池田恒興 | ナツレのツレヅレなる何か

池田恒興

丹羽長秀(にわながひで)さんでご来訪される方が最近多いと思ったら
なぜかGoogleさんで丹羽長秀さんを検索すると私のブログの絵が大きくでたりしていたようで
もっとも今は以前にお話した織田信奈の野望 】の長秀ちゃんがトップになってますがちぇーこの記事書いてる間に落ちちゃったみたいー

(以前はソコソコ一覧にでてきたのにある時を堺ににまったく検索引っかからなくなったのはなんでだろ~なんか知らん間に規約にでも引っかかるようなことやらかしたのかしら

まぁどうやら丹羽長秀さんが活躍()している映画【 清須会議(きよすかいぎ) 】から検索で迷子になってこんなトコへ来ちゃった人が増えているようで申し訳ない
映画【 清須会議 】 は当然観る予定ですが宣伝からも衣装きらびやかなトコと大泉洋さんの羽柴秀吉のイメージが鮮烈なトコが光っててかなり面白そうと期待してますわくわく
(観たいのだけど年末で忙しくてまだ観れてなひ

さてその清須会議から織田家四宿老のうち、ご紹介まだの池田恒興(いけだつねおき)さんをカキカキ

映画のタイトルにもなっている『清須会議』ですが、これは織田信長・信忠父子が明智光秀に本能寺で討たれた後の織田家をどうするか話し合われた会議の事です


一般的にはこの会議は『柴田勝家(しばたかついえ)』『羽柴秀吉(はしばひでよし)』『丹羽長秀(にわながひで)』『池田恒興(いけだつねおき)』の織田家宿老4人で行われたといわれています。
 もっとも当時の資料の『多門院日記』にはこの4名に『堀秀政(ほりひでまさ)』を加えた5名となっていたり~さらにはもっと多かったという説があったりします
 しかし羽柴秀吉が織田信孝に当てた当時の書状にハッキリ「四人の宿老共、清須にて談合致し」(松花堂所蔵古文書)とありますので、清須で会議行われた事とその人数が四人であった事は事実と確認されています

 ただ本能寺以前から織田家五大将と呼ばれていた柴田勝家羽柴秀吉丹羽長秀(残りは明智光秀・滝川一益)に比べ、この池田恒興さんはだいぶ格からいって見劣りします
一説には関東管領となって東国にいた滝川一益(たきがわかずます)が会議に間に合わなかった為、員数あわせ的に、中堅武将の中では信長の乳兄弟として筆頭で明智征伐にも功があった恒興を繰り上げて会議参集者に名を連ねさせたといわれています

この池田恒興さん。織田信長の乳兄弟として尾張統一の頃から信長軍団の一翼を担ってましたので、講談や小説などではチョクチョクよく活躍される武将さんなので名前だけは知ってる人も多いかと
もっともチョット古い小説などでは池田信輝(いけだのぶてる)の名前で出てくる事が多かったので、そちらの名前を言ったほうがピンとくるという方もいらっしゃるかなぁ

今だとむしろユネスコ世界遺産にも登録された国宝『姫路城』を今の姿に増改築したことで有名な池田輝政(いけだてるまさ)のお父君と言った方が親しみがわくでしょうか

 

池田恒興(いけだつねおき) 勝三郎・恆興、經興、号:勝入(しょうにゅう)

小説・講談などでは池田信輝(いけだのぶてる)の名が有名。高名抜群により織田信長より”信”の字の偏諱を受けたと云われるが、当時の文書類には一切見当たらない為、現在この説は取り入れられていない。
また池田紀伊守と記すものもあるが、紀伊守は子の伝助の受領名であり混同と見られる。

