赤坂離宮は明治42年(1909年)に東宮御所として建設された、日本手唯一のネオ・バロック様式の宮殿建築。

内部の見学ができるというので訪問。

 

正門

散りばめられた金色(メッキ?)が美しい。(国宝)

ここまでは入館料無しで来られる。

 

入館料は1500円。手荷物検査の後、建物の中を順路に従って見学できるが、撮影は一切禁止。

ただし今後国賓が来日して迎賓館内部がテレビに映る時、「あの部屋だ!」と親しみを持って観ることが出来そうだ。

 

警備の人が至る所にいて、休憩スペースで電話に出た人にもすぐさま管理人が来て注意していた。警備費用も相当かかっていそうだ。

そう言うわけで、内部は早く切り上げて、建物の撮影に専念。

 

本館(国宝)

かなりの訪問者がいて、思い思いに撮影したりしているので、人物の入らない写真を撮るには忍耐が必要。

何度か写真などで見てそのきれいな姿から、割と新しい建築かと思っていた。

しかし1909年に建てられて、修復があったものの建設当時その姿を残していると知り驚いた。

 

中央部分。

玄関上のペディメント(三角派風)と一対の武士像(緑の半円状の像)

 

輝く金色の星をちりばめた天宮儀。金色の飾りはいたる所に施されている。

 

噴水

こちらも創設時に造られた噴水(国宝)

 

かつての衛士の詰め所。

話を聞くと、すでに複数回訪問している人も少なくない。

確かに一度は訪れてみる価値のある場所だ。

 

正門そばの「迎賓館 赤坂離宮前 休憩所」にはパスタあり。それについては別途「孤独のパスタ」で紹介予定。

 

聖イグナチオ教会

その後に訪問したのは、迎賓館からも近い聖イグナチオ教会。

 

現在の建物は1999年に建てられた3代目。

鐘楼の中の鐘は第二次世界大戦で武器として使われた戦車や大砲をつぶし、2度と悲惨な戦争が起こらないようにと、ドイツで作られ日本に来た。

 

教会としてユニークなデザインだが、中のステンドグラスが美しい。

 

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『第二次世界大戦下の滞日外国人(ドイツ人・スイス人の軽井沢・箱根・神戸)』

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戦後間もなくの1947年冬、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)か軽井沢における、不動産の調査を行った。

アメリカ、イギリス資産など戦時中に日本に没収されていた建物を返還させる目的であった。

そうして作成されたリストの中に軽井沢避暑団の所有として「学校」という物件がある。確かに学校のような作りである。

 

地図も作成されている。それによると現在のショー通りとテニススコート通りに挟まれた現在のジュニアテニスコートの先である。現在は商業ビルになっているあたりだ。また軽井沢会の事務所は今も同じ場所にある。

 

この軽井沢避暑団の建物は戦前、「ジュニアビルディング」と呼ばれた。

証言によれば講堂と教室が一緒にあり、天井からは体操の遊具がぶら下がり、ピアノも置いてあった。

そして1944年夏には大森にあったドイツ人学校が疎開してきた。

そのまま終戦を迎えたので、戦後の調査時には「学校」と表示された。


かなり大きい建物であるがその後どうなったのか、筆者が聞いた限りでは覚えている人はいなかった。

しかし最近新たな情報を入手した。まずは1960年代の地図には「公民館」として表示されていた。

また幼少期から軽井沢で夏を過ごしてきたYさんが、同じころの写真を送ってくれた。

ジュニアテニスコートの先の建物は、戦前のままの姿ではないかもしれないが、依然存続していた事が分かった。

 

ここで軽井沢会テニス部の「100年の歩み」という本を読むと、ある方が座談会の中で次のように述べている。

「ジュニア(がプレイするのは)はジュニアコートだったから。今の反対側。(現在は3面だが)2面しかなかったなかったですよね。それと建物がありました」

その後この建物が壊されて、そこにもコートが1面出来たのである。

 

Yさんはこの公民館を何度か訪れたことがあるという。

「しばしば催し物をしており、ピアノコンサートだったり、ジーンズの業者などが数日販売したりと色々活用されていました。
古い木造体育館のような作りが記憶にあります。催しの内容よっては相当な賑わいでした。
まだ小川が蓋をされていない時期でしたので、テニスコート通りから小川の横を歩いて建物に入ったのを覚えてます」

 

まさに下の間取り図とぴったり一致する。

「ピアノコンサートの時は2階席のような場所もあって、そこから1階を見ることが出来たと記憶している」との追加の証言もいただいた。

 

軽井沢町が制作した年表(軽井沢町のあゆみ)から公民館の項目を拾うと、

1951年 軽井沢町公民館発足。戦後6年経って建物の利用が再開されたか。

(以降何カ所かに公民館が開かれるが、ここが最初で間違いなかろう)

 

1975年 現在「旧軽井沢公民館」のあるオーディトリアム通りに移転する。

おそらくこれと前後して、軽井沢避暑会の建物は老朽化で取り壊されたのではなかろうかと想像したが、先に紹介した「100年の歩み」によると、

「1992年 軽井沢会体育館(ジュニアビルディング)解体工事」と書いてある。

割と最近まで存続していたことになる。

 

この建物は戦前から一貫して、軽井沢会の所有であったようだ。公民館時代は町に貸していたのであろう。

現在こちら側のコートを「ジュニアコート」と呼ぶのは、かつての「ジュニアビルディング」から名前を踏襲しているのではないか?

