今回の追分訪問からの第4部です。

 

ここ「追分」は京の都へ向かう中山道と、越後へ通じる北国街道の分岐点にありその地名がついた。

「分去れ」は旅人たちが別れを惜しんだ場所として知られ、江戸時代の石碑や常夜灯が残る。

今もどこか寂しさを覚える分岐点。

今も交通量の多い国道18号(左、旧中山道)と寂しげな旧北国街道が分かれる。

 

「枡形の茶屋つがるや」は、追分宿に三軒現存する江戸時代に建てられた建物のひとつ。

宿の西入口辺りに枡形の道と土手を築いて宿内の警備取締りをした。
今、その面影を見ることはできないが、当時枡形の地域内にあって茶屋つがるや(枡形の茶屋)の建築に

その昔をしのぶことができるとのこと。正直よく分からない、、、

 

壁の飾りの左は「桝形」と書いてある。

 

2つ目の江戸時代の建物が布来籠工房 ままごと屋。

江戸時代に中山道の宿場町である信濃追分宿で、屋号「現金屋」として旅籠(宿泊施設)や両替商を営んでいた歴史ある建物を利用した雑貨店。

築250年を超える。赤い郵便ポストは現役だ。

 

もう一軒が「蔦屋(つたや)」。

江戸時代後期、文政2年(1819年)建築の旅籠として栄えた歴史的建築物。

今は個人の家か。玄関、1階の窓のサッシなどは新しい。

軽井沢ブループラークのプレートが付いている。家の前に車が停まっていて、、、、

 

これにて今回の追分旅行記はいったん終了です。

狭い旧宿場町ですが、見るべきものはたくさんありました。

 

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信濃追分を訪問し「信濃追分文化磁場『油や』と堀辰雄」、「信濃追分と堀辰雄文学記念館」とすでに紹介したが、本編でも追分宿についての紹介を続ける。

 

追分では堀辰雄の痕跡を丁寧に残していることは述べたが、もう少しある。

泉洞寺の山門。 お地蔵さんと緑とマッチして鮮やか。

5月28日の命日にはここ泉洞寺で「辰雄忌」が開催された。

 

ここの 「歯痛地蔵 」は堀辰雄に愛されたという事で有名。まさに彼の一挙手一投足がファンにとっては聖地。

彼自身が歯痛に苦しんだかは不明。

また先の「辰雄忌」では、この前で献花がされた。

 

その近くに残る「旧本陣」の表札。後年の制作か。

 

先に紹介した堀辰雄文学記念館の入り口に本陣の裏門が移築され、次の案内が立っている。

赤く「裏門」と表示されている。

 

1878年9月の明治天皇の北陸御巡幸の際、この本陣が宿泊所となった。

元の場所には明治天皇追分行在所(あんざいしょ)の碑のみ残るのは軽井沢本陣跡と同じ。

 

庚申塚公園内の石碑軍シャーロック・ホームズ像(1988年除幕)

公園と呼ぶには、ほとんど手入れがされていない感じ。

 

延原謙(1892〜1977)が『ホームズ物語』全訳を果たした後に、油屋旅館の離れをかりてこの『ホームズ物語』の全訳にさらに手を加え、新潮文庫版の全訳を完成させたという事で、この地に立てることが決まったとのこと。

 

裏手を流れる御影用水。江戸時代(1650年)開削の農業用水。

犬を散歩させている人に場所を確認した、「熊に気を付けてくださいね」と言われた。

 

追分公民館は「軽井沢 ブルー・プラーク」認定だが、1995年築と戦前建築物の多い中では、かなり新しい。

小説家で建築家としての足跡も残した立原道造の同僚である武基雄の設計。

 

武基雄は立原の卒業設計の芸術家コロニーをもとに設計した。

 

立原道造のレリーフ

 

追分はなかなか奥が深いです。まだ書き切れていません。

 

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先日紹介した「信濃追分文化磁場『油や』と堀辰雄」に続き、追分宿を同地に深く根付く堀辰雄を中心に取り上げる。

 

新幹線の軽井沢駅を出たすぐ横にあるのが地元の伝統工芸、軽井沢彫りの「軽井沢駅」のプレート。

新幹線開業1周年記念、1998年の製作。

 

軽井沢銀座の八百屋さんの店先の信州野菜。

 

