鎌倉の由比ガ浜に65年間「君臨」してきて、約2年前に閉店となったドイツレストラン「シーキャッスル」。私はこのシーキャッスルの自称「追っかけ」である。

なぜならば;

1 お店のライフ一家は戦前から日本に暮らす「ドイツ人

2 戦時中、「軽井沢」に疎開していた

2 第二世代の息子さんは戦後まもなく、横浜・山手の「セント・ジョセフ・カレッジ」に通った

この3つのキーワードは自分の研究テーマだからである。

 

熱意が通じたか(?)、今日グーグルに「シーキャッスル」と入れると、検索結果3番目に私のブログが登場する。

お陰で2019年にあのグルメ番組「孤独のグルメ」に登場し、最近も再放送があると多くの人が検索するのであろう、グンと訪問者が増える。

 

そして今年の4月に跡地に「あらもーど鎌倉」がオープンした。夏のほとぼりも冷めて訪問した。

 

建物の基本構造は変わらないが外観はだいぶお洒落に変身。

 

 

アラモードは優しい女性2人の運営。年配の方はシーキャッスルには何度か訪問して、カーラおばさんの辛口攻めにあったことがあるとのこと。

嬉しいことにパスタがある。しかも窓際にカウンター席が出来て、由比ガ浜の海を見ながらの食事が可能。

 

昔は海の方に向かってシャッターを切っても、、、

 

「あらもーど鎌倉」さん、これから頑張ってください。

「シーキャッスル」よ、永遠に!

 

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鎌倉、由比ガ浜の「篠田邸」は1933年、横浜興信銀行(現横浜銀行)の常務取締役、村田繁太氏邸増築部として建築された。

1961年、国文学者の篠田太郎氏の所有となった景観重要建築物である。

そしてリノベーションをして5月4日に「Cafe&Restaurant EGAO」がオープンした。

筆者は2019年6月に訪問し、今回カフェを訪問した。両方の写真を見比べつつ、考察を加える。

 

現在:門の前にはカフェの案内などの広告が出ている。

 

以前は勿論すっきり

 

現在は木がかなり生い茂り、2階建ての美しい全景をとらえることが出来ない。

 

昔もほぼ同じか(苦笑)

 

この建物の自慢は見事なハーフティンバーである。浄明寺の旧華頂宮邸とともに鎌倉のハーフティンバースタイルの住宅を代表するものである。

旧華頂宮邸は宮家のものである。こちらは民間としてそれに肩を並べるだけでもさすがである。

(ハーフティンバー:木造の骨組みを表に現し、その間に煉瓦や石などを充填して壁体とした建築の様式)

 

前回は通りから。

 

カフェ「EGAO」は正面の玄関を入らず、右の入口をくぐっていく。

 

 

現れたカフェはなかなかモダンである。

聞くと本館の方は一棟貸しの民泊施設になり、こちらの平屋部分がカフェとのこと。

つまり1930年に平屋部分(ここでしょう)が作られ、先に見た洋館部分が増築されたのだ。

平屋部分は1982年に全焼したが、間もなく復元された。そして今回リノベーションが行われた。

古い建築物はこのようにカフェ、宿泊施設、結婚式場として生き残ることが多い。

 

ここでの食レポはこちら

 

隣りの洋館も古いのか、、、

 

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さる6月23日に湘南日独協会の例会で、表題の講演を行った。

 

その講演の内容のサマリーが同会の会報、「Der  Wind(風)」の9月号に紹介された。

ポイントをとてもよくまとめていただいていると思います。

 

ご興味のある方は次のリンク先からご一読下さい。(3ページ目)こちら

 

講演にも登場する葉山のベルンハルト・モーアの別荘

 

 

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ドイツ海軍のフリゲート艦「バーデン=ヴュルテンベルク」と補給艦「フランクフルト・アム・マイン」の2隻が8月20日、東京港へ入り東京国際クルーズターミナルに接岸した。今後、海自やフランス、米国、イタリアの艦船が参加する多国間演習が予定されているという。

