足利義輝
『2020年NHK大河ドラマ 麒麟がくる』から今後の活躍気になる方として足利義輝(あしかがよしてる)さんをピックアップ
『麒麟がくる』では美青年を絵に描いたような向井理さんが配役されていてちょっと意外
この足利義輝さん「剣豪将軍」なんて異名奉られていたり、最期も壮絶に斬死するところから、世間的にはどちらかというとマッチョなイメージを持たれてると思ったので
たしかに肖像画だとおヒゲこそ凄いですが目元など温和なフンイキなのでそちらのイメージからは正解やも
今後のドラマの中でも剣技を振るうところは観られるのでしょうか楽しみです
向井理さんと肖像画合体させたつもり・・・
麒麟がくる再開後はどのくらい活躍見られるのでせぅか
足利 義輝(あしかが よしてる) 菊童丸、左馬頭・義藤、從四位下、義輝、參議、左中將、法号/光源院、贈/左大臣從一位、
室町幕府十二代将軍 足利義晴の子 母は慶壽院(關白近衞直道女)。
室町幕府十三代将軍。
天文5年(1536)3月、京都南禅寺で誕生。
天文15年(1546)、管領 細川晴元(ほそかわはるもと)に圧迫され父義晴に伴い近江坂本へ下る。11月、元服し左馬頭義藤(さまのかみ よしふじ)となり、12月、父 義晴の将軍辞退を受け将軍職に就く。
天文17年(1548)、父 義晴とともに帰洛し細川晴元邸に臨んだ。
天文18年(1549)、今度は細川氏綱(ほそかわうじつな)を擁した三好長慶(みよしながよし)との抗争に敗れた細川晴元とともに、近江坂本へ逃れて各処を流浪した。
天文21年(1552)、細川氏綱を管領に任ずることで三好長慶と講和し、帰洛。
天文22年(1553)、再び細川晴元に味方し、三好長慶に抗したが敗れ、近江坂本へ下った。
永禄元年(1558)、近江六角義賢(ろっかくよしかた)の斡旋で三好長慶と講和し、再び帰洛することができた。
永禄2(1559)、先年の帰洛を受け、尾張織田信長(おだのぶなが)、美濃斎藤義龍(さいとうよしたつ)、越後上杉謙信(うえすぎけんしん)などがこぞって上洛し拝謁をした。
永禄8年(1565)5月19日、辰の刻八時(ヤツドキ)[河野文書には巳の刻十刻と有る]、松永久秀(まつながひさひで)の子松永義久(まつながよしひさ)が大将となり、三好義重(みよしよししげ)を表面に立てて、三好三人衆とともに入京。義輝に一献差し上げたいと申し入れて油断させておき、袴を付けて駆け込み不意に襲撃した。近臣は避難することを勧めたが、義輝は逃れがたいことを見て拒否したとも、義輝自身は立ち退きをしたのに近臣に引き止められ戻ったところで凶事あったともいう。
ひとたび抗戦を決意すると公方らしく戦死を望み(フロイス日本史)、伝家の宝刀を床に突き立て剣技を持って次々刃こぼれした刀を取り替えて奮戦(足利李世記)、ついには敵は恐れて近づけなくなった程であったという(続応仁後記)
しかし衆寡敵せず正午頃自害したとも、討ち死にを遂げたとも云う。享年30歳。
この襲撃で、母慶壽院も火中に身を投じ、夫人近衞氏は捕らえられて兄で関白の近衛前久(このえさきひさ)の元へ送られた。義輝の守り・鎧・旗は素早く御所に預けられた(晴右公記)。
辞世として「五月雨は露か涙かほとゝとぎす わが名をあげよ雲の上まで」と自ら筆を執って書き遺したという(常山紀談)。
この義輝さま、新陰流を興した上泉伊勢守(こういずみ/かみいずみいせのかみ)に兵法(剣法)を学び、剣聖塚原卜伝(つかはらぼくでん)には奥義「一の太刀(いちのたち)」まで授かった(甲陽軍鑑)とまでいわれる、剣技を極めんとした将軍として「剣豪将軍(けんごうしょうぐん)」なんて異名奉られ有名ですまぁその壮絶な最期から作られた世間の印象というカンジなくもないのですが
前半生は細川や三好の抗争で今日にいられず各地を流浪したので、「流れ公方(ながれくぼう)」のアダ名のほうが実情に即しているかと・・・
あーそいや長谷川博己さん演じる明智十兵衛が山路和弘役の三好長慶さんと松永久秀演じる吉田剛太郎・・・あ、逆か
・・・が細川晴元が差し向けた暗殺者集団から救い出す活劇シーンがありましたがぁ
あの刺客・・・実はこの足利義輝さんの手の者というのが一般の世評であったりします
けっこう謀略家の一面もあるのかも弟の足利義昭(あしかがよしあき)と同様直接の兵力を持たない権力者の悲哀ある抵抗方法と思えますが・・・
そしてなにより名前を一躍高めたのがその将軍といっても三好・松永勢に襲われた最期です
切腹したとの説もありますが、通常は壮絶な討ち死にを遂げたと伝わっています
それも、足利家伝来の名刀(三日月宗近・鬼丸とか)を床に突き立てて刃こぼれするたびに交換しながら徹底抗戦し、四方から戸板で押し囲まられ池田丹後守の息子に足を払われ、ころんだトコロに障子をかぶせて押さえつけられ、蛙でも殺すようにめった刺しにされるという凄惨な最期を遂げました。その死に様は足軽のようだと京の人々は噂したといいます痛々しい
この辺の三好・松永勢が襲った事情については、一般的には傀儡の足利義栄を擁すために松永久秀が仕組んだ陰謀という説で通っていますが早急に世評も気にせず暗殺する切迫した状況とも思えず、むしろこの事で松永久秀の立場が悪くなっている事からも、まだもう少し解明すべき点がありと思われ今後の研究が期待されます
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