堀秀政 | ナツレのツレヅレなる何か

堀秀政

テレビわ~『江~姫たちの戦国~』の「第十四回 離縁せよ」をみましたが~
見事なまでに「小牧・長久手の戦い」すっとばされちゃいました長音記号2あせる

 

羽柴秀吉 の甥 秀次 役の北村有起哉(きたむらゆきや)さんが良い味出してましたが長音記号2
活躍(はてなマーク)する間もなくナレーションで「作戦は失敗しました」だけで合戦終わっちゃいました・・・ショック!

 

戦国武将萌えの自分としては長音記号2今回だけ登場かも知れないが色々な武将役の役者さんがたくさん観られると思ってたのに残念・・・しょぼん

茶々 が敵味方に分かれた葛藤を描くハズだから数回は引っ張ると勝手に思いこんでたンですが汗


 

いよいよ「小牧・長久手の合戦」か~アップと、ひとり盛りあがってカキカキした武将がいたので長音記号2

べーっだ!まぁ気にせず紹介音譜

 

・・・柴田勝家 さんの紹介のなかで”羽柴軍最強”とサラっと紹介したこの方音譜
堀秀政(ほりひでまさ)さま長音記号2長音記号2クラッカーどんどん ぱふぱふ

 

シラーえーっと・・・ビミョウな反応かなはてなマーク

 

この方~有名な”森蘭丸”とおなじく織田信長の小姓をつとめていたといわれますので

きっと美形だったんだと思いま~すラブラブ!んで~美形の武将を描きたかったから取り上げました長音記号2以上音譜

 

・・・って、それだけぢゃなく~フツーに武将として凄い人ですニコニコ(フツーぢゃないじゃんあせる

なんてったって何でもそつなくこなすので付いたあだ名が『名人久太郎(めいじんきゅうたろう)音譜

(戦国時代のことですんで~このネーミングセンスの善し悪しはコメントできまへ~ん得意げ

 

とくに本能寺の変以降の羽柴秀吉 に従った合戦での活躍はどれも目覚ましいものでした目~ので紹介


 

まず明智光秀(あけちみつひで) との『山崎の合戦』。

この時こそ手勢が少なく羽柴勢先陣の中川清秀(なかがわきよひで)と高山右近(たかやまうこん)の介添えのような役回りでしたが、この中川・高山隊が光秀方の猛将斎藤利三(さいとうとしみつ)隊に押しまくられ潰走しそうであったのを実質支えたのがこの秀政だと伝わりますべーっだ!

 

つづく柴田勝家 との『賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)』では羽柴勢先鋒として左禰山(さねやま)※に陣しました。
※現在の余呉町東野(ひがしの)。東野山(ひがしのやま)ともいう。
この時、あの佐久間盛政(さくまもりまさ) による大岩山砦奇襲の前に、

大将柴田勝家 自ら率いる手勢に奇襲を受けたのですが、これを一蹴し逆に数百の損害を与えていますラブラブ!
コレを受け勝家盛政 の大岩山砦奇襲に裁可を与えたものと思われ、戦局を左右する働きだったといえますラブラブ


 

そして圧巻は『小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)

江でも語られていましたが、これは羽柴秀吉 の甥 三好秀次(みよしひでつぐ) を総大将とする羽柴勢別働隊が織田信雄(おだのぶかつ)徳川家康 連合軍に急襲され羽柴勢が大敗北した合戦ですべーっだ!

 

この別働隊は第一陣 池田恒興(いけだつねおき) 、第二陣 森長可(もりながよし)、第三陣 堀秀政、第四陣 三好秀次 といったメンツで構成されていました。

兵力は総勢1万6千馬うち秀政は3千を率いていたと伝わります。

 

目的は主戦場の小牧に織田信雄・徳川家康 主力を引き付けておいて、この別働隊で家康 の本拠地岡崎城を襲おうというものでした。

この羽柴方の作戦自体ムチャだったんだと評されちゃうのが主流なのですが、ここは家康 の各個撃破戦法の見事さコソ評価すべきだと思います目

(羽柴別働隊の行軍の遅さや池田恒興 の余計な岩崎城攻撃など作戦行動の拙さは問題ですが・・・)

 

さて、それはおいといて~

 

