朝倉義景 | ナツレのツレヅレなる何か

朝倉義景

今回は今期お気にのアニメとして紹介した【 織田信奈の野望 】11話 金ヶ崎の退き口"から朝倉義景(あさくらよしかげ)さんをご紹介
織田信奈の野望ではイケ面でこそくな策謀を張り巡らせるキャラとしてでてきています

ホンモノの義景さんは策謀家としてはせっかくの掌中の珠である足利義昭を使いこなせないなど落第点だとおもわれますが信長包囲網の立役者として評価されているようです

ただ、その信長包囲網の謀略の数々にしても当時の残った文書や織田信長の言葉からもはっきり浅井長政が首謀者と目されているのですが
物語とかだといつも浅井長政さんは織田と朝倉との板挟みで苦悩する青年武将という役どころを与えられているので、その分義景さんが悪者にされちゃってるみたいで気の毒

この朝倉義景さんの見せ場としても有名な『金ヶ崎の退き口』ですが
織田信奈の他に今期ナツレお気に入りの【 氷菓 】ってアニメでも、「小谷城風雲録」とかいう劇中劇で扱われていてチョット楽しかった
個人的にこの「元亀信長包囲網」の辺りが一番好きな時代なのでブームきたらいいなぁついでに京アニさんも戦国モノ参入しないかなぁ


肖像画ではなかなか男前にかかれていますのでイケ面だったのやも


朝倉義景(あさくらよしかげ) 孫二郎・左衞門督(さえもんのかみ)・延景・義景

朝倉彈正左衞門尉孝景(あさくらだんじょうのじょうたかかげ)の子。一説に六角近江守氏綱(ろっかくおうみのかみうじつな)の末子と有るが、義景が天文2年(1533)生まれであるのに対し氏綱の没年は『続群書類従』に永正15年(1518)7月9日歿(享年27歳)とあり時代が合わない。

 天文17年(1548)3月22日、孝景卒し家督相続。
 天文21年(1552)6月14日、越後の長尾景虎(ながおかげとら)が誼みを通じてきた。一門の重鎮教景(宗滴)を通じこれに返書する。
 6月16日、将軍足利義藤(義輝)から「義」の字を賜わり左衞門督義景を名乗る。

 永禄11年(1568)3月8日、義景の母が二位の尼に叙せられ、三好・松永に逐われ庇護していた足利義秋が二位の尼の宅を訪ね終日遊宴が催された。
 4月、朝倉館において足利義秋が元服し名を「義昭」と改めた(言繼・越州軍記)。
 6月21日、足利義昭より召される。この頃既に義昭が近日美濃の織田信長方へ座を移すとの風聞が頻繁であり、その旨を義景に伝えるために招かれたのだと推測された。同じ頃、京都より毒薬が義昭衆の内輪にもたらされたとの噂あり。
 6月25日、義景の一子阿君が急死した。7月16日、義昭、一乗谷を去り織田信長を頼った。この動座を成功に導いたのは明智光秀であるといわれる(高柳光寿/明智光秀)。

 元亀年(1570)正月、織田信長より公方足利義昭の命として朝廷と幕府のことについて相談したいから上洛するようにと招集状が送られてきた(二條宴乘日記)。これに対し老臣との評議の結果、信長は信用に値せずと一決して拒絶した。
 4月23日、織田信長が武藤氏征伐と称して若狹へ侵入。しかし25日、織田全軍は越前に侵入し朝倉氏の手筒山城を攻撃、翌日には陥落された。同日中には、敦賀郡司 朝倉景恆(あさくらかげつね)の篭る金ヶ崎城も囲まれ、翌日、軍使の木下秀吉より降伏を勧められるとこれに応じ開城、敦賀郡全域を失陥する事態に陥った(朝倉始末記ほか)。
 28日、近江小谷の淺井長政が、織田の背後を突くため挙兵。又南江の六角承禎(ろっかくじょうてい)も鯰江城(なまずえじょう)に拠り挙兵。これにより織田勢撤退。義景は自らは出陣せず一門の朝倉景鏡(あさくらかげあきら)を大将に追撃させたが遅すぎた(一説には信長撤退から11日も立ってから出軍したとも)。信長は明智光秀木下秀吉徳川家康を殿軍に、朽木谷の朽木元網(くつきもとつな)松永久秀をして誘降させ退路を確保し既に撤退に成功してしまっていた。
 6月21日、淺井長政の所領北近江へ織田信長が侵入、同24日には徳川家康の軍勢も合流し横山城を攻囲した。これに対してまたしても義景は自ら出陣せず一門の朝倉景健(あさくらかげたけ)を名代として派遣したが姉川において敗北した。
 だが同年9月には今度は義景自ら出陣し、志賀の陣において信長を窮地に陥れた。しかし將軍足利義昭の上意と天皇の綸旨(りんじ)による和睦を受け入れてしまいせっかくの優勢をふいにしてしまう。
 以降は朝倉景鏡を大将に浅井氏救援に対応した。

 天正元年(1573)8月、織田信長自身で淺井の居城小谷城を囲んだ為、義景も呼応して出陣した。しかし信長軍により近江への通路が遮断されていた為、一旦撤退に移ったところを追撃され補足撃破された。さらにそのまま本拠の越前一乗谷まで一挙に押し込まれてしまった。
義景は大野庄へ逃れ態勢を立て直そうとしたが、朝倉景鏡の裏切りにあい自害。享年41歳




姉川の戦いで浅井長政織田信長徳川家康と大名格が顔を揃えたのに朝倉さんだけ名代の朝倉景健での参戦というのが残念
一般的には愛息阿君を失ってからは政務から関心が離れ、少将(一般的には「小少将」の呼び名で有名)という若い側室に溺れて合戦にでたがらなくなった等といわれています。そのくせ足利義昭を正しく(?)使った信長には激しい反抗心を見せるなど、なんとなくその場の勢いや流れに流されてしまう人というのが朝倉義景さんの印象です
でも、そういうかなり人間くさいところが魅力といえますのでそこに美点をみれるかどうかが朝倉義景さん萌えになれるかどうかですね


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