松永久秀
前に描いた毛利元就(もうりもとなり) さんから、梟雄(きょうゆう)といって思いついてチョッチ描きたくなったので
アニメ「戦国BASARA弐」でも絶賛暗躍中の松永久秀(まつながひさひで)さんのモデル()になったこの方
松永久秀(まつながひさひで)殿をご紹介ってまんま
戦国の三大梟雄として北条早雲(ほうじょうそううん)、斎藤道三(さいとうどうさん) らと並び称されている人物です
呼び名は松永弾正(まつながだんじょう)や松永霜台(まつながそうたい)の通り名が有名です
織田信長 は「主家三好家謀殺」「大仏殿焼討ち」「将軍弑逆(しいぎゃく)」と凡夫なら一つとして成せないことを3つも成した大した人物と徳川家康 に紹介したと伝わります
久秀さんには「お前が言うな」とすかさず信長にツッコミを入れて欲しかったトコですよネ
もっともこの内の「主家三好家謀殺」については確証無いのですが
当時から「久秀には才知が有り、(主君の)三好長慶(みよしながよし) や足利義輝(あしかがよしてる)将軍に服従しているようで、実際は二人を臣下のように扱っている」と宣教師からも評されていたりしますので
主君 三好長慶 亡き後の専横ぶりから、疑惑を持たれるのも致し方ないとおもわれます
宣教師ルイス・フロイスは久秀について「知識に優れ、賢明で、統治の才能を備えている」とたいへん高く評価しており、さらに永禄4年(1561)頃の久秀の権勢を「京の都は、久秀の命令すること以外、何事も行なわれない」とまでいっています
この久秀さんは熱心な日蓮宗徒として知られ、キリシタン弾圧にも手を貸しています。
そんな人物には容赦なく「悪魔」や「醜悪が形になった人間」とか「おまえのかぁちゃんでべそ」といった悪口雑言を浴びせるフロイスさんの所感にしては意外なカンジですそれだけ当時の久秀が能力を高く評価されていたのでしょう
将軍義輝の弑逆に加担し、次いで三好家の内紛で合戦してる最中に大仏殿を焼失させ悪名を確定的にしました。
また、その主権争いで窮地に陥り没落しかけたのですが、織田信長の上洛に救われ、以後はその風下に立ちました。
信長は久秀を高く評価し、それなりの地位で重用したのですが
かつての権勢が忘れがたかったのか2度背き、2度目の謀反の際に降伏を拒んで爆死しました
天守閣を中心とする近代的城郭建設導入の先駆者で、茶の湯を極める風流人でもあり、領国経営では善政を敷いた名君と謳われる一方で反逆者には苛烈な罪刑を処すと恐れられ、日蓮宗を熱烈に支持する一方でクリスマス休戦を受け入れる柔軟性と天道は天の理で動くと断じる合理主義者的思想の持ち主であったりとエピソードには事欠きません
ともかく一筋縄で理解できるような人物ではないのは確かですナ
これほどの権勢を誇った人物なのにどうしたわけか肖像画が残っていません
2020年肖像画見つかりました
その出自が不明瞭な点から、寵童(ちょうどう)※あがりではないかとの噂があったりしますし、あの信長 が久秀には甘かったところから、お顔は端正だったのではないかと妄想します
※寵童(ちょうどう) =<主に青年期のみの> 男娼婦
※松永久秀(まつながひさひで) 官途名:彈正少弼(だんじょうのしょうひつ)
京都の西、西岡(現西京区)の商人出身という。一説には阿波出身とも。
初め三好長慶(みよしながよし) の祐筆になり、長慶が京都・攝津で活動をはじめた天文2~3年頃から三好家中に台頭し、弘治2年(1556)7月にはすでに瀧山城主となっている。
永祿3年(1560)11月、大和の諸城を陥れた久秀は、澤城(現宇陀郡)に高山圖書(たかやまずしょ)を置くなど諸将を配して大和を支配。
永祿5年(1562)5月より以前に奈良の北、山城の境に近い、聖武天皇・光明皇后両陵の東隣の眉間寺山に多聞城を築き、翌永禄6年(1563)12月14日、家督を嫡子久通に譲った。
永祿8年(1565)4月30日、三好長慶 亡き後、三好家家督となった三好義繼(みよしよしつぐ)に随伴して上洛。
5月1日、義繼は義輝より偏諱を与えられて「義重」と改名し、右京大夫(うきょうのたいふ)に任官した。
義繼はそのまま京に留まって兵を集め、19日になり俄に将軍御所を襲って義輝を討った。
この将軍謀殺の首謀は松永久秀だったといわれるが、実際に襲ったのは三好義繼と、久秀の子 義久(久通)であったようだ(年代記)。
これより三好一族及び松永久秀が縦横の活躍をはじめるが、この年秋頃より三好三人衆(みよしさんにんしゅう)※との間が険悪となり(両家記)、12月21日、大和乾脇で三人衆勢と戦った。
※三好三人衆=三好家の重鎮 三好長逸(みよしながゆき)・三好政康(みよしまさやす)・石成友通(いわなりともみち)の三人を示す異名
永祿11年(1568)年8月(もっと早く永祿九年にはとも)、久秀は織田信長 に通じた様子があり、しばしば信長に通信している(柳生文書ほか)。
足利義昭 を奉じた織田信長 が入洛したとき、久秀はいち早く人質(娘か?)を提出し、畠山高政(はたけやまたかまさ)とともに信長の陣に馳着け、将軍義政も愛用した茶入れ「九十九茄子(九十九髪)」を信長に提供し属した。
義輝弑逆の首謀者 久秀を無条件で許すことについて義昭 は抵抗があったようだが、信長 はこれを説得、幕府の直臣となり「大和切取次第」領有することを許された(両家記・多聞院)。
その後、金ヶ崎撤退の朽木氏誘降や三好三人衆との和睦に功あり。
元亀二年(1571)5月武田信玄 の上洛を嗅ぎ取った久秀は誼を通じ、その後は信長包囲網形勢の一翼を担った。信玄は久秀を別格として処遇することを約束している(荒尾文書)。
しかし武田信玄 が没し信長包囲網は瓦解した為、天正元年(1573)信長へ降伏した。
天正5年(1577)10月、(上杉謙信 の上洛に呼応し決起というが不明)再び信長 に背き信貴城(しぎじょう)で滅亡。この時、信長が欲した茶釜「平蜘蛛(ひらぐも)」に火薬を詰め自爆したという。
享年は70歳前後だったと思われる(一説に68歳)。
この久秀さん~まぁ上記の通り色々エピソードに事欠かない人ですが
その他にも好色家としてもよく知られ(後年は一般化するが)当時として珍しく戦場に側女を常に2~3人はべらせて行っていました。
また、それが高じて房事(えっち)について「HOW to SEX」ってカンジで書き残してる点も特筆されます
まぁ詳しく描()いちゃうと、ココが18禁指定受けそうですし私もお子ちゃまで原文の直訳とかチャンと読んだこと無いので詳しく語れませんが
その教えは「チャンと自分の欲望を満たす前に、おにゃのこにやさしく尽くしてその気にさせるンだよ~」そんで「お互い楽しくえっちして健康にも役立てよう~」ってなカンジです
これってケッコウ今でも通用するンじゃないかナ~あとのなんか女性誌のSEXダイエット特集によく使われてそうな内容に思えるのですがま、私ゃ詳しく知らないケドきゃ
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