戦前の外国人の別荘というと筆者は軽井沢位しか頭に浮かばないが、他にもいくつかあった。
本編ではそれらを含めて地域別に外国人の避暑客の数および特徴を紹介したい。
筆者にとっても認識を改めなければならない史実が数多く見つかった。
主に参考になったのは「国際観光」(1933年 国際観光協会編)である。時期的にはまだ戦争の影は弱く、外国人の日本滞在も制約のない時代といえる。斜線部分が筆者の考察である。
1 宮城県 高山
太平洋に面した外国人専用避暑地。戦前は「高山外人部落」とも呼ばれた。
明治時代に、仙台在住のアメリカ人医師フランク・ハレルが病気の妻の療養地として見出し、アメリカ人宣教師らによって避暑地として開発された。外国人の間では「山の軽井沢、湖の野尻湖、海の高山」と称され、「日本三大外国人避暑地」の一つとされた。
1932年夏期滞在者数 106名
国別
アメリカ人 86名
イギリス人 15名
ドイツ人 5名
全員国内在住外国人で居留地は青森市、仙台市が多く大阪、京都、茨木、兵庫、東京などからも来ている。大部分はキリスト教の伝道師で旧制中学校教師も若干名いる。
→筆者にとってほとんどノーマークであった高山は1941年、日本とアメリカの関係が悪化して開戦必至の状況になると、高山の外国人達が土地の権利と動産、不動産の売却を七ヶ浜村に申し出て受け入れられた。
戦時中、東北地方の各地の教会に仕えていた宗教関係者は、そのままそこに留まった。空襲の危険も少ない疎開場所となった。
そして戦後は戦前のような外国人別荘地として戻ることはなかった。
2 日光付近
1932年8月10日時点で63名の外国人で、過半数はホテルに宿泊。
ホテル居住者のうちの半数は上海居留者で、国内居住者は全体の2割のみ。
国別
アメリカ人 27名
イギリス人 31名
ドイツ人 5名
フランス人 2名
その他 18名
→日光で外国人向けホテルといえば1873年開業の金谷ホテルである。ほとんどがこちらに宿泊か。
中禅寺湖畔のアントニン・レーモンド設計のイタリア大使館別荘が出来たのは1928年であるから、彼らイタリア人は「その他」に含まれたか。

現在のイタリア大使館別荘記念公園
3 軽井沢
8月5日の時点で滞在客数1043名
国別
イギリス人 219名
カナダ人 31名
アメリカ人 512名
ドイツ人 109名
フランス人 3名
中華民国人 104名
その他 65名
ほとんどが国内在住者で、外国より来たものはわずかに45名。その出発地は中華民国(28名)、朝鮮(6名)など。
旅行者の節約志向が強く、外国人客数は増えたのに客室の利用率は増加しなかった。一流ホテルにおいても例年の3分の1にも達しなかった。
一方ニューグランドロッジ(横浜のニューグランドホテルの経営)は宿泊客をいかに配分するかに苦心する状態であった。
ロッジは森林、(雲場)池を擁する土地に大小27個のコテージを有し、極めて安い使用料で貸し出した。
→カナダ人が31名となっているのは、軽井沢の父としても知られるアレクサンダー・クロフト・ショーはカナダ聖公会の宣教師で、以降もカがナダ人の宣教師が多く滞在したことが分かる。
広く中国他から宣教師が夏を過ごした軽井沢といわれるが、その数は45名とあまり多くない。本編からは他の地域にも散らばっていたことが分かる。
こうした外国人客の減少から「軽井沢ホテル」が閉鎖になったのは1937年の事であった。

