山背国の東寺めぐり② ~綜藝種智院~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

伏見稲荷大社御旅所
北の鳥居をぬけて

100メートルほど
西へむかった辻にあるのが
西福寺(さいふくじ)
です。

門前には
「安産石薬師如来」
の石碑とともに

『綜藝種智院跡』
の石碑があります。



綜藝種智院(しゅげいしゅちいん)
とは、

東寺の住職となった
空海(くうかい)がひらいた

私設の学校です。

 


そもそも、
『学校』というものは

奈良時代の
大宝律令にはじまる
といわれるらしく

役人(官吏)の
養成機関とされたようです。




中央の都には
大学(だいがく)[大学寮]
がおかれ

地方の国々には
国学(こくがく)
がおかれたといいます。

大学は寄宿制で
・明経道(経学[儒教])
・明法道(法律)
・文章道(漢詩文・歴史)
・算道(数学)
などの教科があり

五位以上(もしくは八位以上)の
貴族の子弟が
入学を許されたようです。


また、国学では
郡司(地方官)の子弟が
儒教を学んでいたといいます。

 



ただ、これらは
狭き門でしたので

有力氏族はそれぞれ
大学のすぐちかくに
勉強所と寄宿舎をかねた

私設の学校を
おいたといいます。

 



和気氏
和気広世(わけのひろよ)は
大学の南の私邸に
弘文院(こうぶんいん)
をひらき(806年?)

藤原氏北家の
藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)
勧学院(かんがくいん)
をひらき(821年)

橘氏
壇林(だんりん)皇后[橘嘉智子]
橘氏公(たちばなのうじきみ)は
学館院(がっかんいん)
をひらき(847年?)

在原氏
在原行平(ありわらのゆきひら)は
奨学院(しょうがくいん)
をひらいた(881年)

といいます。

いずれも、のちに
大学寮の寄宿舎として
公認されたらしく

大学別曹(だいがくべっそう)
といわれたようです。

また、
大学寮が運営する寄宿舎は
直曹(じきそう)
といわれていたそうですが

これは、のちに(834年ごろ)
菅原氏の大学別曹となり
文章院(もんじょういん)
といわれたようです。

ただ、これらは
貴族による貴族のための
官吏養成機関であり

庶民が勉強するための
場所ではなかったようです。



庶民の学校としては
奈良時代に

吉備真備(きびのまきび)
平城京の私邸に

二教院(にきょういん)
をひらいたのが
はじまりだといいます。

ここでは、
儒教を仏教を教えていた
といいます。

また、同時期には
石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)

日本初の公開図書館ともいわれる
芸亭院(うんていいん)
をひらいたようです。

しかし、これらは
平安京への遷都ともに
廃れていったようですね。

 



そこで、
弘法大師・空海は

平安京にも
庶民が学ぶ場所をつくるべく

綜藝種智院
をひらいたといいます。

ここでは、
身分の貴賤も関係なく
学ぶことができたようです。

 



空海は
教育理念や運営について
『綜藝種智院式』

を残しています。

ひとが身を立てて世を治めたり
悟りの世界を楽しむには

あらゆる学芸に
通じていなければならないのに

学者は唐の書物を読むばかり
僧侶は経を唱えるばかりで

ひろく知ろうとしないことを
空海は嘆いていたようです。

 



そこで、
綜藝種智院では

『九流(きゅうりゅう』
(古代中国の9つの思想)
[陰陽家・儒家・墨家・法家・名家・道家・縦横家・雑家・農家]

『六芸(りくげい)』
(古代中国の6つの教養)
[礼節・音楽・弓術・馬術・文学・数学]

『十蔵(じゅうぞう』
(インド仏教哲学の10種のこころの段階による社会学)

『五明(ごみょう)』
(インド仏教者が修得する5つの学芸)
[工巧明・医方明・声明・因明・内明]

を教えたといいます。

こうした、
この世のあらゆる知識を
ひろく学ぶことによって

ひとびとを救済してゆく
力としたようです。


仏教の慈悲心だけで
救うのではなく

自然の摂理や
科学技術
を利用して
インフラを整えたり

土木治水によって
食料供給を安定させたり

医療福祉によって
延命をさせたり

音楽や歌によって
豊かさをはぐくんだり

言語力によって
異国の良き文化を導入したり
間違いを論破して
糺してゆくことができる

としたようです。

こうやって、
精神的にだけでなく
生活に直結した救済も
重要視していたようですね。

 



ですから、教師も
仏教の僧だけでなく

世間の学問を教えるかたまで
呼んでいたようです。

もしも、
文字から学びたい学徒がいれば
慈悲心から子のように思い

貴賤や貧富にこだわらず
ていねいに教えるように


と教師の養成にも
力を入れていたようです。

さらに、
教育においては

勉強をする環境(場所)
勉強をする学問
勉強を教える師


のほかに

勉強に専念するための
衣食住の保障


が重要だとされていたらしく

綜藝種智院には
給食制まであったといいます。

そしてもちろん

学費も無料だったそうです。

ですから、
空海はこの施設の運営に
おおくの資金をかけていたようです。



「綜藝種智院」
という校名は

『大日経』にある
「妙慧慈悲兼綜衆芸」
からとっているらしく

あらゆる技芸を学ぶことが
人間本来に種として備わっている
仏智をひきだす


という理念によるようです。
これを略して
 

綜藝とは
「顕教・密教・儒教」

種智とは
「菩提心」

ともいうようですね。



綜藝種智院の設立には
藤原三守(ふじわらのただもり)
が私邸の地を提供したといいます。

三守は、第52代・

嵯峨(さが)天皇につかえた
重臣であり

最後は、第54代・
仁明(にんみょう)天皇につかえて
右大臣となったようです。

仏教にふかく帰依しており
天台宗や真言宗の
後援者だったといいます。

空海からも最澄からも
信頼を置かれていたようですね。

 

平安時代初期の大人物であり

このかたを中心とした物語を描けば

とても面白いかもしれません。

 

私邸がここにあったとなると

伏見稲荷大社御旅所の

柴守長者との関係も

気になるところです。

しかしながら、
空海が入定して
三守まで亡くなると

綜藝種智院は
運営がたちゆかなくなり
売却されたといいます。

東寺は、売却資金で
丹波篠山の地を買い
領田(のちの大山荘)
としたようですね。

空海あっての

綜藝種智院だった

ということでしょうか。

 

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