大和国の二上山めぐり⑦ ~中将姫~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

二上山(にじょうさん)
岩屋(いわや)には

たった一晩で
巨大曼陀羅を織りあげた

中将姫(ちゅうじょうひめ)
の伝説があるそうです。

 

中将姫とは、

二上山のふもとの
當麻寺(たいまでら)
の尼僧であり

もとは、
藤原氏の娘だった
といいます。

 



大化の改新をすすめて
「藤原」姓をたまわった


藤原鎌足(ふじわらのかまたり)

鎌足の子で
藤原京や平城京を造営し
藤原氏繁栄の礎を築いた

藤原不比等(ふじわらのふひと)

不比等の長男で
藤原南家(なんけ)の祖・


藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)

武智麻呂の長男で
横佩大臣(よこはぎのおとど)
ともいわれた右大臣・


藤原豊成(ふじわらのとよなり)

この豊成の娘が
中将姫だそうです。

藤原氏の主流であり、
一流貴族だったようですね。



母親は、
紫の前(むらさきのまえ)
というそうです。

品沢親王(?)という
皇族の娘か、もしくは

藤原百能(ふじわらのももよし・ももの)
とされるようです。

藤原百能は、
不比等の四男(京家)の娘で
母は当麻氏だといいますから

中将姫には、もともと
当麻の血がながれていた
のかもしれません。

當麻寺のあたりは
当麻(たいま)氏

という古代氏族が

治めた地だといいます。



そんな、
藤原豊成と紫の前は
ながらく子にめぐまれず

神仏に祈っていたところ
初瀬(はつせ)の寺に参るよう
告げがあったそうです。

そこで、奈良県桜井の
長谷寺(はせでら・初瀬の寺)

にある

十一面観音菩薩像
(じゅういちめんかんのんぼさつ)

に祈願したところ

観音さまが
あらわれたといいます。


観音さまは、
三千世界(魂の世界・全宇宙)
をめぐり

ふたりの未来の子を
探してくれたそうです。

しかし、
ふたりの子となるものは
見つからず

観音さまは、ふたりに
子ができる運命ではない
と伝えたといいます。

ですが、それでも強く
子を望むふたりの思いに

観音さまは、
どちらかの寿命とひきかえに
子を授けようといったそうです。

これを承諾した
おふたりは、やがて

世にも美しい娘を
授かったといいます。

これが、
中将姫(ちゅうじょうひめ)
だそうです。

 



長谷寺の
十一面観音菩薩像は、

滋賀県高島に流れついた
巨木をつかったといいます。

この木は、高島に
疫病をもたらしたといわれ

ひとびとから
畏れられていたそうです。

のちに、

奈良県当麻にはこばれて
80年ほど置かれたといいますが

ここでも、
疫病がはやったそうです。

そうして、
長谷寺の地にたどりついて
仏像の材になったといいます。

ですから、長谷寺の

十一面観音菩薩像も
当麻にゆかりがある

ようです。

 



長谷寺の十一面観音菩薩像は
727年に完成したといわれ、

中将姫の出生は
747年だといいますから

作られて20年ほどの
真新しい像だったようですね。

中将姫の生家は、
藤原豊成の邸宅跡とされ

いまでいう、奈良町の
徳融寺(とくゆうじ)のあたり
だったといいます。

ちかくには、
誕生寺(たんじょうじ)があり
中将姫の石仏もあるようです。



中将姫が
4歳となったころ

白狐があらわれて

称讃浄土経
(しょうさんじょうどきょう)


という経典を
渡したといいます。

以来、中将姫は
1日に6度はそらんじて

仏教にふかく
帰依したようです。



5歳のときには、
母・紫の前が

亡くなったといいます。

観音さまとの約束では

3歳のときに命を落とす

といわれていたのですが

2年も長生きしたことを
「仏菩薩の告げも信用できない」
と言ってしまったばかりに
紫は命を落としたようです。

とはいえ、この言葉も
あざけりというよりは
感謝の言葉なのでしょう。

命を絶つことで約束を果たし
娘の成長を願ったのかもしれません。



7歳のとき、
桃の花見にきていた姫は
仲の良い親子をみかけて

父・豊成にふたたび
母を迎えるよう願ったといいます。

これも、聡明な姫が
気落ちした父を見かねた
ともとそれそうですし、

父もまた娘を不憫におもって
あらたに妻を迎えることを
決めたといいます。

そうして、やってきたのが
照夜の前(てるやのまえ)
だといいます。

このかたは、左大臣・
橘諸兄(たちばなのもろえ)
娘だそうです。

右大臣(藤原豊成)のもとに
左大臣(橘諸兄)の娘が
嫁いだということでしょう。

天然痘の流行で
藤原不比等の子である

藤原4家がことごとく
亡くなったさい、

皇族の出で
藤原不比等の娘を
妻としていた橘諸兄は、

繰り上がりで
最高位の大臣へ
就任していったといいます。

ですから、官位でいうと
左大臣・橘諸兄のほうが
高かったようですね。

もしかすると、
照夜にはそんな

気位があった
のかもしれません。

はじめは
特に問題もなかった
照夜と中将姫ですが

しだいに、中将姫の
美しさや非凡な才能を

照夜はおそれ、
憎んでいったといいます。




ふたりの仲を

決定的にしたのは、

 