しなの鉄道で信濃追分駅へ。今年からSuica改札機が設置された。

しなの鉄道最高所駅で、1923年に現在の場所に正式開業した時の駅舎が今も残る。

しかし老朽化のため、耐震工事中で10月の完成予定。

駅前にお店は一軒もない。この駅が出来て、かつての宿場町追分宿は廃れたわけだが、こちらには今もお店がないとは、、、

 

タクシーは電話で呼ばないと常駐はしていないようだ。

この日は指定の番号にかけたら、「2,30分かかりそうですが、お待ちいただけますか?」と

聞かれた。目指す追分まで歩くわけにもいかず、待つのみ。

 

追分宿に入り、駅から近い所にあるのが、堀辰雄文学記念館。

入り口の立派な門は、追分宿本陣の門(裏門)を移築したもの。両側の苔が美しい。

 

 

記念館入り口。

ちょうどこの頃中の書庫に籠って、調査をしているのは中国人の研究者と聞いた。

今は日本文学の分野でも中国人の進出が著しいというか、日本人の文学離れというか、、、

 

堀辰雄が実際に暮らした主屋。晩年の1951年から亡くなる1953年まで暮らした。

その前に暮らしたのは同じく追分の油屋の隣である。こちら

 

庭に立てられた文学碑。昭和18年4月12日。

戦時中も大和から追分まで旅行を出来たことに妙に感心した。

 

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夏場の軽井沢は宿泊代も高騰する。そういうわけで筆者は軽井沢を避け、しなの鉄道でいくつか進んだところに宿を取る。

今回利用したのは二つ進んだ信濃追分駅下車の信濃追分文化磁場「油や」である。

 

ここは 中山道・追分宿で脇本陣として栄えた「油屋」を、昭和13年(1938年)に移築・再建した建物で、かつて多くの文士や知識人が執筆に利用した。
 

夕暮れの「油や」。正面に掲げられている文字は「油屋」。

玄関横には青い「軽井沢ブルー・プラーク」のプレートがあり、軽井沢の貴重な資産であることを語っている。

 

私が軽井沢の歴史について本を書いていることを知る油やの奥様は、丁寧に建物について説明してくれた。

 

旧油屋は1937年に火事で焼けた。そして翌年道路を挟んだ反対側に建てられたのが、現在の建物である。

世の中は戦時体制に入りつつあり、新たな材料の調達が難しかったので、丸子町の豪農の建物(丸子御殿)を移築した。

こうした資材を当時鉄道貨物などで運んだのか、詳細は不明とのこと。

 

こちらは後に建てられた「新棟」でギャラリー等が入る。

 

現在は素泊まり宿(油やSTAY)ギャラリーやカフェ、として活用され、地域文化の発信地となっている。

油や入り口。木々の先に建物がある。

 

丸子御殿からの立派な欄間。1937年の旧脇本陣の出火では、ほとんど何も持ち出せなかったという。

 

小説家堀辰雄は終戦間際に油屋隣家に住む(1944年~1951年)

 

辰雄は自分はもう東京では暮らせないと早くから悟り、疎開を考え、心あたりを物色していたが、やはり追分より他にないと思ったのだろう。私がそんな状態だったので、森達郎君をつれて追分に出かけたのは(1944年)2月26日、最も寒い時であった。

油屋では「先生のためにちゃんと隣りの家を用意してあります」と言ってくれた。8畳、6畳、3畳、台所という間取りの家であり、よく陽があたり、縁先には小さい池があった。油屋旅館のすぐ隣りである。

(「来し方の記 辰雄の思い出」堀多恵子より)

 

この場所に堀の家はあったが、老朽化等で残念ながら取り壊した。

 

新棟の前の水が湧いているところが、先に堀多恵子が「縁先には小さい池があった」と書く場所。

 

北側にもひっそり水の湧いている所がある。

 

私が宿泊したのは「欅(けやき )アート部屋」。

幾人かの作家の作品が飾られた部屋。

 

「つげ」の間が小説などにも登場し、今も特に関心が高いとのこと。

 

いくつかのギャラリーが入るが、どれも個性的。アナログレコードのお店は全国的にもファンの間ではかなり知られているそう。

そしてそれそれのギャラリーには店員さんが常駐することはなく、販売などは「油や」さんが代行している。

 

旧家を保存していくだけでは難しいとのこと。そういう中でギャラリーを展開している「油や」さんを強く応援したい。

ひとつ断っておくとこちらの宿泊施設は素泊まりのみである。

 

こちらを手に入れたご夫婦は、奥様が江戸時代からこの油やの隣に暮らす家の方であった。今は古本屋さんを営んでいるが、二つの土地が繋がった。

 

