ドイツ人の建築家アルヌルフ・ペッツォルトの設計した戦前の美しい別荘が葉山に残っている。彼は1943年に千代田区三番町に立派な日独会館を設計するが、45年の空襲で全壊する。隣のイタリア文化会館もアルヌルフの設計であったが、同じく空襲で大きな被害を受けた。彼はオーストリア人であったが、ドイツによって国を併合された結果ドイツ人となり、活躍した時代がナチスの時代と重なるためか、戦後の建築家としての評価はほとんど聞かない。

 

アルヌルフ・ペッツォルトの設計した葉山の別荘

 

一方彼の両親の方は戦後も一定の評価を受けている。父親ブルーノ・ペッツォルトは1910年12月8日に『ケルン紙』の特派員として東京へ来た。14年に第一次世界大戦が勃発し日本とドイツは交戦関係となるが、その間もペッツォルト一家は日本に留まる。しかしながら新聞社の仕事は辞める。

 

戦争の終わった1917年以降ドイツ語およびドイツ文学の教師として第一高等学校、中央大学などで43年まで教鞭をとる。第二次世界大戦後の48年には天台宗から「僧正」の位が授けられる。妻ハンカは著名な音楽家であったが37年に亡くなる。ふたりのお墓は比叡山にある。

 

第一次世界大戦後間もなくの一家の様子が(『一筋の道:一法学者の随想』田中誠二)に記されている。田中は1918年に続き19年も夏休みを軽井沢で過ごす。

 

「この年の思い出としては、前記の友人とともに、一高時代のドイツ語の恩師ぺッツォルト先生の別荘を訪ね、先生と令夫人及び令息にお目にかかり種々の雑談をしたり(ドイツ語会話の練習の目的もあったかもしれない)、また有島武郎氏を三笠ホテル近くの別荘に訪ねた(後略)」

 

ここから分かるように終戦の2年後、ぺッツォルト一家は軽井沢で過ごしている。文中の先生はブルーノ、夫人はハンカ、令息はアルヌルフの事である。別荘の場所は旧軽井沢の一番三笠ホテル寄りの半田善四郎貸別荘であると筆者は考え、以下にその根拠を述べていく。

 

次の地図は草軽電気鉄道(1962年廃止)が軽井沢駅方面から来て三笠駅を過ぎ、弧を描いて方向を変えるあたりで、その内側が主題の地区である。上の2500番台は前田郷で、1930年代に入り開発された地域でそれまでは深い森のはずである。

「輕井澤別莊案内圖」(1935年 国会図書館デジタルコレクション)

 

この半円の内側をドイツ人がまとまって住み、ドイツ人村を形成し『匈奴の森』と呼んだのは堀辰雄が最初であろう。1935年の「新潮」1月号に『匈奴の森など』というタイトルで次のような文章を書いている。

 

舞台は軽井沢である。北方2キロくらいになんか原始林の真ん中に取り残されたように小さな森がある。ドイツ語のあだ名がついている「匈奴の森(フンネン・ヴェルトヘン)」という。ドイツ人ばかりが住んでいる。夕方など、この森からどうかするとフルートの音のようなものが漏れてくるのです。

欧州大戦中ずっと、ドイツ人ばかりこの森に集って、他の部落とは全く没交渉に暮らしていた。その時他の外国人がこの森にそんな名前を付けた。

 

補足をすればドイツは第一次世界大戦では日本、英仏などを敵に回した交戦国となった為、軽井沢でも彼らとはなるべく交わらずに暮らしたのであった。ペッツォルト家もその一例だった。また音楽が好きなのもドイツ人の特徴だ。

 

また堀辰雄はかなりドイツ語が達者であったか、ドイツ人とずいぶん交流があったと筆者は考える。彼が書く「フンネン・ヴェルトヘン」はドイツ語ではHunnenwäldchenで決して多用されるドイツ語ではないからだ。調べると堀は1921年4月に第一高等学校理科乙類(ドイツ語を第一外国語とするコース)に入学している。

 

さらには1920年代後半に軽井沢2463番で夏を過ごした松江高校のドイツ語教師であったフリッツ・カルシュは自分の家の辺りを「匈奴の森」と表している。ドイツ人自身もこの表現が気に入ったようだ。カルシュ一家は先の地図の赤丸の部分で、半田善四郎の貸別荘であった。隣りはやはり帝大教師を務めたシンチンガーが借りている。

 

川端康成も『高原』の中で、第一次世界大戦で軽井沢の奥に森に肩身狭く、隠れるように住んだことが「匈奴の森」と言われる起源としているし、他にもその時代の何人かの作家が、この辺りを作品の中で「匈奴の森」と表している。当時はかなり人口に膾炙した地名であった。しかしその呼び名は1940年以降は消えた。日独連携でドイツ人の立場が強固になり、軽井沢でもひっそりと暮らす必要がなかったからであろう。

 

その後太平洋戦争となり、日本がアメリカ機の空襲にさらされるようになると、ドイツ人も疎開をし軽井沢はその候補地となった。この時ペッツオルト家は軽井沢の24XX番の、先のカルシュと同じく半田善四郎の貸別荘に疎開した。そしてこの時も、周りには多くのドイツ人が疎開している。昔からの名残であろう。

 

貸別荘はその多くはひとシーズンを通して貸し、毎年同じ家族が借りたようだ。とすると1919年に田中誠二が訪ねたペッツォルト先生の別荘も同じ24XX番であったか、違ってもその周りの同様の貸別荘であったことは間違いない。

 

ペッツオルト家の隣に疎開したのはハインツ・メイベルゲンであった。今は昔の様な深い森の印象はない。

 

第一次世界大戦直後はまだ令息であったアルヌルフはその後ドイツで建築の勉強をし、戻って日独会館を設計したものの2年足らずに空襲で破壊された。相当失意の中にあったのではないか。そして戦後まもなくの1948年、アルヌルフは再びドイツから切り離されたオーストリアには戻らずカナダに移り住む。心中いろいろ思うことがあったのであろうと推察する。父ブルーノは1949年、日本で亡くなる。

 

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