今日は終戦記念日。それにちなんだ話題です。

 

もんじゃで知られた月島の運河に浮かぶ青い船は、旧日本海軍の「内火艇」であったという。内火艇とは日本海軍用語で船舶に積む、エンジンを備えた小舟である。戦艦など大きな船が港に接岸できない場合、両者の間を往復した。

 

運河の船を見ると確かに鋭角な船首、一段下がった船尾側はかつて軍用艇であったことを彷彿させる。一方現在の青の塗装、上部の四角い部分も後の改造である。

 

軍の艦船ゆえに造りが堅牢であったから、多くの修繕を経て今なお浮いているのか。今年の6月に撮影された写真を見ると、船首の手前に廃船が浮いていたが、今はそれなく全景写真が撮れる。何とラッキーな!

 

 

戦後に軍の備品が放出された際に、船宿の先代が購入したもので、戦艦「比叡」に搭載されていたものと伝えられたという。

 

「比叡」は1912年に進水した軍艦であったが、1933年に御召艦用施設の設置工事を行う。御召艦は皇室が乗る艦船である。1936(昭和11)年10月には、内火艇で「比叡」に向かう大将たちの写真が残っている。まさにその船なのであろうか?

 

この比叡が1940年10月、横浜港沖で行われた観艦式に参加した際は、「住民は皆窓を閉め、外を見てはいけなかった」という話を、筆者は直接山手の住人から伺って書いた。(「森利子さんの体験した戦中の横浜・山手」)

この内火艇は横浜港も訪問していたことになる。

 

同艇はネット上では以前から話題になっていた。それらによると海軍の艦船に積まれたものは間違いないが、比叡のものかは確認できない様だ。しかし先に書いた理由から、筆者は横浜港に来航した比叡に積まれていた内火艇であると思いたい。

 

最近まで水深の関係で接岸できない右の屋形船へ乗り込むための、渡り廊下の様な役目をはたしてきた。

 

筆者がパチパチとシャッターを切る横を、子供を散歩させる母親が通り過ぎた。何でこんな船を撮っているのであろうという風情であった。

内火艇のほぼ真上の月島橋のたもとには「大震火災横死者追悼之塔」がある。

 

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