徳川家康
大坂夏の陣も始まりいよいよ佳境で楽しませて貰ってる『真田太平記』ですが~
今回は真田太平記中では「三河守(みかわのかみ)」「内府(ないふ/だいふ)」
または「家康(いえやす)」と呼び捨てされてる「徳川家康(とくがわいえやす)」公にご登場願いました
真田太平記では秀忠 役の中村梅雀さんと親子共演で、中村梅之助さんが演じてました
イラストは真田太平記41話「戦雲再び」より
徳川VS豊臣の大坂冬の陣が終わり、家康らが東へ下るとそれをまっていたかのように
大坂の浪人衆が大坂城の堀を掘り起こし幕府を激怒させます。
そこで家康は大坂方に対し、秀頼を大坂城から出し大和郡山城(やまとこおりやまじょう)へ移るよう命じますが、
大坂方は大和郡山城を焼き払うことで応え、東西手切れと成ります。
そこでつぶやくのが次のセリフ
家康は本心では秀頼の「命だけは助けたかったに」と近臣の本多正純(ほんだまさずみ)に呟きます。
まぁ大坂冬の陣後に家康が秀頼を助けるつもりがあったかは個人的には疑問ですが
冬の陣の前であれば豊臣家が徳川家の一大名として残るすべはあったと思います
方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)の折に出されたという条件
「秀頼を江戸へ出府」「淀殿 を江戸へ人質」「大坂城からの国替え」の内どれかひとつを飲めば・・・
「淀殿を江戸へ人質」辺りは飲めたのではと端から見ると思えるのですが・・・さて
※徳川家康(とくがわいえやす)
徳川幕府初代将軍。
天文11年(1543)12月26日、岡崎城主松平広忠の長子として誕生。
母は尾張国刈谷城主水野忠政娘:於大。
6歳の頃、駿河の大名今川義元の元へ送られる途中売られ尾張の織田信秀の虜囚になり、
ついで人質交換で今川義元の元へ届けられるなど幼少時から波乱に富んでいる。
永禄3年(1560)織田信長
により桶狭間にて今川義元が斃されると、その信長と結び今川家から独立。
永禄9年(1566)従五位下三河守(じゅごいのげみかわのかみ)に任じられ、姓を松平から徳川へと改めた。
織田氏との同盟以降、東へ勢力を伸張し甲斐の武田信玄
と対峙したりもしたが、天正10年(1582) 本能寺の変にて信長が惟任光秀(これとうみつひで)
の謀反により横死すると、信長の次男織田信雄に与して羽柴秀吉
に対抗した。
小牧長久手の戦い(こまきながくてのたたかい)において10倍の秀吉勢に対し互角以上に渡り合いその武名を天下に轟かせた。
その後秀吉 に臣従し、その死後豐臣家の五大老に任ぜられる。
慶長5年(1600)関ヶ原の役にて敵対勢力を一掃する事に成功し並ぶ者のない勢力を得ると、
慶長8年(1603)征夷大将軍に任ぜられ幕府を開らき、豐臣家との立場を逆転させた。
元和元年(1615)大坂夏の陣にて豐臣家を滅ぼし、明くる元和2年(1616)4月14日没した。
この家康さん威丈夫(いじょうぶ=ばかでかい人)だったとも一部伝承ありますが
残った衣服などから判断すると、身長五尺一・二寸(155~158センチ)程度で、
平均身長165センチといわれる当時としては低い方だったみたいです
『翁草』に「御背小さく、御太りなされ、御髪は太く、無口である。
戦場でもまた鷹場の時でも、摩利支天のようであった。御声は十七、八町ほども聞こえた由である」とあり
声はメチャ大きかったようです
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