足利義昭 | ナツレのツレヅレなる何か

足利義昭

今回は足利義昭(あしかがよしあき)さんをご紹介
色々な戦国物の小説や映画、ゲームなどでも織田信長をイヂめる()織田信長包囲網のフィクサーとしてよく(だいたい悪役で)登場する御仁です

前回の森可成(もりよしなり)さんの時に話題にした『信長のシェフ』にもきっちり策略をしかける人物として登場してます
信長のシェフ』では正名僕蔵(まさなぼくぞう)さんが眉墨いれた義昭さんを演じられてますが、”いかにも”な義昭像でニヤリとさせられます
失礼ながらこの方あまり時代劇でお見かけしたことなかったのですが、面白い配役だなぁと思いました

このドラマ深夜枠だし多分低予算なんだと思うのですが
明智光秀の稲垣吾郎さんや本願寺顕如(ほんがんじけんにょ)の市川猿之助さんなど、配役の宛て方が光るドラマだなぁと楽しんでいます
 

イラストイメージは有名な足利義昭座像から

足利義昭(あしかがよしあき) 覺慶(かくけい)、義秋、從五位下・左馬頭(さまのかみ)、義昭、從四位下・參議、從二位・大納言、道号/昌山道久、法号/霊陽院、
 天文6年(1537)11月3日、十二代将軍 足利義晴(あしかがよしはる)の二男として誕生。
 天文11年(1542)11月20日、關白 近衞稙家(このえたねいえ)の猶子となって、一乘院に入室する(親俊日記・南行雜録)。
 永禄8年(1565)5月19日、松永久秀らが兄で十三代将軍となっていた足利義輝(あしかがよしてる)を殺害すると一乘院も厳重な監視下に置かれた。覺慶は本願寺觀行坊に手紙を書かせ、院家の光明院に対しどうすべきか下問すべく書状を鎌倉屋という商人に持参させた。光明院では藤坊願親に返事を書かせたという(『興福寺書記録抜萃』所収「南都光明院記抜書」)。大覺寺義俊(だいかくじぎしゅん)が越後の上杉輝虎(うえすぎてるとら)に宛てた手紙のうちに「一乘院殿の南都の後座所には御番を据えて、松永久秀が厳重に監視させている」とあるが、上記から推察して外出を禁止したという程度であったらしい(上杉古文書)。一乗院跡という権威(バックに興福寺の僧兵)から身の安全を保証されていたようだ。
越前の朝倉義景が一乗院脱出のための直談を三好・松永らとしたが解決されず謀略をもって脱出に成功した。大覚寺義俊の書状によると覺慶脱出の立て役者は義俊と朝倉義景であると有り、また前将軍の近臣 細川藤孝(ほそかわふじたか)と一色藤長(いっしきふじなが)とが一役も二役も買ったと『細川家記』や『米田家記』にある。
ともかく7月28日夜半、一乘院から脱出。伊賀の上柘植村を経て六角義賢(ろっかくよしかた)の臣・甲賀の和田惟政(わだこれまさ)の城に入った(多門院日記)。
 永禄9年(1565)4月15日、元服し義秋(よしあき)と名を改める。4月24日、義秋は一色藤長に対し、脱出できたのは細川藤孝と相談して努力した結果だと感状を与えた(根岸文書/二)。
 同8月3日、三好長逸(みよしながゆき)が坂本に侵攻。西江州の六角家臣衆がこの時は撃退した。しかし29日、頼みにしていた六角義賢(ろっかくよしかた)・義治(よしはる)父子や矢嶋同名衆の謀叛が顕然としたため一色藤長(いっしきふじなが)・三淵藤英(みぶちふじひで)・細川藤孝(ほそかわふじたか)・飯河信堅(いいかたのぶかた)・智光院頼慶(ちこういんらいけい)・服部要介ら4~5人でで夜陰に乗じて琵琶湖を渡り若狹へ向かう。しかしすぐに若狹から越前の朝倉義景を頼った。
 永禄11年(1568)4月、越前にて足利義昭と名を改め元服。その後、尾張の織田信長より上洛を助ける用意が整ったとの誘いがあり、迎えの使者の村井貞勝(むらいさだかつ)・島田秀順(しまだひでより)・和田惟政(わだこれまさ)らとともに越前を離れる。途中余呉まで出迎えに来た淺井長政不破光治(ふわみつはる)らと合流し、小谷で饗応を受け、7月25日、義昭は岐阜に至り、立正寺で織田信長と会した(信長公記・朝倉始末記など)。
 同年9月、織田信長淺井長政の軍勢に奉じられ上洛し10月18日、朝廷より将軍宣下を受け、足利氏第十五代将軍となった。