そういえばイタリアの航空母艦が横須賀基地に着いたというニュースもあった。日独伊三国の艦艇が揃うと思うと、かつての暗いイメージを思い浮かべる人もいるかもしれないが、今は世界情勢も大きく変わっている。

 

8月23日、バーデン=ヴュルテンベルク艦上でレセプションがあり筆者も参加することが出来た。

チェックを終え桟橋に入ると、艦橋に「Baden Württemberg(バーデン=ヴュルテンベルク)」の名前が見え、その上には日の丸が翻っている。

 

レセプションは船尾で行われる。向かう途中、船腹が大きく開いているのが見えた。特別にオープン?

 

この穴の部分に積まれた小型の船は、日本海軍でいう所の「内火艇」かと思った。ドイツ語ではTenderboot?

先日アップした『現存する日本海軍の「内火艇」』を参照いただきたい。

 

上がレセプションの会場。写真右から甲板に上がるが、梯子は板に途中すべり止めが付いた程度のもの。

上では飲み物の給仕などは船の乗組員が担当していた。筆者が話した人は「いつもはヘリコプターの搭乗員だ」と、甲板に積まれたヘリコプターを指した。

貴重な体験のできた1日であった。

 

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軽井沢駅の方から万平通りの森裏橋を右に直角に折れるのが「堀辰雄の径(フーガの径)」で立派な道標もある。

この先には作家・堀辰雄が一時期を過ごした1412番別荘と、バッハのフーガが聞こえてきたチェコスロバキア公使館があったことに名前は由来する。

 

本日は一つ筆者の疑問の述べる。どなたかご教授いただけると幸いです。

それはチェコスロバキアの夏季公使館、もしくは同国公使館員の別荘は本当にここにあったのかという疑問です。

 

 

命名の元となった堀辰雄の随筆『美しい森』には

「別荘の並んでいる水車の道のほとりを私が散歩していたら、チェッコスロバキア公使館の別荘の中から誰かがピアノを稽古しているらしい音が聞こえて来た。(中略) バッハのト短調の遁走曲(フーガ)らしかった」と書いてある。

「水車の道」は聖パウロ教会から愛宕方面に向かう道である。ところが現在の「フーガの径」は旧中山道を挟んだ反対側にある。「水車の径からいろいろな方面を歩いて出くわした光景」という解釈がある。しかしこの文章から判断すると水車の道沿い、もしくはそばに公使館の別荘はあったと考える方が自然ではないか?

 

また別の箇所でも

「ちょっとした晴れ間を見て、水車の道の方へ散歩に出かけた。そうしたらチェッコスロバキア公使館の別荘の中から快活なピアノの音が聞こえてきた。(中略)バッハの遁走曲(フーガ)をやっている」と書いている。

(原文はどちらも1934年4月10日印刷版)

 

堀がこの道の1412番に住んだのは1941年頃からである。つまり随筆の書かれた1933年ころ、そこから水車の道の方へ行く時に聞こえてきたという解釈は時代的に合わない。

 

いつ頃からここにチェコの公使館があったという話が出てきたのかは分からない。

すでに1985年に出版された『軽井沢心理学散歩』(安西二郎)には

「T. W.氏夫人になっているWさんの別荘こそ、他ならず旧チェコ公使館なのだが」と書かれている。(名前は頭文字のアルファベットにしました) Wさんがこの別荘を入手した際にそう伝えられたのであろうか?そしてその根拠は何だったのであろう?

