日本における鉄道網の発達の中、軽井沢までの鉄路はどう繋がったのであろうか?

 

1872年新橋(東京)から横浜まで日本最初の鉄道が開通した。

12年後の1884年に上野から高崎まで開通し、1885年10月15日に高崎駅 - 横川駅間が開通する。

一方長野方面からも鉄道は敷かれ1888年12月1日に上田駅 - 軽井沢駅間が延伸開業する。

こうして残るは横川と軽井沢の間のみとなる。そこには碓氷峠があり、交通の難所であった。

 

この残された区間には簡易のレールの上を馬車鉄道が走ったが、車輪は安易に脱線し、乗り心地もかなり悪かったという。

その後1893年4月1日、横川駅 - 軽井沢駅間が延伸開業して、軽井沢まで列車での旅が可能となった。

 

今回見つけた1890年の外国人向けの時刻表(The Japan Railway directory : with general apendixes)は、まだ馬車鉄道の残る時代のものである。

 

これによると上野発前橋行きは1日5本出ている。1番列車6時00分発は9時20分に高崎に着く。

高崎と横川間は1日4本で、上の列車に接続しているのであろう、9時25分発で横川10時30分着の列車がある。

高崎での乗り換えの時間は5分しかないが、高崎着の列車が遅れたら、横川行きは乗客を待ったはずだ。

 

ただし横川―軽井沢間の時刻表には不明点も多い。(下記参照)

Up Trainsは上りで、軽井沢から横川方面のはずであるが、軽井沢は下に表示されている。

右上の「TRAMWAY」は今日「路面電車」の意味で用いられるが、ここでは「馬車鉄道」の事である。馬車鉄道はお客の求めに応じて走ったのかと考えていたが、時刻表に沿って走っていたという事は軽い驚きだ。

 

それでもその通りに読むと、高崎方面からの乗り継ぎは下のDawn Trainsで横川発が16時30分である。

しかし横川からの方が上り坂が多いが所用時間が20分で、逆に軽井沢からが30分というのも疑問である。

 

(「The Japan Railway directory : with general apendixes  1890」 国会図書館デジタルコレクションより)

 

1888年9月から1893年4月にかけて活躍した碓氷馬車鉄道は、現在の国道18号上に敷設されていたが、輸送可能な量が少ない上に峠越えに2時間半もかかっていたという。 それを考えると上の時刻表は上りと下りの表記が逆で、また到着時刻が横にずれていると考えて間違いない。つまり以下が正しい時刻のはずである。

 

1日2往復で下りを書く。

横川発   8時    軽井沢着  10時30分(所要時間2時間30分)

同     11時   同     13時30分(所要時間2時間30分)

 

上野を朝6時に発った乗客は横川発11時の馬車鉄道で、13時30分に軽井沢に着いた。7時間半の旅であった。

カナダ人の聖公会宣教師アレクサンダー・クロフト・ショーが最初に軽井沢を訪問したのは1885年夏であった。この時は鉄道は高崎までしか通じていない。

 

復元された2代目軽井沢駅

 

以上

 

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『又々 心の糧(戦時下の軽井沢)』はこちら

今年も本の出版にこぎつけました。

 

著者通算10冊目で、『心の糧(戦時下の軽井沢)』シリーズの第5弾。
本編では関係者の話を元に書き上げた「萬屋旅館から佐藤靴店」、「脇本陣の伝統を引き継ぐ江戸屋」など旧軽井沢の歴史と、軽井沢駅前食堂「まるほん」を中心とた新軽井沢の発展の歴史を、対比しつつ書き上げている。

「まるほん」はルーツである小諸の本陣にまで遡って徹底的に調査をし、自身をまるで「追っかけ」と称する。


また史料に基づき「チェコ公使館はどこだ?」として、堀辰雄の小説『美しい村』で語られる当時の「チェッコスロヴァキア公使館」の別荘の場所の特定を行った。新しい史実の発見である。