 

なお現在の公民館の建物は当初の診療所が病院へと発展し、1954年に正式に「軽井沢病院」として開院する。

1974年には、軽井沢病院は中軽井沢に新しい病院棟を建設し、これが今の「軽井沢病院」である。

玉突き式に入居者が変遷するのも興味深い。

 

現在の印象は結構雑然とした公民館の建物である。(目下閉鎖中)

「グーグルストリート」より

 

いつも状況を提供してくれるYさんによると隣に新しい公民館がすでに出来ている(5月9日)

 

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軽井沢、ルヴァン美術館の今年の企画展は 「ソノ・西村・ベガート展」です。

 

副題は 戦時下の欧州を

    美貌と行動力で生き抜いた青春

    芸術を愛した生涯

 

西村ソノさんは文化学院創設者西村伊作の4女で、ルヴァン美術館の館長を務めていましたが昨年5月31日、惜しくも107歳で亡くなりました。

 

 

私が自著『第二次世界大戦下の欧州邦人(ドイツ・スイス)』(2021年発行)の中で 

『西村ソノ  戦時下の欧州を勇気と美貌で生き抜いた女性』として紹介した女性です。

先の副題と似ています。

そして表紙に登場しています。

amazon.co.jp/dp/4866452005/

 

もちろん企画に際し、協力させていただきました。 

6月6日スタートです。 軽井沢訪問の際にはぜひお立ち寄りください。

 

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中華街と言えば関帝廟、橫濱媽祖廟と華美な装飾の建物が知られている。しかし身近な所にも”中華”を感じるものがある。

本編ではおそらくガイドブックなどでは取り上げられることのない、そうした中華関連の建物を中心に紹介する。

 

横浜華僑婦女会

 

横浜中華街の関帝廟通りにある山下町公園は、修学旅行中の様な若者が、店で買った食品を食べていたり、くつろいでいたりと、微笑ましい光景だ。

 

そこに面してあるのが横浜華僑婦女会の建物。古くはみえないが、各階の間のいかにも中華風の模様が楽しい。

横浜華僑婦女会は1953年に成立、華僑子弟の学校教育を支援する会だ。現在の建物は2001年に建設された3代目。

 

同公園には「日本で最初のフットボール(ラグビー)発祥地 横浜」の記念碑がある。

1866年、日本で最初のフットボール(ラグビー)クラブである横浜フットボールクラブ(YFBC)の場所が、ここからほど近い山下町127番地で、イギリス人を中心に設立されたことによる。中華系とは関係はない(笑)

 

廣東會館倶樂部

 

廣東省出身の華僑で組織する親睦同郷會。1953年の設立は先の横浜華僑婦女会と同じ。現在の建物は1994年完成。

 

横浜華僑基督教会

 

1950年代にアメリカ人宣教師のハンネスターがその基礎を作った。彼女はノルウェー人で、(戦前)米国から夫と共に満州へ宣教師として派遣されたが、そこで夫を亡くした。設立は1957年。

その後(戦後)新中国の三自愛国運動で外国人牧師・宣教師は皆国外退去となり、米国へ帰国の途中横浜港に寄った際に、中国と同じ漢字が使われているのに気づき、横浜に逗留した。

ノルウェー人というと、同国船員がオーナーであったBAR NORGE (バーノルゲ) を思い浮かべる。1972年の創業。

現在の建物はコンクリートの打ちっぱなしでかなり新しい。

 

徳永ビル

 

横浜華僑基督教会近くにある、階段両側の置物が中華的と思って撮影。

戻って調べると1956年建設の徳永ビル。中庭のあるこの字型の建物。

会社名も「徳永ビル」で、創設者德永 恵三郎が建築請負業を開業し、元町地区を中心に洋風店舗・住宅の建築を開始したことに始まる。

1923年といえば関東大震災の発生した年で、元町辺りも甚大な被害を受けた。

 

元町中華街駅に近いビルの全景。本町通りの周りのビルに比べてもノスタルジーが漂う。先の写真は奥の建物。

これらは筆者が「孤独のパスタ」として、近くのお店でパスタを食べた際に撮影したものです。

お断りしたようにこれらの建物は私的関心から紹介しました。訪問して、それだけを見ると「なんだ」と落胆するかもしれませんこと、最初にお断りしております。

 

「中華街の関帝廟から今や伝説のウィンドジャマーを想う」はこちら

 

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筆者は戦前、ベルリンの日本人学校に通った方、何人かから話を聞き、写真をお借りしてきた。

下はそんな一枚である。「学校前」というキャプションが書かれている。大日本青少年団が学校を訪問した時だという。

子供たちの後ろの制服姿の男子は日本の若者である。

 

大日本青少年団は1941年から45年にかけて存在した日本の青少年団体である。ドイツのヒトラーユーゲントを手本に組織されたといわれ、それ以前は大日本青年団と呼ばれたようだ。

 

時代は1936年11月に日独防共協定が結ばれ、両国の連帯が強まった。

彼らの訪独に関し「大日本青少年独逸派遣団記録」という記録が残っている。筆者名は書かれていないが参加者の一人であることは間違いない。

 

1938年5月25日 東京を出発し名古屋に向かう。その後神戸港から靖国丸に乗船したのは5月26日であった。

「ドイツへ向かう客船靖国丸船上で気合を入れて剣術訓練」という写真が残されている。

フランスのマルセイユで下船したのが、6月30日であった。

団員の乗船した靖国丸一等船客の記念撮影。「6TH JUNE. 1938 VOY. No.21」と白いローマ字が写し込まれている。

彼らは一等を利用していないので写真に写ってはいない。

 

