筆者は第二次世界大戦を欧州で直接体験した日本人を「欧州邦人」と呼び、その数は独自の調査では総数900人と判断し、彼らの足跡を追いかけてきた。
調査を初めて30年近くなるが、お会いした後に亡くなられた方も多い。戦後も80年を経過し、いったい何人の方が生存していらっしゃるのであろうか?そんな中、新たな欧州邦人と知り合うことが出来た。それが千足道子さんである。
彼女は1945年2月15日の生まれ、ドイツが崩壊の3か月前の事である。そして道子さんが生まれて一ケ月も経たないうちに、母に抱かれてのドイツからの逃避行が始まる。もちろんその時の記憶はない。
本編は彼女から提供いただいた証言を元に、いくつかの情報を織り交ぜて、その足取りを追うものである。
両親
道子さんの両親について述べると父親千足高保(せんぞくたかやす)は、1910年8月、東京の浅草区神吉町に生まれた。高保の父勝之助は東京で一番大きな古紙問屋千足商店を営んでいた。
1931年、東京外国語大学露語専修科を修了し、翌32年4月に訪独、ドイツ語を習得し、34年にベルリン大学哲学部に入学した。恵まれたか家庭故か、私費留学であった。ただし勝之助は事前には知らなかったという。金庫から勝手に渡航費用を持ち出したのだ。
ある時、娘に暫く見かけない高保の様子を尋ねたので、ドイツに行ったと答えたところただ「そうか」、と言ったそうだ。
ほとんど公費留学しか考えられないような時代に、何とも優雅な話である。
10年以上に及ぶドイツ滞在の中で、大きなトピックを一つ挙げると、1936年開催のベルリンオリンピックの記録映画「オリンピア」の中で、当時映画会社トビスでアルバイトをしていた千足が、マイクの前で開会式を中継する姿が、大写しにされたことだ。

ベルリンオリンピックの記録映画「オリンピア」より
映画が日本で公開されたのは1940年の事であった。欧州ではすでに戦争が始まり、日欧間の往来もとても困難になっていた。そんな状況下で高保の父親勝之助は、何度も映画館に足を運んで、息子の活躍を喜んだのであった。
そして高保の映っている部分だけを何度も繰り返し録画したベータ方式のビデオテープを、道子さんは今も持っている。
母親はリュドミラ・ジヴォトフスキー(リュダと千足は呼んでいた)、亡命ロシア人であった。
モスクワで商人であった父親サムイルは妻と一男四女を支えていたが、革命後の混乱する生活に見切りをつけて1927年、祖国を脱出、プラハ経由で29年にベルリンに移住する。実際には共産主義国家からの一家の脱出は楽なことではなかった。
サムイルは繊維商人であった。西側と取引関係がありソ連にとっては貴重な存在で、自由に出国が許されていた。西への商用の旅ごとに財産を金塊にして持ち出し、1927年の出国を最後にソ連には戻らなかった。
翌年、ソ連に留まっていた母は持病のリュウマチ治療を理由に出国許可を得て、子供達とリュウマチに効く温泉のあるチェコスロバキアに向かい、そこで父と合流した。そしてドイツに向かう。
1932年に撮られた母の家族全員の写真が残っている。一家でドイツへの亡命を果たし、ほっとしている頃だ。

ベルリンではアパート経営で生計を立てていたが、サムイルは39年に病死する。以降は洋品店や劇場を経営する長男が一家の面倒をみた。
出会い
父高保と母リュダが知り合ったのは、高保のドイツに赴いてから間もなくのことであった。
1934年にリュダの11ヶ月歳上の姉ガーリャが、朝鮮半島からの留学生であるアン(安)にパーティに招待された時であった。ガーリャに連れられて出席したリュダは、この時アンと親しかった高保に出会った。リュダはまだ17歳であった。
4女ナターシャが後に道子さんに送ってくれたリュダが18歳の時の写真には、「この頃、高保がジヴォトフスキー家に出入りする様になった」というメモが貼ってあるという。
そして1939年5月の写真には高保も写っている。
右から高保、リュダ、ガーリャ、母である。