「まるほんのルーツ、小諸の本陣を訪問」はこちら

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大井町トラックスは今年3月28日に開業した大井町駅直結の複合施設。

 

こうしたビルはその前にあった建物等の一部を保存展示していることが多い。

先日オープンしたBASEGATE横浜関内も同様であった。

 

ここに保存されているのは、1915年頃この地に設立された国鉄(当時)の大井工場の「レンガ車庫(御料車庫)」の外壁の一部。

再開発による解体後、レンガを一つひとつ丁寧に取り外して現在の場所で積み直されたという。

こうした努力の末に保存されたことはとても嬉しいが、残念なことは他の所同様に訪問者の関心はイマイチだ。

 

右寄りの緑色の扉は11層も塗り重ねられていたという。
これが建設当初の色なのかもしれないが、やや違和感を感じる。

 

車両基地のトレインビューも楽しめる。

ただしガラス越しで、柱が横に架けられているのが撮影には障害。

 

 

「孤独のパスタ」の食レポはまた別途。

 

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『第二次世界大戦下の滞日外国人(ドイツ人・スイス人の軽井沢・箱根・神戸)』

こちら

神田神保町には戦前の建物がよく残る。そして色合いなど、どこか共通点がある。

 

古書店街の目抜き通りであった1丁目電車通り南側と、2丁目は奇跡的に空襲を免れ戦前のままの姿で残った。

これは一説によるとハーバード大学にいた日本研究者セルゲイ・エリセーエフ氏が米軍に、爆撃を避けるよう進言したためと言われている。(一誠堂書店HPより)

こうした空襲を逃れた話(伝説)はいくつかある。

例えば横浜のホテルニューグランドから横浜税関あたりの海岸沿いは、アメリカは占領後にすぐに使用する予定であったから、爆撃しなかった。

築地の聖路加病院はアメリカ聖公会の所有だから爆撃されるはずはないと、当時すでに信じられ、市民が避難していたという。

しかし正式にアメリカが戦略爆撃の対象から外したのは皇居だけの様である。

 

一誠堂書店

 

東京都市建築研究所の設計で1931年に竣工。
洋館のような緑色のラインが、良いアクセントになっている。
最上部分には掲揚塔。

 

老舗の画材店神保町古書店街の味わいのある戦前建築


1922年の竣工でファサードのみ現存。
時代を感じさせるスクラッチタイルの壁と、3階窓より上の金色の装飾が美しい。

3階はカフェ。

 

旧相互無人会社ビル

 

神田神保町さくら通りのこのビル(旧相互無人会社ビル)は1930年の建築。震災復興建築。

外壁のスクラッチタイルに歴史を感じさせる。日本タイ協会が最近まで入っていたとのことだが、訪問時は全く使われていない印象だった。(少し前の撮影)

 

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護国寺の講談社本館は、1933年に前身である大日本雄弁会の本社として竣工。
正面玄関のドーリア式列柱を除くと堅実な建物の印象で、あまり古さは感じない。

今はこの正面玄関の横が写真の出入り口の様。

 

立派な列柱!


 

今も宣伝ののぼりが左右に4本、垂れ下がっている。

 

講談社のショーウィンドー。

撮影的にはこれはない方が嬉しい(笑)

空襲にもあわず、今なお元気な講談社の建物にエールを送りたい。

 

この日は講談社の向かいのイタリアンでランチ。食レポは別の機会に。

 

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気軽にコーヒーが飲めるチェーン店だが、最近立て続けに、洒落た建物に入るお店を訪問した。

 

 エクセルシオールカフェ お茶の水日本大学店


道路に面し誰でも入れるが、学内で一般の利用も可とのこと。
ウィリアム・メレル・ヴォーリズが設計した主婦の友社の社屋を、磯崎新により高層化され復元。

7月1日のオープン。

 

右は親会社ドトールコーヒー社長の花輪。

 

日本大学カザルスホールの全景。

カフェは左の建物に入る。右は使用されていないよう。背後の高層部分は?

