロボロ」という。18歳といえば1963年ころだ。

表にあるように千足一家はベルリンからオーストリアの保養地バート・ガスタインへ。そこで米軍に捕らえられ、フランスのルアーブル、アメリカのペンシルバニア州で抑留、西海岸のシアトルへ送られ、そこから浦賀に移送された。

3月、外交官と一緒にベルリンから避難する際に、大島大使は、
「あまり大勢が避難してはドイツ側の手前、みっともない。(嘱託は除き)外交団のリストに載っている者だけにしたらどうか」と異議を唱えた。

しかしバート・ガスタインへの避難の指揮を取っていたノイルッピンに疎開していた斎田藤吉商務官は、避難組に加えることで押し切った。ここにも道子の命に一つの助けの手が差し伸べられた。

ベルリンには先の写真に写るリュダの母と姉ガーリャの他に最年長の姉、兄、妹とリュダを除いた家族全員が残った。

日本での住まいは千足の実家で、現在は台東区東上野4丁目であった。道子さんにとっては祖父母、叔母3人、従兄、使用人2人の大家族であったという。

しかしながらリュダは帰国から6ヶ月も経たない1946年5月29日に亡くなる。まだ28歳であった。道子さんを出産してすぐの逃避行が体にこたえたのであろうか。

1949年に出版された千足の「ドイツに学ぶ」の見開きには「亡きリュドミラのために」と書かれている。妻を亡くしてまだ心の傷も癒えないタイミングか。



その頃の事を道子さんは次のように回想する。
「3歳の頃だったと思いますが、上野駅の地下道で見て脳裏に焼きついて離れない光景をまた思い出してしまいました。戦争孤児達の姿でした。(父方の)叔母にシラミが移るから近寄るなと言われたのを覚えています。そんな時に私は叔母の用意した夕食が口に合わないと、日本で一番高価なお寿司を食べ、絹に刺繍の入った服と毛皮のコートを着ていました。今でも胸が痛みます。もう2度と見られてはいけない光景です。

今の日本と違って、米軍人以外の外国人をあまり見ない頃は、私の様な母親が外国人の為、日本名の混血児はGIベビーとみなされ、白い目で見られる事もありました」

道子さんは1951年に自宅の筋向かいの、台東区下谷小学校に入学した。そして中学、高校と私立の女子校に通った。よって今も立派な日本語を書く。


戦後の思い出

欧州ゆかりの人とは戦後も次のような繋がりがあった。

下平敏

パリの日本料理屋牡丹屋の主人であった下平敏は毎年、道子さんの誕生日に物心着く頃から12歳頃まで、毎年誕生日に綺麗な洋服を送ってくれた。
「送られて来なくなったのは、お亡くなりになったからですね。クリスマスカードも頂いたのを覚えています。窓をクリスマスまでの12日間毎日一つずつ開けるという、日本では見たことのないカードでした」と道子さんは語る。

下平はパリからフランスの外交官らと共に、ブリュッケンブルク、ノイルッピンと避難してきた。避難生活でも料理人は重宝されたので同行したのであろう。そしてこのノイルッピンで千足一家と知りあったことは間違いない。ここから日本に引き揚げるまで一緒に行動したのだ。また下平もフランス人を妻とし、妻子をパリに残して引き揚げた。同じ外国人を妻とするものとして、苦労なども分かち合えたのであろう。そして日本に引き揚げた下平は、戦後まもなく再び渡仏し、日本料理店を再開させた。そして道子さんの誕生日に毎年洋服を送ったのである。
窓を開けるクリスマスカードは「アドベントカレンダー」として、日本でもだいぶ知られるようになった。

下平敏の死亡年は1950年代と言われるが、正確には分からない。1952年にフランスで発行された月刊誌に牡丹屋と下平の名前があるという。道子さんが12歳頃まで贈り物をもらったとすると1957年頃までである。その後間もなくして亡くなったのであろう。

そして筆者がブログに書いた牡丹屋/下平敏の記録を読んで、懐かしさのあまりにコンタクトしてきたのが、筆者と道子さんの繋がりの始まりである。

パリの日本食堂のルーツは長野県上伊那郡」参照。


田中路子

1930年代初頭、ウィーン国立音楽大学声楽科で声楽を学び、ベルリンに移ってドイツ人のシャンソン歌手で俳優・演出家ヴィクター・デ・コーヴァと2度の目の結婚をした田中路子は、夫と共にベルリンの自宅に留まった。彼女はドイツ国籍となっていたので、日本に引き揚げる一行とは別行動で、最後まで自宅はサロンとして、日独の名士、外交官らを招いていた。