2人は愛し合い、1941年6月22日、独ソ戦争が始まったその日は、ベルリン大学生の高保は市内のゲリヒト通り2番にある、ジヴォトフスキー家に泊まっていた。
日記から
千足の手書きの手記が残されている。「伯林雑記」
自昭和15年9月12日 至昭和19年4月4日
これは日々の行動を綴ったものではなく、時々まとまったテーマについて、少し長めに書いている。そこから本人の職業 結婚に関する部分を紹介する。
1944年4月18日
自分のことを少し書こう。昨年12月初めから、すなわち1942,43年の冬学期からベルリン大学日本語の講師になり、1週に6時間は日本語を教えている。上武(正二)氏は12時間担当で、彼が主で、自分は副。
今年の4月1日から、ベルリンにある帝国大使館文化部の嘱託になった。牛場氏から話があって、直ちに応じたので、どういう筋道か自分でも解らないが、とにかく非公式の嘱託らしい。
学生時代は若気の至りか、それまではあまり大使館との関係もよくなさそうであったが、大使館の嘱託となったことは後に、大きな助けとなる。(筆者注)
昭和1944年4月4日
最も大きい出来事といったら結婚だ。リュダとはもう数年来親しくしていて、結婚は当然の事の様になっていた。唯、何分にも(自分の)両親から離れていて、この事を知らせるのが如何にも億劫だし、又、ドイツに於ける結婚は面倒臭いので、今までぐずぐずしていた。結婚後2人の生活がうまく行くか否か、それはしてからの上の問題で、そんな事を心配していたら、何時になっても結婚は出来ない。
又、一つの自分にとっての気がかりはリュダの母や兄姉妹との関係で、母といいその他もなかなかうるさいところがあるからそれも問題だが、それに関してはリュダに別に罪はないわけだ。
こうして千足は結婚に向け行動をとり始めるが、リュダとの結婚は戦時下の日本人と亡命ロシア人という事もあり簡単にはいかない。(筆者)
ドイツは国際結婚にもいろいろ干渉をしているとの事であった。実際には1943年10月26日に樽井と共に区役所に結婚に手続きについて問い合わせに行くが、それから各方面にたらい回しにされたりで、ようやく翌年の3月9日に、ノイシュタットの町の「広報」に二人の結婚が書かれていた。
よって結婚に関するこの記述は、これから1か月後の4月4日に書かれたことになる。
道子さん誕生
ドイツの劣勢で、チェコとの国境に近いブリュッケンベルクに疎開していた、主としてフランスの外交官と家族は、ホテル・サンスーシーで戦局のドイツ側への好転を待っていた。彼らは1944年8月に連合軍がパリに迫り、最初の避難を強いられた。
しかしそうはならずにソ連軍の接近でここも安全ではなくなる。そこで1945年1月31日、一行は大型バス2台に分乗して、ブリュッケンブルクを去った。
最初に着いたベルリンでは、道路にはドイツ軍の防衛陣地が敷かれ、銃を構えた兵士たちが厳戒態勢に入っていた。多くはベルリンには住む場所もないため、さらに北西約65キロの小さな町ノイルッピン(Neuruppin)を目指した。
ベルリンの日本大使館はノイルッピン町の中心より北西に約5キロ向かったモルヒョウ湖に臨んだ森の中に、別荘風の大きな館を確保して、元パリの館員たちの避難宿泊施設としていた。
45年2月5日、千足はリュダを連れて、それまで住んでいたケーリッツから東に約30キロ、ノイルッピンに移った。
リュダは妊娠9か月の身重であった。千足は大使館の総務部の外交官補中川進に「我々もそこに合流できないだろうか?」と聞いた。大使館関係者と一緒ならリュダも孤立しないで済む。部屋はありそうだった。それが認められたのは、千足は大使館の嘱託であったことだ。
続いて千足はノイルッピンに行ってリュダのための産院を探した。幸いなことに大使館の避難宿泊所からモルヒョウ湖を挟んで対岸に「ナチ党福利厚生機関(NSV)」が所有する産院があることが分かった。
リュダはノイルッピンに移る前日の2月4日、母親や兄妹と会い、別れを惜しんだ。
2月5日、千足とリュダは避難宿泊所に合流した。そしてこの時にフランスからの外交官家族と知り合うことになる。
しかしノイルッピンの外交官は、ベルリンでの市街戦を避けるため、さらに南チロルのバート・ガスタインへの疎開の準備を進めていて、リュダの出産のタイミングとはタイムレースであった。
2月15日、もうすぐ生まれると聞いて、千足は写真機をつかんで産院に走った。そして
10時22分に生まれた。彼女にはかねてから考えていた「道子」という名前を付けた。それが今回取り上げる千足道子さんである。
36時間にわたる難産であった。ドイツ人の看護婦は、産後直ぐの母に、「難産だったのは日本人と結婚したからだ」と言ったそうだ。早くも偏見の洗礼を受けた。
その写真機で撮った写真の貼られたアルバムから3枚紹介する。
1 ベッドの母子の写真の横に
1945.2.15. Molchow(モルヒョウ)と書かれている。
2,そして道子さんを抱く看護師
3、病院の建物と思われる。

