昨日、京浜急行の屛風浦に風見鶏の写真を取りに出かけた際、途中で見つけたお宅は素敵な和洋館。

右と後ろは増築された様だが、正面の洋館と和風の玄関は、和洋館の流行った昭和初期の建築と思われる。

 

全景。光の当たる部分と日陰の部分があり、撮影を難しくした。

 

ネットでいろいろ検索してもヒットしない。

代わりに和洋館でヒットしたのは近くの「根岸なつかし公園 旧柳下(やぎした)邸」。横浜市指定有形文化財でこちらは有名。

 

屛風浦はなかなか古いお宅の多い街という印象であった。

下のお宅はリノベーションしたようだが、奥には蔵がある。

 

この日のメインは風見鶏。別のアカウント「孤独のパスタ」の中で「日本一の風見鶏サイト」として紹介している。こちら

 

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2026年 新年おめでとうございます。

本年もよろしくお願いします。

 

今からちょうど90年前、1936年の元旦にベルリンの日本大使館で撮影した写真を紹介し、そこから分かることなどを読み解いていく。

 

この写真でまず興味深いのは、以下の文字が写し込まれていることだ。

 

背景の建物に「祝四方拝」の文字(元旦の儀式のこと)

また左下に「於伯林(ベルリン)」、右に「昭和11年(1936年)元旦」の文字が読める。

このようにして写真の記録的価値を高めている。

 

写真を焼く時に、文字の部分をマスキングして光を遮り、白い文字がとなって表れている。

当時すでにこのような技術が用いられていた。そこから読めるのは次の文字だ。

 

技術のしっかりした写真屋が撮ったのであろう。90年を経た今日でも写っている人物の顔が、しっかり識別できる。大事な年中行事ゆえに外交官、軍人、企業の駐在員はほぼ全員写っていると思われる。

中央は大礼服を着けた井上 康二郎臨時代理大使。その右が大島 浩陸軍武官(後に駐独大使)、その右が横井 忠雄海軍武官である。

井上は武者小路公共大使の在任期間の内、9か月ほど代理大使を務めている。おそらく武者小路が休暇で一時帰国したためであろう。


子供は前面に立つが、着ているおそろいの服装から、誰と誰が姉妹かがわかる。当時は受験の関係で、小学校高学年になると男子は日本に戻った。よって女子が圧倒的に多い。

 

中央、黒いワンピースの3人の子供たちが井上代理大使の娘で、最前列がピアニストの井上二葉さんとのこと。1930年の生まれで今も現役。

 

2026年1月1日、つまり90年後の元旦で昨日、「第67回毎日芸術賞受賞者」が発表されて、その一人に二葉さんが選ばれたのだ。

授賞理由は「ガブリエル・フォーレ歿後百年記念コンサート」「エラールピアノ演奏会」などであった。

彼女の写る90年前の写真、なんというタイミングだ。

 

前から2列目で白いワンピースで眼鏡をかけ、後ろの軍人が肩に手をかけているのが加藤綾子さん。お父さんは大倉商事の駐在員であった。彼女は戦前の写真を見せて、これはXXちゃん、こっちは〇〇ちゃんと教えてくれた。そうして二葉さんも筆者に示してくださった。

 

加藤綾子さんには何度か話を伺い、写真の提供を受け、『日本郵船 欧州航路を利用した邦人の記録 他三篇』という書籍の中で紹介した。こちら

その加藤さんは惜しくも2021年に亡くなった。

 

 

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本編に関連する「日本郵船 欧州航路を利用した邦人の記録 他三編」はこちら

 

 

 

 

 

 

教育家で、他にもいくつかの肩書を持つ西村伊作は1920年、軽井沢の星野温泉を見下せる丘の上の別荘に与謝野寛、晶子たちと1週間ほど滞在していた。そこで出た話が元になって、1921年に東京駿河台に文化学院が創設された。

 

 

文化学院は2018年に閉校となるが、学校の門は今も保存され残っている。

 

その後も旧軽井沢に多くのコッテージからなる別荘を建て、西村家と軽井沢の縁は深かった。

 