 


田中路子とデ・コーヴァのベルリンの墓。最近は佇まいがだいぶ変わった様。

1953年12月29日、田中路子が19年ぶりに帰国した。翌年1月10日、第一生命ホールに出演した際に、9歳の道子さんが花束を贈呈した。

 

 



渡した時に時「私が貴方の名付け親よ」と、路子が耳元で囁いた。字は違うが読みは同じ「みちこ」である。

「第一生命ホール」は1953年、皇居のお堀端に面した第一生命館の6階に誕生したばかりであった。建物は戦後はマッカーサー元帥の連合国軍最高司令官総司令部本部なり、1952年に返還された。
その再建された建物は、前面を中心に当時の姿を残している。



異母妹の千足尚子によると実家のリビングには、田中路子の夫であるデ・コーヴァの素敵な写真が掛かっていた。彼女は父高保から、名付け親の話を聞いていたが、昨年末に惜しくも亡くなった。

福澤一家

さらにもうひと家族との親交を思いだした。
福澤一家である。父親は福澤進太郎で福澤諭吉の孫であった。戦時中は嘱託としてパリの日本大使館に勤務し、千足家と同じ経路で帰国した。その際にギリシャ人の妻アクリヴィを伴った。

息子はレーサーの福澤幸雄で1969年に走行テスト中の事故で無くなる。幸雄の悲報は、アメリカで父高保からの連絡で知った。娘はアーティストの福澤エミであった。道子さんがエミに最後に会ったのは高校生の時であった。

福澤の家には道子さんが4歳位の時、幸雄の誕生会に招かれた。幸緒の好物のチョコレートケーキが、苦手でどうしても食べられず、
「嫌いだと言うのは失礼だし、遠慮していると思っていすすめて下さるお母様(アクリヴィ)に何とお断りして良いか分からず、困って泣いてしまったのを覚えています」と語る。

Tさん一家

福澤一家と帰国後に最初に会ったのは、やはり引き揚げ時に一緒だった、T氏の家であった。帰国後数年ぶりの集まりであった。T氏はドイツの満州国公使館に嘱託として勤務した。夫人はドイツ人であった。

そのT氏一家とは、親戚同様の付き合いをしていた。子供が2人で、谷津の千足の家に何度も遊びに来た。
T氏夫人と子供2人と道子さんが写る写真がある。中央で夫人の腕の中にいるのが幼い道子さんである。
道子さんは夫人から「ミシライン」と呼ばれていた。ドイツ語の接尾語ライン(lein)は日本語の「ちゃん」の様な意味である。



こうして見てくると道子さん家族が、戦後も付き合った欧州滞在者の家族は皆、国際結婚をしていた。当時の日本では珍しい、外国人の夫人を持つ家族は彼ら特有の苦労も多く、支え合ったのであろう。


このような話もあった。道子さんらと一緒に浦賀に引き揚げたあるドイツ人を夫人とした一家(あえて名を伏す)であるが、港には日本人の奥さんが迎えに来ていた。その修羅場は想像できる。それを事前に予感していたのは夫だけであろう。

そしてご主人はそれからもドイツ人の夫人と生活していたが、日本人の奥様との籍は抜かなかった。帰国後消息が分からず、探していた高保は、ある時鶯谷に馬糞拾いをしている外人女性がいるという噂を聞き、見に行ったところ、そのドイツ人のおの奥様だったそうだ。

馬糞拾いは日本人の目からすると異様な光景だった。しかし西洋人は、馬糞は家庭菜園の良い肥料になると考えたようだ。それでも彼女の戦後の生活がとても困窮していたことは間違いない。

またスイスから夫に従い日本に引き揚げたスイス人の夫人は、日本に馴染めず直ぐに戻った。

アメリカへ

ベルリンに残ったリュダの家族の内、父の亡きあと、一家を支えていた兄は13歳で家族共々プラハを経て、ドイツに亡命したため、ドイツでは大戦中も兵役に服せずに済んだが、理不尽な事に、戦後進駐してきたソ連軍にソ連からの脱走兵の罪を期せられ、1946年にシベリアの収容所送りになり行方不明となった。

