山背国の葵祭⑤ ~葵祭~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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神社めぐりをしています。
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さくっとまとめてます。

京都三大祭りの
ひとつにして、

朝廷より
勅使(ちょくし)が派遣される
三勅祭(さんちょくさい)の
ひとつでもある

葵祭(あおいまつり)です。




日本最古の祭ともいわれ、

上賀茂(かみがも)神社

祀られている
別雷神(わけいかづち)

神山(こうやま)

降臨したときにはじまったとか、


567年、
欽明(きんめい)天皇の世に、

五穀豊穣の祈りとして
賀茂大神(かものおおかみ)
馬の駆競(かけくらべ)を
奉納したのが

はじまりといわれているようです。



平安京への
遷都以前から
行われていたというのは

とても興味深いです。

朝廷とも
深く関わるこの祭は、


庶民の祇園祭にたいして
貴族の祭ともいわれ、

おおくの貴族が
見物に出たといいます。



毎年、

5月15日におこなわれ、

関西では、

斎王代(さいおうだい)に

だれが選ばれたのかや、

 

斎王代の禊の儀式が
ニュースになります。

しかし、祭の主役は
勅使代(ちょくしだい)

だといいます。

源氏物語では、
光源氏が勅使代を務め

見物にきた
葵上(あおいのうえ)と
六条御息所
(ろくじょうのみやすどころ)が
車争いをしたといいます。


 

葵祭は、

宮中の儀
路頭の儀
社頭の儀

の3つにわかれており、

一般客が見物できるのは、
街中を闊歩する
『路頭(ろとう)の儀』です。

参列者は

美しい着物で

飾られていますが、
 

みないちように、
葵の葉と桂の葉を
まきつけた

葵桂(きっけい)を
身につけています。



もとは

葵だけだったともいい、

これが葵祭の

語源になっているともいいます。

 

ただし、

葵を身につけるようになったのは

江戸時代からだといいます。

 

それ以前は、

賀茂祭(かものまつり)と

いわれていたようです。

 

 

応仁(おうにん)の乱以降、

途絶えていた賀茂祭を

復興させたのは

徳川家(とくがわけ)だといいます。

 

徳川家も

三つ葉葵の家紋にみえるように

もとは賀茂氏であるので、

 

家康の信奉も

厚かったといいます。

 

 

が、
これもホツマツタヱを思えば、
天孫・瓊瓊杵尊(ニニキネ)が

息子の嫁である
豊玉姫(とよたまひめ)を説得しに
貴船(きふね)神社まで行ったさい、

賀茂(神)山にて、
葵の葉と桂の葉を
採っていったことが
思い起こされます。

では行列を

頭から観て行きましょう。



まずは先頭をゆく
肝煎(きもいり)です。

 

催方(もよおしがた)とも

いうようです。


 

つづいて
神社で競馬会(かけくらべえ)を
奉納する乗尻(のりじり)です。

 

左方(さかた)と

右方(うかた)で

衣の色が違うそうです。

 

また手綱をひくのは
無位の役人である
雑色(ぞうしき)だそう。



そのうしろは、
検非違使(けびいし)という

警護にあたる役人たちです。

 

藍色の方は

素襖(すおう)といい

江戸幕府から派遣された

警備員だといいます。


ピンクの方は
火長(かちょう)や

看督長(かどのおさ)といい

 

警官や巡査のような

方々だといいます。



騎乗しているのが、
検非違使志(けびいしさかん)で、

警察・裁判を司どるといいます。

 



その後ろには、
如木(にょぼく)という
身分の低い役人が

ついているといいます。



つづいて騎乗しているのは
検非違使尉(けびいしじょう)で、

 

検非違使志より上位だといい、

警備の最高責任者だったそうです。

 

うしろには
調度掛(ちょうどかけ)や



鉾持(ほこもち)が

つづきます。


 

こちらは
山城使(やましろのつかい)で、
山城国司の使いであり、

馬副(うまぞい)
という馬丁と




手明(てあき)
という雑用、

童(わらわ)という
笏もちを連れています。

 



さらに
御幣櫃(ごへいびつ)の
守護にあたる兵士の
衛士(えじ)や、


 

御幣櫃をはこぶ雑用の
白丁(はくちょう)がつづき、

 


 

御幣物をつかさどる
内蔵寮史生(くらりょうのししょう)と、

 

その馬を管理する

馬寮使(めりょうつかい)、

 

さらに
御馬(おうま)を世話する
馬部(めぶ)がつづきます。

ここでようやく

控えていた牛車が

動きだしました。



先頭で綱をひくのは、
牛童(うしわらわ)で、

横には差配人の
車方(くるまかた)がつき、

車の修理をする
大工職(だいくしょく)が
後ろについているといいます。


さらに牛車に乗るための
梯子をもつ
棧持(さんもち)

牛車の前を支える台を持つ
榻持(しじもち)

合羽をかける
掛竿(かけさお)や

合羽を車にかける
雨皮(あまがわ)

六弦琴をもつ
和琴(わごん)
がつづくそうです。

そしてここに、
路頭を清めるために
梅の新芽の枝をもつ
退紅(たいこう)がいるといいます。

 



こちらは、

社頭の儀で
東游(あずまあそび)を舞う
舞人(まいうど)だそうです。

馬の口をとるのは
舎人(とねり)だといいます。

そのうしろには
雅楽を奏する
陪従(べいじゅう)や、


雑用の
走雑色(はしりぞうしき)が
つづいて、

 

こちらに

騎乗されているのが

勅使代です。

 

または

近衛使代(このえつかいだい)とも

いうようです。

 

綱をとるのは、
馬役人である
朧(くとり)といい、

馬のうしろには、
飾馬の鞍覆をもつ
居飼(いがい)がついてきています。




近衛府の武官である
随身(ずいじん)と、

飾馬に馬具をつける
手振(てぶり)、


勅使の替馬で、
帰路に乗るという
牽馬(ひきうま)がつづいて、



祭列に豪華さをます
風流傘(ふうりゅうかさ)をもつ
取物舎人(とりものとねり)たちが

見えてきました。

 



内蔵寮の次官である
内蔵使(くらつかい)は
社頭の儀で奏上する祭文を
もっているといいます。

ここまでが
近衛使代の列です。

ここから
斎王代の列へとはいります。



命婦(みょうぶ)という
高位の女官にはじまり



すぐに
斎王代(さいおうだい)が
あらわれます。



斎王代には、

お稚児さんがついています。

 

 

続いてみえるのは、
騎女(むなのりおんな)という
馬にのる巫子(みかんこ)です。

 



さらに
女別当(おんなべっとう)という
内侍以下の監督係がつづいて、


女嬬に指図する
内侍(ないし)と、

食事をつかさどる
女嬬(にょじゅ)が

ずらりとならんでいます。



こちらは、
蔵人所で雅楽を奏する
蔵人所陪従
(くろうどどころべいじゅう)

だそうです。



そのうしろを
斎王代の牛車が
つづいて……

 

 

行列は

ここで終わりです。

その長さは
約1キロにもなるといいます。

御所の西にある

宣秋門(ぎしゅうもん)

清所門(せいしょもん)から

出た一行は、

 

御苑の南門である

堺町御門を抜けて

北上し、

 

下鴨(しもがも)神社

目指します。

 

ですので次は、

下鴨神社へ追いかけます。

 

 

山背国の葵祭⑥ へ つづく

 

 

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