 

ここのパスタはすでに食べたのでコーヒーとお菓子のみ

 

2 HASSO CAFFÈ with PRONTO

 

神田錦町の博報堂旧本社本館(復元) 

この塔屋付きの建物のオリジナルは1930年に竣工。 

現在中にはHASSO CAFFÈ with PRONTOという、博報堂とPRONTOのコラボカフェが入っている。

さすが博報堂というか店名の「HASSO」は「発想」からきている。

 

 

 

パスタは後日、別ブログの「孤独のパスタ」で紹介。

 

3 神戸北野異人館

 

もちろんこの世界の王者、スターバックスコーヒーも黙ってはいない。

復元ではなく、オリジナルの洋館を利用している。

日本第一号の登録有形文化財を使ったスタバという。

(こちらは2024年の訪問)

 

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横浜の大桟橋の入り口付近から左手を見ると、正面の細長い建物は1929年に建てられた「横浜貿易協会ビル」。

横浜にモダニズム建築を残した建築家川崎鉄三がこのビルの施工監理を務めたとされる。

1963年にオープンした北欧料理のスカンデイアが入り、このビルは見覚えのある人も多いであろう。

 

そこに連なるのが「海洋会館」。先の写真では左奥にかすかに見えるが知る人はぐっと減る。

大倉商事横浜出張所として大倉土木の設計で「横浜貿易協会」と同じ1929年に建設された。

あまり目立たないが「横浜貿易協会ビル」同様に3階建てで壁面の色、素材などもお互いよく調和している。

 

その隣は建物はなく象の鼻パークへの入り口となる。

 

そしてその左側が「昭和ビル」である。注意を払う人はさらに減る。

こちらも川崎鉄三の設計で1931年に「カスタム・ブローカー・ビル」として竣工した。日本語に訳すと「通関業者ビル」である。

当時はこの辺り、通関業者が林立したようだ。

 

実はこのビルは右に同デザインのビルが連結して双子のように建っていた。こちらは後にキッコーマン横浜支店の「キッコーマンビル」として使われてきたが2000年に解体され、象の鼻パークへの入り口となった。

つまりここから最初の「横浜貿易協会ビル」まで4棟、3階建てのスクラッチタイル(多数の細い溝の模様があるタイル)のビルが海岸通りに沿って、きれいに並んでいたのである。

今もここから右方向を眺めると、ほぼ当時の街並みをイメージすることが出来る。好きな場所だ。

 

これらのビルは「歴史的建造物」として認定されることもなく、今も主に飲食店の入るビルとして、”酷使”されている。

そしてこの昭和ビルに2年ほど前に溜池山王から移転してきたのが洋食シーザー。

パスタを食べに訪問したが、食レポは別の機会に別の「孤独のパスタ」で。

 

その前はCJ Cafeというなかなか面白いお店が入っていた。

 

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「日本郵船 欧州航路を利用した邦人の記録 他三編」はこちら

先日ある会合で内幸町のビルを訪れたが、窓から見えたのは「市政会館」。

1929年竣工で、戦災を免れ東京都選定歴史的建造物他に認定されている。
見慣れた地上からとは違う角度で、流行りの言葉で言うといつもと「違う景色」!?

 

国会通りより撮影。

最後の改修は1960年代で、なりオリジナルの外観を残しているようだ。

 

特に戦中の日独交流の中心団体であった「日独文化協会」がこのビルに入っていた。

昭和12年(1937年)5月に発行された、日独文化協会創立十周年記念「独逸国実名作素描展目録」を見ると、発行者の住所は「麹町区 日比谷公園 市政会館四階」とビルの4階に入っていたことが分かる。

国会図書館 デジタルコレクション

 

この日独文化協会は第二次世界大戦中の1942年末に、新築されたビルに移転している。次のような記録が残る。

「長らく建設中の日独会館(東京市麹町区三番町4番地)は、戦時下資材不足を見事に克服し、昨17年(1942年)12月3日、前文相本協会評議員松浦銀次郎氏、オットドイツ大使、コルト公使を来賓とし、本協会側より会長侯爵大久保利武氏、(以下氏名略)、建設委員側よりペッツオルト氏(同会館設計者ー筆者註)その他多数の参列を得て、同所に於いて厳粛な竣工式を挙行した」(「日独文化協会事業報告  昭和17年度」より)

 

しかしこの新しい日独会館の建物は1945年春の空襲で焼失してしまう。

「市政会館に残っていたら焼け出されずに済んだのに」などと考えてもしょうがない。

日独文化協会が出たのと近いタイミングの1942年1月には同盟通信社が市政会館に移ってきた。

 

戦時中のドイツ関係の重要な建物であるドイツ大使館は、焼失し今は国会図書館になっている。こちら

またOAG(ドイツ東洋文化研究協会)があった建物は、現在砂防会館である。こちら

 

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