避難→日本へ
父親千足高保がそれ以降の日本に引き揚げまでの日程を書き残している。避難が始まったのは道子さんの誕生から一ケ月も経たない1945年3月13日であった。
そこには次のように書かれている。
Molchow(住所はAlt-Ruppin) 3月13日朝まで
ベルリン 13日泊まり 14日朝出発 バスで1泊
ザルツブルク 15日泊まり
バート・ガスタイン 3月16日―7月25日(5月19日 米軍に抑留される)
ルアーブル近くの城 7月25日―8月4日 (フランス)
サンタ・ローザ(米軍チャーターの汽船)乗船
ニューヨーク 8月12日着 エリス島泊まり
ベッドフォード/ペンシルバニア 8月13日―11月16日 (抑留)
16日 汽車でシアトルへ(4日間)
シアトル(3日間) 11月20日―23日
11月23日 General Randallでシアトル発
12月6日 浦賀上陸→外務省→自宅
書かれているのは左下に薄く防大・外国語教室と書かれた原稿用紙である。(赤線部分)
上部右にはNo3とあるので3ページ目で、前にも何かメモがあったのであろう。

1958年防衛大学紀要に千足が記事を書いている。この頃防衛大に勤務したようだ。元は別の紙に書かれていたものをこのタイミングで、書き写したのであろう。
そして道子さんは「日程表は、18歳の頃から持ち歩いており、もうボロボロ」という。18歳といえば1963年ころだ。
表にあるように千足一家はベルリンからオーストリアの保養地バート・ガスタインへ。そこで米軍に捕らえられ、フランスのルアーブル、アメリカのペンシルバニア州で抑留、西海岸のシアトルへ送られ、そこから浦賀に移送された。
3月、外交官と一緒にベルリンから避難する際に、大島大使は、
「あまり大勢が避難してはドイツ側の手前、みっともない。(嘱託は除き)外交団のリストに載っている者だけにしたらどうか」と異議を唱えた。
しかしバート・ガスタインへの避難の指揮を取っていたノイルッピンに疎開していた斎田藤吉商務官は、避難組に加えることで押し切った。ここにも道子の命に一つの助けの手が差し伸べられた。
ベルリンには先の写真に写るリュダの母と姉ガーリャの他に最年長の姉、兄、妹とリュダを除いた家族全員が残った。
日本での住まいは千足の実家で、現在は台東区東上野4丁目であった。道子さんにとっては祖父母、叔母3人、従兄、使用人2人の大家族であったという。
しかしながらリュダは帰国から6ヶ月も経たない1946年5月29日に亡くなる。まだ28歳であった。道子さんを出産してすぐの逃避行が体にこたえたのであろうか。
1949年に出版された千足の「ドイツに学ぶ」の見開きには「亡きリュドミラのために」と書かれている。妻を亡くしてまだ心の傷も癒えないタイミングか。

