に引き続き、
少し。
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宗教の本性
誰が「私」を救うのか
著者 佐々木閑
発行所 NHK出版
2021年6月10日
こちらの本は、「サピエンス全史」
を教材として、
話が進んでいきます。
苦しみから逃れる二つの方法
(前略)
こうした不満や不安から生じる苦しみを逃れるためには
二つの方法があります。
第二講のときに一度答えを出しているのですが、
改めてご説明しましょう。
一つは
「私の願いを叶えてください、もっと幸せにしてください」
と何かにお願いし、
その「何か」の力を信じて生きるという方法です。
キリスト教やイスラム教などの一神教は、こうした
「願望の実現を信じることで苦しみを消滅させる」
という考え方をベースに生まれた宗教と言っていいでしょう。
神がこの世界に実在していて、
私たちをよい方向に導いてくれると信じられるならば、
この方法はきわめて有効です。
一神教の神は万能ですから、
私たちが抱く最高の望みさえも叶えてくれます。
それは、
「死んだ後も、永遠に幸福な状態で生き続けたい」
という途方もない欲求です。
それが叶うというのですから、
そこに熱烈な信仰心が生じるのは当然のことです。
もちろんこれは、心の底から
神の存在を信じることができた場合の話であって、
そうでない人にとっては、神に祈ったところで、
必ずしも願いが叶うかどうかは確定しないのですが、
信じようと努力する価値はあります。
なぜなら、
たとえ現時点で自分の望みどおりにいかなかったとしても、
「願いはいつか叶う」と感じ取ることで、
心が安定するからです。
死を目前にして苦しんでいる人の場合も、
「死んだ後は魂が神によって救われる」
と信じることができたならば、
死への恐怖や不安は一気に薄らぎます。
この一神教の教えと似ているのが、
阿弥陀仏や、『般若経』『法華経』などの
経典そのものに人を救う力があるとする大乗仏教の教えです。
これまでも何度か触れてきた阿弥陀信仰では、
「南無阿弥陀仏」という信仰の言葉をとなえて
阿弥陀仏におすがりすれば、
死んだ後には極楽浄土に行けると説きました。
そのため日本では、荒廃が進む平安時代末期から
鎌倉時代にかけて広く庶民に受け入れられ、
それ以降の長い間、死の苦しみから逃れる
ありがたい教えとして信奉されてきました。
しかし、前講の最後でも触れたように、
科学的世界観が浸透した現代社会において、
神や阿弥陀仏の存在を
本気で信じられる人は稀な存在となりました。
一般的な日本人はもちろん、伝統的な一神教の世界でも、
大多数の人は科学の真理と、
「新宗教」である資本主義や共産主義、
あるいは国民主義、人間至上主義といった
イデオロギーを信じて生きているのが実態でしょう。
ただ問題なのは、
そうした新宗教は
「現世の幸福を追求するための指針」
にはなりますが、
老・病・死の苦しみ
を和らげるものにはならないという事実です。
つまり、「死にゆく私を支えるもの」にはなりえない。
かつての一神教や阿弥陀信仰にはそれがありましたが、
今では本気で
その世界観を信じる
原理主義的な人以外を救う力を有してはいません。
では、(私も含めて、)
外部の超越存在を信じることができない人たちは、
どうすれば苦しまずにこの世界を生きられるのでしょうか。
そこで二つめの方法として考えられるのが、
私が惹かれた「釈迦の仏教」に従う――という生き方です。
釈迦が、神や神秘にすがるのではない、
別の方法によって苦しみからの却を説いたことは、
すでに第二講でもお話ししました。
いわく、
「苦しみを消滅させる唯一の方法は、
欲望の充足を望むのではなく、
欲望そのものを消すことである」。
もっと幸せになりたいと願うのは、
生まれながらに備わった人間の本能であるが、
それが我々の苦しみを生むのだ。
だから、苦しみを消すためには、
その願望を消すしかない――。
要するに、釈迦は
「本能とは逆を向いて進みなさい」
と言ったのです。
これは、非常に優れた見識だと私は思います。
瞑想は自分で自分を変える修行
仏教の修行というのは自己改良の道なので、
外から与えられたやり方をマニュアルどおりに
たどっていけばうまくいくというものではありません。
実際には、釈迦が残した多くの教えに触れながら、
そしてよき先輩のアドバイスを受けながら、
自分であれこれ工夫しながら自分を変えていく。
それが「道諦」の本当の意味なのです。
とはいえ、そんな説明ではもの足りない
と思われるかもしれませんので、
修行の基本となる
「瞑想」
について、少し解説しておきましょう。
皆さん、瞑想という言葉はご存じですね。
本来は「冥想」と書くのが正しいそうですが、
今は一般的に用いられている瞑想という表記を使います。
さてそれで、仏教の瞑想とは
何を目的にしているのでしょうか。
「何も考えずに心を無にするため」
とか
「日常を離れて癒やしを求めるため」
とか
「変性意識(トランス)状態に入り神秘的な体験をするため」
といった答えが返ってきそうですが、
それは皆、煩悩を消すための瞑想ではありません。
仏教における瞑想の目的は、
癒やしや神秘体験ではなく、
自分の価値観・世界観を徐々に変えることにあります。
価値観を変えると言っても、
瞑想中に突然ピカッと光のようなものが見えて、
一瞬にしてそれまでの価値観や世界観
が変わるわけではありません。
