六角義賢 <佐々木承禎>
三好長慶(みよしながよし)
さんの記事中チョコっとだけ登場していた
六角義賢(ろっかくよしかた)<佐々木承禎(ささきじょうてい/しょうてい)>さんをご紹介
・・・っていきなりマイナーすぎですよね私が個人的に興味がある大名なんですがぁ(近畿の戦国武将のおっかけがメインなので)
ここらで紹介しとかないと二度と機会なさそうなんでムリヤリ紹介
この方、南近江(現滋賀県南部)から甲賀(こうか)にかけて支配した近江半国守護の名門佐々木家の嫡流 六角氏の天文~永禄期のご当主です
『信長公記(しんちょうこうき)』には「佐々木承禎(ささきじょうてい/しょうてい)」の呼名で出てきます
そこから「六角承禎(じょうてい/しょうてい)」の呼名も有名です(って元がマイナーですが)
THEどマイナーで
絶対に「戦国無双」とか「戦国BASARA」といったゲームのプレイヤーキャラとして登場することはないであろう六角さんですが
歴史好き的には観音寺騒動(かんのんじそうどう)という争乱後に発布された『六角式目(ろっかくしきもく)』という大名家独自の法令についてとか、教科書的には『楽市令※』の先駆け的発布などでの注目度はあります
※楽市=ネットショップ楽天市場の略・・・ではなく、既得権益を持った商人以外も商売できるように保障する政令
天文~永禄年間に先に紹介した三好長慶
さん政権のジャマ・・・いやその対抗勢力として公方 足利義晴(あしかがよしはる)・義輝(よしてる)を支え、幕府軍としてひとかたならぬ活躍をみせました
そんなある意味 当時の名脇役のキャスティングを与えられていたのに、足下の近江での浅井長政
の台頭と、息子 六角義治(ろっかくよしはる)が引き起こした内乱『観音寺騒動<後藤兵乱>』のおかげで権勢を衰えさせ、
結局、永禄11年(1568)に織田信長
が上洛してくると甲賀山中へ逃れ再起を期すも果たせず没落しました
三好政権といい、この六角義賢といい、昔はブイブイいわせていたのがウソのように信長が上洛する頃には零落してしまっているのが印象的です
まぁそれをいったら、毛利元就 さんとか、武田信玄 さん、上杉謙信 さんといった一線級の方々も、最盛期に信長 とぶつかってませんが
このクラスの方ならどっかに肖像画が残ってそうですが
今のとこ確証ある肖像画は現存しないようです
なので勝手に名門の人らしく恰幅の良いオジサマをイメージしてみました
※六角義賢(ろっかくよしかた) <佐々木承禎(ささきじょうてい/しょうてい)>
官途名:左京大夫(さきょうのたいふ)
近江觀音寺城(おうみかんのんじじょう)城主 六角定頼(ろっかくさだより)の嫡男。
天文18年(1549)12月11日付けで家臣の野寺忠行と後藤高雄の二人に観音寺城の麓の城下町である石寺に造る新市を”楽市(らくいち)”にするよう命じた。これが史上初めての”楽市令”として確認されており、その後の諸都市へ多大な影響を与えた。
天文20年(1551)2月三好長慶
が自軍を率い入京。同7日、長慶は被官の松永甚助を近江に侵攻させた。義賢はこれを三百余騎で志賀にて迎え撃ち、勝利を収める。
同27日、陣を払い京へ逃れる三好勢を鹿ケ谷の辺りまで追撃、三好弓介ら4人を討ち取り坂本へ退き、翌日には京へ侵入し東山方面に放火し、三好方を大いに撹乱して坂本へ帰陣した。
天文21年(1552)1月2日、父弾正忠定頼の死により家督全権を掌握。
天文22年(1553)7月12日、京極高廣(きょうごくたかひろ)を擁した淺井久政(あさいひさまさ)と太尾山城で合戦に及び大勝し淺井氏を降伏させた。そして淺井久政嫡男 猿夜叉(さるやしゃ) と、義賢の重臣 平井定武(ひらいさだたけ)の娘との婚姻を約束させた(嶋記録・小佐治文書・本願寺天文日記・今堀日吉神社文書)。
十二代将軍 義晴(よしはる)、十三代将軍 義輝(よしてる)を庇護して三好長慶(みよしながよし) と戦い、永祿元年(1558)、和議がなって義輝を入京させた。
永祿2年(1559)、家督を義弼(よしすけ)<義治(よしはる)>に譲って隠居しその後見となる。
この時か、または永祿5年に出家し以後、承禎(じょうてい/しょうてい)と号した。
永祿3年(1560)7月、重臣の平井定武(ひらいさだたけ)・蒲生定秀(がもうさだひで)に宛てて義弼<義治>が前年叛いた淺井氏牽制の為画策した美濃齋藤義龍(さいとうよしたつ)
との婚姻同盟を止めさせるよう書状を出している。
