柴田勝家
なんとなく描きたくなって~今回は柴田勝家さんを描いてみました
平成23年NHK大河ドラマ『江~姫たちの戦国~』でも、お市の方 の二番目の夫として~江 の義父として登場します
江ではベテラン俳優 大地 康雄(だいち やすお)さんが、北庄(きたのしょう)城址公園の勝家像の印象そのままの勝家を演じられています(まだこれ描いているときは出番すくないですが~)。
・・・大地 康雄さんといえば強面の刑事役からコミカルな役どころまで幅広く演じられ~映画やドラマでよくみかけますよね
『江~キャスト発表 』でも見てたし、もう何度も登場していたのですが柴田勝家が大地さんだと先日までまったく気付いてませんでした
役者さんってホント役によってまったく別人になれるんですネ凄いなぁと思いました
鈴木保奈美さん演じるお市の方 が嫁ぐので出番が多くなるかと思われますが
大地さんがどんな勝家像をみせてくれるのか楽しみです
この柴田勝家さんですが~「かかれ柴田」の異名を持ち、鬼柴田と畏れられた織田家中筆頭の武闘派でした
しかし根はやさしいようで、部下想いと伝わっています
後でも触れますが~賤ヶ岳で裏切った前田利家 に対してさえ、その人質を丁重に返してやり、コレまでの奉公に感謝し今後は筑前(秀吉) を頼るように伝えたといいます
侍大将であれば大変立派な話だと感動するところですが、本能寺の変後の大名としての政治判断を必要とされる情勢下では非情さに欠けていたような気がします
ソコに萌えられるかどうかが柴田勝家さんファンになれるかどうかですネ
以前、独眼竜政宗の豐臣秀吉 役の勝新太郎さんにふれて、
勝新さんは私の中では柴田勝家さんと述べたのでそのイメージで描こうとしたのですが~ちょい大地康雄さんと宍戸錠が混じった
※柴田 勝家(しばた かついえ) 通称:權六(ごんろく)、官途名:修理亮(しゅりのすけ)
柴田權六(しばたごんろく)や柴田修理(しばたしゅり)での呼び名も有名。
はじめ織田信長 の弟 勘十郎信勝(かんじゅうろうのぶかつ)※付きの家老。※小説や講談などで織田信行(おだのぶゆき)の通名の方が有名だが、最近は発給書面などから信勝(のぶかつ)または信成(のぶなり)と紹介されることが多い
弘治二年(1556)8月、織田信長の筆頭家老林秀貞と語らい、信勝擁立を画策。秀貞の弟 美作守(みまさかのかみ)とともに稲生で信長 に反抗した。しかし信長 に敗北し赦されると以降はその忠実な臣となり、信勝が津々木藏人(つづきくらんど)を重用し再度謀反を企てている事を信長 へ通報した(信長公記)。
武功に優れ退却時にもその殿軍を努めるなど信長軍団の中核をなした。
天正3年(1575)9月、越前平定がなると北庄(きたのしょう)へ入れられ同国を支配。佐々成政(さつさなりまさ)、不破光治(ふわみつはる) 、前田利家を与力として北陸道を攻略し能登・越中と侵攻。上杉謙信やその後継の上杉景勝と交戦した。
天正10年(1582)の本能寺の変では上杉勢と交戦しており、惟任光秀(これとうみつひで) 討伐に参戦できず、羽柴秀吉の後塵を拝した。その後の清洲会議でも秀吉に主導権を取られ、近江三郡の獲得と信長の妹小谷殿 を娶ることも秀吉 主導で決定されるなど織田家中の発言力が低下したことが窺える。(従来、小谷殿 は信長 三男 神戸信孝(かんべのぶたか)の斡旋で勝家に嫁すこととなったと言われているが、最近の研究により実は秀吉 の仲介であった事が明らかになりつつある)
天正11年(1583)3月12日、羽柴秀吉 と対決する為、前田利家 ・佐久間盛政(さくまもりまさ) ら2万8千の軍勢を率いて北庄を出立し北近江柳ヶ瀬へと進出した。
同4月16日、神戸信孝が秀吉方の大垣城へ攻めかけた為、その救援へ向かった秀吉の隙を突き20日柳ヶ瀬からかなり南へ下った賤ヶ岳方面へ佐久間盛政をして奇襲させた。盛政は中川清秀の拠る大岩砦を速攻で攻略し隣の岩崎山の高山右近も敗走させ、さらなる侵出を窺ったが、ここで大垣へ向かっていた筈の秀吉軍本隊1万5千が襲来。佐久間盛政 は交戦しつつ適宜反撃しながら柳ヶ瀬方面へ退いたが、翌21日になり後詰めの前田利家 が突如として戦線離脱し、これに金森長近・不破勝光 (不破光治の子) らも同調した為秀吉の攻勢を支えきれなくなり潰走。
勝家はこの潰走状態を纏めることが出来ず北庄城へ落ち延びたが、秀吉は追撃の手を緩めずそのまま北庄城を攻撃。4月24日、北庄城において勝家は自刃した。享年は57~62歳まで諸説あり。
辞世として「夏の夜の 夢路はかなき 後の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす」が伝わる。