天正12年(1584)4月9日、長久手近くの白山林(はくさんばやし)で休息していた三好秀次 本隊を徳川四天王の一人 榊原康政(さかきばらやすまさ)率いる先発隊が急襲ドンッ
三好隊は総大将 三好秀次 すら這々の体(ほうほうのてい)で無様に逃げ出す四分五裂の状態となりました爆弾

すぐさま堀秀政が救援を開始し、池田恒興 、森長可ら諸将も駆けつけましたが、徳川勢の勢いの前に抗しきれませんDASH!
そして池田恒興 ・元助父子、森長可が相次いで討死し、主将を失った第一陣・第二陣は壊滅。

秀吉別働隊全軍崩壊の危機を迎えますメラメラ

 

この時、組織的抵抗を続けていたのはわずかに第三陣 堀秀政隊のみとなってしまったのですべーっだ!

 

しかし堀秀政は怯まず、その後も他部隊の敗残兵を収容しつつ戦線を維持いて座

それどころか勝ちに乗じて隊形を乱していた徳川勢に効果的に反撃を加え始めますパンチ!

そしてついにはこれを圧倒し、なんと榊原康政隊、大須賀康高隊と次々撃退する事に成功メラメラ

見事全軍崩壊の危機を救いました!!


目しかし遠く家康 本隊の接近を察知すると、素早く戦線を纏めて撤退しましたラブラブ!お手並み鮮やか~カックイイラブラブ

合格美形の上もの凄い合戦上手長音記号2長音記号2ドキドキにくいにくい音譜

 

この秀政がいなければ別働隊は全滅。のちに関白となる三好秀次 も恐らくここで戦死していたコトでしょう。

本来もっと高名になっていて良い人物なのですが、おしむらくはこの後38歳の若さで亡くなってしまい歴史に埋もれてしまいましたしょぼん

 

まぁ戦国時代ファンには高名な人物ではありますが~


ナツレのツレヅレなる何か-堀久太郎秀政 名人久太郎 戦国武将イラスト
なんか坊主姿の画像が有名なんですが~ほかに束帯姿のがあるのでイラストはソッチのイメージからアート



 

堀秀政(ほりひでまさ) 久太郎(きゅうたろう)、羽柴左衞門督(はしばさえもんのかみ)

 

堀久太郎(ほりきゅうたろう)の呼び名が高名。

 

永禄8年(1565)、13歳の頃より織田信長に近侍したという。
永禄11年(1568)にはわずか16歳にして足利義昭 の仮御所となる京都本圀寺の普請奉行を勤めた。

 

以降は信長馬廻りとして活躍し、また天正5年(1577)頃よりは一隊を率いて各合戦にも派遣され傑出した才を見せた。

 

天正9年(1581)9月、近江長浜城を拝領し2万5千石を信長より与えられた。
ただしこれについては長浜は秀吉領有であり、この後も秀吉が利用している事から予定のみであったのではないかとの見解もある(織田信長家臣人名辞典)

 

天正10年(1582)6月の本能寺の変の際は、備中高松攻めに従軍していた為、そのまま羽柴秀吉 に属し山崎の戦いにも参戦し功あり。この時「羽柴」の姓を秀吉より与えられた。
天正11年(1583)賤ヶ岳の戦いで前哨戦で柴田勝家 の本隊を撃退し、前田利家 の誘降にも一役買った。その功により近江佐和山9万石を領し「左衞門督」に任ぜられた。
天正12年(1584)小牧・長久手の戦いにおいても戦功あり。

天正18年(1613)5月27日、この時小田原城攻めに参加していたが、その陣中に没した。享年38歳。


 


最後にせっかくだから『江~姫たちの戦国~』に関わる話として長音記号2ニコニコ

この堀秀政は~じつは の姉 の結婚相手である京極高次 さんの命の恩人でもありますべーっだ!

高次さんの紹介でも述べましたが長音記号2この高次さん明智光秀 に味方し羽柴秀吉 の居城長浜城を攻撃してましたが~

ご存じの通り明智光秀 は敗北し、高次さんは立場を失い蓄電します叫び

その後秀吉 の討ってから匿ったのがこの堀秀政と伝わります合格

 

もっとも、その後高次 は(よりによって汗柴田勝家 の元へ身を寄せているようなのですが長音記号2
それでもその後また赦されたのは長音記号2もちろん通説では姉の松の丸殿のおかげとされていますが~

ヒョッとしたらこの秀政さんの口添えもあったのかもしれませんラブラブ!



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