 

一方筆者がいろいろ見てもこれまでの所、外交文書などでこの地域に1930年代初頭、チェコの外交官の別荘があった、または夏を過ごしたという話は確認できていない。(夏季仮ドイツ大使館が1372番に開設されたという記録はある)

 

その後知り合いが、1970年の「信濃教育」という雑誌に

「『美しい村』執筆の周辺とその点描箇所の追跡」という記事の中で

「公使館別荘は愛宕山にあるお天狗様へ行く途中にある」と建物写真付きで紹介されていることを指摘してくれた。

興味深いが、これとてここが正解という確証を与えるものではない。

 

なお『美しい森』は個人的体験を基にしたフィクションであるから、場所及び、チェコの公使館であったかを深く詮索されるのは作者堀辰雄の本意ではないであろう。ロマンはロマンのままでよい。

 

またこの物語のポイントはフーガという楽曲の形式であって、場所がチェコの公使館である必然はないはずだ。『美しい村』の別の個所で次のように書いている。

「ひとところを繰り返す・・執拗な走法(フーガのこと)の効果が、この頃僕の中に小説のいろんなテーマがふと現れてはふと消えていく、そのうちにそれが少しずつ発展してきているような気もする、そういった具合にそっくりだった」

 

なお筆者は知人がいるのでこの「堀辰雄の径(フーガの径)」を時々歩くが、最近堀辰雄にちなんでここを歩く観光客はあまり見たことはない。

 

堀辰雄の別荘のあった場所。ここに別荘があったという説明パネルでもあると良いと思う。

 

堀辰雄のその別荘は、タリアセンの軽井沢高原文庫に移築保存されている。

 

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今日は終戦記念日。それにちなんだ話題です。

 

もんじゃで知られた月島の運河に浮かぶ青い船は、旧日本海軍の「内火艇」であったという。内火艇とは日本海軍用語で船舶に積む、エンジンを備えた小舟である。戦艦など大きな船が港に接岸できない場合、両者の間を往復した。

 

運河の船を見ると確かに鋭角な船首、一段下がった船尾側はかつて軍用艇であったことを彷彿させる。一方現在の青の塗装、上部の四角い部分も後の改造である。

 

軍の艦船ゆえに造りが堅牢であったから、多くの修繕を経て今なお浮いているのか。今年の6月に撮影された写真を見ると、船首の手前に廃船が浮いていたが、今はそれなく全景写真が撮れる。何とラッキーな!

 

 

戦後に軍の備品が放出された際に、船宿の先代が購入したもので、戦艦「比叡」に搭載されていたものと伝えられたという。

 

「比叡」は1912年に進水した軍艦であったが、1933年に御召艦用施設の設置工事を行う。御召艦は皇室が乗る艦船である。1936(昭和11)年10月には、内火艇で「比叡」に向かう大将たちの写真が残っている。まさにその船なのであろうか?

 

この比叡が1940年10月、横浜港沖で行われた観艦式に参加した際は、「住民は皆窓を閉め、外を見てはいけなかった」という話を、筆者は直接山手の住人から伺って書いた。(「森利子さんの体験した戦中の横浜・山手」)

この内火艇は横浜港も訪問していたことになる。

 

同艇はネット上では以前から話題になっていた。それらによると海軍の艦船に積まれたものは間違いないが、比叡のものかは確認できない様だ。しかし先に書いた理由から、筆者は横浜港に来航した比叡に積まれていた内火艇であると思いたい。

 

最近まで水深の関係で接岸できない右の屋形船へ乗り込むための、渡り廊下の様な役目をはたしてきた。

 

筆者がパチパチとシャッターを切る横を、子供を散歩させる母親が通り過ぎた。何でこんな船を撮っているのであろうという風情であった。

内火艇のほぼ真上の月島橋のたもとには「大震火災横死者追悼之塔」がある。

 

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御代田で一泊した翌日は、しなの鉄道で中軽井沢へ。

そこからは町内巡回バスで長倉の「ルヴァン美術館」に向かう。このバスはこの日の大事な足。料金が100円と格安だが、問題は遅れが多い事。もちろんその原因は渋滞である。特にハイシーズンの日曜日なので心配。

軽井沢から来た9時35分発のバスは中軽井沢駅を2分遅れで出発と優秀。この時間、駅構内にはタクシーも沢山待っている。地元の松葉タクシーなど、夏季限定で随分と運転手さんを集めた様だ。またライドシェアも始まった。

 

ルヴァン美術館には筆者はいろいろとお世話になっている。この日は木田副館長の案内で、企画展「坂倉ユリの駈けぬけた美の世界 芸術家たちとの交流」を鑑賞する。興味深い人の写る写真にまさに彼女の交流の広さを知った。

