<序>
 
1927年生まれの森利子(以降利子と書く)さんは、今年91歳である。顔立ちも話す言葉も全く普通の日本人と変わらないが、4分の1ドイツ人の血が入っている。
 
横浜山手で戦前、戦中を過ごし、その頃のことをよく記憶している。筆者は森さんの貴重なお話を聞き取り、それを外部の資料から補足し、後世に残そうとするものである。
 
なおアーレンス家に関しては、季刊誌横浜2007年秋『家族の肖像』で紹介されている。何か所かで引用させていただいたことを、予めお礼と共に申し上げる。
 
 
<アーレンス家>
 
利子の祖父はドイツ人ヘルマン・アーレンスである。商社「アーレンス商会」を、兄であるハインリッヒ・アーレンスが、東京築地に1869年に設立するが早世する。その後継者が弟ヘルマンであった。横浜店の設立は1873年である。
 
そしてヘルマンは日本女性“森りた”と結婚する。2人の子供をもうけるが、ひとりが森新太郎、もうひとりが森茂である。長男の森新太郎は田中キンと結婚し、その間に生まれたのが本編の主人公森利子である。
 
利子の祖父ヘルマンも1904年に44歳の若さで亡くなりアーレンス商会は、同じく商館を営むドイツ人ジュリアス・ヘルムに引き継いでもらったという。ヘルム家の人間は戦前、定期的に祖母を訪れ、配当金の様なものを渡していたそうだ。
 
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祖父ヘルマン・アーレンス。見本市の身分証のよう。(本人提供)
 
商館のあった住所は山下町29番で、ホテル・ニューグランドの斜め前。昔はホテルの新館もなかったので、ホテルの中庭から建物がよく見えたという。
 
一方「アーレンス商会」という名前は別のドイツ人によって使用される。読売新聞神奈川版1939年9月10日には
「今度は勝利に浸っている山下町アーレンス商会に生粋のナチス党支配人ゲルト・プロエゼ氏へ情報をもたらすと”ヴエリークイック、ベリナイス”を繰り返す。」とある。
 
その後1940年のJapan Directoryによれば商会は山下町51番にあって、経営を続けている。マネージャーがH.ボッシュ(Bosch)で東京事務所勤務、あと一人U.ヴィネン(Vinnen)が山下町勤務となっている。
 
「アーレンス商会」という知名度のあるブランド名を買い取って使用したのであろう。業務内容は世界的窒素肥料カルテル“tickstoff-Syndikat GmbH)”と“北ドイツロイド汽船”の代理店で、どちらも当時のドイツの一流企業である。
 
アーレンスの名前がないので、やはりすでに創業家の手を離れていたのであろう。そしてヘルム商会は山下町53番とすぐ近くなので、やはりヘルム商会との関係が深そうだ。
 
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山下町に残るヘルム商会の遺構(一部)
 
 
<住まい>
 
利子の住まいは山手の153番にあった。ここは今、港の見える丘公園を越え、韓国総領事館の先になる。元外国人居留地のひと区画である。外国人居留地とは、政府が外国人の居留及び交易区域として特に定めた一定地域のことで、先の山下町(居留地)は主に外国商社が立ち並ぶ商業区域となり、山手居留地は外国人住宅地となる。外国人は、山手の住まいから山下町の会社に通った。
 
居留地制度は1899年に廃止されるが、これらの地域は今日も中区山下町、同山手町としてそれぞれ存在し、地番も多くの場所で昔ままである。
 
住む人に順番に地番を与えたので、アーレンス家は153番目という事になる。それぞれの土地は広く、森邸は500坪あったという。現在旧地番は分割され数軒、所によっては10軒もの家が建つほどだ。
 


 <思い出すこと>
 
森家には専任でコックさんがいた。以前ホテル・ニューグランドに勤務していた、小林けんじろうという人で、関東大震災で奧さんをなくし独り身になったので、父が自宅のコックにして、亡くなるまで面倒をみた。
 
彼の作った料理が今も利子の味覚の基準となっている。また戦争で物資が乏しくなるころ、小林さんはかつての職場ホテル・ニューグランドから食料を調達して来てくれた。当時モダンなホテルには、もう冷凍設備があったという。
 

 
<戦争の影>
 
山手の153番は海にも近い所であったが、1941年12月に米英との戦争が始まり、外国人の移動制限が強まる。その後は戦局が悪化してきて1943年9月29日、山手を含む地域が絶対居住禁止区域に制定され、全外国人に退去命令が出された。横須賀軍港、横浜港全域などの展望可能で、機密である軍艦の出入りが見えるからであった。
 
以前も御召艦「比叡」のが天皇陛下を乗せ、港近辺を通過する際は、森家を含む住民は皆窓を閉め、外を見てはいけなかったという。1940年10月11日に横浜港沖で天皇の観艦式が行われているので、おそらくこの時のことであろう。
 
また横浜地方気象台が近くにあり(山手99番地)、アメリカ軍の空襲の攻撃目標になるので、避難しなければと山手の住民は考えた。当時天候情報は軍事機密で、天気予報は一般の新聞等には載らなかった。しかし山手町はアメリカの戦略爆撃の攻撃目標からは外れたので、結果として大きな被害はなかった。
 
