山背国の東寺めぐり③ ~東寺~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

京都・

平安京(へいあんきょう)

への遷都にあたっては

朝廷や政治に影響をあたえた
奈良仏教との関係を断つため

国家が造営した
2つの寺院以外には
新たに寺院を築いてはならない

としたそうです。

(もともと当地にあった寺院
平安京の外は含まないそうです)

2つの寺というのが
平安京の南門(朱雀門)・
羅城門(らじょうもん)の
東西に築かれたという

東寺(とうじ)
西寺(さいじ)
だといいます。

 



それぞれ、平安京の
右京左京を守護することから

東寺は
左大寺(さだいじ)

西寺は
右大寺(うだいじ)

ともいわれたようですね。

 



現在残っているのは
東寺のみであって

西寺は荒廃してしまい
唐橋西寺公園(からはしさいじこうえん)
となっているようです。



東寺の創建は、
遷都から2年後の
796年といわれ

藤原伊勢人(ふじわらのいせんど)
が造営したといいます。

南家の祖・

藤原武智麻呂(むちまろ)の
孫にあたるかたで

貴船(きふね)大神

の神託をうけて
鞍馬寺(くらまでら)

の前身を築いたかた
でもあるといいます。



東寺の
金堂(こんどう)

藤原伊勢人によって
造営がすすめられたもので

国立寺院にふさわしい
荘厳な姿が求められたようです。

 



1486年に焼失して
1603年に再建されたといわれ
桃山時代の代表的な建造物として
国宝とされているそうです。

 



本尊は
七仏薬師如来(しちぶつやくしにょらい)
といい

薬壺(やくこ)を持たない
古い様式の薬師如来なのだそうです。

光背には
7体の化仏を配し

台座には
十二神将像がぐるりと
守護しているといいます。

本尊の左右には
日光菩薩(にっこうぼさつ)
月光菩薩(がっこうぼさつ)

がならぶそうです。



ただ、こうして
国営の寺院・官寺(かんじ)
を築いたものの

遷都にあたっては
旧来の奈良仏教ではなく
新しい仏教が求められていた
といいます。

そこにあらわれたのが
仏教の秘密の教えを伝える
密教(みっきょう)

だそうです。


 

遣唐使となった

空海(くうかい)

は唐土へわたると

恵果(けいか)和尚に見いだされ
密教のすべてをさずかって

帰国したといいます。

そうして、日本に

密教の教えを弘めるべく
真言宗(しんごんしゅう)
をひらいたようです。

 


第52代・
嵯峨(さが)天皇

空海の真言密教に

帰依すると

823年に東寺を
空海に下賜された

といいます。



これによって、東寺は
真言密教の根本道場となり

いまでは、東寺真言宗の
総本山となっているようです。

 



また、国家鎮護の寺院として
教王護国寺(きょうおうごこくじ)
ともいわれたようです。

「教王」には

『王(天皇)を教化する』

という意味もあるらしく

 

密教による

国家鎮護を願った

ようですね。

 



この空海によって
講堂(こうどう)

五重塔(ごじゅうのとう)
などが築かれたようです。

講堂は、密教の教えを
ひろめ伝えるための場所
であり

境内の中心に

位置しているといいます。

巨大な金堂に迫る位置に
巨大な講堂を築いたのも

中心としたかったから
なのでしょうか。

 



ここには、密教の教えを
視覚的にあらわしたという

立体曼陀羅(りったいまんだら)
[羯磨曼荼羅(かつままんだら)]

があるといいます。

曼陀羅図から抜けだしたように
大日如来像を中心とした
21尊の仏像がならぶそうです。

 



中央には
大日如来(だいにちにょらい)

を中心とした5尊・
五智如来がならび

(向かって)左には
不動明王(ふどうみょうおう)

を中心とした5尊・
五大明王がならび

(向かって)右には
金剛波羅蜜多菩薩(こんごうはらみつたぼさつ)

を中心とした5尊・
五大菩薩がならび

須弥壇の四方には
四天王の4尊がならび

東西には
梵天(ぼんてん)

帝釈天(たいしゃくてん)

がならんでいるといいます。

計21尊なのですが
中央の五智如来と
金剛波羅蜜多菩薩以外の

15体は
講堂創建時のものといわれ
平安時代の作だといいます。


創建当時は

金堂と講堂のまわりに

回廊がめぐっていて

 

ふたつの大伽藍を

つないでいたそうです。

 



金堂・講堂がならぶ
境内の中心線上にあるのが
食堂(じきどう)です。

生活をささえる場
生活のなかにも修行を見出す場
なのだといいます。

かつては本尊に
千手観音菩薩が祀られたことから
観音堂ともいうようです。


金堂「仏」
講堂「法」
食堂「僧」
として

仏法僧(ぶっぽうそう)

を表しているといいます。

仏そのものと
仏の説いた教えと
仏の教えを行ずる僧のこと


だそうです。



気になるのは、この
講堂と食堂のあいだにある
夜叉神堂(やしゃがみどう)です。

東西に小さなお堂が
ふたつならんでいて

東には
雄夜叉

西には
雌夜叉

が祀られているといいます。

 



当初は、
南大門の左右にあった
といいますから

神社でいうところの
「狛犬」のような存在
なのかもしれません。

本尊は空海の作ともいわれ
歯痛に霊験があるといいます。

 

この重要なライン上

雌雄の堂があるというのは

密教なかでも

タントラ(性秘儀)の部分を
あらわしているのでしょうか?



