丹羽長秀
今回は前回の『織田信奈の野望』から()丹羽長秀(にわながひで)さまご登場
織田家中で『木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間』と高く評された御仁です
このうちの”退き佐久間”の佐久間信盛(さくまのぶもり)さんほどでは無いですが、きら星のごとく有名武将が揃う織田家の中では地味目なキャラかな
実績もどちらかというと内政面に長けている印象で派手な武功話が少ないので仕方ないかも知れません
しかし後半生には、本能寺の変後に行われた清洲会議で織田家代表四宿老の一人として天下を合議するまでになり
越前・加賀130石の大大名として、秀吉から「天下を長秀と秀吉で変わり持ちに仕まろう」といわれるまでの立場に上り詰めました
※丹羽長秀 (にわながひで) 万千代、五郎左衛門尉(ごろうざえもんのじょう)、越前守(えちぜんのかみ)、賜姓:惟住(これずみ)、羽柴、
丹羽長政の長男。父長政は斯波氏の被官であったが、天文19年(1550)15歳で織田信長へ仕えた。
信長の庶兄 織田信廣の娘を妻とする。
天文21年(1552)8月、萱津の戦い、永禄3年(1560)5月、桶狭間の戦いに従軍。
永禄5年(1562)5月、一万貫を与えられる。
永禄7年(1564)美濃攻めに従軍。 猿啄(さるつばみ)城、堂洞(どうほら)城攻めで活躍。
永禄11年(1568)9月信長上洛軍に参加。近江 六角義賢攻めに際し箕作(みつくり)城攻めに功あり。
入京後、村井貞勝・明智光秀・木下秀吉らとともに庶務にあたった。
永禄12年(1569)8月、伊勢北畠具教の大河内城攻めに参加。稻葉一鉄・池田恒興と夜討ちをかけたが撃退された。
元亀元年(1570)6月、姉川の戦いへ徳川家康への加勢として参加(津田文書)。戦後、浅井長政の将:磯野員昌が拠る近江佐和山城を囲む。
元亀2年(1571)2月、佐和山を開城させ接収。以降佐和山城代として5万石を領した(当代記)
天正3年(1575)5月、長篠の戦いに従軍、功あり。同年7月、明智光秀・羽柴秀吉・塙直正・梁田広正らと並んで、惟住(これずみ)の姓を賜ったが、官位叙任はされず地位として明智光秀(惟任日向守)・羽柴秀吉(筑前守)らの後塵を拝することとなった(公記・言継)。
ただし、信長の信任が低かった訳で無いことは、その後の安土城普請や天正6年(1578)元旦の茶会に参集している事や、天正9年(1581)馬揃では一番で入場する栄誉を得ている事からあきらかである(織田信長家臣団辞典)。
天正10年(1582)6月、惟任光秀(これとうみつひで)の謀反(本能寺の変)に際しては、信長三男の神戸信孝(かんべのぶたか)を大将とする四国征伐軍の副将として付されていた。だが本軍から離れ信孝と供に住吉に赴いているところで凶報に接した。この為大将不在の四国攻略軍は四散。急遽再編したが3千程しか揃えられず、そこから羽柴秀吉の中国方面軍と合流山崎の合戦に臨んだ(太閤記)。
同6月27日、柴田勝家・羽柴秀吉・池田恒興とならび清洲会議へ参加する。長秀は秀吉を支持し以降行動を共にし柴田勝家と袂を分かつ。
天正11年(1583)、賤ヶ岳の戦いにおいて秀吉方として参加。直接の合戦には参加していないが秀吉との連名で数々の禁制をだしている。戦後、越前一国・加賀能美・江沼二郡を与えられ123万石となる。
天正12年(1584)3月、越前守叙任。羽柴姓を賜り、羽柴越前守を称したとされる(豐鑑)。
天正13年(1585)4月16日歿 51歳(丹羽家譜)
豊鑑では羽柴秀吉の"羽柴"姓は丹羽長秀と柴田勝家の織田家の重鎮二人にあやかって秀吉が創出した姓といっています