企画展の主役である坂倉ユリは西村伊作の次女で、ご主人の坂倉準三は著名な建築家である。また木田副館長はご夫婦の子供である。また館長の西村ソノさんは106歳で健在。私は自著で彼女のことを紹介した。こちら

 

ミュージアムショップには筆者の「心の糧 戦時下の軽井沢」シリーズも置かれている。

 

次に向かうのは旧軽井沢である。暑い山間のバス停「杉瓜」で循環バスを待つ。以前は「バスどこ?」というアプリがあったが、今はなぜかない様だ。すぐに来るのか、30分後なのかも分からずに待つのは嫌なものだ。11時27分発予定は結局5分遅れで来た。次の予定も予定通りに出来そうで嬉しい。

 

バスはまた中軽井沢駅を経由する。駅前の人気でいつも行列の「かぎもとや」も、外で待つのはひさしの下に2人だけだ。30度を超えて直射日光の下で待つ人がいないのは当然だろう。

 

旧軽井沢のロータリーが近くなると、バスは動かなくなる。どうも先のお店の駐車場がいっぱいで、空くのを待つ車が道路をふさいでいる。するとしばらくしてお巡りさんがふたり現れ、それらの車に先に行く様に指示した模様で、道が空く。ありがたいお巡りさんのおかげで15分遅れで旧軽のバス停に。まあ合格!余談ながらこういう役のお巡りさんはやはり新人か若者だ。

 

ロータリーの人気の蕎麦屋さん「川上庵 本店」では建物の日陰に沿う形で、待つ人がいるが、やはりいつもの行列よりは少ない。ちなみにこちらは麻布と青山にも支店があるが。

 

ロータリーの三面馬頭観音

 

旧軽でパスタを食べる予定であったが、未訪問の予定するお店は行列が必死であった。

するとロータリーの一等地に新しく出来たお店を発見。「Low-Non-Bar #RTS」という少し変わった名前で今年3月のオープン。日本橋のお店の2号店だ。知名度がまだない為か12時に待たずに入れた。(ただし食べたパスタの食レポは後日、パスタのブログで紹介)

 

食後は軽井沢ブループラークにも認定されている「旧増田家住宅」がギャラリーとして開くので、オープン前だが特別に入れていただく。(これをアップする本日からです)「ギャラリー良Ryo」の良は奥様の名前からとったとのこと。旧軽井沢はギャラリーの多い街でもある。

またこちらも最近増えている「軽井沢 景観育成住民協定区域」の緑のプレートを立てている。(下部分)

 

かつての軽井沢彫りのお店の部分がギャラリーになっていて、内部を見学する貴重な機会。

 

その後コンサートに出席して終了が予定通り16時。東京に戻るため、駅に向かわなくては。この時こそ巡回バスの真価を発揮する時だ。

 

バス停に向かうと、草津方面からのバスが遅れてちょうど来たが、一杯で乗れず。最初に運転手さんが降りてきて、この辺までしか無理ですと自分よりだいぶ前で線引きした。そこで巡回バスのバス停に向かう。旧軽のバス停が2か所になっていて、相互が見渡せないのもストレス。どちらが先に来るか分からない。ここにはバス会社の整理係の人が一人いたら助かる。

 

巡回バスはここでもお巡りさんの路駐掃討作戦の結果か、16時12分発が20分遅れで来た。結果的にはまあ良しだが、待つ間はいつ来るかも分からず本当に嫌な気分。駅に着いたらピークの時間を過ぎたせいか、タクシーもだいぶ待っている。

 

バスの運行をもっとアテに出来るならば、16時56分の新幹線を予約できるが、心配性の私は17時41分発を予約しておいた。そして余った時間でいつものように駅前食堂「まるほん」でビールと共にとんかつ定食を食べる。ハイシーズンでも混んではいない。クーラーはなく、扇風機が弱々しく回る店内😃 でもうまい、駅弁を買って新幹線の車内で食べるよりはずっと良い😀

