斎藤義龍
気付いたら6月は戦国武将イラスト誰も描いてなかった
土方歳三 ではじまって、小栗忠順 で終わってる~~幕末ブログになっちゃった
目に付いたところで、お顔が愛らしい斎藤義龍(さいとうよしたつ)公にご登場願いました
この方、織田信長 の舅 斎藤道三(さいとうどうさん) の息子、信長には義理の兄弟と言った方が通りがよいかな
ってか、織田信長 公の引き立て役っというのがピッタリかな
父の斎藤道三 はこの義龍より織田信長の才能を当初より高く評価していて、
義龍と仲が悪くなった後は美濃国の譲り状を信長に送ったという伝承もありますし
・・・まぁこんな顔なので父の道三が嫌うのもしょうがないかもしれませんが
しかしこの義龍、こんな顔の割に実はかなりの実力者で道三 没後斎藤家最盛期を創出しています
若死にしなければこんな顔でも信長 の好敵手としてもっと歴史に名を残せたでしょうに・・・
でも、それがなくてももう少し評価されて良い人物かと・・・こんな顔ですがしつこい
※齋藤義龍(さいとうよしたつ) 官途名:治部大輔(じぶのたいふ)
齋藤治部(さいとうじぶ)や齋治(さいじ)等と呼ばれる。
天文23年(1554)3月、父 道三 の突然の隠居により家督を相続し、
道三の時代には見られなかった近代的政策(貫高制や貫高による軍役、宗教統制等)を次々打ち出していった。
また国内の統治機構として、その最高意志決定機関として宿老制を敷いた。
弘治2年(1556)4月、父道三 が挙兵。
しかし道三側に馳せ参じた数は二千余、対する義龍は二万余。
このことや先に見せた義龍の政治手腕から、道三 が隠居したのは道三本人の意思ではなく、家臣団が義龍を支持し隠居に追い込んだというのが実情と考えられる。
結果、長良川において父道三 と戦い敗死させる。この時剃髪して玄龍と号したという。
永祿2年(1559)4月、前年に治部大輔へ任官された礼を述べるため上京し、さらに相伴衆に列した(嚴助往年記)。齋藤家は美濃の国主ではないが、この相伴衆に列せられた事により名実ともに美濃の国主と認められたことを意味する。
また、この頃より京畿を意識しだしたのか、近江六角氏当主 六角義弼(ろっかくよしすけ)と誼を通じ婚姻同盟をはかったが、その父 六角義賢(ろっかくよしかた) に阻まれ実現しなかった。
永禄4年(1561)5月11日、没。享年35歳。死因は癩病と伝わるが不明。
尚、『江濃記』『太閤さま軍記のうち』では、義龍室の一條氏とその子も同日に逝去したと伝え、暗に前年に行った宗教統制による仏罰や、道三 の祟りを連想させる。
しかし一條氏は永祿三年(1560)には死去しており、一條氏に子があったという記録は見られないため、後世の創作であると思われる。
この義龍、実は道三 の実の息子ではないという説があります
義龍の母は深芳野(みよしの)といわれていますが、彼女は道三の旧主土岐頼芸(ときよりなり)の側室でした。
それを道三 が頼芸からもらい受けたのですが、その時には義龍を身籠もっていたというのです
ただし、義龍は『笵可(はんか)』と署名した禁制を美江寺に与えており、
この『笵可』とは父を斬って孝となった故事に由来すると『信長公記(しんちょうこうき)』は説いています。
つまり、父道三を討つ事を正当化しているサインというわけです
~ってことは義龍自身は道三 を実の父と思っていたという事になります
もっとも信長公記が説いてる”故事”の出典が分からない(私は知らない)ンですが~
誰か知ってたらゼヒ教えて下さいおねがいしま~す