オランダは第2次世界大戦では日本の敵国であった。よって横浜のオランダ人、ドンカカーチスの家族は高齢にもかかわらず抑留された。しかしウィルスムは1943年に山手を強制退去させられた後は、同じ中区の末吉町に移り住んでいる。(外事月報)
 
それより少し前、1939年11月11日の読売新聞に彼の名前が登場する。
「祖国の戦禍に驚き。ついに(ドイツと)オランダ国境線に初弾が飛んだ。衝突の第一報。」続いて
「横浜にいるオランダ人の家族は全員で17人。名誉領事は山下町25、ウィルスム商会取締役のエム・エス・ウィルスム、、、」と彼は商会員の傍ら、名誉領事であったことが分かる。
 
ちなみに外事月報も読売新聞も実際は彼の苗字をウィルムスと書いている。発音しやすいからであろうか?オランダ語ではMenno Simon Wiersumなのでウィルスムが正しい。
 
次いで1940年5月16日の読売新聞神奈川版にウルスム領事がまた出る。
「旗のない領事館 オランダ軍降伏の日 消える和蘭船
山下町25 オランダ名誉領事館にこの情報をもたらすと、ウィルスム名誉領事は一抹の淋しさを包んだ顔に驚きの表情を見せる。」
 
山下町25番は1930年建築のインペリアルビルで、今日でも現役だ。彼のビルはこの左隣(25C)にあった。
 
入り口もかつての雰囲気。施主夫婦の写真も。
 
ウィルスムに関してネット上にオランダ語での紹介記事がある。(Onze man in Yokohama:訳 私たちの横浜の男) ネット上で日本語に翻訳すると、次のようになる。(一部自動翻訳があいまいなところは筆者の推測を入れた。)
 
先ずは1918年3月18日付けの日本語の婚姻届けが載っている。
それによれば、メンノは1878年生まれでオラン・グロニゲンカントン村(出身の)商館員で(この時は)山手町50番乙在住。妻は長崎出身の”シメ”。国際結婚であった。
 
1929年、横浜領事に任命される。ドイツによる占領で1940年にオランダ外務省は存在しなくなるので、領事職も解かれ、以降は山手で無職のまま暮らした。
 
彼は外交官であるから、優先的に日英交換船に乗船できたはずだが、妻が日本人ということもあり、残留の道を選んだのであろう。ただし日本で抑留されたオランダ人の中に名前はない。
 
終戦は妻とともに箱根の強羅で、白百合学園のフランス人宣教師らと共に迎えている。軟禁状態だ。筆者の推測だが、妻の国籍(日本)に変えたのであろうか?または領事まで務めた人物故に、日本側も寛大に対応したのであろうか?
 
1948年9月15日付けのGHQの文書では、ウィルスムは連合国軍最高司令官総司令部、オランダ使節団という肩書になっている。
"Netherlands Mission
General Liaisson, GHQ, APO 500
 
イメージ 1
239番地はには現在、お宝鑑定団で有名な北原照久さんの「ブリキのおもちゃ博物館」がある。
 
「長延寺と初代オランダ領事館の織布」もお読みください。こちら
239番についてはこちら
 
メインのサイト「日瑞関係のページ」はこちら
私の書籍のご案内はこちら (アマゾン)