7月2日 パリからベルリンに向かう。

「猪熊(弦一郎)画伯夫妻の見送りある。靖国丸で1か月間生活を共にしていただけに、ひとしおの愛情を覚えるものがあった」と記す。

 

7月4日 午後5時直前。 ベルリンアンハルター駅到着。ドイツ青少年指導庁代表、大使館、日本人会、ベルリン日本人小学校生徒等の出迎えを受ける。

歓迎は受けたが、日本に来たヒトラーユーゲントが受けたものに比べるとはるかに慎ましやかであったという。

 

7月6日 午後4時からティアガルテンのクロル(Kroll オペラハウス)にてドイツ青少年指導庁招待のお茶の会が開催された。日本側からは東郷大使を始め在伯林邦人その他極めて多数の参会者があったが、そこに日本訪問のHJ(ヒトラーユーゲント)と我々一行が招待せられ、両者の意義深く、感銘厚き第一回の会見がここで行われた。

ヒトラーユーゲントはこの後間もなくして日本に向かう。

 

7月8日

夜は日本人会にて日本飯のご馳走になり、団員一同大喜びである。団員それぞれ芸を発表、日本人会にても「伯林春秋」その他いろいろの珍芸が出る。

 

一行はいったんベルリンを離れ、再び戻る。

8月10日

本日は日本人会にて在伯林の日本人より、ドイツに関する講話を聞く日である。

講師は大使館、陸軍、海軍、商務館よりお願いする。

 

9月10日にはニュルンベルクのヒトラーユーゲント大会においてヒトラーの謁見を受ける。

 

9月22日

三たびベルリンへ。

11時40分に集合してベルリンの日本人小学校を訪問する。

団長並びに学校側の挨拶があり、愛国行進曲を共に唄ったり、教室で小さな生徒たちと話したり、遊んだりする。

全生徒数20人であるが、異堺にいて勉学しているこれらの子供たちの姿は可憐でもあり(略)

子供たちの父兄も多数見えられて、派遣団員は親しく機会をも与えられた。

校門で一緒に記念撮影をした。そして12時40分、子供たちの可愛い万歳の声に送られて日本人学校を辞去した。

 

冒頭の写真は9月22日に撮影されたものであった。今回参照した「大日本青少年独逸派遣団記録」には写真もかなりふんだんに掲載されているのだが、なぜかベルリンのものはない。これが唯一の写真といえるかもしれない。

 

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横浜の新港埠頭を見渡すお店でパスタランチ。それについては別項目で述べるが、食後に向かったのがハンマーヘッド。

 

お店の前のデッキの上から左にハンマーヘッドクレーンが見える。1914年に建造されたイギリス製のジャイアント・カンチレバークレーンで日本に3基、世界でも17基しか存在しない貴重な産業遺産である。

そしてこの新港埠頭内で1942年11月30日、ドイツ軍の艦艇が大爆発する事故が起こった。こちら

 

ハンマーヘッドに着くと、奥に客船が見える。船の前の方にはNIPPON MARUと書かれている。

私は船の専門家ではないので調べると、商船三井クルーズが運航するにっぽん丸(3代目)。2026年5月8日から10日にかけての横浜港発着のクルーズ「にっぽん丸ファイナルクルーズII」をもっての引退を予定とある。最後の航海の前の姿?

豪華客船は真っ白のイメージがあるが、意外と黄色がかった色をしている。

 

戦時中はドイツの艦艇が停泊していたが、今は海上保安庁の船が停泊している。

 

数年前まで、ハンマーヘッドの先には古めの構造物が残っていたが、今はこの部分は切除されている。

 

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横浜市内の米軍基地返還は、根岸住宅地区(約43ha)が2026年6月末までに全面返還されると報じられた。
かつて、マッカーサーの宿舎があったという場所を探して、根岸駅から「根岸旧海岸線の森」と書かれた、あまり歩く人もいない道を登って行った。
 
坂を登り切って丘の反対側を見下ろすと急に景色が変わって、外国風の家が点々と見えた。
米軍の根岸住宅地区だ。横浜にはまだこんな地域があるのかと不思議に思った。
 
旧根岸競馬場一等馬見所を訪問した時も、英語の表記で米軍関係の施設であることが分かった。
こうした地域が今回、ようやく返還されるのだ。
 
以下は最初に書いた「マッカーサーの横浜の宿舎を探し歩く」である。
興味のある方はどうぞお読みください。
 
<序>
 
日本がポツダム宣言を受け入れ、連合国軍最高司令官に任命されたダグラス・マッカーサーは1945年8月30日、厚木飛行場に降り立った。そのまま日本側が用意した車で横浜に向かい、宿泊地であるホテル・ニューグランドに入る。そして日比谷の第一生命館(第一生命ビル)に司令部を移すことを決め、9月17日に東京のアメリカ大使館に公邸を移すまで、マッカーサーの横浜滞在は3週間ほどの短いものであった。

ホテル・ニューグランド(以降写真は全て筆者撮影)
 
しかし横浜はマッカーサーが最初に足を踏み入れた場所としてよく知られており、今もホテル・ニューグランドではマッカーサーの宿泊した部屋は「マッカーサースイート」として利用され、総司令部の置かれた横浜税関には、当時の執務室が残されている。

