山背国の葵祭④ ~京都御苑・厳島神社~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

京都御苑(ぎょえん)にある
3つの神社のうちのひとつ
厳島(いつくしま)神社です。


勾玉(まがたま)池に

鎮座するこの神社は、


広島の厳島神社から
勧請されたといいます。

しかし当初の鎮座地は

ここではなく、
 

兵庫の沖に築かれた

経が島(きょうがしま)に
あったといいます。



以前、兵庫の
生田(いくた)神社
守護するようにならぶ
8社めぐりへ行きましたが、

そのうちの
七宮(しちのみや)神社
由緒が残っていました。



神功(じんぐう)皇后
三韓征伐の帰路、

兵庫の

会下山(えげやま)の麓に
大国主(おおくにぬし)の御霊を
祀ったといいます。

それから

およそ千年後、

 

平清盛(たいらのきよもり)は
日宋貿易の

港拡大と防波のため

 

兵庫津に人工島を

築造したといいますが、

その際
会下山の南にあった
塩槌山(しおづちやま)の
土砂を使ったところ、

事故や天変地異が相次ぎ、
工事が難航したといいます。



そこで清盛は、

これは会下山の

大国主の祟りに違いないとして、
七宮神社の地に遷して祀り、


さらに埋め立て用の石
ひとつひとつに
お経を書いたといいます。

すると災いはおさまり、

島が完成したことから、

 

その島を
経ヶ島というようになった

といいます。

そしてその経ヶ島に、
広島の厳島神社から

宗像三女神(むなかたさんじょしん)
勧請したのが、

京都御苑にのこる
厳島神社の前身だそうです。

 



京都御苑に遷座したのは
時期不明だそうですが、

すくなくとも
1771年にはすでにこの地に
あったといいます。

また、経ヶ島では
清盛の母の御霊も
祀っていたといいますが、

御苑に遷座のさい、
より有名な伯母である
祇園女御(ぎおんのにょうご)へ
変わったといいます。

実際、
清盛は祇園女御とも
親子関係を結んだ(猶子)
といいますから、
間違いではないようです。

 



そういう縁があってか、
社殿のまえには

平清盛が建てたという
唐破風(からはふ)鳥居が
ありました。



これは

とても珍しい形をした鳥居で、

北野天満宮(きたのてんまんぐう)
伴氏社(ともうじしゃ)の石鳥居、

木嶋坐天照御魂神社

(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)の
三柱(みはしら)鳥居とならんで、
 

京都三珍鳥居のひとつに

数えられているといいます。

 

もちろんこれも、

経ヶ島から移築されたもの

だといいます。


また、
厳島神社のある勾玉池は、
九条池(くじょういけ)ともいい、

五摂家(ごせっけ)の
九条家の邸跡といいます。



九条家の別荘であったという
拾翠亭(しゅうすいてい)は、

こうして池のほとりに残っており、

入場料100円で
見学もできるといいます。

この九条家をふくむ、

近衛家(このえけ)

二条家(にじょうけ)

一条家(いちじょうけ)

鷹司家(たかつかさけ)を

 

五摂家といい、

いずれも藤原北家の

流れをくむといいます。


やはりこのあたりは、
藤原北家ゆかりの地

でもあるようです。



さらに、
京都御苑内の3神社

 

宗像神社

白雲神社

厳島神社


では

すべて弁財天として
宗像三女神を祀っているのも
とても不思議なことです。



ところでこの
勾玉池(九条池)ですが、

 



池が勾玉というより、
島が勾玉のようですね。

下鴨(しもがも)神社

糺の森(ただすのもり)とも

形が似ているようです。



さあ、いよいよ
葵祭(あおいまつり)の

準備が整ったようです。
 

次回からは

葵祭へと入ってゆきます。

 

 

山背国の葵祭⑤ へ つづく

 

 

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☆葵祭の全記事リスト☆

山背国の葵祭① ~京都御苑・宗像神社~
山背国の葵祭② ~京都御苑・白雲神社~
山背国の葵祭③ ~京都御苑・京都御所~
山背国の葵祭④ ~京都御苑・厳島神社~
山背国の葵祭⑤ ~葵祭~
山背国の葵祭⑥ ~下鴨神社~
山背国の葵祭⑦ ~深泥池貴舩神社~
山背国の葵祭⑧ ~上賀茂神社~