 

<結論>

軽井沢もオーバーツーリズムが叫ばれる中、町内巡回バスはかなり頑張っていると思う。お巡りさんの活躍も忘れてはならないが、バス停が2カ所に分かれているのは感心しない。バスを待つ間も、幾人かの若者が「じゃあ、歩くか」と1.6キロの道を歩いて駅に向かって行った。

 

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御代田は軽井沢駅から3駅目で、西軽井沢という呼び方もされる町である。

8月最初の土曜日、 ハイシーズンの軽井沢のホテルはとりわけ高いので、御代田に宿を取ったのが初訪問の理由。

 

宿泊は明治屋旅館。「明治時代に開いたから、明治屋と祖母が名付けたんですよ。単純な名前の付け方ですよね」と親切な女将さんが教えてくれた。今後はここを軽井沢に来た際の定宿としよう。

 

 

旅館の朝食は文句なし。

 

翌朝、泊った旅館から少し回り道して駅に向かったら、SLが保存されていた。番号を見たらD51 787。今から半世紀前、SLファンだった私が中央西線で撮ったまさにその機関車だ。(下の写真のプレート番号で確認できる)

この機関車自体は御代田に縁はないが、かつてスィッチバックの駅があったことを記す意味からの保存らしい。ここはかつてレールが敷かれていたほぼ廃線跡。

しかし私には奇跡的再会!

 

半世紀前のD51 787。

 

旧中山道にはやはり古い建物がいくつかある。下は民家の様だ。

 

後から洋風に出窓を付けた?

 

続いて白壁に囲まれた立派なお屋敷があり、ちょうど庭にご主人がいたので中に入れてもらう。二棟あるうち、こちらは古い方の建物で、大正時代の建築とのこと。古い建物ファンにはたまらない。

 

こうして30分ほどで御代田駅へ。とても有意義な朝の時間だった。

駅舎はモダンで、待合室では無料Wi-Fiに電源もある。

しなの鉄道でまた軽井沢に戻ったが、車内は先の方から乗ってくる人の幾人かが隣の席に荷物を置いて寝ている。そして御代田辺りから乗る人は立って軽井沢に向かう。寝ている人に悪気はないとは思うが、、、

 

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軽井沢を代表する作家である堀辰雄は、1930年代には毎夏の様に軽井沢を訪れ、そこを舞台にエッセイを多く残している。そしてそれらの話にはドイツ人が多く登場する。理由の一つに堀は1921年、第一高等学校理科乙類(ドイツ語を第一外国語とするコース)に入学している。そのためドイツ語をよく理解したので、ドイツ人とのコミュニケーションが容易だったからではないであろうか?

本編ではそうしたエッセイから該当部分を紹介すると共に、登場するドイツ人の氏素性を筆者の調査から推察するものである。

 

1 ハウス・ゾンネンシャイン(『雉子日記』より)

 

作品が発表されたのは1937年で、堀はこの頃は川端康成の別荘などを借りて住んでいた。

「すっかり雪に埋もれた軽井沢に着いた時分には、もう日もとっぷりと暮れて、山寄りの町の方には灯かげも乏しく、いかにも寥しい。そんななかに、ずっと東側の山ぶところに、一軒だけ、あかりのきらきらしている建物が見える。あいつだな、と思わず私は独り合点をして、それをなつかしそうに眺めやった。

ハウス・ゾンネンシャインと云う、いかめしい名の、独逸人の経営しているパンションが、近頃釜の沢の方に出来て、そこは冬でも開いていると云うことを、夏のうちから耳にしていたが、私がそれを見たのはついこの間のこと、(中略)数軒の別荘の間から、私の前に突然、緑と赤とに塗られた雛型のように美しい三階建のシャレエが見え出した。