マッカーサースィート。当時マッカーサーは3部屋を利用した。(ホテルの許可を得て撮影)
 

1934年完成の横浜税関の建物は空襲被害に遭わず、マッカーサーが利用した時のまま。
 
マッカーサーの執務室。通常は非公開。
 

彼が使用したとされる机は一回り小さく、壁際に置かれている。戦後倉庫にあったこの机を、当時マッカーサーにお茶を運んだ女性がこれだと証言したとのこと。
 
マッカーサーは横浜滞在中を通じて、ホテル・ニューグランドに宿泊したのではなく3日のみで、日本側が用意した宿舎も利用していることはあまり知られていない。なお3日かどうかは諸説あるようで、本編でも後半に紹介する。
 
その宿舎に関して筆者は以前次の様な記述に出くわした。少し長いが引用する。
「(横浜で)占領軍を受け入れる日本側は、次のような(アメリカの)要望に応えなければならなかった。
1 (マッカーサー)最高司令官のため、相当の造作と家具、および4名の副官・3名の使用人の寝室を有する適当な住宅。
2 (サザーランド)参謀長ほか9名の将官のための、相当の造作・家具を備え、かつ最高司令官住宅の近隣にある住宅。
3 以下省略」
それに対して

「占領軍最高司令官と参謀長ほか9名のための住宅は、山手地区に用意することになった。山手一帯は空襲による被害が少なく、戦前に建てられた内外人の高級洋風住宅の大半が残っていたからである。

そこで横浜地区受入設営委員会は、(根岸)旭台のC・マイヤー邸を最高司令官用に、根岸滝ノ上の平田穂作邸を参謀長用に、山手244番のK・クライヤ邸および隣接のW・エグチ邸を9名の将官用として調達し、それらの周辺地域にある他の邸宅も、士官用の宿舎にあてることを決定した。」(『占領の傷跡 第二次大戦と横浜』より)
 
その時は山手の244番クライヤ邸が連合国の将官用宿舎に定められたことは、場所柄当然であると思った。一方旭台のマイヤー邸というのは、馴染みはないが、そんなものかくらいに思った。ところが1945年9月9日の朝日新聞は
 
「マ元帥横浜へ帰る」の見出しで
マッカーサー元帥は8日午前11時、米第8軍幕僚長以下首脳と共に米国大使館に到着、簡単な入所式の後同45分帝國ホテルに向い、昼食の後午後1時、第一相互を視察して横浜に向った。なおマ元帥の宿舎は従来通り横浜市山手町C・マイヤー氏宅となっている。」

とマッカーサーは旭台ではなく、山手が宿舎であると報じているのである。言葉を代えればマイヤー邸の住所が二説あるのだ。その距離はわずか3キロメートル程であるが、筆者には決して看過出来ない距離だ。
 
<先行調査>
 
終戦直後に日本で最も権力を持ち、良く知られた人物の事であるから、その彼が最初に滞在した横浜の宿舎などはすぐに分かるであろうと思ったが、どうもそうではない。今の新聞の「首相動静」といったものはマッカーサーに関し存在しない。マイヤー邸の場所の特定もそれから75年以上経つと難しいようだ。
 
『レファレンス協同データベース』(以降『レファレンス』と表記)に横浜市中央図書館の調査結果として、旭台、山手説それぞれを裏付ける様々な資料を紹介しているが、どちらかとは断定していない。また山手説ではその出典元が数点挙がっているが、地番が書かれたものはない。山手町は昔のままの地番が多く残るので、地番が分かれば場所の特定も出来る。
 
一方の旭台説はマイヤーが支配人を務めたスタンダード石油の社宅が旭台にあり、この近くにマイヤー邸があるのは自然だという解釈だ。この『レファレンス』は2011年の作成であるが、今日も未確定な状態が続いていると考えて間違いない。
 
本編では戦中の横浜の外国人を研究してきた筆者が、そうした角度から新史料を用いて解明に努めるものである。また実際に現地を歩いた感想など、写真を交えて紹介する。
 
<駐留米軍宿舎の決定>
 
先に紹介した『占領の傷跡 第二次大戦と横浜』では、宿舎選定の典拠は示されてはいない。当時の一次史料としては終戦直後の8月28日、マッカーサーが厚木に到着する2日前あたるが朝日新聞が、進駐してくる宿舎の決定をおおよそ次のように報じている。
 
「米軍宿舎決まる」
「占領軍の進駐準備のため外務、内務、陸、海各省よりなる総司令部現地委員会は27日進駐軍宿舎を次のごとく決定した。(中略)なお進駐軍総司令部は横浜税関内に設置される。
将官宿舎 
中区旭台 C・マイヤー、
同山手町 カール・クライヤー、同修道院
士官宿舎 香港上海銀行、外人倶楽部、日本造船、ニューグランド
ヘルムハウス、ライジングサン、帝国アパート、バンドホテル」
以下第一予備、第二予備、兵舎と具体的に建物の名前が逐一挙がっている。この将官宿舎冒頭の旭台のC・マイヤー邸がマッカーサー元帥用であることは疑いなく、戦後の書物とも一致している。
 
またこれまで紹介されていないようだが、読売新聞も同日に宿舎について報じている。そこでは朝日新聞よりもう少し詳しく述べられている。その部分を抜粋すると以下の通りだ。
司令官 中区旭台53 スタンダード支配人C・マイヤー方(8名)(原文は“相台”となっているが旭台の間違いであることは明らか)
参謀長以下高級将官 中区山手町カール・クライヤー方(5名)
高級将官 中区山手町修道院(6名)
以下省略。