一方長野県においては1914、5年ごろから、軽井沢と木崎湖で夏期

大学が開かれて、全国の先駆けをなった。(『信濃教育』1937年604号)

有名な所では1918年に「学俗接近」を唱えた新渡戸稲造と後藤新平により創設され、今も続く「軽井沢夏期大学」がある。

 

文化学院も1937年夏、「文化学院夏の講座」が軽井沢で開かれた。伊作の長女石田アヤ夫婦と文化学院美術科2年生だった西村ソノの3人でやろうとなった。

「講師や会場の交渉から、印刷物、ポスター、飲み物を寄付してもらうことまであれこれと走り回って、結構楽しかった」とはアヤの回想である。

その際、ソノが文化学院の校庭を描いた絵を元に、プログラムが作成されたと書籍に書かれていると筆者は読んで知っていた。

 

最近筆者は何と、このプログラムのオリジナルを目にすることが出来た。その興味深い内容を説明する。

構成はA5サイズの見開きで表紙と裏表紙は赤と黒の2色印刷である。カラーは高いので2色に留めたという話である。

 

表紙:

上部「文化学院 夏の講座」   

中央 文化学院の校舎をバックに、生徒が遊んでいる校庭のスケッチ。

下部 軽井沢 集会堂にて

8月10日(火)17日(火)24日(火)

夜7時半 

会員券 ¥1.00(三同)3日とも同じの意味か?

 

裏表紙:

銀座鐘紡の1面広告 1887年創業の鐘紡は、一年前の1936年「絹石鹸」を発売し、化粧品分野に進出する。

軽井沢と思われるところで自転車にまたがる女性のイラストがあり、SONO(西村ソノ)のサインが入っている。

「軽井沢では   

万平マーケット、ブレッツファーマシー、大城レース店

に店を出しております」とその化粧品の取扱店を書いている。

 

内側には

「軽井沢の『夏の講座』は文化学院主催で、今年から始められます。

夏といえども知識と趣味との栄養をとらなければ、精神の健康によろしくありません。

(後略)

文化学院学長 西村伊作」

との半ページに渡る開校に際しての文章がある。

 

そして講座の内容として

「8月10日 石井伯亭 美術 初夏として、また美術教育家としての現代の巨匠

       他2名(名前省略 以下同)

8月17日  3名

8月24日  川端康成 文学 創作家としてのお話、或いは小説の読み方、又は文学について  

       他2名」

冒頭の石井伯亭、川端康成他の文化学院の講師が名前を連ねた。

 

夏期大学といっても基本はどこも講演会であったようだ。伊作は

「演説を聞かせるだけの講座でなく、この夏の講座は、紅茶なんかが出て、皆が打ちとけて、質問したり、各自の考えを言ったり、談話会の気持ちの会になることと思います」

とも書いている。おそらくその通りになったのであろう。

 

そして場所は今も残るヴォーリズが設計した集会堂であった。

今はない旧軽井沢の軽井沢会館も、ヒトラーユーゲントの来日記念講演会などで利用されたが、集会堂の方が格は上であったといえる。

 

集会堂

 

そして川端康成の講演の記録が残っている。

「信濃の話

私の演題は『文学』という事になっておりますけれども、文学はいまではもういわば私の体の様になっているものでありまして、仮にそういう所に立って、避暑にいらしている皆さんの前で、裸になってご覧にいれるのも、どうかと思われます」

 (『川端康成選集 第6巻』より)

と始まり、専門的な文学の話をそのまま話をするのも、避暑地にはふさわしくないであろうと断っ。。

講演の内容は”得意な?”ドイツ人との遭遇の話なども入れて、全集で20ページを占めている。川端はそれほど周到に原稿を用意したのか?それともこのくらいは速記者が書き取ったのか?