その頃の事を道子さんは次のように回想する。
「3歳の頃だったと思いますが、上野駅の地下道で見て脳裏に焼きついて離れない光景をまた思い出してしまいました。戦争孤児達の姿でした。(父方の)叔母にシラミが移るから近寄るなと言われたのを覚えています。そんな時に私は叔母の用意した夕食が口に合わないと、日本で一番高価なお寿司を食べ、絹に刺繍の入った服と毛皮のコートを着ていました。今でも胸が痛みます。もう2度と見られてはいけない光景です。
今の日本と違って、米軍人以外の外国人をあまり見ない頃は、私の様な母親が外国人の為、日本名の混血児はGIベビーとみなされ、白い目で見られる事もありました」
道子さんは1951年に自宅の筋向かいの、台東区下谷小学校に入学した。そして中学、高校と私立の女子校に通った。よって今も立派な日本語を書く。
戦後の思い出
欧州ゆかりの人とは戦後も次のような繋がりがあった。
下平敏
パリの日本料理屋牡丹屋の主人であった下平敏は毎年、道子さんの誕生日に物心着く頃から12歳頃まで、毎年誕生日に綺麗な洋服を送ってくれた。
「送られて来なくなったのは、お亡くなりになったからですね。クリスマスカードも頂いたのを覚えています。窓をクリスマスまでの12日間毎日一つずつ開けるという、日本では見たことのないカードでした」と道子さんは語る。
下平はパリからフランスの外交官らと共に、ブリュッケンブルク、ノイルッピンと避難してきた。避難生活でも料理人は重宝されたので同行したのであろう。そしてこのノイルッピンで千足一家と知りあったことは間違いない。ここから日本に引き揚げるまで一緒に行動したのだ。また下平もフランス人を妻とし、妻子をパリに残して引き揚げた。同じ外国人を妻とするものとして、苦労なども分かち合えたのであろう。そして日本に引き揚げた下平は、戦後まもなく再び渡仏し、日本料理店を再開させた。そして道子さんの誕生日に毎年洋服を送ったのである。
窓を開けるクリスマスカードは「アドベントカレンダー」として、日本でもだいぶ知られるようになった。
下平敏の死亡年は1950年代と言われるが、正確には分からない。1952年にフランスで発行された月刊誌に牡丹屋と下平の名前があるという。道子さんが12歳頃まで贈り物をもらったとすると1957年頃までである。その後間もなくして亡くなったのであろう。
そして筆者がブログに書いた牡丹屋/下平敏の記録を読んで、懐かしさのあまりにコンタクトしてきたのが、筆者と道子さんの繋がりの始まりである。
「パリの日本食堂のルーツは長野県上伊那郡」参照。
田中路子
1930年代初頭、ウィーン国立音楽大学声楽科で声楽を学び、ベルリンに移ってドイツ人のシャンソン歌手で俳優・演出家ヴィクター・デ・コーヴァと2度の目の結婚をした田中路子は、夫と共にベルリンの自宅に留まった。彼女はドイツ国籍となっていたので、日本に引き揚げる一行とは別行動で、最後まで自宅はサロンとして、日独の名士、外交官らを招いていた。

田中路子とデ・コーヴァのベルリンの墓。最近は佇まいがだいぶ変わった様。
1953年12月29日、田中路子が19年ぶりに帰国した。翌年1月10日、第一生命ホールに出演した際に、9歳の道子さんが花束を贈呈した。

渡した時に時「私が貴方の名付け親よ」と、路子が耳元で囁いた。字は違うが読みは同じ「みちこ」である。
「第一生命ホール」は1953年、皇居のお堀端に面した第一生命館の6階に誕生したばかりであった。建物は戦後はマッカーサー元帥の連合国軍最高司令官総司令部本部なり、1952年に返還された。
その再建された建物は、前面を中心に当時の姿を残している。

異母妹の千足尚子によると実家のリビングには、田中路子の夫であるデ・コーヴァの素敵な写真が掛かっていた。彼女は父高保から、名付け親の話を聞いていたが、昨年末に惜しくも亡くなった。
福澤一家
さらにもうひと家族との親交を思いだした。
福澤一家である。父親は福澤進太郎で福澤諭吉の孫であった。戦時中は嘱託としてパリの日本大使館に勤務し、千足家と同じ経路で帰国した。その際にギリシャ人の妻アクリヴィを伴った。
息子はレーサーの福澤幸雄で1969年に走行テスト中の事故で無くなる。幸雄の悲報は、アメリカで父高保からの連絡で知った。娘はアーティストの福澤エミであった。道子さんがエミに最後に会ったのは高校生の時であった。
福澤の家には道子さんが4歳位の時、幸雄の誕生会に招かれた。幸緒の好物のチョコレートケーキが、苦手でどうしても食べられず、
「嫌いだと言うのは失礼だし、遠慮していると思っていすすめて下さるお母様(アクリヴィ)に何とお断りして良いか分からず、困って泣いてしまったのを覚えています」と語る。
Tさん一家
福澤一家と帰国後に最初に会ったのは、やはり引き揚げ時に一緒だった、T氏の家であった。帰国後数年ぶりの集まりであった。T氏はドイツの満州国公使館に嘱託として勤務した。夫人はドイツ人であった。
そのT氏一家とは、親戚同様の付き合いをしていた。子供が2人で、谷津の千足の家に何度も遊びに来た。
T氏夫人と子供2人と道子さんが写る写真がある。中央で夫人の腕の中にいるのが幼い道子さんである。
道子さんは夫人から「ミシライン」と呼ばれていた。ドイツ語の接尾語ライン(lein)は日本語の「ちゃん」の様な意味である。