さらには筆者が半世紀近く前に撮影したベルリンの写真などカラー14ページ含んでいる。こうしてこれまでの4冊に勝るとも劣らない充実した内容となっている。(アマゾン解説より)

 

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第一次世界大戦中、敵国人となったドイツ人が30人、軽井沢で夏を過ごしたことは第一次世界大戦下 ドイツ人捕虜の妻が過ごした軽井沢で紹介した。

 

それに続く話を軽井沢を愛した作家、堀辰雄の『狐の手套(てぶくろ)』(1936年刊)に見つけた。一部現代語に直して紹介し、コメントを加える。

 

「一つの丈の高い、小さな森が、K(軽井沢-筆者)村からずっと北方に、それだけがなんだか原始林のまんま取り残されたように、立っています。

 

町の中心から2キロメートルくらいも離れていましょうか。小さいになりに、昼間でもうすぐらいほど、樅などのこんもりと茂った森です。西洋人たちはこの村から見える丘の上の奇妙な形をした岩などまで大概『風琴岩(オルガンロック)』とか『巨人の椅子(ジャイアントチェア)』とかいう綽名をつけていますが、この森にもやはりドイツ語の綽名がつけられています。「匈奴の森(フンネンヴェルトヘン)」というのです」

 

→場所は町(旧軽井沢)から北へ三笠ホテルの方へ向かう途中を指す。

オルガンロックは愛宕山に向かう途中にある剝きだした岩で、今もこの名前は残る。ジャイアントチェアは記述が少ないが、軽井沢駅南側の軽井沢プリンスホテルゴルフコースの東側にある矢ヶ崎山の山頂近くにある岩」。(東京紅団より)

「匈奴の森」のドイツ語「フンネンヴェルトヘン(Hunnenwäldchen)」という、今日普通のドイツ人も一瞬首をかしげるようなドイツ語の単語は、堀はドイツ人から聞き取ったのであろうか。

 

「匈奴の森」は水戸徳川家13代当主徳川圀順の軽井沢別荘(2425番)よりさらに奥の場所である。

 

「ここには古くから十数戸も別荘があって、(しかし中にはもう壊れたまま打ち棄てられているのもありますが)、ドイツ人ばかりが住んでいます。

夕方など、この森の中から、どうかするとフルートの音のようなものが漏れてくるそうです」

→堀は『美しい村』ではチェコ公使館からピアノの音が聞こえてきたと書くが、ドイツ人はフルートである。

当時のドイツ人は森の中では歌を歌ったりした。それを聞いたイギリスの婦人が「あそこには匈奴が住んでいる」と言ったのが、「匈奴の森」の語源のようだ。


「なんでも欧州大戰中ずっと、ドイツ人ばかりでこの森に集つて、他の部落とは全く沒交渉に暮らしていたそうですが、その時他の外人たちがこの森にそんな綽名をつけたのだと云ふことです。それなり(それ以来?)ずっとこの森がドイツ人の部落みたいになつてしまったようでして、そのせいか、私が散歩がてらその森の中にはひつて行くと、いつも熊笹の中から、嗄れた叫び声をあげながら、跣足で飛び出してくる小さな子供たちの感じも、なんとなく野蛮です。

(中略)
 この森を私はたいへん愛しています。欧州大戰当時、この森の中に閉じこもって数年の間不安に暮らしていたドイツ人たちのことは、ちよつと小説に書けそうな気もします。(中略)」

→第一次世界大戦中(1914年から918年)は、日本の他、英仏米(米は途中から参戦)とも交戦状態にあったドイツ人30名は、軽井沢の奥の方でひっそりと暮らした。

1920年代半ばころ再び軽井沢に姿を現したドイツ人は、全国の大学で教鞭をとる教授を中心に旧軽井沢のハウスナンバーは2400番台あたりの半田善四郎の貸別荘で過ごしている。この辺りがかつての「匈奴の森」である。

 