 

ほとんど数行のみ情報が残り、幻のようだった文化学院の夏期講座がこうして蘇った。

この興味深いパンフレットは、皆さんの目にも触れる機会のあることを願っている。

 

そして時局の悪化のためであろう、翌年からは夏の講座は開かれなかったようだ。また西村ソノは1939年にプラハに留学に出る。

 

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都市化が進み急行も停まるあざみ野駅の近くに、今も残る竹林に囲まれた茅葺屋根の家。
いつも鬱蒼とした竹林に囲まれているが、冬場のせいか家屋が垣間見えた。

 

竹林は左手にだいぶ広がる。

 

実は下の写真がオリジナルで電柱、電線、信号といろいろ邪魔の多い写真なのだが、今流行りの生成AIにこれらを取り除いてもらったのが上の写真。

節度を持ってこういう使い方をするのは、正しい生成AIの利用法かと思う。

そして加工した写真であることを明記する。

 

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日本における鉄道網の発達の中、軽井沢までの鉄路はどう繋がったのであろうか?

 

1872年新橋(東京)から横浜まで日本最初の鉄道が開通した。

12年後の1884年に上野から高崎まで開通し、1885年10月15日に高崎駅 - 横川駅間が開通する。

一方長野方面からも鉄道は敷かれ1888年12月1日に上田駅 - 軽井沢駅間が延伸開業する。

こうして残るは横川と軽井沢の間のみとなる。そこには碓氷峠があり、交通の難所であった。

 

この残された区間には簡易のレールの上を馬車鉄道が走ったが、車輪は安易に脱線し、乗り心地もかなり悪かったという。

その後1893年4月1日、横川駅 - 軽井沢駅間が延伸開業して、軽井沢まで列車での旅が可能となった。

 

今回見つけた1890年の外国人向けの時刻表(The Japan Railway directory : with general apendixes)は、まだ馬車鉄道の残る時代のものである。

 

これによると上野発前橋行きは1日5本出ている。1番列車6時00分発は9時20分に高崎に着く。

高崎と横川間は1日4本で、上の列車に接続しているのであろう、9時25分発で横川10時30分着の列車がある。

高崎での乗り換えの時間は5分しかないが、高崎着の列車が遅れたら、横川行きは乗客を待ったはずだ。

 

ただし横川―軽井沢間の時刻表には不明点も多い。(下記参照)

Up Trainsは上りで、軽井沢から横川方面のはずであるが、軽井沢は下に表示されている。

右上の「TRAMWAY」は今日「路面電車」の意味で用いられるが、ここでは「馬車鉄道」の事である。馬車鉄道はお客の求めに応じて走ったのかと考えていたが、時刻表に沿って走っていたという事は軽い驚きだ。

 

それでもその通りに読むと、高崎方面からの乗り継ぎは下のDawn Trainsで横川発が16時30分である。

しかし横川からの方が上り坂が多いが所用時間が20分で、逆に軽井沢からが30分というのも疑問である。

 

(「The Japan Railway directory : with general apendixes  1890」 国会図書館デジタルコレクションより)

 

1888年9月から1893年4月にかけて活躍した碓氷馬車鉄道は、現在の国道18号上に敷設されていたが、輸送可能な量が少ない上に峠越えに2時間半もかかっていたという。 それを考えると上の時刻表は上りと下りの表記が逆で、また到着時刻が横にずれていると考えて間違いない。つまり以下が正しい時刻のはずである。

 

1日2往復で下りを書く。

横川発   8時    軽井沢着  10時30分(所要時間2時間30分)

同     11時   同     13時30分(所要時間2時間30分)

 

上野を朝6時に発った乗客は横川発11時の馬車鉄道で、13時30分に軽井沢に着いた。7時間半の旅であった。

カナダ人の聖公会宣教師アレクサンダー・クロフト・ショーが最初に軽井沢を訪問したのは1885年夏であった。この時は鉄道は高崎までしか通じていない。

 

復元された2代目軽井沢駅

 

以上

 

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『又々 心の糧(戦時下の軽井沢)』はこちら

今年も本の出版にこぎつけました。

 

著者通算10冊目で、『心の糧(戦時下の軽井沢)』シリーズの第5弾。
本編では関係者の話を元に書き上げた「萬屋旅館から佐藤靴店」、「脇本陣の伝統を引き継ぐ江戸屋」など旧軽井沢の歴史と、軽井沢駅前食堂「まるほん」を中心とた新軽井沢の発展の歴史を、対比しつつ書き上げている。