同じ年に道子さんの叔母達もソ連軍の知り合いより警告を受けたという。イラ叔母一家はアメリカ空軍将校と、キリスト教会の助けを得て1949年にアメリカに移住した。ガーリャ叔母一家も続いた。母と共に英国に移住していたナターシャ叔母は、ソ連によるヨーロッパ全土占領を恐れ、さらにカナダに移住した。

モスクワ時代、富裕層であった祖父サムイルはソ連官憲の監視下にあり、官憲が祖父を探して家に来ると子供達(リュダ他の兄弟姉妹)は皆ベッドの下に隠れたそうだ。その時の恐怖が、戦後になっても忘れられなかったのであろう。

道子さんは高校卒業後直ぐの1963年、アメリカに渡る。ベルリンから移住し南カリフォルニアに住む叔母(リュダの姉)の家に滞在した。
高保が先の日本への日程表を書いて道子さんに持たせたのは、叔母や祖母が日本帰国後間もなくのリュダの死因に納得をしておらず、当時の事を色々聞くだろうと思ったからであろうという。

叔母達は道子さんが永住すると思っていた様であったが、結局ビザが切れてから6ヶ月オーバーステイして帰国する。結局1年滞在した。

1965年、日本で開催された英国博覧会の通訳のアルバイトする。それが珍しかったようで、テレビの取材を受けた。

日本で通っていたYWCAビジネス・スクールの掲示板を見て応募した。先の高校を出て1年のアメリカ滞在で、英語はマスターしたのだ。

「英語はすぐに覚えました。3ヶ月で普通に話されても聴き取れるようになり、ジョークも解るようになり、滞在6ヶ月には不自由なく話せました。

叔母のスパルタ教育のおかげです。発音が悪いと治るまで繰り返させられました。高校のサマースクールで紹介された2人の日本人学生とは付き合っても良いが日本語で話してはいけないと言われました。つい日本語を使ってしまうと、叔母にはすぐ解ってしまい叱られました」

ただし叔母の影響でロシアのアクセントが少し付いた。

 

戻って2年後の1966年にアメリカに永住目的で向かった。
そして現在も南カリフォルニアに暮らしている。

道子さんはアメリカに来て強くなったと考えている。誰の助けもなく、1人で色々苦難を乗り越えてなくてはならなかったからだ。父(高保)の猛反対を押し切って来た以上、何があっても絶対に父に頼らないと覚悟して来た。ホームシックにもなった。帰りたくて泣いたこともあった。でもそれを乗り越えて今の道子さんがいる。



本編を書くに際し道子さんの回想の他、道子さんの出産時の状況を中心に、『臣下の大戦』足立邦夫を参考に致しました。

 

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九段下の複合ビル「九段会館テラス」は、かつての「九段会館」を建て替えて2022年に竣工。

国の登録文化財である旧九段会館のファサードの一部を残した保存棟と、オフィスフロアを備えた新築棟からなる。

 

歴史を感じさせるビルだが、奥にはオフィス棟があり飲食店も複数入るので、多くの若い人が出入りし活気がある。

昼時には前庭にキッチンカーも入っている。都市においては、昔のまま再建してまばらな訪問者というより、こうした再利用ははるかに好ましい。

 

早咲きのサクラ?

 

隣には武道館が見える。

 

建物は元は「軍人会館」4で、1934年竣工の登録文化財(帝冠様式)で、二・二六事件の戒厳司令部が置かれた場所であった。そのためか周りにはいくつかの軍関係の石碑や遺物が置かれている。

 

薩摩藩士の砲兵大山弥助(のちの大山巌元帥 )が1885年に四斤山砲を改良し発明した弥助砲の砲身。

展示というにはかなりぶっきらぼうに、交番の横に置かれた感じ。

 

「西征陣亡陸軍士官学校生徒之碑」

西南の役(1877年)における陸軍士官学校戦歿者の慰霊顕彰。

 

旧九段会館の解体によって廃材となった鉄骨柱の脚部。

 

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『第二次世界大戦下の滞日外国人(ドイツ人・スイス人の軽井沢・箱根・神戸)』

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「軽井沢郵便局最初の電話加入者」 明治43年(1910年)8月1日付け 

という表がある。

本格的な電話サービスは明治23年(1890年)に東京・横浜間で開始されたが、その20年後である。

軽井沢では22軒が電話を備えていた。

『軽井沢避暑地100年』国会図書館デジタルコレクションより

 

どのような人物、会社が最初に電話を設置したのであろうか?