堀辰雄がこの話を書いたのは、第一次世界大戦が終了して20年くらい経ってからである。

「匈奴の森」の言い伝えはまだ人々の記憶に残っていたようだ。

堀は彼らの事を小説に書きたいといい、軽井沢でひっそりと暮らすドイツ人の話を聞いて同情、好意を抱いているのがわかる。

 

以上

 

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第一次世界大戦は1914年7月28日に欧州で勃発し、日本は8月23日にドイツに宣戦布告した。

 

日本軍とイギリス軍は遼東半島の青島のドイツ軍の要塞を攻撃し、約4700名のドイツ軍およびオーストリア=ハンガリー帝国軍の将兵および民間人は捕虜として日本に連れて来られて、12か所に開設された俘虜収容所に収容されたのであった。

 

収容所のひとつ習志野収容所の、ドイツ俘虜 オーケストラの碑

 

これに関連し、当時の新聞に興味深い記事を見つけた。一部現代語に直して紹介し、筆者の考察を加える。

 

最初は東京朝日新聞 1917年7月17日 「青鉛筆」の欄である。

「信州軽井沢の避暑客中には現在30名のドイツ人およびオーストリア・ハンガリー人がいる中に、ドイツ人俘虜将校の妻3人もいる。デンマークの女ブランニヤガード(24)というのはすこぶる美人だが、これは目下福岡収容所にあるドイツ将校ベッセン・タノラ(35)と許嫁の間柄。

 

アンネ・リゼー・グラホー(25)。之も外人中に美人の評(いわれ)あり。その夫は同じく福岡収容所にいる。

 

残る1名のフォン・ボルゲル(30)というのは、3歳の児オットカールの他に中尾ふみ子という侍女を連れて、三笠ホテルにいるが、昨年のキャンベル氏事件に恐れたものか、所持金5千円を軽井沢到着早々ホテルの主人に託して、1円たりも身に付けていない」

 

記事の載った「青鉛筆」は1916年3月29日に東京朝日新聞(現朝日新聞東京本社版)で連載開始。時事のネタを取り上げ、その評論やコメントを行う欄で今日まで続いている。その青鉛筆が始まって1年ほど経っての記事である。

 

「青鉛筆」という(辛口の)コラムであることを考えると、記者は敵国の捕虜の夫人が高級別荘地軽井沢で、優雅に暮らしていると批判したかったのであろう。

 

日本はドイツと戦争状態に入っても、滞在するドイツ人に対し、就業は禁止したが滞在は認めた。戦後もドイツ人の知識は必要になるであろうという考えからであったが、貯えだけで暮らすというのは厳しい条件であった。

 

そしてこうして滞在を許された30人のドイツ人が、敵国の軽井沢で夏を過ごした。そしてそこには青島で捕虜となったドイツ人将校の夫人がいたのも興味深い。将校は本国から遠く離れた青島で赴任するに際し、妻を帯同することを許されたのであろうか?もしくは現地での婚姻か?なお当時は専ら「俘虜」という言葉が用いられたが、「捕虜」と同義である。

 

残された捕虜収容所の写真には男性しか写っていない。しかし実際は女性も来たが、収容所には収容されることはなかったのだ。

朝日新聞がそうした若き夫人の容姿をしきりに褒めているのは隔世の感がある。同紙は今では反ルッキズムの旗手である。

 

「キャンベル氏事件」とはちょうど1年前の1916年7月16日に、旧軽井沢563番地滞在のウイリアム・キャンベル氏とその妻が、就寝中に強盗に押し入られ殺害された事件の事である。563番は神宮寺の裏辺りである。

 

フォン・ボルゲル夫人は、日本人の侍女を連れ、最高レベルの三笠ホテルに宿泊している。5千円相当の資金は青島から持参して、日本でも没収されなかったのであろうか。

 

旧三笠ホテル。2015年撮影(耐震補強などで改装される前の姿)

 

次は先の記事の1日前の7月18日付けの国民新聞(現在の東京新聞の前身のひとつ)からである。

 