ちなみにこの書状に齋藤家の簒奪の歴史が記されており、これまで齋藤道三(さいとうどうさん)
一代で行われたと思われてきた美濃国乗っ取りが親子二代のものと判明した。
直後の8月中旬、その淺井氏に敗北し北近江の権勢を失った。
永祿年6(1563)10月7日、家督を譲った義治が重臣 後藤賢豐(ごとうかたとよ)父子を殺害する事件<觀音寺騒動(かんのんじそうどう)=後藤兵乱(ごとうへいらん)>をおこすと、南近江まで淺井氏の介入をゆるす事となった。これにより戦国大名としての六角氏の支配力は著しく弱体化した。
永祿8年(1565)5月19日、将軍 義輝が松永久秀 ・三好三人衆ににより討たれると、義輝の弟 一乗院覺慶(いちじょういんかくけい) <のちの足利義昭(あしかがよしあき) >を和田の城に匿う。
6月24日、簑作城主 六角宗房より上杉輝虎(うえすぎてるとら) の重臣 直江実綱(なおえさねつな)らに先月19日の変報を告げ、弔い合戦をする決意を述べさせ「委細は大覚寺義俊から申し入れるが、輝虎が上洛してくれると、天下の再興が出来る。南方は承禎らが平定する。越前・若狹・尾張をはじめ諸国へは、大覚寺義俊から依頼するはずである云々」と報じている(歴代古案)。
12月2日、承禎は上杉輝虎 に対して、「公方(くぼう)様から御内書を持った使者 大館藤安を下向させるから、上意におうじて帰洛できるよう努力せよ」と命じた(歴代古案/三)。この時初めて覺慶(義昭) を公方※様と呼んでいる。 ※公方(くぼう)=将軍
ところが永祿9年(1566)8月になると承禎は義秋(よしあき)と名を改めたを覺慶を見限り、足利義榮を擁した三好三人衆と誼みを通じた為、それを察知した義秋は同29日、夜陰に乗じて若狹へ逃れた。
永祿10年4月28日、先年の觀音寺騒動の余波から、重臣達が六角氏の専制に歯止めを掛ける「六角式目」を結ばされた。家督も嫡男 義治からその弟 賢永(かたなが)へ譲らせることとした。これらの流れは觀音寺騒動から4年たってなお家中の建直しが必要な状況と推察され、その根深さを物語っている。
永祿11年(1568)に織田信長 が足利義昭(もと義秋) を奉じて上洛してくると、三好長逸ら三好三人衆と天下のことを談合し信長に抗すことと決した。しかしこれに敗れて觀音寺城を逐われて甲賀山中へと逃れた。
その後、本願寺顕如 ・三好三人衆・淺井長政 らと結んで信長と戦った。
元亀元年(1570)5月6日、稻葉一鐵(いなばいってつ)父子の守る守山城を攻め、6月4日、野洲川原において佐久間信盛(さくまのぶもり)・柴田勝家(しばたかついえ) らの信長勢と戦い敗退。その後長光寺城を攻めたりしたが再び降伏し、篭もっていた鯰江城を明け渡した。
その後再び反抗し地に潜ってのゲリラ戦を敢行し、元亀3年(1572)正月には近江金森(かねがもり)と三宅城(滋賀県守山市内)に一向一揆を起こすよう扇動している。
天正2年(1574)、この頃は近江石部城を根城としていたが、佐久間信盛の手勢に囲まれており4月13日、大雨の夜陰に乗じて脱出し近江を去り、ここに名門六角氏は潰えた(戦国合戦大事典五)。
この六角義賢さん、上の経歴でもずっと将軍義輝に味方してその敵対勢力の三好家と歴史の表舞台で渡り合っていましたが
後年その三好家と和睦したことが結果的に没落の原因となってしまったという・・・
歴史の皮肉をカンジさせる結末ですよね(まぁそれ以外も足下の浅井氏台頭とか観音寺騒動とかありますが)
にしても、さいしょは覺慶(足利義昭)
を擁して「弔い合戦する」とまで意気軒昂だったのに、どうしたのでしょう
よっぽど覺慶と相性がわるかったのでしょうか過去の経緯からいっても、覺慶を支援するのが当然の流れなのですが
おそらく観音寺騒動による六角氏の弱体化による政治的判断とかあったのだろうと思われるのですが謎です
個人的にはこのアタリかなり気になる政治力学です
ちなみに~この義賢<承禎>さん弓の日置(へき)流の伝授者でもあり、没落後は弓の指南で身を立てたようです
(あの観音寺騒動まきおこした)息子の義治も後年、豊臣秀頼の弓の指南役となっています
あと紹介しきれませんでしたがこの六角氏は甲賀(こうか)を支配していた大名ということで、甲賀忍者との繋がりなんかも当然あります
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