 出自については攝津の池田氏と同族で攝津出身(武家事紀・池田氏家譜集成)、近江出身(太閤記)、美濃池田荘出身(土岐齋藤軍記)、尾張出身(織田信長家臣人名辞典)など様々伝わる。
 永禄4年(1561)5月23日、軽海(かるみ)の戦いで敵将稻葉又右衞門を佐々成政と二人で討ち取った(公記)。
 永禄12年(1569)8月26日、大河内城攻めに参加。織田信包・瀧川一益・津田一安・稻葉一鐵・蒲生賢秀・和田定利・中島豐後守・後藤高治・蒲生賢秀・永原重康・永田正貞・青地茂綱・山岡景隆・丹羽長秀らと共に大河内城の南の山に陣した。
 9月8日、稻葉良通・丹羽長秀と共に夜討ちを敢行するが失敗し、朝日孫八郎・波多野彌三ら多数の臣を討ち死にさせた(公記)。
 元亀元年(1570)4月、越前攻めに従軍(甫庵)。
六月、小谷攻めに従軍。丹羽長秀と共に徳川家康へ加勢して朝倉勢と戦った(津田文書)。
この年犬山城とその周辺一万貫を与えられたという(池田家譜・池田履歴略記・太閤記)。
 天正元年(1573)7月、槙島城攻めに従軍(公記)。
 天正8年(1580)荒木村重の叛乱を攻略。乱鎮圧後荒木村重の旧領を賜る。
 天正10年(1582)6月2日、本能寺の変の際には惟任光秀(これとうみつひで)に付され中国援軍の準備をしていたが、光秀には合力せず羽柴秀吉の中国大返しの軍勢に合流。山崎の戦いではその右翼を担った(淺野家文書・太閤記)。
 同27日の柴田勝家羽柴秀吉惟住長秀(これずみながひで)とともに織田家宿老として清須会議の参集者に名を連ねた。この会議で恆興は秀吉を支持したいわれ、子の元助(もとすけ)とあわせ、大坂・尼崎・兵庫に12万石を得たという(太閤記・池田家譜)。
 その後は惟住長秀と同様、秀吉に接近したものとみられるが長秀と違い当初より秀吉の被官的立場に甘んじたようだ(攝津塚口神家禁制)。
 天正11年(1583)の柴田勝家・織田信孝と羽柴秀吉が対立には参陣した様子が見えない。
 天正12年(1584)3月、織田信雄・徳川家康羽柴秀吉が対立した際は明確に秀吉方として参加、小牧・長久手の役を迎える。
 小牧にて秀吉が家康本軍を引付けている間に、三河岡崎へ向かって侵攻する案を進言し受け入れられる。大将に秀吉の甥 三好秀次(みよしひでつぐ)を戴き、堀秀政(ほりひでまさ)の援をうけ、子の元助・森可成(もりよしなり)の二男で娘婿である森長可(もりながよし)とともに4月6日出軍す。
 4月9日、岩崎城を落とし首実検をしていたが長久手にて休息中の三好秀次が家康の別働隊に補足撃破されたのを受け救援に赴いたが敗北。家康の将 永井傳八郎直勝(ながいでんぱちろうなおかつ)に討たれた。
また、嫡子元助・娘婿の森長可も同処で討死した。跡は二男照政(輝政)が継いだ。



池田恒興は最期 長久手で永井伝八郎直勝に討たれ落命しましたがそれにまつわる逸話をご紹介

長久手で徳川別働隊の襲撃を受けた池田恒興は徳川の若武者永井直勝主従に襲われ手傷を負い動けなくなってしまいます(余談です永井直勝は超イケメンと評判
もはやこれまでと覚悟を決めた恒興ですがなんと直勝はとどめを刺さずスタスタその場を去ろうとするではあ~りませんか思わず何故かとワケを訪ねると直勝は今回が初陣でありその初首に坊主首など欲しくないからだと言い放ちます
(長久手では恒興は勝入と号し、出家し坊主姿でした)
それに対して池田恒興は「頭は丸めているが天下に勇名の池田勝入斎である。その方の人を人とも思わぬ態度が気にいた。余の首を取って手柄とせよ」と直勝が立ち去ろうとするのを押し留めて首を取らせたと伝えられます

またその後のはなし

永井直勝は池田恒興亡き後家督を継いだ池田輝政(照政)より会見を所望されました。
家康をはじめ周りの者は全員、輝政は遺恨を抱いているので会わないよう引き留めましたが
「三左右衞門(照政)が親の仇である自身の首を望むのは当然だが、それを知りながら出席しないのは侍ではない」と言い放ち従容として会見に臨みました

 一方、輝政は首を望むどころか、長久手での直勝の武勇をおおいに誉め讃え饗応しました
さらに直勝の知行が5,000石であると聴き、父恒興ほどの武辺の者を討取ったのに小身のままにされてるのは嘆かわしいと憤慨し家康へ加増してもらえるよう願え出たと伝わります
(実際その後加増されています)。

討たれた池田恒興も討った永井直勝も、さらには池田輝政も、いずれも名にし負うと武士(もののふ)のあり様を見せたと、おおいに面目をあげたというお話です。

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