「高原の夏 憲政村と成金村

軽井沢に来てからもはや1週間になる。……汽車が停車上に着く毎に、多くの避暑客が吐き出された。しかしその8分通りは外人の群れであった。大きな鞄や荷物と一緒に彼らは山の貸別荘やホテル(三笠、万平、軽井沢の各ホテル)に運ばれて行った。

『今年はもう避暑客が1400名から入りました。外人はその半数を占めています。その中にはドイツ人も30名ばかりおりますので、高等視察係の方もなかなか忙しいです』。

巡回に来た巡査の一人はこう言って報告していった」

 

ここでもドイツ人が30名軽井沢に滞在していることが述べられており、これがドイツ人の数と考えて間違いないであろう。記事から外国人避暑客が700名と推測すると、30名はほんの一握りだ。しかしながら敵国人ゆえに、日本の警察は目を光らせていたことが分かる。

 

第一次世界大戦下の日本のドイツ人の実態の一端を知ることが出来た。

 

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師走に入りホテルニューグランドを訪問。といっても撮影のためで宿泊のためではありません。

私が一番好きなのはこの角度から。丸みを帯びたコーナーには開業年の1927年を表す「AD1927」を刻んだ石造のメダイヨンが据えられている。

 

その上の3階の角部屋は、終戦直後に厚木飛行場に降り立ったマッカーサー元帥が直行し、最初に宿泊した部屋。

今も彼が使用したライティングディスクと椅子が残されている。

 

ホテル前の銀杏並木には少なくなったが、紅葉した葉がまだ残っている。

 

クラシカルホテルゆえか、華美なクリスマスデコレーションなどはロビーにはない。

由緒ある階段はいつものまま。

 

中庭に出ると、わずかにクリスマスらしい飾りが。ただし夜はイルミネーションがきれいな様だ。

私にとってホテル ニューグランドは泊まるとこではなく、心を安らげる場所。

 

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夏に訪問した長野県の小諸駅。

この時は小諸の元本陣などを訪れて「小諸の古い町並み礼賛!」という文章を書いた。こちら

 

駅前を見回しても、全国的に展開しているコーヒーチェーン、レストランなどが見えないのが嬉しかった。

しかし小諸駅といえば小淵沢とを結ぶ小海線の起点でもある。

かつてSL小僧として撮り歩いた路線だ。古い写真を引っ張り出してみた。1970年ころである。

 

新宿から夜行列車に乗り小淵沢駅で降りて、同駅を出た小海線がカーブを描いて八ヶ岳方面に向かう築堤まで歩く。

まだ夜明け前で待つことしばし。そして薄明かりの中を一番の混合列車が登ってくる。背景は甲斐駒ヶ岳。

 

昼下がり、同じ築堤を貨物列車が下りてくる。こちらは下りだから煙はほとんどはかない。

このC56 144番は現在、小諸城址懐古園に保存されている。

戦時中、軽井沢に疎開していた人が旅行許可が取れずに、小海線を経由してこっそり戻った話がある。

 

野辺山~清里間の国鉄最高地点近く。有名な大門沢橋梁を渡るシーンだが、当時はSLブームでかなり撮影者がいた。

使用したカメラは6X6判。写真は今のインスタと同じ正方形だった。先見性があった!?

 

野辺山駅。また中学の若造ながら、機関車のみではなくこのように詩的な写真を撮ろうとした。

 

同じく野辺山駅。主役の機関車は左奥にいる。

カメラマン中村精也さんよりかなり前から、私は「ゆる鉄」だった😄

 

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1960年代に急速に姿を消した蒸気機関車(SL)だが、東京近郊では貨物専用線であった高島線には最後までSLが残った。

1970年10月、残っていた区間も電化されSLの運行が中止になる時、10,11,18日と東京 - 横浜港間でD51 791牽引の「さよなら蒸気機関車号」が運転された。

 

試験前の大事な週末であったが、両親に説明して東京駅に撮影に行った。

そうしたらとんでもない人込み。SLが動き出しても半分ほどしか見えない。多くのファンがカメラを高く掲げ撮影しようとする。

でもそうするとアングルもピンとも運任せになってしまうから、とにかくファインダーを覗いて撮影した。

 