南おもては一面の硝子張りだが、それがおりからの日光を一ぱいに浴びながら内部の暖気のためにぼうっと曇り、その中から青々とした棕櫚(しゅろ)の鉢植をさえ覗かせている。近づいて標札を見ると、『Haus Sonnenschein』とある。ふん、こいつだなと思って、私はその家の前を何度も振り返りながら、素通りして、裏の山へ抜けようとしかけたが、頭上の大きな樅の木からときおりどっと音を立てて雪が崩れ落ちてくるのに目が開けられないほどなので、又、引っ返してきた」

⇒大森のドイツ人学校の校長ヴィルヘルム・レーデッカーの妻、ベルタ・レーデッカーによって1933年ころオープンした特色は四季を通じて開かれた最初のペンションであった。筆者の『続 心の糧(戦時下の軽井沢)』でく詳しく紹介している。また堀辰雄が1941年になって購入した別荘は奇しくもハウス・ゾンネンシャインの隣である。

GHQの撮影したハウス・ゾンネンシャイン(原所蔵機関は米国公文書館 国立国会図書館所蔵)

 

2 「匈奴の森(フンネン・ヴェルトヘン)」(『匈奴の森など』より)

 

1935年の「新潮」1月号に『匈奴の森など』というタイトルで次のような文章を書いている。

「舞台は軽井沢である。北方2キロくらいになんか原始林の真ん中に取り残されたように小さな森がある。ドイツ語のあだ名がついている『匈奴の森(フンネン・ヴェルトヘン)』という。ドイツ人ばかりが住んでいる。夕方など、この森からどうかするとフルートの音のようなものが漏れてくるのです。

欧州大戦中ずっと、ドイツ人ばかりこの森に集って、他の部落とは全く没交渉に暮らしていた。その時他の外国人がこの森にそんな名前を付けた」

⇒別稿にて説明した(こちら

 

3  聖パウロ教会 (『七つの手紙』より)


1937年12月1日付けで次のように書いている。

「そう言えば、日曜日に野村君と一緒にふらっと教会へ行ってきました。
あのアントニン・レーモンドの建設になる入口に聖パウロ像の経っている小さな教会の方です。

 

教会には独逸人らしい中年の婦人が一人、黒いマントにうずくまっていたり(中略)
そうしたらその日の夕方、その神父さんが僕たちの山のコッテージまで、ざわざわ訪ねて来たので面くらいました。やっぱり独逸人で、日本に来てからまら2年目だとか日本語をあまりよく解せないらしく、ずいぶんとんちんかんな会話を取りかわして帰って行きました。


もう2,3日したらその神父さんも松本へ引きあげられる吉、ーあの教会がこれっきり閉ざされるのかと思うと、ちょっと残念ですが、それでもまあほっとしました。(冬の間、閉ざされることー筆者注)」

⇒松本から来ていた神父とは松本カトリック教会のP・ライムンド神父のことであろう。なかなかユニークな人柄であった。次は戦時中の話である。

「グラス二つとジョッキ一杯の水を持ってき て『普通のワインはない。ミサ用のワインしかない。神様はきっとご理解くださるだろう』と言いました。何のためらいもなく彼は粉末ワインを水に入れてかき混ぜました。こんなことはあとにも先にもお目にかかったことはありません」と同じく戦時中、松本高校のドイツ語教師だったヘルムート・ヤンセンは語る。

 

また教会にいたドイツ人らしい中年の婦人とはやや強引だが先述のベルタ・レーデッカーか?冬も開いているペンションのオーナーであるから、また夫は大森のドイツ人学校に勤務しているから、この冬のタイミングに一人で軽井沢にいたとしても不思議ではない。

 

もう一人の可能性はフリーダ・ヴァイスだ。彼女のことは知らない人がいないくらい軽井沢ではその存在を知られていた。戦後1980年の読売新聞に次のような記事が出た。

「50年目、笑顔の新春。老ドイツ婦人軽井沢『愛の日々』」の見出しでである。
「フリーダ・ヴァイスさんは留学して来る日本人にドイツ語を教える仕事をするうちに、若き医師と激しい恋に落ちる。彼が日本に帰るとき『日本においで。結婚しよう』と言ってくれた言葉を信じ横浜に着いたら、なぜか迎えに来ているはずの彼の姿はなかった。代わりに友人が『彼はドイツに行く前に結婚していて、子供もいる。家を別に用意するから、そちらで暮らしてほしい』」。そうして異国で、一人で生きる道を選ぶ。まさに舞姫のような話だ。