旭台52番には古い雰囲気の残る大きな建物が。

53番にはいくつか家があるが、ここは今も外国人が住んでいるよう。

また道路の反対側は、今も柵に囲まれた米軍根岸住宅だ。横浜市史Ⅱの資料に拠るとこの辺りは占領軍のArea X(住宅地区)となっているが、旭台は含まれていない。
 
読売は「中区旭台53」と明確に地番を書き、人数8名は4名の副官・3名の使用人を加えてのことで先のアメリカの要望とも一致する。俄然可能性が高くなる。
 
また朝日、読売の2紙が同時に書いているので、前日の8月27日に日本の総司令部現地委員会より宿舎が発表されたことは間違いない。その際進駐軍総司令部は横浜税関内に設置されるとも発表されたが、これはその通りになる。
 
なお山手244番はドイツ人の実業家カール・クライヤー邸で、山手の修道院というのは「聖血拝会修道院」で、その隣の245番にあった。冒頭の『占領の傷跡 第二次大戦と横浜』の山手244番のK・クライヤ邸および隣接のW・エグチ邸と新聞記事はほぼ合致する。将軍たちは本当に修道院を宿舎としたのかも興味がある。

山手244番はマンションで、当時の面影は全くない。
 

245番は戦時中、聖血拝会修道院であったが、その前はヘボン博士邸であった。
 
<住所特定>
 
『レファレンス』に紹介されている一次史料である1941-42年版の『クロニクル・ディレクトリー』の外国人の住所録では、スタンダード石油会社のマイヤー(C.E.MEYER)の住所が、「中区根岸芝生台59」と書かれている。芝生台という旭台の前の古い住所のままであるのは気がかりだが、旭台59番を裏付ける貴重な手がかりだ。
 
そんな中筆者は、もう一つ旭台59を裏付ける一次史料を見つけた。マイヤーはアメリカ大使館から在留アメリカ人への帰国勧告が出されたにも関わらず、最後まで日本に留まり1941年12月8日に日本が米英に参戦すると同時に抑留される。当時外国人の行動を監視した外事警察の記録では、以下のような記録が残る。
 
外諜(スパイ)容疑者として111名を検挙し、名前が載っている。そこにマイヤーの名前と住所もあるのだ。
米国人 旭台59 スタンダード社員 C.E.マイヤー
 
この記録は当時のもので信憑性は高いので、日本開戦時にここがマイヤー邸であったことは間違いない。
 
つまり8月28日に読売新聞が書いた旭台53番というのは間違いである。おそらくマイヤーが社長を務めたスタンダード石油の社宅であった様だということであろう。
 
マイヤーを含めたアメリカ人のスタンダード石油の社員は1942年6月、戦時交換船で母国に引き揚げるが、その後1943年の外事月報によると、ドイツ人が4世帯、11人が旭台53番に暮らしている。これは確かに旭台53番が社宅タイプの家屋であったことを示している。
 
横浜市東口にある「日本ガソリンスタンド発祥の地」の碑。
この場所に横浜米油がスタンダード・バキューム・オイル(通称スタンバック)のガソリンスタンドを建てたのが、日本最初のGSという。
 
<当事者の証言>
 
マッカーサーの宿舎の選定に関わった当事者の証言はないのであろうか?そう思って探すと『マッカーサーが来た日』という本に、選定の経緯が書かれている。
 
「将官宿舎は神奈川県外事課が作成した個人住宅のリストから選定された。空き家が多い外国人住宅を、外交官の吉岡(範武)参事官と帝国ホテルの犬丸(徹三)社長が貸与された乗用車で探し歩いたのであった。横浜市中区でも、関内その他の市街地をはなれた高台の高級住宅は、木々も茂り空襲の災厄から逃れた家が多い。」とまず宿舎を選定した二人の人物が特定されている。
 
その犬丸の記した『ホテルと共に70年』に当事者としての証言があった。順を追って記していく。
「土埃の焼け跡を回ったが、それぞれの邸宅は“帯に短し、襷に長し”の比喩に漏れず、適当なものが見あたらない。それに、これはと思う邸宅は、戦争中に軍が接収したまま、なお退去せずに使用しており、それを直ちに立ち退かせることは不可能であった。
 
マ元帥の宿舎にあてられたスタンダード石油支配人邸は、いわゆる大邸宅ではなかった。もちろん当主およびその家族は敵国人であったから、戦時中帰国して不在である。
 
ここは階下は応接室、食堂が各10坪ほどで、これに調理場その他の小室が付属し、階上は寝室、居間の他更に一室があった。規模はそれほど広くはないが、当時の横浜にあっては、すこぶる立派なものであった。
 
住む人がいないため荒廃がところどころに目立っていたので、清掃し、一部修理も行い、カーテン、敷物なども大体、新品に取り替えて、マ元帥を迎えたのである。
 
しかし宿舎は進駐軍側の意向を聴いて決定したものではないため、この家が果たしてマ元帥に満足を与えるかについて、私は全く自信を持ち得なかった。かくして万一の場合を考慮して、別にホテル・ニューグランドの2階全フロアを借り受け、これもマ元帥用とする事とした。
 
8月30日の前夜から私は横浜にあった。各宿舎に給仕人と料理人を配置し、食料食器を整備し、自分はスタンダード石油支配人宅に待機していた。
(マッカーサーは厚木から横浜に着くと)一旦ホテル・ニューグランドで休憩したが、午後8時頃スタンダード石油支配人邸に入った。」
 
