大和国の二上山めぐり⑨ ~當麻都比古神社~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

二上山(にじょうさん)のふもと
當麻山口(たいまやまぐち)神社

摂社・
當麻都比古(たいまつひこ)神社
があります。



當麻山口神社の本殿の
左右にならんでいるそうですが

塀(瑞垣)にかこまれていて
社はみることができません。

ご祭神は、

麻呂子皇子(まろこのおうじ)
當麻津姫(たいまつひめ)


だといいます。



麻呂子皇子は、
聖徳太子(しょうとくたいし)
異母弟にあたり

第31代・
用明(ようめい)天皇
第3皇子だったようです。

 



母親は
葛城広子(かつらぎのひろこ)
といい、またの名を

葛城当麻倉首比里古
(かつらぎのたぎまのくらのおびとひろこ)

といったようです。

葛城国造の子孫・
葛城直磐村(いわむら)の娘

とされるようですね。

葛城国の當麻の地の
倉をおさめる首長の娘


というところでしょうか。

 



「倉」とは
「屯倉(みやけ)」のこと

かもしれません。

また、
「當麻(たいま)」
「大麻(おおあさ)」だとしたら

 

麻の産地だった
のかもしれませんね。

二上山頂にある
葛木二上(かつらぎふたかみ)神社

祭神は

 

フトタマ(太玉命)では?

というはなしをしましたが、

フトタマの子孫・
忌部(いんべ)氏

いまでも、

日本各地で祭祀用の
大麻を生産している
といいます。

だとしたら、
二上山のふもとで

大麻が作られていた
というのもありえそうです。

とはいえ、一般的には
「当麻」の由来は

「道がでこぼこして険しい」
という意味の

「たぎたぎしい」
からきているとされるようです。



麻呂子皇子は、
母の出身地からとって

当麻皇子(たいまのみこ)

ともいわれたようです。

 

ここから、

「当麻」姓がはじまったため

 

麻呂子皇子(当麻皇子)は

当麻氏の祖とされるようです。

 



当麻皇子(麻呂子皇子)は
生没年不詳だといいます。

日本書記の

記述もすくなく、

征新羅大将軍
(せいしらぎたいしょくぐん)

に任命され

 

難波(なんば)から

出発したのですが

妻・舎人(とねり)皇女が

疫病でなくなったために
明石で引き返した

というはなしが

残るのみのようですね。

 



ほかには、伝承として

 

大江山(おおえやま)の
鬼伝説があるようです。

 


元伊勢(もといせ)・
皇大神宮(こうたいじんぐう)には

麻呂子皇子の手植えとされる

杉の巨木もありました。

 

 

また、
中将姫(ちゅうじょうひめ)
當麻寺(たいまでら)も

麻呂子(当麻)皇子が
創建したと伝わるようです。

當麻津比古神社は
もともと

當麻寺の参道にあった
といいますから

當麻寺の鎮守社
だったのかもしれません。

 

ところで、

麻呂子皇子の同母妹・

酢香手姫皇女(すかてひめ)

は、伊勢の斎宮(さいぐう)を

務めていたといいます。



酢香手姫皇女の
つぎの斎宮が、
 

大来(おおく)皇女
であり

二上山に眠る
大津(おおつ)皇子
同母姉だといいます。

大来皇女と大津皇子の母・
太田(おおた)皇女は

蘇我倉山田石川麻呂
(そがのくらやまだのいしかわまろ)の娘

 

といわれていて
二上山の西のふもとに

ゆかりがあるといいます。




また、大来皇女以降に
斎宮制度がととのうと


斎宮頭には

当麻氏が任命されるなど

二上山と伊勢神宮の
つながりは深いようです。

 



麻呂子皇子の
「麻呂子(まろこ)」という名も
「丸子部(まるこべ)」
由来するといわれていて

丸子部は、
伊勢祭祀に関わりがある
ともいわれるようです。

とはいえ、

丸子部も奥が深いので
またいずれ調べます。



もうひとりのご祭神・
當麻津姫(たいまつひめ)

当麻皇子の妻・
舎人(とねり)皇女

当麻皇子の母・
葛城(当麻)広子のこと

とされるようですね。


しかし、

ふるい由緒書をみれば
「當麻津姫」の名はなく

 

麻呂子皇子とあわせて

祀られているのは


日子坐王(ひこいます)
だったといいます。



第9代・
開化(かいか)天皇
の御子であり

丹波道主命(たんばみちぬし)
サホヒメ・サホヒコ
父にあたるかたですね。

日子坐王は、ほかにも
おおくの子を残したといいますが
そのなかのひとり

小俣王(おまたのみこ)



当麻勾君(たいまのまがりのきみ)の祖

 

だといいます。
 

どうやら、このかたが

当麻蹴速(たいまのけはや)

とつながるようです。

 



第11代・
垂仁(すいにん)天皇の世に

野見宿禰(のみのすくね)
相撲をとったという人物ですね。

 

そして、負けたために

野見宿禰の一族に
土地を没収されたといいます。

また、おなじく
日子坐王の子・
 

大俣王(おおまたのみこ)
の一族は

伊勢の祭祀とも
関わりがふかいようです。

 



ですから、「当麻」姓は

第12代・
垂仁(すいにん)天皇朝の

当麻勾君(たいまのまがりのきみ)
当麻蹴速(たいまのけはや)

にはじまったものの、

野見宿禰氏族に
土地をうばわれたようです。

そうして、
葛城国造と関わりを
深めたのでしょうか。

第31代・
用明(ようめい)天皇の后に

葛城(当麻)広子が

迎えられると

麻呂子(当麻)皇子
を産んで

「当麻氏」が
おこったようですね。

当麻氏の氏寺となる
當麻寺が創建されたのも

このときのようです。

麻呂子皇子の孫・
当麻国見(たぎまのくにみ)は
壬申の乱(じんしんのらん)

活躍したらしく、

第41代・
持統(じとう)天皇の孫・
軽(かる)皇子の
教育係にもなったといいます。

こうして、当麻氏は
有力氏族となったようですね。



奈良時代には
藤原氏ともつながり

中将姫の出生に
かかわったほか、

中将姫を召そうとした
淳仁(じゅんにん)天皇もまた
母が当麻氏だったようです。

鎌倉時代には、
当麻派(たいまは)といわれる
刀工の地にもなったといわれ、

当麻氏からわかれた
当麻高田(とうまたかだ)氏という
武家もあらわれたといいます。

 

こうしてみると、

当麻氏の本流はつねに

當麻の地にいたようですね。

 

また、葛木二上神社と

当麻寺の関係からすると

 

当麻氏というのは

二上山の奉斎氏族

だったようですね。

 

ここには、

天二上命(あめふたゑ)

伊勢神宮との関係

残されているのかもしれません。

 

 

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大和国の二上山めぐり① ~二上山~
大和国の二上山めぐり② ~葛木倭文座天羽雷命神社~
大和国の二上山めぐり③ ~加守神社~
大和国の二上山めぐり④ ~大津皇子~
大和国の二上山めぐり⑤ ~葛木二上神社~
大和国の二上山めぐり⑥ ~岩屋~
大和国の二上山めぐり⑦ ~中将姫~
大和国の二上山めぐり⑧ ~當麻山口神社~
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大和国の二上山めぐり⑪ ~当麻蹴速~
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