「まるほん」はルーツである小諸の本陣にまで遡って徹底的に調査をし、自身をまるで「追っかけ」と称する。


また史料に基づき「チェコ公使館はどこだ?」として、堀辰雄の小説『美しい村』で語られる当時の「チェッコスロヴァキア公使館」の別荘の場所の特定を行った。新しい史実の発見である。


さらには筆者が半世紀近く前に撮影したベルリンの写真などカラー14ページ含んでいる。こうしてこれまでの4冊に勝るとも劣らない充実した内容となっている。(アマゾン解説より)

 

ぜひお読みください。アマゾンサイトはこちら

 

 

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第一次世界大戦中、敵国人となったドイツ人が30人、軽井沢で夏を過ごしたことは第一次世界大戦下 ドイツ人捕虜の妻が過ごした軽井沢で紹介した。

 

それに続く話を軽井沢を愛した作家、堀辰雄の『狐の手套(てぶくろ)』(1936年刊)に見つけた。一部現代語に直して紹介し、コメントを加える。

 

「一つの丈の高い、小さな森が、K(軽井沢-筆者)村からずっと北方に、それだけがなんだか原始林のまんま取り残されたように、立っています。

 

町の中心から2キロメートルくらいも離れていましょうか。小さいになりに、昼間でもうすぐらいほど、樅などのこんもりと茂った森です。西洋人たちはこの村から見える丘の上の奇妙な形をした岩などまで大概『風琴岩(オルガンロック)』とか『巨人の椅子(ジャイアントチェア)』とかいう綽名をつけていますが、この森にもやはりドイツ語の綽名がつけられています。「匈奴の森(フンネンヴェルトヘン)」というのです」

 

→場所は町(旧軽井沢)から北へ三笠ホテルの方へ向かう途中を指す。

オルガンロックは愛宕山に向かう途中にある剝きだした岩で、今もこの名前は残る。ジャイアントチェアは記述が少ないが、軽井沢駅南側の軽井沢プリンスホテルゴルフコースの東側にある矢ヶ崎山の山頂近くにある岩」。(東京紅団より)

「匈奴の森」のドイツ語「フンネンヴェルトヘン(Hunnenwäldchen)」という、今日普通のドイツ人も一瞬首をかしげるようなドイツ語の単語は、堀はドイツ人から聞き取ったのであろうか。

 

「匈奴の森」は水戸徳川家13代当主徳川圀順の軽井沢別荘(2425番)よりさらに奥の場所である。

 

「ここには古くから十数戸も別荘があって、(しかし中にはもう壊れたまま打ち棄てられているのもありますが)、ドイツ人ばかりが住んでいます。

夕方など、この森の中から、どうかするとフルートの音のようなものが漏れてくるそうです」

→堀は『美しい村』ではチェコ公使館からピアノの音が聞こえてきたと書くが、ドイツ人はフルートである。

当時のドイツ人は森の中では歌を歌ったりした。それを聞いたイギリスの婦人が「あそこには匈奴が住んでいる」と言ったのが、「匈奴の森」の語源のようだ。


「なんでも欧州大戰中ずっと、ドイツ人ばかりでこの森に集つて、他の部落とは全く沒交渉に暮らしていたそうですが、その時他の外人たちがこの森にそんな綽名をつけたのだと云ふことです。それなり(それ以来?)ずっとこの森がドイツ人の部落みたいになつてしまったようでして、そのせいか、私が散歩がてらその森の中にはひつて行くと、いつも熊笹の中から、嗄れた叫び声をあげながら、跣足で飛び出してくる小さな子供たちの感じも、なんとなく野蛮です。

(中略)
 この森を私はたいへん愛しています。欧州大戰当時、この森の中に閉じこもって数年の間不安に暮らしていたドイツ人たちのことは、ちよつと小説に書けそうな気もします。(中略)」