犬丸は選定から、マッカーサーがマイヤー邸に入るまでずっと関わっていた。証人がいたのだ。興味深いのはホテル・ニューグランドは日本側にとっては押さえであったこと、また初日からマッカーサーはホテル・ニューグランドではなくこちらに宿泊したという点だ。これらは当事者が書くので間違いはないのであろう。ただし他の証言などからすると、犬丸が迎え入れたのは、マッカーサーではなく別の将軍、という可能性も残る。
 
連合国を横浜に迎え入れた日本政府であるが、この期に及んでも司令部の東京進出を避けたいと思っていた。そのためにもホテルではなく、長期滞在に向く邸宅に移ってもらう事を望んでいたのであろう。
 
<当事者の証言 2>

先の犬丸の記述によれば、彼は8月30日にマイヤー邸でマッカーサーを迎えたとはっきり書いている。一方のホテル・ニューグランドは一階に当時の写真などを常時展示しているが、マッカーサーは3日同ホテルに宿泊したと書いてある。以下はマッカーサーが横浜に入った日のホテル内の記述である。
   
「1945年8月30日、ホテルニューグランド会長の野村洋三は挨拶が終わると、早速先導してマッカーサー元帥の居室に選んでおいた315号室、並びにオフィスとして使用する予備室として316号、317号室の順に案内して回りました。
 
 またマッカーサー元帥以外の将軍および幕僚、さらにイギリス、フランス、中国等の連合軍に所属する将軍や首脳たちも、フロントに詰めた米軍中佐の部屋割り係官によって、指示された部屋にそれぞれおさまり、その数は159人でした。」
 どちらも記述はとても具体的で信憑性がありそうなので、不思議な感じだ。
 
<マイヤー邸の建物>
 
犬丸はマイヤー邸について、さほど広くないと書いている。一方『マッカーサー 記録・戦後日本の原点』にはマイヤー邸の写真というのを見ることが出来る。日本には存在しないようで、アメリカのマッカーサー記念館が所有するものだが、コンクリート作りで同じ形の窓がいくつかあるスタイルだ。4つの住居が縦割りにあるようで、右から3つの区画は2階建て、一番左は3階建てだ。これは犬丸の書く邸宅とは明らかに異なる。
 
またその写真では歩哨が一人立っているが、大勢の歩哨が立つホテル・ニューグランドと大違いで、緊張感はなく元帥が宿泊する施設とは思えない。このマッカーサー邸の写真はマイヤー邸ではないと考えて間違いない。
 
チェコ出身の著名な建築家アントニン・レーモンドのについて書かれた『アントニン・レーモンドの建築』の巻末の、主要建築作品譜には「1927~1929年 紐育スタンダード石油会社支配人社宅 横浜・山手 RC造(鉄筋コンクリート造のこと)、二階建て」と載っている。ここでの「支配人社宅」とは社有の支配人用邸宅という意味であろうか。2階建て鉄筋コンクリート造りの建物を犬丸は「それほど広くない」と書くであろうか?
 
山手250番にあったスタンダード石油の社宅はアントニン・レイモンドの設計で今は移築され、パークシティ本牧のクラブハウスとして利用されている。スタンダード石油社宅説の”元凶”?
 
一方場所は山手と書くが、著者が旭台の違いを認識して書かれているかは疑問だ。旭台も山手地区の一部と捉えているのかもしれない。まさにレーモンドが設計したのは何度かささやかれてきたスタンダード石油の社宅(旭台53番)ではなかろうか? 先の『マッカーサー 記録・戦後日本の原点』の写真もこちらであろう。
 
最後に旭台59番の位置を確認しよう。ゼンリン住宅地図によれば現在57番は枝番が1,7,9,10、次いで62番となっていて59番は存在しない。これら4つの枝番はすべてマンションだ。58,59,60,61番はマンション建築時に57番台に吸収されたのであろう。

かつての59番は根岸を見下ろす崖の上のこの辺りのはずだ。
 
<結論>
 
ここまで述べてきたことから、マッカーサー邸は旭台59番のマイヤー邸で間違いない。山手か旭台かの論争は決着がついた。最後まで残る疑問は副官らを含んで総勢8名が、さほど広くないマイヤー邸に宿泊出来たかだ。副官らは専らすぐ近くの53番のレーモンドの設計したスタンダード石油の社宅を宿舎としたと考えるのが、自然でないか?
 
さらに疑えば、日本側はマッカーサー用にマイヤー邸を用意したが、本人は望まず、ずっとホテル・ニューグランドに宿泊したという可能性も残る。
(2019年6月2日)
 
<追記>
 
マッカーサーの宿泊場所に関し、以下の書物等にも記述がある。筆者のコメントを添えて紹介する。
 
1. 『マッカーサーが来た日』河原匡喜より要約。
8月28日にやってきた連合軍先遣隊と厚木委員会との間で会議が行われた。日本側は(宿泊所となる)建物の準備を具体的に語った。先遣隊は満足の意見であったが、最終決定は最高司令官によることが伝えられた。

8月30日早朝4時45分、第11空挺部隊指揮官ジョセフ・スティング少将搭乗C54が到着する。飛行機から降りたスイング少将は有末精三委員長を招き入れ
 「マッカーサー元帥は到着後直ちに横浜に向かう。宿舎はホテル・ニューグランドだ」と指示した。「理由は多分、身辺の安全を顧慮したためであろうと直感した。」と有末は自著に記している。
 