この時のとっさの判断は今でも正解であったと思っている。

 

でもしっかりSLの姿を撮れなかった後悔から、翌日も撮影に出かけた。よく親も許してくれたものだ。

人込みに懲りて有楽町の東京交通会館の屋上から、東京駅を出発する姿を狙った。あわよくば新幹線と並走する姿を撮れるかとも思った。

 

しかしあいにくこの日は雨模様。当時のカメラではその姿を鮮明には収められなかった。

よく見ると左の東京駅丸の内駅舎は復原工事の前の建物で、その手前の東京中央郵便局もJPタワーになる前だ。

 

次は記憶が間違っていなければ、1980年のC58 1牽引の横浜開港120周年・横浜商工会議所創立100周年列車。

横浜駅西口のジョイナスの屋上から自分の持つ135ミリの望遠レンズで撮った。

今では東口に沢山のビルが建ち、こうは撮れないであろう。

 

自分の古い記憶を蘇らせてくれた写真の紹介でした。一緒にノスタルジーを感じていただけると幸いです。

 

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銀座7丁目の電通銀座ビル。

1933年の竣工で、8階建ては当時銀座随一の高さであった。

 

1936年に電通の報道部門を引き継いで当時日本最大の通信社となった「同盟通信」のオフィスが入った。事実上の国策通信社であった。

ビルの最上階8階はロイター、AP、UPなど有力な国際通信社をはじめ、各国の特派員が支局を構える専用フロアであった。

 

そしてヴァイス博士が支局長のDNB(ドイツニュース)も入っていた。

ソ連のスパイであったリヒャルト・ゾルゲは、ドイツの主要紙「フランクフルター・ツァイトゥング」東京特派員の記者証を持っていた。(正式な特派員ではなかったという)

彼は情報収集のために、このDNBの支局に顔を出すのを日課としていた。

 

1939年9月、ポーランドへ侵攻したドイツに対して英仏両国が宣戦布告した翌日、フランスの通信社アヴァス(AFPの前身)の特派員ロベール・ギランはこの8階でゾルゲと鉢合わせした。彼はその時のエピソードを自著『ゾルゲの時代』に記している。

 

そんなビルが今も銀座にあることに、現代史研究者(ファン)として胸が揺さぶられる。

 

正面玄関上部には当時の社章の五芒星、その左に吉祥天、右に広目天のレリーフが飾られている。

 

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横浜中華街にある関帝廟には多くの人々から尊敬される武将、関聖帝君が祀られていて、現在の建物は4代目で1990年に開廟式を迎えた。

カラフルでエキゾチックな建物には思わず足を止めてしまう。

 

今回訪れたのは、ブログの友達が初代関帝廟と見られる遺構が発見され、2024年からその一部が常設展示されていると書いていたからである。ありがとうございます。

 

建物横の中山路沿いにある。

シートの上の破片のみではなく、左側の石柱、床の石なども出土品である。

 

そんな時にふと横を見ると、寄付者の名簿の中に「ウィンドジャマー」の名前を見つけた。

 

ウィンドジャマー善隣門の前に1972年にオープンしたジャズのライブハウスである。

アメリカの軍人ジミー・ストックウェルさんがベトナムから戻って、軍を去りお店を開いた。

バブル時代はなかなか入れなかった。

ハマのミュージシャンにも愛され、元ゴールデンカップスのエディ蕃さんも訪問していた。

 

店内はまさに帆船の内部のようであった。

惜しくもほぼ1年前の2024年11月に閉店した。

 

訪問時の写真。

結構いろいろなところで顔が出ているので、いまさら隠す必要もないとは思うが、、、(笑)

 

なお関帝廟の近くには横浜媽祖廟(まそびょう)もある。

の守り神・媽祖を祭る廟であり、明治時代の清国領事館の跡地である山下町公園に隣接している。清国領事館という言葉にも歴史を感じる。

他にも「横浜華僑基督教会」や「横浜中華学院」があったり、中華街という「街」レベルを超えた「小世界」だ。

関帝廟通りあたり、現在占いのお店ばかりのようなのは気になるが、、、

 

