山背国の東寺めぐり① ~伏見稲荷大社御旅所~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

京都の
東寺(とうじ)
をめぐります。

まずは、東寺の
500メートル東にある
伏見稲荷大社御旅所
(ふしみいなりたいしゃおたびしょ)

です。



社名のとおり
伏見稲荷大社
の御旅所であり

4月~5月におこなわれる
稲荷祭(いなりまつり)

では

伏見稲荷大社から
神輿(みこし)が渡御する

といいます。

 



かつては、

八坂(やさか)神社
祇園祭(ぎおんまつり)

上賀茂(かみがも)神社
下鴨(しもがも)神社
葵祭(あおいまつり)

とならんで

京都三大祭のひとつ
とされていたようです。



伏見稲荷大社から
御旅所へ渡る御神事を
神幸祭(しんこうさい)
といい、

20日間ほど
御旅所に滞在
したのち

御旅所から
伏見稲荷大社へ戻る神事を
還幸祭(かんこうさい)
というようです。

 

滞在中は、御旅所も

おおくのひとでにぎわうといいます。



御旅所の滞在中に
5基の神輿はそれぞれ
氏子区域を巡幸するといいます。

「下之社」は
塩小路・中堂寺をめぐり

「中之社」は
西九条をめぐり

「上之社」は
東九条をめぐり

「田中社」は
不動堂をめぐり

「四之大神」は
東寺・八条をめぐるようです。

5基は伏見稲荷大社の祭神である
5柱の神々を乗せているのでしょう。

 



伏見稲荷大社では、

下社(中央座)・
宇迦之御魂大神
(うかのみたまのおおかみ)


中社(北座)・
佐田彦大神
(さたひこのおおかみ)


上社(南座)・
大宮能売大神

(おおみやのめのおおかみ)

下社摂社(最北座)・
田中大神(たなかのおおかみ)

中社摂社(最南座)・
四大神(しのおおかみ)

を祀るといいます。

古事記・日本書紀には
これらの神々について
ほとんど載っていないので

この神々がいったい
どういった存在なのか
議論がつづいているようです。

 



ホツマツタヱによれば
稲荷信仰は

『ハタレの動乱』
にはじまるらしく

ハタレ(反乱軍)の一団・
キクミチ(狐憑き)が

皇軍カダのもとにくだって
カダの祖先にあたる

ウカノミタマ(ウケモチ)
を祀るようになったといいます。


カダはのちに
荷田(かだ)氏

となって

伏見稲荷大社の
社家とされたようです。



伏見稲荷大社の祭神を
ハタレの動乱に
あてはめてゆくなら

佐田彦大神
『サタの宮』(佐太神社)
で作戦会議をひらいた

イフキドヌシ(伊吹戸主)
ソサノヲ(素戔嗚尊)


のことでしょうか?

【5基の神輿をおさめる奉安殿】

大宮能売大神
カダの娘にあたる
アチコ(天照大神の妃・北の局)や

オロチとなった
モチコ・ハヤコ姉妹
(天照大神の妃・北の局)
のことでしょうか。

彼女たちは、天照大神が
京丹後のミヤヅ(宮津)
御幸したさいに

つき従って
身の回りの世話をしたらしく

京丹後には
大宮賣(おおみやめ)神社
がのこっています。



田中大神は、ソサノヲの子・
オホナムチ(大己貴命)

田の豊穣を祈ったり
稲虫払いをおこなう
「カセフ祭」
にはじまり

祭祀をになうものを
タナカ(田中)神
といったようですね。

ですから、オホナムチを
田中神といったのでしょうか。

出雲(松江)の

佐太(さだ)神社では

田中神社が摂社として
祀られています。

 

日本に「田中」姓が多いのは

田を守る祭祀にあやかって

のことなのでしょうし

 

ひとびとの暮らしを守った

オホナムチ(大己貴命)に

あやかってでもあるのでしょう。

 

ホツマツタヱでは、

「宝(たから)」の語源は

「田から」とされていますから

 

田は、豊穣のみなもととして

重要視されていたようです。



四(し)大神
子(し)の大神とすれば

モチコ・ハヤコ姉妹と
天照大神との御子にあたる

長男・ホヒ(天穂日命)
長女・タケコ(田心姫命)
次女・タナコ(湍津姫命)
三女・タキコ(市杵島姫命)


という

4人の御子こと
でしょうか?

また、
出雲では四大神といえば

能義神社(のぎじんじゃ)
熊野大社(くまのたいしゃ)
佐太神社(さだじんじゃ)
出雲大社(いずもおおやしろ)


のことだそうです。
祭神には諸説ありますが

能義神社では
長男・ホヒ

熊野大社では
ソサノヲ(素戔嗚尊)

佐太神社では
佐太御子大神(イフキドヌシ?)