マッカーサー元帥は翌31日午前9時半、宿舎のホテル・ニューグランドを出て進駐軍司令部(横浜税関)に入り万般の指揮をとった。
 9月2日、ニューグランドを出て降伏調印指式に赴くマッカーサーの写真が載っている。調印式を終えて横浜に帰ったマッカーサーは、3日にわたるホテル・ニューグランドの居室を出て、かねてから用意されていた市内旭台のC・マイヤー氏邸に仮寓を移した。
 
「3日にわたるホテル・ニューグランドの居室を出て」という記述は資料に基づくのではなく、既成事実として捉えて書いている気もする。

2. 毎日新聞8月31日付け

 「マッカーサー司令長官宿舎 ホテル・ニューグランドに」の見出しに続き、以下の内容の記事がある。
 「11時5分前、マッカーサー司令官の宿舎ホテル・ニューグランド前に行くと、玄関口に2名の歩哨が立ち2階では士官たちが食事をしていた。
付近には物珍しげに集まる市民の姿はひとりも見受けられず、非常に平穏で、この重大な事態に処する心構え浸透しているのが頷かれた。歩哨の姿もどことなく和やかで、われわれ腕章を見ると黙って中へ通してくれた。

中へ入って見ると係員その他の態度も落ち着いており、中に日本婦人も混じっていたが和服をキチンと着ており、洋装のものはズボンをはいた隙のない服装で働いていた。」
元帥到着前のホテルの様子だが、迎える日本の女性の服装が立派な事に、毎日の記者が驚いている。

 同日付け、別の箇所では元帥の宿舎は以下のようにホテル・ニューグランドとはっきり書いている。
 「横浜市に進駐した連合軍の将官日没までには1200名を数え、マッカーサー司令官が宿舎ホテル・ニューグランドに入ったのを始め、将官宿舎に当てられたカール・フライヤー、シー・マイヤー等山手方面の外人住宅や臨港地区のホテル・ニューグランド、、、以下略」

3. 横浜市史

 「9月1日には、スタンヴァック日本支社の総支配人が住んでいた社宅(根岸朝日台57)を住居用として接収した。その後、この場所は、米第8軍司令官の官邸として利用された。」
住所が旭台59とは異なるのは悩んでしまう。また米第8軍司令官(アイケルベルガー)の宿舎というのも新説。
(以上2019年7月5日追加)
 
4.読売新聞
 
同紙によるとマッカーサーが重光葵外務大臣と話し合いをしたのは、総司令部があった横浜税関ではなく、ホテル・ニューグランドだ。ホテルの方が会談の場所としてふさわしかったからであろうか?ここが宿舎ではなかったかという推測も働く。
 
1945年9月5日
「重光外相は4日午後4時、ホテル・ニューグランドの連合軍司令部にマッカーサー元帥を訪問、一般政策の諸問題、通貨問題に関し要談した。」
9月14日
「重光外相、マ元帥要談
重光外相は13日午後3時、ホテル・ニューグランドにマッカーサー元帥を訪問、要談した。」
 
5.マッカーサー回想記

マッカーサーは『マッカーサー回想記』という本を書いている。そこから横浜の本テーマに関する記述を拾ってみる。まず厚木から横浜に到着する時のことは自分の回想ではなく、ホイットニー将軍の書いたものを引用している。
 
「当時私の軍事秘書官をつとめていたホイットニー将軍は、その時の印象を次のように描いている。わたしたちはからっぽの町を通って、マッカーサーが正式に東京にはいるまでの宿舎に当てられたらホテル・ニューグランドへ連れて行かれた。

 ホテルの支配人と職員たちは、ひれ伏さんばかりにして出迎え、マッカーサー用に選ばれた部屋へ私たちを案内した。私たちは疲れて、腹ぺこだったので大急ぎで食堂に入り、他の米軍将校たちといっしょに丁重なホテルの係員たちに取り囲まれながら席に着き、ビフテキの夕食のサービスを受けた。」
 
次は9月2日の戦艦ミズーリ艦上での降伏調印式の日のことだ。
 「私たちの車が港へゆっくり走った時、道路には衛兵が銃剣をきらめかせながら厳重な警戒をしいていた。(中略)
私たちは県知事の事務室で小憩した時に、一行の自動車の旗を全部はずし、将校たちの剣も後に残していった。」
途中で休憩したのも横浜税関ではなく、すぐ近くの神奈川県庁だった。
 
続いて9月8日、初めて東京に入った日だ。
「降伏式の6日後に、私ははじめて東京に足を踏み入れた。横浜のホテル・ニューグランドから、全占領期間私の住所となった東京の米大使館までわずか35キロの距離だったが、、、」
横浜到着3日後にマイヤー邸に移ったとされるが、ここではホテル・ニューグランドから東京に向かったと解釈できる。
(以上2019年7月12日追加)
 
6 アイザック・シャピロ
 
ユダヤ人で戦前から戦中にかけて本牧で暮らした、アイザック・シャピロはマイヤー家の子供ホルト(Holt)とは親友であった。家も訪問していたようだ。
彼の英語で書かれた著作"Edokko"には次のように記されている。
 