 元亀元年(1570)6月20日、信長を裏切り敵対した淺井長政征伐の軍を起こそうとしたが、このときは果せなかったという(言繼卿記)。
もっとも元亀3年(1572)までに信長との間は冷え切り反信長の動きを見せるようになり、武田信玄朝倉義景本願寺顕如淺井長政ら反信長陣営を結集し信長包囲網を構築するに至ったといされる。
 天正元年(1573)2月22日、近江の淺井長政は甲斐の武田信玄の重臣穴山信君(あなやまのぶただ)へ書状を送り、義昭の御内証を持参させる旨を通達し、その決起を知らせた(土屋文書)。
 2月24日、義昭は三井寺の光淨院暹慶(こうじょういんせんけい)に近江で挙兵させ、山中の磯貝新右衞門(いそかいしんえもん)、渡辺宮内少輔も兵を挙げ、石山・今堅田で戦わせたが敗れた(蒹見・尋憲記・耶蘇会日本年報・細川家記ほか)。
 3月6日、仇敵の三好義繼・松永久秀と同盟しなお信長包囲網を強化し、同30日、信長の京都奉行村井貞勝を攻める。
 4月2日、これまで決定的な敵対行為を避けてきた信長もついに柴田勝家を総大将に明智光秀・細川藤孝(ほそかわふじたか)荒木村重・蜂屋頼隆(はちやよりたか)・中川秀政・佐久間信盛(さくまのぶもり)らに総攻撃を命じ、上京一帯を焼き払い義昭の拠る二條御所を囲んだ。
 4月27日付で降伏。7月に再び挙兵し槇島城に3千7百余の軍勢で籠ったが再度破れついに京都より追放された。 
以降は一時河内の三好義繼に匿われ、継いで安藝の毛利輝元(もうしてるもと)吉川元春(きっかわもとはる)・小早川隆景(こばやかわたかかげ)らと通信しこれを頼った。その後、豐臣秀吉政権になり、山城 槇島城へ復帰し一万石を宛がわれた。
 慶長2年(1597)8月28日歿した。享年61歳。


剣聖将軍と称されたお兄さんの足利義輝が武辺で足利将軍家の復権を目指したのとは異なり、義昭さんは政治力としての将軍家復権をめざしました
その為、ともすると策謀家といった評価をされがちですが、武力が無い中で足利将軍として天下静謐(てんかせいひつ)を目指すとすれば各大名家へ政治力を行使し権威があるという事を喧伝するしか無く、当然の力の行使といえます
ただ、それを一番恐れたのが何をかくそう自身を一番守り立ててくれた織田信長であり、彼は将軍家の権威復権など望まない為、将軍家の政治行使や好意すら嫌がり寧ろ制限します
実際、あの武田信玄をして信長が義昭へつきつけた『十七カ条諫言』を評してただ者の成せる者ではないとの所感を盛らしたと伝わります(当代記)

以前の三好長慶(みよしながよし)といった将軍家への権威を慮ってくれる穏当派であれば、義昭とも上手くいって、その活動が実を結んだかもしれませんが
義昭さんの出てきた時代と、その時の相手があまりに悪すぎたとしかいませんお気の毒です


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