瞑想に神秘体験を期待する気持ちもわからなくはありませんが、
古代インドに伝わる仏教の文献を見ても、
神秘体験をして一瞬にして悟りを開いたという話は見当たりません。
釈迦の場合も、菩提樹の下で悟りを開きましたが、
いきなり瞬間的に真理が見えてきたわけではなく、
悟りはあくまでも長い修行生活で瞑想を続けた結果であり、
智想の力でじんわりと真理が見えてきたと言われています。
先の五比丘やそのほかの弟子たちに至っては、
皆が釈迦から教えを受け、
その指導に従ってトレーニングを積んだ結果としての悟りですから、
どこにも電撃的、神秘的体験などありません。
釈迦がインストラクターの先生で、
弟子たちが先生の指導で日々の修行に励む、といった情景ですね。
個人的な話になりますが、
私はタイのチェンマイの近くにあるお寺に毎年のように足を運び、
実際の出家生活を体験させてもらっています。
そのお寺で瞑想を指導してくれている修行僧が、
瞑想をはじめる前にこんなことをおっしゃっていました。
「長い時間瞑想していると、
いろんな光や不思議なものが見えたりしますが、
それは当たり前のことなので無視してください」と。
もしも光が見えたら、
何かとんでもないことが起こりそうですが、
それは誰でも普通に見えるもので、
悟りや修行とはまったく無関係だと言います。
たしかに、とくに疲れているときなどに長い間じっとしていると、
何か見えた気にもなるでしょう
(皆さんも、ちょっと試してみてください)。
それを宗教体験だと語る宗教もあるようですが、
何が見えようが、
自分の心の内が変わらない限り、
生きる苦しみは消せないのです。
それでは、仏教における瞑想とは、
具体的にはどういうものなのか。
まず、瞑想中は呼吸を整え、精神を集中して
「自分が今、何を考え、何をしているのか」
を客観的に観察する状況をつくります。
もう一人の自分が、座っている自分を見ている――
そんなイメージです。
次に、
「私は今やってはいけないことをやっている。
今やってはいけないことをやらなくなった……」
というふうに、
他者として自分の心の中を観察しながら
煩悩を消すトレーニングを続けていきます。
これが、第二講で引用した、
ハラリさんが説明していた
釈迦の瞑想術――
「私は何を経験していたいか?」
ではなく
「私は今何を経験しているか?」
――です。
それを毎日繰り返していくことで、
自分の内面が少しずつ変わっていき、
やがては波立たない自分になっていきます。
そして、その悟りに至るトレーニングブログラム
を後世の人たちに説き残してくれた釈迦の教えは、
神秘でもなければ、人智を超えたものでもありません。
「これこれこうすれば必ず最終目標に到達できる」
という、一歩ずつの登り方を教えてくれる
親切なステップガイドなのです。
そのように言うと、
「なんだか面倒くさいな。
自分の価値観を変えたいのなら、
瞑想なんかしなくても
いろんな人生経験を積めば変わるだろうに」
と思った方もいるかもしれませんね。
しかし、仏教が瞑想修行を重視するのには、
もちろん理由があります。
たしかに、
さまざまな出来事を経験することで人の価値観は変わります。
しかし経験というのは、
「自分を変えたい」と思って自ら積み重ねるものではありません。
向こうからたまたまやってきた出来事によって
自分が変えられていくのが人生経験です。
それに対して仏教の瞑想修行は、
変化が向こうからやってくるのを待つのではなく、
自分から積極的に自分を変えるほうへと向かうのです。
自分を変えてくれる経験が訪れることを待っていては、
いくら時間があっても足りません。
そのために仏教では、自分で積極的に
自分を変える手段として瞑想修行を取り入れたのです。
自分の力で少しずつ心の煩悩を消していくというのが
「釈迦の仏教」の基本ですから、
その道のりは長く、歩みはゆっくりです。
釈迦でさえ悟りを開くまでに六年もかかりました。
「昨日と比べて今日は少し変わってきた、
明日はもう少し変わるかもしれない⋯⋯」
といった具合に、
徐々にステップアップしながら自分を変えていくのが
「釈迦の仏教」の修行です。
そうなると、「釈迦の仏教」という薬は、
たとえば病に罹って死期が迫ったときの特効薬にはなりえませんが、
体質を改善し抵抗力を高めていく漢方薬のようなものですから、
日ごろから飲み続けていくことで、
いざというときに効果を発揮してくれます。
釈迦が説いた
「諸行無常」
「諸法無我」
という事実を我が身のこととして取り入れ、
普段から煩悩を消す努力を続けていれば、
死に直面したときにも恐怖を感じずに済むかもしれません。
自分という存在を、
絶対ではない、
苦しみだけの世界の中へ
たまたま現れた偶然の産物に過ぎない
と理解するなら、
「永遠に生き続けたい」
という執着は消えます。
そうしたすべての苦しみが安楽へと転換した世界こそが
「涅槃寂静」なのです。
佐々木さんもハラリさんも
初期(原始・小乗・テーラーワーダ)仏教
に惹かれているようですね。
まだまだ私は、
いろいろなことが知りたい
という段階です(笑)。
ちなみに今をときめく
シェフラー
は敬虔なクリスチャン
のようです(笑)。
それでは皆様、本日も
楽しくお過ごし下さい。
最後まで読んで頂き、
ありがとうございました。
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