彼はマッカーサーが横浜に到着した翌日の8月31日、港に立っていると20歳後半の背の高いアメリカ兵がにこやかに話しかけて来た。ケリー大尉と名乗り
「日本語が出来ますか?」と聞くので「はい」と答えると
「じゃあ助けてくれ。自分はスクールバスを徴発したが、(日本人の)運転手と会話が出来ない。一緒に来て彼に伝えてくれ。自分の任務は高級将校のための宿舎を見つけることだ。最初は第8軍のアイケルバーガー中将のための適当な宿舎を確保することだ。」と言う。

そしてアイケルバーガー中将に最初に与えられた住所は、偶然にも戦前スタンダード石油日本支社長のマイヤー邸だった。
「僕はこの家を良く知っています。山手に向かってください」とアイザックは運転手に告げた。そしれケリー大尉に向かって
「マイヤー邸は非常に大きく、部屋がたくさんあり、美しい芝生が植えてあります。将軍が喜ぶこと間違いありません。」
 
アイザックの記述にはいくつかの興味深い点がある。
8月31日、マイヤー邸はアイケルベルガー用であったと語っている。その2日後の9月2日にマッカーサー将軍がホテル・ニューグランドから移って来るとしたら、アイケルベルガーはこの時、当初日本側が考えた将官用邸宅(山手244番クライヤー邸)に移ったのであろうか?
 
また本牧で育ち山手を熟知していたはずのシャピロであるが、旭台のマイヤー邸の住所を山手としている。よって先に犬丸社長が同様に山手と呼んだのも不思議ではないのかもしれない。
謎は深まるばかりだ。
(2019年8月28日)
 
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交詢社ビル(銀座)は、1880年に福沢諭吉が創立した日本最古の会員制社交クラブ「交詢社」の拠点で、1929年築の旧館(ゴシック風)のファサードを2004年の再開発で継承した「クラシック&モダン」な商業ビルである。

 

こういう形で旧建物の正面部分をを再び利用するのは、ファサード建築と呼ばれ、近年しばしば見られる。

背景のモダンさとの不調和な印象もなくはない。しかしこうすることで建て替えに反対する人の声も抑えられるのであろう。

 

入り口には「交詢社」と右から書かれている。

 

洒落た1階の階段。古い部材を使用とかは書かれていない。

 

4階のレストランフロア。ここで食べたパスタは別のところで紹介。

 

交詢社通りを挟んで向かいに建つのが丸嘉ビル。1929年の竣工当時は袋物商の老舗、丸嘉商店の建物であった。

丸嘉商店は銀座で最も古い宝石商。

明るい黄色い壁がモダンな印象であるが、このようにリフォームされると、知らないと決して歴史ある建物とは気づかない。

何度か改装されるが、3階奥のデコレーションの付いた白壁の部分は前の建物から引き継いでいるようだ。

やはりこれも歴史的建造物か?

 

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4月に入ってから、軽井沢の方がSNSに「こぶしの花が咲いた」と投稿するようになった。

こぶしの花というと筆者が思い出すのは、内山章子さんが「軽井沢120年」に寄せた「こぶしの花」という短文である。本はご本人からいただいた。

 

内山章子さんは著述家で衆議院議員などを務めた鶴見祐輔と、明治から昭和初期にかけて活躍した政治家、後藤新平の娘・愛子の間に1928年に生まれる。兄は哲学者の鶴見俊輔である。

 

章子の楽しい生活は、1945年2月、母が脳溢血で倒れたことで一変した。女学校卒業の直前、看病のための軽井沢暮しが始まった。16歳だった。

 

牧場から牛ふんを分けてもらうのだが、昼は疎開の人に分けると村八分になるから、夜来てくれと牧場主は言う。リヤカーを引き、提灯をつけてとぼとぼと六本辻にあった牧場に行き、分けてもらった。

 

あの年の早春、離山に咲いた「こぶしの花」の白さは忘れられないと記している。

 

それから今日まで軽井沢での別荘生活は続き、父から孫の代まで5代でお世話になっている。2000年の早春、運よくこぶしの花の盛りに軽井沢に来た。

町のそこかしこにこぶしの花は咲き満ちていた。その美しさに心うばわれ、息のつまるほどの感動を覚えた。

 

恥ずかしながら筆者はこぶしの花の写真は一度も撮影したことがないので、フリー画像から写真を使用させていただく。

 

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本編に関連する『続 心の糧(戦時下の軽井沢)』はこちら

 

 

日比谷の三信ビルディングは、いつまでも心に残る建物である。

1929年に建築され、2007年に解体された。

大学生時代、中の三信書店にドイツ語授業の参考図書を購入に行った。先生の指定の本であった。繋がりがあったのであろう。

 

隣接の日比谷三井ビルディング跡地とともに再開発して2018年に完成したのが、東京ミッドタウン日比谷である。

「ミッドタウン日比谷」はかつてあった「三信ビルディング」の薫りを残しているのが嬉しい。

これは新しくビルを建てる際の傾向のようだ。先日オープンしたばかりのBASEGATE横浜関内にも同じようなコーナーがある。


1 アーチ形の天井は三信ビルディングにインスピレーションを受け再現。


2 建材の一部も使用されている。

 

隣の日本生命日比谷ビルも味のある建物だが、建築が1963年、近くの明治生命館(1934年)、第一生命館(1938年)が戦前であるのに比べてやや新しい。

設計は村野藤吾で、奇しくも先に述べたBASEGATE横浜関内の前の建物「旧横浜市庁舎行政棟」も彼の設計。

 

1階に入るお店(CAFE A LA TIENNE)の前、および店内の目の詰まったタイル状のシックな床は、建設当時からのものか。

 

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