これでお市の方 と一緒に連れられていた茶々 ・初 ・江 さんたちは2度目の落城の憂き目に遭うわけですね
茶々 さんに到ってはこの後3度目の落城を経験しますのがなんとも・・・(そういやお初さんも京極高次の元で・・・)
さて、この柴田勝家さま最期のハイライトが有名な『賤ヶ岳の戦い』
コレって巷間では佐久間盛政 が柴田勝家の制止を強引に振り切って敵中深く孤立してしまった為に敗戦したと解釈されていますが上で上げた柴田勝家さんの略歴の通り敗因は間違いなく前田利家の裏切りです
ただこの点については加賀百万石で知られる前田家のご先祖様なだけに、講談などであからさまな批判ができないので、「裏切り」とは書かず「双方に義理立てした」などと忖度されています。そのかわりとして佐久間盛政 を悪役に仕立て上げて敗戦の責めを負わせられています。気の毒
(柴田勝家も地元では人気者ですので戦略の失敗を責めない為の配慮もあるのかと~~同じ越前の朝倉氏なんて扱い軽いのに~~)。
しかしむしろ、この時の佐久間盛政 の賤ヶ岳進出の軍略は慧眼であったといえます
なぜなら賤ヶ岳は北国脇往還道の終着点で北国街道・塩津街道をおさえる要衝であり、ココを拠点とすることで秀吉方へ寝返った長浜城を圧迫でき、さらに手薄な琵琶湖西岸を襲って長駆して京へ侵出する可能性すらみえてきます
ですが勝家は折角確保した橋頭堡を放棄し速やかに柳ヶ瀬へ退くよう命じましたが、これを盛政は6度も拒絶したといい問題視されています。
ですが勝家が賤ヶ岳より柳ヶ瀬での防備に固執しすぎている点も疑問ですむしろ勝家の方こそ賤ヶ岳の後詰めにもっと積極的に南へ侵出し攻勢に出るべきだったのではと思います
でわ通説通り、この撤退が勝家の軍略だったとして改めて眺めてみるとどうでしょう
現在賤ヶ岳より南の木之本方面にかけて秀吉方がかなり大規模な土塁をはじめ陣城など防御陣地を形成していた事が発掘調査などで分っています。この事は秀吉から寝返った山路将監(やまじしょうげん)から情報として得ていた筈です。勝家は秀吉がこの防備の堅い陣地へ自分を誘き出して優位に戦うつもりであると当然見抜いたと思います。その為、積極的に攻勢へ出ることを思い留まり、奥まった柳ヶ瀬へ布陣した・・・と考えるとシックリきます。
ただそんな消極的な見方では鬼柴田の異名が泣くので、さらに妄想すすめて~この状況を逆に勝家が利用しようとした・・・と仮定(妄想)してみるとどうでしょう。
つまり、要衝の賤ヶ岳に進出すれば必ず秀吉が出てくる、その後偽装退却する事によって柳ヶ瀬まで主力を引きずり込み殲滅しようと企んだ・・・とは考えてみたらどうでしょうか
この時すでに政治的に敗北をしていた勝家は、総動員兵力などの面で秀吉に単独で対抗しえませんでした。
しかしこの賤ヶ岳の戦場においては、神戸信孝(かんべのぶたか)の押さえに兵力を裂いた秀吉軍に比べ、前面に兵力集中を行えた勝家の方が数的優位に立っていました。何としてもこの優位のうちに雌雄を決しようと、秀吉の誘いに乗ったとみせかけ短期決戦を目論んでいた筈です。寝返ってきた山路将監(やまじしょうげん)が秀吉の陣容と作戦を漏らしたという事は巷間いわれていることですので、秀吉の意図を見抜いた上での乾坤一擲の策だったというのはあり得ると思うのですが・・・。
しかし、結局は佐久間盛政 を支援すべき前田利家 が突如裏切って戦線離脱したことで画餅に帰し、偽装退却が本当の潰走となってしまった。・・・という妄想をするのですが~いかがでしょう
この妄想の問題点としては秀吉軍前衛中最強と目される堀秀政(ほりひでまさ) 隊を全く手付かずで残す事になるので、後半に不確定因子を残したままのかなり危険なバクチを打つことになる点ですその辺り説明(さらに妄想)できないと、ちょっと成り立たないのですが、考え方としては面白いと思いませんか。
う~ん・・・やはり佐久間盛政 の提言に従い賤ヶ岳を制圧し、その後は速やかに勝家も後詰めとして賤ヶ岳へ進出し盛政を支援するか、街道を押さえ堀秀政 を孤立させた上で攻勢に出る事ことこそ勝機が見える展開になったのではないかと思えてます。
まぁ最後余談はまったくの妄想ですがこういう妄想するのが戦国ファン的には楽しい(なので長くなりましたホントはもっと書きたいですが)
もし、あの時勝家が後詰めにもっと全面に押し出していたら
前田利家 が裏切らなかったら・・・どうなっていたのか興味あります
歴史に” if ”はないとよく言いますけどそれを考えるのがムチャムチャ楽しいンですよね