中将姫が
9歳のときだそうです。

女帝・
孝謙(こうけん)天皇
召しだされた中将姫は

おおくの官人のまえで
琴(こと)を演奏したところ
称賛されたといいます。

このとき、継母・照夜も
箏(そう)を演奏したのですが

大失敗してしまい
恥をかいてしまったというのです。

逆恨みをした
照夜は腹いせに


中将姫をいじめるようになった
といいます。



10歳のとき
東大寺(とうだいじ)
大仏開眼法要がおこなわれ

中将姫も家族ともども
参詣したようです。

このとし、照夜は

中将姫をなきものにしようと

毒入りの甘酒をつくって
飲ませようとしたといいます。

しかし、照夜の実子・
豊寿丸(ほうじゅまる)が


これを横取りしてしまい
命を落としたそうです。

照夜はますます、
恨みをつのらせたといいます。

こうしてたびたび
命を狙われるのですが

観音さまに守られている
中将姫はことごとくこれを
逃れたそうです。

 



13歳のときには、
後宮につかえる女官となり

三位中将の位を
たまわったようです。

(これが、

中将姫の由来
なのでしょうか?)

 



14歳は、ひとつの
ターニングポイント
だったようですね。

継母・照夜に
盗みの疑いをかけられた
中将姫は

老松のしたで
割竹打ちの折檻をうけた
といいます。

中将姫のはなしは、
歌舞伎や人形浄瑠璃

にもなっていて

継母が腹違いの娘を手にかける
「継子いじめ」の絵姿として

 

折檻のシーンは

ひとつの見せ場にも

なっているようです。

豊成の邸宅跡・徳融寺には、この
「雪責の松」があったといいます。

さらに、父・豊成が
諸国巡視の命をうけて旅立つと

照夜は家臣・
松井嘉藤太春時に命じて

中将姫を
暗殺しようとしたそうです。

嘉藤太(かとうた)は、
奈良県ひばり山まで誘いだし
事情を話して刀を構えたところ

中将姫は、これも運命として
命乞いもせず、ただ一心に
経をそらんじたといいます。

そんな姫の姿に、
心打たれた嘉藤太は

中将姫を斬ったことにして
青蓮寺(せいれんじ)
姫を隠したようです。

さらに、嘉藤太は
継母・照夜をあざむくには
どうしたらよいかと

家老・
国岡将監(くにおかしょうげん)

に相談したところ

国岡は、じぶんの娘・
瀬雲の首を

差し出したといいます。

それほど、中将姫は
ひとびとに愛され守られていた
ということでしょうか?



このとき、中将姫が
最初に身を寄せたのが
藤村(ふじむら)家といわれ

以後、縁がつながり
中将姫のもつ薬学の知識が
伝授されたといいます。

この藤村家が、
漢方薬品メーカー・

『ツムラ』の創業者である

津村重舎(つむらじゅうしゃ)
の母方にあたり

藤村家に伝わる婦人薬を
中将湯(ちゅうじょうとう)
として販売したことで、

全国にひろまったのが
ツムラのはじまりだといいます。

 

 


中将姫は、山奥にかくれて
読経三昧の暮らしをおくったそうです。

ここで、姫はようやく
平穏を手に入れたらしく

「男女の境界もないので
愛欲の煩いもない」


「灯をともす油もないが
自分の心の月を輝かせばよい」


という言葉を残すほど
だったようですね。

このときに
『称讃浄土佛摂受経』の
1000巻の写経をおこなった
ともいうようです。



姫をうしなった
父・豊成はおおいに
落ち込んだといいます。

そして、
その悲しみを癒すべく

ひばり山へ狩りにいったところ
中将姫と再会したといいます。

この、できすぎた再会は
必然なのか偶然なのか
諸説あるようですが

15歳となった
中将姫はふたたび

父・豊成とともに
都へ戻ったといいます。

中将姫を亡きものにしようとした
継母・照夜は、

 

たくらみがすべて

明るみにでてしまうと

 

みずから身を投げて
命を絶ったといいます。

ただし、これも
観念したわけではなく

恨みをつのらせたまま
だったようです。

 


16歳のとき、

第47代・
淳仁(じゅんにん)天皇より
入内するようたまわるのですが

中将姫はこれを辞退すると
出家して尼になることを

決めたといいます。

これには、
父・豊成の失脚も
かかわるようです。

政争にやぶれて

大宰府(だざいふ)への
左遷が決まったものの

豊成は病気といつわって
難波の別邸に

こもっていたといいます。

 



こうした、
権力闘争や男女のもつれあい

さらには、
母をふたりをなくしたように

じぶんに関わるものの命が
おおく奪われていくことに

ほとほと
嫌気がさしたのかもしれません。

 