彼女は1941年から戦後も一貫して軽井沢に住み始めたようだが、その前の37年にも訪問したことは考えられる。

 

現在の聖パウロ教会

 

4 テオドール・ステルンベルグ(『夏の手紙』より)  

 

1937年夏の事である。
「今年の夏になって初めて、例の口笛の嫌いな、少し被害妄想狂の、しかし好人物らしいストリンドベルク氏に出会った。(君も知っているだろう。)
さよう、私は君に言うのを忘れたが、ストリンドベルク先生は最近、この桜の沢のずっと奥になる、『幸福の谷』に住んでいるんだ。
それから僕はそのストリンドベルク先生が昔住んでいた、村のずっと西方にある『匈奴の森』の事を思い出して」

⇒先にも引用した『匈奴の森』ではストリンドベルク先生はスウェーデン人となっているのだが、彼はユダヤ系ドイツ人のテオドール・ステルンベルグ(東京帝大教師 法学博士)の事であると考える。ステルンベルグはまさに幸福の谷の一番奥軽井沢1313番に別荘を持っていた。彼はユダヤ人であったから他のドイツ人教授の集まる匈奴の森から離れたのであろう。そうして1942年にはドイツ国籍をはく奪され、無国籍となる。戦後は辻堂東海岸に暮らすが、晩年は生活も苦しく市から生活保護を受けた。

 

堀がいかにドイツ人を多く取り上げたかお分かりいただけたであろうか。これは彼がドイツ語に通じていたことと同時に、1930年代になり、軽井沢のドイツ人のプレゼンスが増えて来たことも原因であるかもしれない。

 

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本編に関連する『続 心の糧(戦時下の軽井沢)』はこちら

ドイツ人の建築家アルヌルフ・ペッツォルトの設計した戦前の美しい別荘が葉山に残っている。彼は1943年に千代田区三番町に立派な日独会館を設計するが、45年の空襲で全壊する。隣のイタリア文化会館もアルヌルフの設計であったが、同じく空襲で大きな被害を受けた。彼はオーストリア人であったが、ドイツによって国を併合された結果ドイツ人となり、活躍した時代がナチスの時代と重なるためか、戦後の建築家としての評価はほとんど聞かない。

 

アルヌルフ・ペッツォルトの設計した葉山の別荘

 

一方彼の両親の方は戦後も一定の評価を受けている。父親ブルーノ・ペッツォルトは1910年12月8日に『ケルン紙』の特派員として東京へ来た。14年に第一次世界大戦が勃発し日本とドイツは交戦関係となるが、その間もペッツォルト一家は日本に留まる。しかしながら新聞社の仕事は辞める。

 

戦争の終わった1917年以降ドイツ語およびドイツ文学の教師として第一高等学校、中央大学などで43年まで教鞭をとる。第二次世界大戦後の48年には天台宗から「僧正」の位が授けられる。妻ハンカは著名な音楽家であったが37年に亡くなる。ふたりのお墓は比叡山にある。

 

第一次世界大戦後間もなくの一家の様子が(『一筋の道:一法学者の随想』田中誠二)に記されている。田中は1918年に続き19年も夏休みを軽井沢で過ごす。

 

「この年の思い出としては、前記の友人とともに、一高時代のドイツ語の恩師ぺッツォルト先生の別荘を訪ね、先生と令夫人及び令息にお目にかかり種々の雑談をしたり(ドイツ語会話の練習の目的もあったかもしれない)、また有島武郎氏を三笠ホテル近くの別荘に訪ねた(後略)」

 

ここから分かるように終戦の2年後、ぺッツォルト一家は軽井沢で過ごしている。文中の先生はブルーノ、夫人はハンカ、令息はアルヌルフの事である。別荘の場所は旧軽井沢の一番三笠ホテル寄りの半田善四郎貸別荘であると筆者は考え、以下にその根拠を述べていく。