→第一次世界大戦中(1914年から918年)は、日本の他、英仏米(米は途中から参戦)とも交戦状態にあったドイツ人30名は、軽井沢の奥の方でひっそりと暮らした。

1920年代半ばころ再び軽井沢に姿を現したドイツ人は、全国の大学で教鞭をとる教授を中心に旧軽井沢のハウスナンバーは2400番台あたりの半田善四郎の貸別荘で過ごしている。この辺りがかつての「匈奴の森」である。

 

堀辰雄がこの話を書いたのは、第一次世界大戦が終了して20年くらい経ってからである。

「匈奴の森」の言い伝えはまだ人々の記憶に残っていたようだ。

堀は彼らの事を小説に書きたいといい、軽井沢でひっそりと暮らすドイツ人の話を聞いて同情、好意を抱いているのがわかる。

 

以上

 

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『続続 心の糧(戦時下の軽井沢)』はこちら

 

 


 

第一次世界大戦は1914年7月28日に欧州で勃発し、日本は8月23日にドイツに宣戦布告した。

 

日本軍とイギリス軍は遼東半島の青島のドイツ軍の要塞を攻撃し、約4700名のドイツ軍およびオーストリア=ハンガリー帝国軍の将兵および民間人は捕虜として日本に連れて来られて、12か所に開設された俘虜収容所に収容されたのであった。

 

収容所のひとつ習志野収容所の、ドイツ俘虜 オーケストラの碑

 

これに関連し、当時の新聞に興味深い記事を見つけた。一部現代語に直して紹介し、筆者の考察を加える。

 

最初は東京朝日新聞 1917年7月17日 「青鉛筆」の欄である。

「信州軽井沢の避暑客中には現在30名のドイツ人およびオーストリア・ハンガリー人がいる中に、ドイツ人俘虜将校の妻3人もいる。デンマークの女ブランニヤガード(24)というのはすこぶる美人だが、これは目下福岡収容所にあるドイツ将校ベッセン・タノラ(35)と許嫁の間柄。

 

アンネ・リゼー・グラホー(25)。之も外人中に美人の評(いわれ)あり。その夫は同じく福岡収容所にいる。

 

残る1名のフォン・ボルゲル(30)というのは、3歳の児オットカールの他に中尾ふみ子という侍女を連れて、三笠ホテルにいるが、昨年のキャンベル氏事件に恐れたものか、所持金5千円を軽井沢到着早々ホテルの主人に託して、1円たりも身に付けていない」

 

記事の載った「青鉛筆」は1916年3月29日に東京朝日新聞(現朝日新聞東京本社版)で連載開始。時事のネタを取り上げ、その評論やコメントを行う欄で今日まで続いている。その青鉛筆が始まって1年ほど経っての記事である。

 

「青鉛筆」という(辛口の)コラムであることを考えると、記者は敵国の捕虜の夫人が高級別荘地軽井沢で、優雅に暮らしていると批判したかったのであろう。

 

日本はドイツと戦争状態に入っても、滞在するドイツ人に対し、就業は禁止したが滞在は認めた。戦後もドイツ人の知識は必要になるであろうという考えからであったが、貯えだけで暮らすというのは厳しい条件であった。

 

そしてこうして滞在を許された30人のドイツ人が、敵国の軽井沢で夏を過ごした。そしてそこには青島で捕虜となったドイツ人将校の夫人がいたのも興味深い。将校は本国から遠く離れた青島で赴任するに際し、妻を帯同することを許されたのであろうか?もしくは現地での婚姻か?なお当時は専ら「俘虜」という言葉が用いられたが、「捕虜」と同義である。

 

残された捕虜収容所の写真には男性しか写っていない。しかし実際は女性も来たが、収容所には収容されることはなかったのだ。

朝日新聞がそうした若き夫人の容姿をしきりに褒めているのは隔世の感がある。同紙は今では反ルッキズムの旗手である。

 

「キャンベル氏事件」とはちょうど1年前の1916年7月16日に、旧軽井沢563番地滞在のウイリアム・キャンベル氏とその妻が、就寝中に強盗に押し入られ殺害された事件の事である。563番は神宮寺の裏辺りである。

 