以下判読できた範囲で読みやすく書き直し、コメントを加える。

 

番号 加入者氏名  機械設置場所・職業 

 

1  青木商店   新軽井沢150 米類雑貨商

→電話番号が軽井沢1番で人々に親しまれた。

『かるゐざわ』の広告では「御避暑中各宮家、華族御用、米殻雑貨、薪炭卸売り、貸しきり自動車営業」となっている。

 

2  川村市之助  新軽井沢129-1 魚類雑貨商 新聞取次所

 

3  桂太郎     離山   

→桂太郎は3度にわたり内閣総理大臣を務めるが、リストの1910年時点も総理大臣であった。別荘は現存。

 

 かつての桂太郎の別荘

 

4  軽井沢警察署  新軽井沢

 

5  江木 衷   精進場520    法学博士

→今日、軽井沢の歴史ではあまり語られることはない人物。

司法省参事官として1880年代ころの書物にはかなり名前が登場する。

 

6  山六出張店 山本六郎 旧軽井沢558  果実雑貨商(?)

 

7  綿屋 泉幾多郎    旧軽井沢22   製氷業

→泉太郎が新軽井沢(駅のそば)で製氷業を始めた。こちらはその販売店か?

 

8  三井三郎助      旧軽井沢1341

 

9  軽井沢共同製氷所   新軽井沢119  製氷業

 

10 江戸屋 佐藤愛三郎 旧軽井沢69   牛肉商

 

11 白木屋 土屋保造  旧軽井沢80   牛乳搾取業

 

12 軽井沢停車場    新軽井沢     (駅)

 

13 油屋 小川三郎   新軽井沢128  旅館

 

14 三澤屋 上原九一  旧軽井沢56   果実雑貨商

  (750番にお菓子屋 三澤屋があった)

 

15 三笠ホテル 山本直良 西山1337  

 

16 田丸屋  土屋富太郎 旧軽井沢55 穀類雑貨商

 

17 エル・グルミセー   桜の沢17番

→最初に電話を所有した外国人は、1930年代に1246番、1248番を所有したアメリカ人Grimmaseyか?

『続 心の糧 戦時下の軽井沢』

 

18 内国通運会社取引店  土屋源一郎 新軽井沢278  運送請負業

→ツチゲンと親しまれ、土屋源一郎は後に軽井沢町長を務める。

 

19 山屋 神山萬蔵   新軽井沢129ノ2 〇〇菓子製造業  (パン屋)

 

20 軽井沢ホテル    旧軽井沢61    旅館

 

21 桶上専治郎     新軽井沢182-2

 

22 万平ホテル 佐藤国三郎  桜の沢68

 

小諸の旧脇本陣の旅館「粂屋」には古い電話室が残っている。

こちらの番号は「長67番」である。

 

とりあえずはリストの書き下しが中心となった。

こうした人物のかなりの部分は筆者の『又々 心の糧 戦時下の軽井沢』で詳しく説明している。こちら

興味を持たれた方はぜひお読みください。

 

 

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第二次世界大戦中、ドイツに駐在していた日本の軍人の主な任務の一つは、ドイツの高い技術の習得であった。

そうした一環で、1942年秋に航空機メーカー フォッケウルフ社を訪問したが、彼らはしっかりしたアルバムにして後に訪問者に贈った。

この時に訪問した一人であった末松茂久陸軍少佐の遺族の方のご厚意で、以前に見せていただいたので、その一部を紹介する。

 

見開き

Für Erinnerung an die Besichtigung 

der Fabrikation der Fw 200

"CONDOR"

Focke-Wulf Flugzeugbau G.M.B.H Bremen

 

「フォッケウルフ社のFw 200(航空機) コンドルの生産現場訪問の思い出」(訳)

手書きで「昭和17年秋見学 ]

と書かれている。

 

「有名なしかし旧式のコンドル機の見学

所々に予の顔が見える」とアルバムを所有していた末松少佐の書き込みがある。

旧式なとあるので、ドイツ側も最新鋭の機種は同盟国人でも見せなかったのであろう。

 

同機は4発エンジンの長距離旅客機/輸送機である。第二次世界大戦の勃発により軍に徴用され、長距離哨戒爆撃機として船舶攻撃に活躍した。

 

 