空海と伏見稲荷大社は

とても関係が深いのは

 

東寺のすぐちかくに

伏見稲荷大社御旅所がある

ことからもわかりますが、

 

空海は唐土より

荼枳尼天(だきにてん)

を持ち込むと

稲荷信仰と習合させたようです。


もともとは、インドの

一部地域で祀られていた

「ダーキン」という

地母神的存在が


ヒンドゥー教や

インド仏教に取りこまれて
「ダーキニー」となり

 

日本には

「荼枳尼天」として

伝わったようです。

 

ですから、

取りこまれた初期段階では

邪教の神・人肉を食らう魔女

とされていたらしく


「夜叉(やしゃ)」

とされていたようですね。


地母神というように

荼枳尼天は女性

とされているようです。

では、男性の姿、いわゆる
雄夜叉とはいったいなにか?

と考えてみると

これは、
愛染明王(あいぜんみょうおう)
かもしれません。

別名を

吒枳王(だきおう?)

というようですし

 

その教えというのは

愛欲から三昧にいたる

というものですから

男女和合や

タントラ(性秘儀)や
瑜伽経(ゆがきょう)に
関わるようですね。

 



「仏」「法」と

「僧」をつなぐ位置に
雌雄の夜叉がいることは

人間らしく生きることを否定しない

ということなのでしょうか?



不動明王や愛染明王などの
「明王」というのも

密教ならではの仏であって
ヒンドゥー教の神々が
仏教に取り入れられ
仏となったものなのだそうです。

空海が教えひろめた
2つの曼陀羅は

金剛界曼陀羅(こんごうかいまんだら)
胎蔵界曼荼羅(だいぞうかいまんだら)

というのですが、

金剛界を代表する明王が
愛染明王であり

胎蔵界を代表する明王が
不動明王だそうです。

 

空海は、不動明王を

持念仏としていたそうですが

 

それと同じくらい

愛染明王にも

通じていたのでしょう。

 

 

空海の持念仏とされる

不動明王座像祀り

空海の住房跡でもあるのが

境内の北西にある
御影堂(みえいどう)

です。

毎朝・早朝6時から
生身供(しょうじんく)

という法要がおこなわれ

空海が生きていたときとおなじように
食事が供えられるのだといいます。

一般参加もできるらしく、そのため

東寺は開門も朝はやいようですね。


また、

空海が入定した日にちなんで
毎月21日には境内で

弘法市がおこなわれている
のだそうです。



さて、境内の南東にあり
京都のランドマークでもあるのが
五重塔です。

 



木造建築物としては
日本一の高さであり

空海が唐よりもちかえった
仏舎利(ぶっしゃり)が

納めてあるといいます。

 



たびたび火災にあって
焼失しており

現在のものは
1644年に再建された
5代目だといいます。

ただし、
地震による倒壊は一度もなく
耐震性にすぐれた造りとしても
注目を集めているようですね。

 



初層部分には
極彩色ゆたかな密教空間があり

大日如来を中心として
4尊の如来と8尊の菩薩が
囲んでいるそうです。

このあたりの、数や配置にも
おおくの意図があるのでしょう。

さて、さいごは境内にある
神社についてみてみます。


境内の南、
南大門をはさんで
東西にあるのが

八島殿
八幡宮です。



八島殿は、この地に
もともと祀られていたという
地主神を祀るといわれ

祭神は、
大己貴神(おほなむち)
だといいます。

出雲大社
大国主命のことですね。

 



出雲に向かっているのか
西向きの社殿です。

五重塔との2ショットも
壮観です。

 

 

大己貴神と空海の関係は

空海の父方である佐伯氏に

関わるのではないでしょうか?

 

ホツマツタヱでは、

オホナムチ(大国主命)は

青森のほうへ左遷された

といいますが、

 

これがのちの

蝦夷になったのかもしれません。

 

ヤマトタケ(日本武尊)が

捕虜として連れ帰った蝦夷は

佐伯部とされて

 

地方の佐伯氏に送られた

といいます。

 

空海の家系は、

香川の佐伯氏ですから

 

このあたりに

縁故があるのでしょうか?

 



東寺の鎮守社とされる

八幡宮(はちまんぐう)も
西向きとなっています。

東寺の創建のさいに
王城鎮護を願って祀られ社
といいます。

 



僧の姿をした
僧形八幡神(そうぎょうはちまんしん)と
2尊の女神を祀るといいますが

どちらも、
空海が彫ったもの

といわれるようです。

ほかに、

武内宿祢(たけうちのすくね)

神像も祀られているといいます。


八幡信仰からすれば
応神(おうじん)天皇

神功(じんぐう)皇后のこと
かもしれませんし

宗像三女神

なのかもしれません。



八島社殿も八幡宮もどちらも
8という数字がついていますね。

ほかにも

八大竜王や八体の菩薩像など

8という数字が

繰り替えされています。

 

これもどこか
曼陀羅のようです。

 



空海は講堂内に

立体曼陀羅を描いただけでなく

境内においても堂塔を
曼陀羅的に配置していた
のかもしれません。

 

もしかすると、

平安京の姿までも

写していたのかもしれませんね。

 

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山背国の東寺めぐり ~終~

 

 

☆東寺めぐり全記事リスト☆

山背国の東寺めぐり① ~伏見稲荷大社御旅所~

山背国の東寺めぐり② ~綜藝種智院~

山背国の東寺めぐり③ ~東寺~