明智光秀 | ナツレのツレヅレなる何か

明智光秀

前回織田信長 を描いたンで長音記号2べーっだ!
今回はその信長を葬った明智光秀(あけちみつひで)さんをカキカキアート


この方、織田信長 へ謀反した事で有名な戦国武将ですが長音記号2
そもそも出自すら今もって謎の人物です


爆弾謀反の原因も本人に聴かなきゃ判らないのが本当なので今後も解明されるということはないと思います
まぁ歴史ファン的にはソコは解明されるより、妄想させてもらえる方が楽しいのですが長音記号2ニコニコ


平成23年大河ドラマ『江~姫たちの戦国~』では市村正親(いちむらまさちか)さんが表は実直ながら裏を秘めた光秀さんを演じられています。かなり味があって個人的には好きですが、好き嫌い分かれそうかも・・・ラブラブ!

市村正親さんの奥さんの篠原涼子(しのはらりょうこ)さんに、光秀の奥さん 煕子(ひろこ)さんを演じてもらったら面白かったのにニコニコ


光秀さんも信長には欠かせないのでドラマとかでは色々な方が演じてますが~
そろそろ光秀さんが主役のドラマとかも観てみたいものですラブラブ!


ナツレのツレヅレなる何か-明智十兵衛光秀 惟任日向守 戦国武将イラスト

伝わる光秀さんの様子は~マズ容姿は色白で容姿端麗キラキラ

ただ額から頭にかけてが大きかった為、あだ名は「キンカ頭(禿げ頭)」と伝わってますべーっだ!

下戸で、ために酒盛り好きの信長に疎まれたのだとか(もっとも信長も下戸だったといいますが長音記号2)



明智光秀(あけちみつひで) 実名:十兵衞(じゅうべえ)、 官途名:日向守(ひゅうがのかみ)、 贈姓:惟任(これとう)

明智十兵衞光秀(あけちじゅうべえみつひで)の呼名も有名。
後に惟任(これとう)の姓と日向守(ひゅうがのかみ)の官途名を授かっていた為、本能寺での謀反の頃は惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)を称していた。


土岐氏の流れで美濃明智氏の出自と言うが不明。『蒹見』によれば親類が美濃にいるとあるから美濃の出であることは確かだと思われる。
『永祿六年諸役人付』の足軽の欄に明智とあるからこれが光秀と考えられている。一般には明智玄蕃頭光隆(あけちげんばのかみみつたか)の子といい、光隆は天文21年に齋藤道三(さいとうどうさん) に居城明智城を攻められて討ち死にしたという。
 また、『明智軍記』によれば”美濃明知城の出で斉藤家に仕え、ついで諸国を遍歴した"とする。ただし美濃明知城は遠山氏の居城である(しかしその遠山氏との縁戚の線は考えられる)。


 永禄8年頃、光秀は越前の大名 朝倉義景(あさくらよしかげ) に仕えていたようだ。14代将軍 足利義輝(あしかがよしてる)松永久秀 らに殺害された為、朝倉氏を頼っていた義輝の弟 足利義昭(あしかがよしあき) や、その臣の細川藤孝(ほそかわふじたか)らとはこの頃知りあったものと思われる。

『細川家記』によると義昭 の尾張下向にともない織田信長 に仕えるようになったとある。その頃には義昭 の臣(幕臣)として扱われるまでになっていたようである。


 永祿11年(1568)11月14日、上賀茂惣に対して賀茂社領安堵の意向を伝え、織田信長 への礼を促す書状(吉田文書)を村井貞勝とともに出している。
しかし、義昭の臣(幕臣)でもある光秀は朝山日乘とともに信長より幕府に対する五カ条からなる条書をうけ義昭に伝えている(成簣堂文書)。

 このような光秀の幕臣としての性格は元亀2年中期頃まで見られる。
『年代記』では元亀元年(1572)4月に信長軍と将軍の軍が共々出陣したとき「公方衆」の中に光秀の名を入れている。


 天正元年(1573)の足利義昭 追放後は信長の部将として各地に出陣し、天正3年(1575)には信長より惟任(これとう)の姓と日向守(ひゅうがのかみ)の官途を授かり、以降は惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)を名乗る。


 天正10年(1582)6月2日、中国計略中の羽柴秀吉(はしばひでよし) の援として備中へ向かう兵を待機させた。これを兵たちは訝り、恐らく光秀は信長の命により、その義弟である三河の国主(家康)を殺すつもりだろうと噂したという(日本史/フロイス)。

 その後突如本能寺及び二條御所を襲撃し、信長・信忠父子を自害させた。

なお、二條城を攻めたとき隣接する近衞氏の屋根の上から城内を狙撃したといい、このことから近衞氏との共謀説が囁かれている。


 同年6月10日、羽柴秀吉 が毛利氏と和睦し七日には姫路に入ったとの報告を受ける(この時点で実際は尼崎に到着していた)。早速軍議を開き今後の方針を話し合った。

 この時被官の齋藤利光(さいとうとしみつ)などは秀吉方の軍勢が多いことを見て、居城坂本城での篭城を主張したが、光秀は京都を見捨て朝廷から見放されることを恐れた為、京を守りつつ且つ少数でも有利に戦える山崎を決戦の地に選んだという。
 しかし、商業の町 山崎に自ら軍陣の禁制を科しており、これが仇となって山崎に布陣でなくなってしまった。そして結局それがそのまま山崎の合戦の敗因となったとされる。

 同年6月13日山崎を脱出し近江方面を目指したが果たせず落人狩りに会い落命。  




 最後にこの光秀さんの影武者を務めたという人物の名が二人伝わっていますのでご紹介ニコニコ

一人は娘婿で「明智左馬助の湖水渡り」伝説で有名な明智秀満、もう一人は後年に笹の才藏の異名奉られる可兒才藏
にひひ影武者って目立っちゃダメそうですが、光秀さんずいぶんあくが強そうな個性的な方を影武者に抜擢してたようです(もっとも明智秀満さんと湖水渡り伝説の左馬助さんは別人ともいいますがそもそも伝説ですし・・・得意げ


とくに可兒才藏 は光秀より朱槍を送られ、その働きぶりを激賞されたといいます音譜



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戦国人名事典
阿部 猛
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