 

次の地図は草軽電気鉄道(1962年廃止)が軽井沢駅方面から来て三笠駅を過ぎ、弧を描いて方向を変えるあたりで、その内側が主題の地区である。上の2500番台は前田郷で、1930年代に入り開発された地域でそれまでは深い森のはずである。

「輕井澤別莊案内圖」(1935年 国会図書館デジタルコレクション)

 

この半円の内側をドイツ人がまとまって住み、ドイツ人村を形成し『匈奴の森』と呼んだのは堀辰雄が最初であろう。1935年の「新潮」1月号に『匈奴の森など』というタイトルで次のような文章を書いている。

 

舞台は軽井沢である。北方2キロくらいになんか原始林の真ん中に取り残されたように小さな森がある。ドイツ語のあだ名がついている「匈奴の森(フンネン・ヴェルトヘン)」という。ドイツ人ばかりが住んでいる。夕方など、この森からどうかするとフルートの音のようなものが漏れてくるのです。

欧州大戦中ずっと、ドイツ人ばかりこの森に集って、他の部落とは全く没交渉に暮らしていた。その時他の外国人がこの森にそんな名前を付けた。

 

補足をすればドイツは第一次世界大戦では日本、英仏などを敵に回した交戦国となった為、軽井沢でも彼らとはなるべく交わらずに暮らしたのであった。ペッツォルト家もその一例だった。また音楽が好きなのもドイツ人の特徴だ。

 

また堀辰雄はかなりドイツ語が達者であったか、ドイツ人とずいぶん交流があったと筆者は考える。彼が書く「フンネン・ヴェルトヘン」はドイツ語ではHunnenwäldchenで決して多用されるドイツ語ではないからだ。調べると堀は1921年4月に第一高等学校理科乙類(ドイツ語を第一外国語とするコース)に入学している。

 

さらには1920年代後半に軽井沢2463番で夏を過ごした松江高校のドイツ語教師であったフリッツ・カルシュは自分の家の辺りを「匈奴の森」と表している。ドイツ人自身もこの表現が気に入ったようだ。カルシュ一家は先の地図の赤丸の部分で、半田善四郎の貸別荘であった。隣りはやはり帝大教師を務めたシンチンガーが借りている。

 

川端康成も『高原』の中で、第一次世界大戦で軽井沢の奥に森に肩身狭く、隠れるように住んだことが「匈奴の森」と言われる起源としているし、他にもその時代の何人かの作家が、この辺りを作品の中で「匈奴の森」と表している。当時はかなり人口に膾炙した地名であった。しかしその呼び名は1940年以降は消えた。日独連携でドイツ人の立場が強固になり、軽井沢でもひっそりと暮らす必要がなかったからであろう。

 

その後太平洋戦争となり、日本がアメリカ機の空襲にさらされるようになると、ドイツ人も疎開をし軽井沢はその候補地となった。この時ペッツオルト家は軽井沢の24XX番の、先のカルシュと同じく半田善四郎の貸別荘に疎開した。そしてこの時も、周りには多くのドイツ人が疎開している。昔からの名残であろう。

 

貸別荘はその多くはひとシーズンを通して貸し、毎年同じ家族が借りたようだ。とすると1919年に田中誠二が訪ねたペッツォルト先生の別荘も同じ24XX番であったか、違ってもその周りの同様の貸別荘であったことは間違いない。

 

ペッツオルト家の隣に疎開したのはハインツ・メイベルゲンであった。今は昔の様な深い森の印象はない。

 

第一次世界大戦直後はまだ令息であったアルヌルフはその後ドイツで建築の勉強をし、戻って日独会館を設計したものの2年足らずに空襲で破壊された。相当失意の中にあったのではないか。そして戦後まもなくの1948年、アルヌルフは再びドイツから切り離されたオーストリアには戻らずカナダに移り住む。心中いろいろ思うことがあったのであろうと推察する。父ブルーノは1949年、日本で亡くなる。

 

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