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山手99番の横浜地方気象台。1927年の建設。
 
家には森という名前の表札を出していたが、日本社会に通じた父親に、ドイツ人がいろいろ相談の手紙を書いてよこした。それらの宛名はローマ字で書かれていたため、日本人が横文字の手紙を受け取ることは怪しいと通報され、警察の家宅捜査があった。母親は利子らに「引っ越しの準備のため」と言ってごまかした。
 

 
<フリーメイソン>
 
また祖父ヘルマンは秘密結社「フリーメイソン」のメンバーで、その衣装を大事に保存していたが、後難を恐れて祖母と母が夜中にこっそり燃やしてしまった。実際に日本が英米に宣戦布告をした1941年12月8日、同じく山手に住むアルメニア人、マイケル・アプカーはフリーメイソンのメンバーという事で予備検挙され、14か月拘束される。
 
森家ではヘルマンが購入した外債の証書を、その後もフリーメイソンのロッジの金庫に預けていた。そして祖母が年に一度、大きいシートから同じ図柄の小さな一枚を切り取り、横浜正金銀行の本店(今の神奈川県立歴史博物館)に持ち込んだ。引き換えにもらう日本円はかなりの額であったようで、祖母は母には着物、利子ら子供にはお菓子を買い与えた。
 
利子は当時フリーメイソンのロッジに勤務する日本人の子供と知り合いで、よく一緒に遊び、その施設の中にも入ったことがあるという。その前には車のまだ少ない時代、「神1」のナンバーを付けた車がよく停まっていた。
 

 
<両親のこと>
 
ここで利子の両親について触れておく。
父新太郎は戦前、今の昭和石油シェルの母体となるライジングサン石油に勤務した。日本の開戦後、同社の在日資産は凍結される。よって日本人の従業員は解雇、戦場に送られるのだが、石油の原価計算が出来るのは日本では新太郎とあと1人だけという事で、ふたりは戦場に送られず、通産省に雇われた。フィリピンなど占領地から石油がもたらされるようになるが、日本ではバーレルという単位すらよく知られていなかったからだ。
 
母は洗濯屋に行くと「奥さんはだらしない!」と叱られた。父は南方に出張に行くが、冬でも現地では白い半袖シャツを着て過ごし、それを洗濯屋に持ち込んだからであった。
 
母は東京大田区の出身で、中島姓を名乗った。叔父がベルリン留学中に第一次世界大戦が勃発し、大使館の指示でパリに避難する。大使館が用意したホテルでは北里柴三郎と同室で1年半暮らしたという。
 
日本に戻ると叔父は何かあれば「北里君に」と言ったそうだ。叔父が外国を経験していたので、新太郎の様な日独混血の人との結婚にも抵抗がなかったのであろうと利子は考えている。
(2019年9月22日追加)
 

 
<強制疎開>
 
外国人を担当する外事警察の資料では、先の強制退去対象のドイツ人は山手以外も含め248家族、523人であった。日本の同盟国の外国人も例外ではなかった。
 
この後多くの外国人が軽井沢、箱根に避難したことは筆者も知っていたが、利子によると順番が異なるという。軽井沢、箱根の別荘は夏用に作られており、冬でしかも暖房の乏しい時代、暮らすのは大変であるという事から、彼らは先ず近隣に探したという。しかし急な需要に住宅が足りず、見つからない人が“渋々”軽井沢等に避難した。
 
しかし森家はなかなか用意周到で、市内の南区平楽と豆口台に家を借りることが出来た。平楽の家には井戸があり、水が常に手に入るという事で、祖母“森りた”が住んだ。
 
豆口台の家は200坪あったが、父新太郎が結核に罹り5月に死亡する。空襲を避けて入る防空壕の空気が悪かったのが大きな原因だ。しかも空気感染するので、利子も含め家族が皆結核にかかった。そこでその家を売り、今度は磯子に住む。
 

 
<空襲>

磯子の家の向かいは飛鳥田一雄、後の横浜市長のお宅であった。1945年5月29日に横浜大空襲があったが、この辺りは”疎開道路”のおかげで火災を免れた。疎開道路とは延焼防止・避難路の確保のため、建物を間引いて広くした道路のことで、根岸には今も「疎開道路」の名称が残る道路がある。
 
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グーグルマップより

なおB29が利子の頭の真上で爆弾を落とした時は、落ち着いていた。慣性の法則から飛行機の進行方向に向かい、爆弾は垂直ではなく斜めに降ったのだ。よって建物にも爆弾は斜めに突き刺さるように着弾した。
 
空襲で逃げる時は、必ず学校の制服を着用するように言われていた。万が一の際に身元が分かるからで、実際に役立った例が利子の周りでもあった。
 
また空襲で亡くなった人が靴を履いていて、それがどうしても必要な場合は、手を合わせ「すみません、私はまだ生きていますので、いただきます。」と言ってからもらうように、と学校の先生が女学生の素直な質問に答えた。
 
第一部以上
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