写真の順番からして到着直後か。

中央で鞄を持つのはおそらく豊田隈雄海軍駐在武官補佐官で、訪問団の代表格か。

服装からして陸軍、海軍の主に技術将校、それに平服の民間の商社の駐在員の、混合メンバーであったと思われる。

 

機体をバックに。写真は片ボケしている。

 

操縦席の計器類。会社側が用意した写真と思われる。

こうして得た技術、情報なども、まれに日本に向かう潜水艦で送るくらいしか、手段を持たない日本軍であった。

 

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戦時中にドイツに留学していた千足高保さんの

「伯林(ベルリン)雑記 昭和15年9月12日から昭和19年4月4日」という手書きの手記のコピーを、以前にいただいた。

欧州で戦争が始まって1年後から、敗戦1年前までである。日々几帳面に付けた日記ではなく、時々思い出したように長い文章を書いているのは本人の性格か。

最近訳あって読み返したら、戦時下のドイツの郵便事情に関し、次のような興味深い記述があった。

 

なお日記の著者千足高保さん(下の写真)については「ベルリンオリンピックの証人」補遺などで筆者は何度か紹介している。

ベルリンオリンピックの記録映画「オリンピア」より

 

1940年9月18日
外国にいて最も嬉しいのは故郷からの手紙で、度々便りをくれる妹たちや娘には感謝に堪えない。
綾子の手紙は可愛い。小さい封筒からして可愛い。しかしこの可愛い手紙も、ドイツの検閲にぶつかっては無残だ。戦時の必要からの厳しい検閲であることはよく解る。むしろ聖戦3年に及びながらも外国との通信を自由にしている日本政府が寛大すぎるのだ。

→日本が「聖戦3年目」とある。今日われわれは日本が米英と戦争に入った1941年12月を開戦と考える。しかし1937年の日中間の衝突である第二次上海事変以降、当時の人は日本は戦争状態にあると理解していたようだ。そして検閲に関してはドイツに対して日本は寛大であったという。

戦時検閲の必要に対する理解はあっても、さて可愛い妹の手紙を手にして、その封筒が破られてしまい、べたべたと糊で貼り合わせ、その上に「開封せり」の大字と「ドイツ軍大本営」の円判を印刷した紙が貼ってあるのも見るとすごく恨めしくなる。
時には中身を取りかえてしまって、他人の手紙が入っていることがあるという。
早くから郵便制度の発達したヨーロッパでは、すでに郵便に細工をして外国と秘密の通信を行うことが多かったのであろう。そして取り扱いはだいぶ荒っぽかったようだ。

「ドイツから外国への通信は次の様な規制がある」と書いている。(1940年7月7日より有効)
‐手紙は4ページ以内の事。
‐封筒は2重であってはならない。

→二重封筒とは内側に内紙が貼られており、中身が透けて見えないようになっているもので、普通青い薄紙が用いられている

千足の所に届いた、文字が透けないようにと2重封筒で送られた手紙は、内側は破り取られていた。

「検閲の連中が如何なものかは、2,3の例で知っているが、実に心無い手合いだ」とこれまでの経験からも怒りを綴っている。


‐絵葉書を送ることは不可。

→ドイツの景色は軍事機密になったか?


‐写真は台紙に貼らぬこと。
‐暗号を用いぬこと。秘密インキを用いぬこと、速記文字を用いぬこと。(等々一部省略)
‐郵便切手は自分で貼ってはならない。郵便局へもって行き、局員に貼らせること。

発送者の住所氏名を明記し、これを郵便局員に渡す時は、旅券かあるいは他の身分証明書を見せること。
→写真、切手の裏に秘密のメッセージを書いて貼り付けるという手段が、以前にはに多用されたのであろう。

 

10月17日には次のような面白い記述がある。
静子から手紙が来たる。9月15日付け。この手紙の中にその前になくなった筈の写真が入っていた。母の久し振り(の写真)だ。恐らく検閲がこの写真を後で見つけて入れたものだろうが、いかにしてこれが僕宛のものか分かったのが不思議だ。

→日本からの手紙は少なくて、ドイツの検閲官にも五分の魂があったという事か。

 

1941年12月に日本も参戦すると、日独間の郵便は完全に止まる。そこで代わりにスイスのような中立国から日本へ郵便を送ったのが、ドイツ駐在末松茂久少佐で、

末松茂久少佐の戦時日欧通信記」として紹介した。

 

以上

 

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