さらにいうと、

淳仁天皇の母も

当麻氏だったようです。

こうして、中将姫は

當麻寺(たいまでら)

へやってきたといいます。



これには、中将姫が
当麻にゆかりがあるだけでなく

奈良盆地における
二上山(ふたかみやま)
夕日の沈む霊山であり

仏教的にいうならば
西方浄土(さいほうじょうど)の地
だったからのようです。

ひばり山での隠棲生活で
二上山の信仰や

夕日を拝む
日想観(にっそうかん)
を知ったようですね。

日本仏教で、西は
極楽(ごくらく)浄土ともいわれ

念仏をするものは、死後
苦しみのない安楽な世界・
「極楽」に生まれて仏となる
といわれていたようです。

 



しかし、当時の當麻寺は

女人禁制だったといいます。

そこで、中将姫は門前で
数日にわたって一心に
読経をおこなったところ

姫が立っていた石に
足跡が刻まれたといいます。

これに霊験をみた住職は
女人禁制をといて中将姫を
尼僧として受け入れたそうです。

この石は、いまでも
「中将姫誓いの石」として
残っているといいます。

姫は、剃髪をして
法如(ほうにょ)
という名を授かったようです。

 



こうして、

尼となった中将姫が

読経をつづけていると

老いた尼があらわれて
蓮の茎をあつめるよう
説いたそうです。

中将姫は
ほうぼうに手をまわして

大和・河内・近江などから
たくさんの蓮茎をあつめると

蓮から糸をよりあわせた

といいます。

さらに、あつまった糸を

當麻寺の北にある


石光寺(せっこうじ)

井戸水にひたすと

五色に染まったそうです。

 


この蓮糸をつかって
一晩で織りあげたものが

當麻寺の本尊であり
国宝にも指定されている

綴織當麻曼陀羅
(つづれおりたいままんだら)


だといいます。

二上山の
岩屋で織りあげたという
伝説もあるようですが

當麻寺の
千手堂(曼陀羅堂)で
織られたともいうようです。

極楽浄土の姿が描かれた
4メートル四方もある

豪華絢爛な

巨大曼陀羅図ですね。

 

 


すると、老いた尼は
阿弥陀如来に姿をかえて

13年後に迎えにくると
伝えたといいます。

 

中将姫は、

曼荼羅を織りあげたことで

浄土を約束されたようです。

 


こうして、
中将姫こと法如は
當麻寺で修行を続け

あいもかわらず
読経を行っていたところ

今度は、継母・照夜が

大蛇となってあらわれた
そうです。

大蛇は、読経の邪魔をしようと
日々うかがっていたといいます。

しかし、

姫はそれでもひたすらに

経を読みつづけたようです。

すると、
姫の念仏を聞くうち


しだいに、継母・照夜の

恨みもきえ失せてしまい

やがて、
成仏したといいます。

中将姫の絵姿とあわせて
大蛇が描かれているのは

中将姫をいじめた
継母の生まれ変わった姿
のようですね。

 



こうして、
曼陀羅を織りあげてから

約束の13年後となる
29歳の春になると

西方浄土の化身である
阿弥陀如来をはじめ


二十五の菩薩さまが

あらわれて

中将姫を生きたまま
極楽浄土へ導いたといいます。

これは、
若くして亡くなったという
悲しいものではなく

仏道にはげむものの
願いが叶った姿
ということのようです。



以上が、おおまかな
中将姫の物語ですね。

 

歌舞伎や人形浄瑠璃の

演目では、

 

『鶊山姫捨松』

(ひばりやまひめすてまつ)

というそうです。

ただ、こうした話も
寓話的なものがおおく

後世の作り話や
仏道を広める説法
ともいわれ

中将姫は伝説上の人物
とまでいわれるようです。

国宝・當麻曼陀羅も
調査によれば

蓮の糸ではなく
絹の糸で織られていることから

中国からの輸入品では?
という見方が強いといいます。

そして、西方浄土も
平安時代末にひろまった


末法(まっぽう)思想

浄土(じょうど)信仰によるもので、

中将姫の生きた
奈良時代にはなかった

ともいうようです。

 

さらに、
「中将姫」という言葉は
「継子いじめ」の説法のために

 

鎌倉時代にあらわれたもの

ともいわれるようですが

さてさて、どうでしょう?キョロキョロ



とはいえ、
中将姫の物語がいつの世も

ひとびとの心を打つことに

変わりありませんし

 

火のないところに

煙はたたぬといいますから

當麻寺には、

中将姫のモデルとなった


尼僧が実在した

のかもしれません爆  笑キラキラ

当麻の地は、
機織り氏族といわれる

倭文(しとり)氏
本拠地もちかく

葛木倭文座天羽雷命神社
たなばた神社もあります。

 



たなばた神社には

空にかがやく星座を
7日7晩かけて織物にした
のちに亡くなった


という娘の話も
残るといいますから、

こうした伝説が
當麻寺の尼僧に継がれていた

のかもしれませんね。
 

 

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