軽井沢の集会堂(ヴォーリズ設計)
4 野尻湖畔
8月5日時点で685名の外国人
国別
イギリス人 325名
アメリカ人 320名
フランス人 19名
ドイツ人 7名
中華民国人 10名
その他 4名
高山と同様、外国人が自治的に建設した。キリスト教青年(女子)同盟の経営のバンガロー風の宿泊所が14軒ある。
軽井沢から移築した木造の宿泊所(貸別荘?)が104軒ある。
この地にやってくる外国人はほとんど全部(90%)が日本居住者で、職業は宣教師、(旧制)学校教師である。昨年度は上海、大連等からも若干名渡来した。
野尻が外国人避暑地として今日の地位をもつに至った理由として、もちろんこの地の地理的条件によるものであろうが、一方軽井沢は近年日本人の避暑に赴くもの多く、物価なども高くなったので、この事情が外国人をして新しい土地を探させるこのになり、この地が選ばれるに至った。
→野尻湖の避暑客の多さに驚く。イギリス人の325名は軽井沢より多い。彼らが率先して、物価が高く俗化した軽井沢から移ったか。そして104軒もの別荘を移築したのは、別荘業者か?

夏の野尻湖
5 雲仙その他
雲仙は滞在費用が安いのと、中国の諸都市よりの距離が近く、多くの外国人避暑客が来遊する。
特に1932年の夏は円安の影響もあって、雲仙のホテルは完全にキャパが足りなくなった。8月中旬の調べで、485名の外国人避暑客が滞在した。
イギリス人 137名
アメリカ人 74名
ドイツ人 78名
フランス人 58名
ロシア人 14名
中華民国人 25名
国内滞在の外国人は全体の1割で、多くは上海、天津、北京、香港などの外国公館および企業のクラーク階級(幹部階級の事であろう)。平均滞在期間は3週間。
→1929年の米国での恐慌発生に続く世界的不況を受け、日本の代表的な輸出産品であった生糸、綿糸等の国 際市況が急落し、これらの産品の円建て輸出物価も急落した。 このため、日本の円建て輸出物価は1929年 から1931年までの2年間に、40%程度下落した。これが円安の理由であろう。
中国に暮らす外国人が多く訪れた場所であった。後にその理由が述べられている。第二次世界大戦勃発直後は蘭印(現インドネシア)から引き揚げてきたドイツ人婦女子が滞在している。
6 別府
海岸の砂風呂へ療養の目的の者が多い。1932年8月中旬においての滞在者は35名であったが、最大時には200名にのったと言われる。多くは上海に居住している外国人で、(白系)ロシア人が占めている。
→中国に滞在した白系ロシア人の数(後述)を考えると驚くべき数字ではない。
7 小濱、茂木、唐津
雲仙のホテルが満員のため、小濱(現在の雲仙市小浜町)、茂木(長崎市の地域)、唐津の土地にも外国人が訪れた。すなわち同年8月10日の調べで、小濱の一角楼ホテルが41名、茂木のビーチホテルが62名、唐津の海浜ホテルが34名である。
彼らを九州に送り出した上海のツーリスト・ビュローがその理由を分析している。
1 日本円安の結果、往復の旅費、滞在費に雑費を加算してもなお、上海での平常の生活費より安上がりである。
2 長崎(港)、雲仙間の連絡は非常によく、婦人、子供、老人連れの家族には最も適する
他である。
筆者がドイツ人の避暑地と書いた地域などについては以下の様に補足している。
本牧その他湘南一帯の海浜地、箱根、鎌倉等また六甲付近等も外人避暑客が少数ながら来遊する。
また北海道の各地には1932年8月の調査日に152人の外国人が避暑をした。
丁寧に中国における外人居住者数も書いている。
イギリス人 13、015人
アメリカ人 6,875人
フランス人 8,575人
ドイツ人 3,006人
他ロシア革命でソ連を逃れた白系ロシア人は65,381人もいる。
まとめ
これらを総括すると次のようなことが言える。
第二次世界大戦末期に日本政府は外国人の疎開先として軽井沢、箱根、六甲をしたので外国人はこれらの地域に集中した。
しかし戦前は開戦近くまでかなり広く、全国に外国人向けの避暑地があった。
また中国大陸には相当数の西欧人が暮らし、彼らが避暑にやってきた。船で本国に一時的に戻るには時間がかかりすぎたからであろう。白系ロシア人には戻るべき故郷はなかった。
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