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森鴎外の『舞姫』はドイツへ留学した主人公が、ドイツ人の貧しい踊り子と恋仲になる小説だ。

 

しかし実生活においても鴎外が留学から1888年9月8日に戻って4日後の9月12日、ドイツ女性エリーゼ・ヴィーゲルトが来日する。そして親族らが説得して、彼女は10月17日にエリーゼは横浜港から帰国する。

4日後に到着というのは、当時の旅行事情などを考慮すると、鴎外のドイツ出国前から周到な準備をしていたことを窺わせるが、それは今回のテーマではない。

 

筆者が注目したのは「現代語訳 舞姫」(井上靖訳)の解説に、鴎外の親族でSF作家の星新一の書いている一文である。

「それにしても(祖父小金井)良精の説得は見事である。(中略)

良精自身、留学中に短期間だがある女性と関係があり、その結末を自分でつけている。また後輩たちに相談を持ち込まれ、その女性問題の解決に口をきいたことが何回もあったようだ」

 

明治初期から留学生、ないしは駐在員が現地の女性と親しくなり、帰国の際に縁を切るという例は少なくなかったようである。

第二次世界大戦の敗戦で日本人がドイツから引き揚げる際に、現地に女性と子供を残したままの会社員もいた。ある例だが、残した子供が成人し、戦後に再び進出した駐在員の事務所に姿を現したことがある。

 

ここではエリーゼ同様に日本にやってきたドイツ女性の話を紹介する。

 

フリーダ・ヴァイス婦人

1980年12月28日付けの読売新聞に彼女である。

 

「50年目、笑顔の新春。老ドイツ婦人軽井沢『愛の日々』」の見出しで、次のような内容だ。

フリーダ・ヴァイスさんは留学して来る日本人にドイツ語を教える仕事をするうちに、若き医師と激しい恋に落ちる。彼が日本に帰るとき「日本においで。結婚しよう」と言ってくれた言葉を信じ横浜に着いたら、なぜか迎えに来ているはずの彼の姿はなかった。

代わりに友人が、

「彼はドイツに行く前に結婚していて、子供もいる。家を別に用意するから、そちらで暮らしてほしい」。そうして異国で、一人で生きる道を選ぶ。まさに舞姫のような話ではないか。

 

ヴァイスさんは第二次世界大戦が激化してからは「ナチ嫌い」を公言してはばからなかった。そのためドイツ大使館からはパスポートを取り上げられるなどの様々な迫害を受けた。無国籍となったのである。

そうして正宗白鳥、室生犀星、堀辰雄らの文人、田中耕太郎元最高裁長官らと知り合った。ヴァイスさんは軽井沢に疎開し、戦後も軽井沢に残った。終戦直後はGHQの救済委員から食料等の支援を受けた。

 

西村クワは書いている「何年も日本にいるにしては日本語が下手で、(西村)ソノがヨーロッパから帰りたてでドイツ語が出来ると分かると、ソノにつきまとってドイツ語で立て続けにしゃべりまくった」

 

彼女は軽井沢の外国人墓地に眠っている。墓石には1902年にヴュルツブルクで生まれ、1994年に軽井沢で死亡すると刻まれている。

 

軽井沢の外国人墓地

 

ケーテ・ランゲ婦人

 

次はGHQに残る記録からだ。

ケーテが日本にやって来たのは1920年6月の事であった。彼女は47年2月の強制帰国まで、短い2度の一時帰国を除けば、ずっと日本に暮らした。

 

その間に彼女は余生を日本で過ごすことに決めた。そして長年貯めたお金で、軽井沢に2軒の家具付きの家と土地を購入した。ペンションとして貸し出すつもりであった。しかし彼女は好ましくないドイツ人として戦後送還された。

1920年代に女性一人で日本にやってきた彼女も、舞姫のパターンではなかったかと筆者は考えているが。

 

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