出雲大社では
オホナムチ(大己貴命)

が祀られています。

 



このように、

ハタレの動乱と稲荷信仰は
深い関わりがあるようです。


ではなぜ、そんな
伏見稲荷大社の神々が

京都駅ちかくまで
遠出するのかというと

東寺の住職となった
弘法大師・空海(くうかい)
との関係によるといいます。

 


空海は、東寺の
五重塔や講堂などの
建築資材を

伏見稲荷大社のある
稲荷山(いなりやま)

から求めたそうです。

方位から、守護として
稲荷山を選んだようですが

一説によれば、
空海の母方は
カダ(荷田)氏の出身

ともいわれるらしく

空海とカダの関係も
なみなみならぬのものが
あるようです。

 



稲荷山には、かつて
荷田竜頭太(かだのりゅうとうた)
が暮らしていたといいます。

昼は田をたがやし
夜は山で薪をとったらしく

 

田をひらいて

稲を荷う(かつぐ)ものから

荷田といったようです。

稲荷山の山神であり
顔は龍のようで
頭のうえには光を放つものがあり
夜でも明るかったそうです。

空海は竜頭太から
稲荷山をゆずりうけた

ともいうようですね。

また、
竜頭太の面を彫って
東寺の竈戸殿においた
ともいうようです。



さらに、東寺には
稲荷大神が空海を訪ねてきた
という伝承もあるようです。

稲荷大神は、
稲を荷った(かついだ)

翁の姿で


空海の人生の節目に
たびたびあらわれたらしく

空海は仏法を弘めるために
守護を願ったといいます。



はじめて出会ったのは
唐に渡っていたころですから
空海31・2歳のときのようです。

つぎは、帰国してすぐ
大宰府で足止めされた
34・5歳のときだそうです。

さらに、

高野山(こうやさん)をひらいた
空海が43歳のときにも
あらわれたといいます。

そして、最後が
東寺の住職となった
空海50歳のときだそうです。

稲を荷った翁の姿で
ふたりの婦人と
ふたりの子どもをともない

東寺の南門から
やってきたといいます。

 



空海は

翁たちを手厚くもてなし
御饌や菓子を献じた

といいます。

さらに、ちかくの八条にあった

二階観音堂(にかいかんのんどう)

に住まわせた(祀った?)
ともいうようです。

これは、いまでは
泉涌寺境内に遷ってしまった
善能寺(ぜんのうじ)
のことらしく

善能寺の境内には
日本で最初に祀られた
稲荷大明神がある
といいます。

稲荷の翁のことを
柴守長者(しばもりちょうじゃ)
といったのか、

二階観音堂の地にあった邸を
柴守長者の邸といって
稲荷翁を招いたのか
 

諸説あるようですが、

二階観音堂の地
柴守長者の地というのが

ここ、
伏見稲荷大社御旅所の地
だといいます。

 



柴守長者の地は
柴守長者の子孫にあたる

薩摩守(さつまのかみ)・
良峯(よしみね)
に譲与されたといいます。

良峯といえば、
桓武天皇の御子である
良岑 安世(よしみね の やすよ)
がいるそうですが、
関係あるのでしょうか?



東寺によれば、

伏見稲荷大社の創建も
空海にはじまるらしく

空海が唐よりもちかえった
真言密教(しんごんみっきょう)の
荼枳尼天(だきにてん)


稲荷神として

世に広めたとされるようです。

こうした関わりから
いまでも稲荷祭では

 

神輿が東寺にたちよって
饗宴を受けるといいます。

 



御旅所にある社殿は

南北にならんでいますが、


参道中央には

稲荷大神を祀る
稲荷社があります。

そして北側には
上命婦社・下命婦社があります。

 

命婦(みょうぶ)とは

天皇に仕える女官のことですが

 

ここでは

稲荷翁につきしたがっていた
2人の婦人のことでしょう。



南側には
神宮社があり

天照大神と
豊受大神が
祀られていますが

これも、もともとは
稲荷翁がつれていた
ふたりの子どもが祀られていた
のではないでしょうか?

 



御旅所の地はかつて
坊門猪熊(ぼうもんいのくま)
に中社と上社が

七条油小路に
下社がそれぞれあった
といいますが

豊臣秀吉の太閤検地のさい
柴守長者の邸の地に遷された
といいます。


東寺と伏見稲荷大社
空海と稲荷信仰の
ふかいふかい関係を
みることができる場所ですね。
 

 

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