こうして見てくると道子さん家族が、戦後も付き合った欧州滞在者の家族は皆、国際結婚をしていた。当時の日本では珍しい、外国人の夫人を持つ家族は彼ら特有の苦労も多く、支え合ったのであろう。
他
このような話もあった。道子さんらと一緒に浦賀に引き揚げたあるドイツ人を夫人とした一家(あえて名を伏す)であるが、港には日本人の奥さんが迎えに来ていた。その修羅場は想像できる。それを事前に予感していたのは夫だけであろう。
そしてご主人はそれからもドイツ人の夫人と生活していたが、日本人の奥様との籍は抜かなかった。帰国後消息が分からず、探していた高保は、ある時鶯谷に馬糞拾いをしている外人女性がいるという噂を聞き、見に行ったところ、そのドイツ人のおの奥様だったそうだ。
馬糞拾いは日本人の目からすると異様な光景だった。しかし西洋人は、馬糞は家庭菜園の良い肥料になると考えたようだ。それでも彼女の戦後の生活がとても困窮していたことは間違いない。
またスイスから夫に従い日本に引き揚げたスイス人の夫人は、日本に馴染めず直ぐに戻った。
アメリカへ
ベルリンに残ったリュダの家族の内、父の亡きあと、一家を支えていた兄は13歳で家族共々プラハを経て、ドイツに亡命したため、ドイツでは大戦中も兵役に服せずに済んだが、理不尽な事に、戦後進駐してきたソ連軍にソ連からの脱走兵の罪を期せられ、1946年にシベリアの収容所送りになり行方不明となった。
同じ年に道子さんの叔母達もソ連軍の知り合いより警告を受けたという。イラ叔母一家はアメリカ空軍将校と、キリスト教会の助けを得て1949年にアメリカに移住した。ガーリャ叔母一家も続いた。母と共に英国に移住していたナターシャ叔母は、ソ連によるヨーロッパ全土占領を恐れ、さらにカナダに移住した。
モスクワ時代、富裕層であった祖父サムイルはソ連官憲の監視下にあり、官憲が祖父を探して家に来ると子供達(リュダ他の兄弟姉妹)は皆ベッドの下に隠れたそうだ。その時の恐怖が、戦後になっても忘れられなかったのであろう。
道子さんは高校卒業後直ぐの1963年、アメリカに渡る。ベルリンから移住し南カリフォルニアに住む叔母(リュダの姉)の家に滞在した。
高保が先の日本への日程表を書いて道子さんに持たせたのは、叔母や祖母が日本帰国後間もなくのリュダの死因に納得をしておらず、当時の事を色々聞くだろうと思ったからであろうという。
叔母達は道子さんが永住すると思っていた様であったが、結局ビザが切れてから6ヶ月オーバーステイして帰国する。結局1年滞在した。
1965年、日本で開催された英国博覧会の通訳のアルバイトする。それが珍しかったようで、テレビの取材を受けた。
日本で通っていたYWCAビジネス・スクールの掲示板を見て応募した。先の高校を出て1年のアメリカ滞在で、英語はマスターしたのだ。
「英語はすぐに覚えました。3ヶ月で普通に話されても聴き取れるようになり、ジョークも解るようになり、滞在6ヶ月には不自由なく話せました。
叔母のスパルタ教育のおかげです。発音が悪いと治るまで繰り返させられました。高校のサマースクールで紹介された2人の日本人学生とは付き合っても良いが日本語で話してはいけないと言われました。つい日本語を使ってしまうと、叔母にはすぐ解ってしまい叱られました」
ただし叔母の影響でロシアのアクセントが少し付いた。
戻って2年後の1966年にアメリカに永住目的で向かった。
そして現在も南カリフォルニアに暮らしている。
道子さんはアメリカに来て強くなったと考えている。誰の助けもなく、1人で色々苦難を乗り越えてなくてはならなかったからだ。父(高保)の猛反対を押し切って来た以上、何があっても絶対に父に頼らないと覚悟して来た。ホームシックにもなった。帰りたくて泣いたこともあった。でもそれを乗り越えて今の道子さんがいる。
完
本編を書くに際し道子さんの回想の他、道子さんの出産時の状況を中心に、『臣下の大戦』足立邦夫を参考に致しました。
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