フォン・ボルゲル夫人は、日本人の侍女を連れ、最高レベルの三笠ホテルに宿泊している。5千円相当の資金は青島から持参して、日本でも没収されなかったのであろうか。

 

旧三笠ホテル。2015年撮影(耐震補強などで改装される前の姿)

 

次は先の記事の1日前の7月18日付けの国民新聞(現在の東京新聞の前身のひとつ)からである。

 

「高原の夏 憲政村と成金村

軽井沢に来てからもはや1週間になる。……汽車が停車上に着く毎に、多くの避暑客が吐き出された。しかしその8分通りは外人の群れであった。大きな鞄や荷物と一緒に彼らは山の貸別荘やホテル(三笠、万平、軽井沢の各ホテル)に運ばれて行った。

『今年はもう避暑客が1400名から入りました。外人はその半数を占めています。その中にはドイツ人も30名ばかりおりますので、高等視察係の方もなかなか忙しいです』。

巡回に来た巡査の一人はこう言って報告していった」

 

ここでもドイツ人が30名軽井沢に滞在していることが述べられており、これがドイツ人の数と考えて間違いないであろう。記事から外国人避暑客が700名と推測すると、30名はほんの一握りだ。しかしながら敵国人ゆえに、日本の警察は目を光らせていたことが分かる。

 

第一次世界大戦下の日本のドイツ人の実態の一端を知ることが出来た。

 

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師走に入りホテルニューグランドを訪問。といっても撮影のためで宿泊のためではありません。

私が一番好きなのはこの角度から。丸みを帯びたコーナーには開業年の1927年を表す「AD1927」を刻んだ石造のメダイヨンが据えられている。

 

その上の3階の角部屋は、終戦直後に厚木飛行場に降り立ったマッカーサー元帥が直行し、最初に宿泊した部屋。

今も彼が使用したライティングディスクと椅子が残されている。

 

ホテル前の銀杏並木には少なくなったが、紅葉した葉がまだ残っている。

 

クラシカルホテルゆえか、華美なクリスマスデコレーションなどはロビーにはない。

由緒ある階段はいつものまま。

 

中庭に出ると、わずかにクリスマスらしい飾りが。ただし夜はイルミネーションがきれいな様だ。

私にとってホテル ニューグランドは泊まるとこではなく、心を安らげる場所。

 

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『第二次世界大戦下の滞日外国人(ドイツ人・スイス人の軽井沢・箱根・神戸)』

こちら

夏に訪問した長野県の小諸駅。

この時は小諸の元本陣などを訪れて「小諸の古い町並み礼賛!」という文章を書いた。こちら

 

駅前を見回しても、全国的に展開しているコーヒーチェーン、レストランなどが見えないのが嬉しかった。

しかし小諸駅といえば小淵沢とを結ぶ小海線の起点でもある。

かつてSL小僧として撮り歩いた路線だ。古い写真を引っ張り出してみた。1970年ころである。

 

新宿から夜行列車に乗り小淵沢駅で降りて、同駅を出た小海線がカーブを描いて八ヶ岳方面に向かう築堤まで歩く。

まだ夜明け前で待つことしばし。そして薄明かりの中を一番の混合列車が登ってくる。背景は甲斐駒ヶ岳。

 

昼下がり、同じ築堤を貨物列車が下りてくる。こちらは下りだから煙はほとんどはかない。

このC56 144番は現在、小諸城址懐古園に保存されている。

戦時中、軽井沢に疎開していた人が旅行許可が取れずに、小海線を経由してこっそり戻った話がある。

 

野辺山~清里間の国鉄最高地点近く。有名な大門沢橋梁を渡るシーンだが、当時はSLブームでかなり撮影者がいた。

使用したカメラは6X6判。写真は今のインスタと同じ正方形だった。先見性があった!?

 

野辺山駅。また中学の若造ながら、機関車のみではなくこのように詩的な写真を撮ろうとした。

 

同じく野辺山駅。主役の機関車は左奥にいる。

カメラマン中村精也さんよりかなり前から、私は「ゆる鉄」だった😄

 

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