後年、柴田勝家は秀吉に滅ぼされ、丹羽長秀は天下人となった豊臣秀吉から羽柴姓を贈られ『羽柴越前守(はしばえちぜんのかみ)』を称するよういわれますがなんとも歴史の皮肉をカンジさせませんか
もっとも、死の直前に秀吉に宛てた書状には『惟住越前守長秀(これずみえちぜんのかみながひで)』とありますので、さすがに()自身では"羽柴"姓は名乗らなかったようです
その手紙で丹羽家のことを秀吉へ託したあと割腹し、自身を苦しめた病巣の結石を腹からえぐり出しイタい
「自身を苦しめたのはこいつか」といってそれを砕いて死んだと伝わります
この死に際が壮絶な事から、先の手紙に反して秀吉に仕えたはよいが織田家がないがしろにされた事など色々含むところがあったのではとも噂されています
・・・最期の最期で戦国武将らしい荒々しいエピソードで締め括ったのが印象的な人です
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織田家中で『木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間』と高く評された御仁です
このうちの”退き佐久間”の佐久間信盛(さくまのぶもり)さんほどでは無いですが、きら星のごとく有名武将が揃う織田家の中では地味目なキャラかな
実績もどちらかというと内政面に長けている印象で派手な武功話が少ないので仕方ないかも知れません
しかし後半生には、本能寺の変後に行われた清洲会議で織田家代表四宿老の一人として天下を合議するまでになり
越前・加賀130石の大大名として、秀吉から「天下を長秀と秀吉で変わり持ちに仕まろう」といわれるまでの立場に上り詰めました
※丹羽長秀 (にわながひで) 万千代、五郎左衛門尉(ごろうざえもんのじょう)、越前守(えちぜんのかみ)、賜姓:惟住(これずみ)、羽柴、
丹羽長政の長男。父長政は斯波氏の被官であったが、天文19年(1550)15歳で織田信長へ仕えた。
信長の庶兄 織田信廣の娘を妻とする。
天文21年(1552)8月、萱津の戦い、永禄3年(1560)5月、桶狭間の戦いに従軍。
永禄5年(1562)5月、一万貫を与えられる。
永禄7年(1564)美濃攻めに従軍。 猿啄(さるつばみ)城、堂洞(どうほら)城攻めで活躍。
永禄11年(1568)9月信長上洛軍に参加。近江 六角義賢攻めに際し箕作(みつくり)城攻めに功あり。
入京後、村井貞勝・明智光秀・木下秀吉らとともに庶務にあたった。
永禄12年(1569)8月、伊勢北畠具教の大河内城攻めに参加。稻葉一鉄・池田恒興と夜討ちをかけたが撃退された。
元亀元年(1570)6月、姉川の戦いへ徳川家康への加勢として参加(津田文書)。戦後、浅井長政の将:磯野員昌が拠る近江佐和山城を囲む。
元亀2年(1571)2月、佐和山を開城させ接収。以降佐和山城代として5万石を領した(当代記)
天正3年(1575)5月、長篠の戦いに従軍、功あり。同年7月、明智光秀・羽柴秀吉・塙直正・梁田広正らと並んで、惟住(これずみ)の姓を賜ったが、官位叙任はされず地位として明智光秀(惟任日向守)・羽柴秀吉(筑前守)らの後塵を拝することとなった(公記・言継)。
ただし、信長の信任が低かった訳で無いことは、その後の安土城普請や天正6年(1578)元旦の茶会に参集している事や、天正9年(1581)馬揃では一番で入場する栄誉を得ている事からあきらかである(織田信長家臣団辞典)。
天正10年(1582)6月、惟任光秀(これとうみつひで)の謀反(本能寺の変)に際しては、信長三男の神戸信孝(かんべのぶたか)を大将とする四国征伐軍の副将として付されていた。だが本軍から離れ信孝と供に住吉に赴いているところで凶報に接した。この為大将不在の四国攻略軍は四散。急遽再編したが3千程しか揃えられず、そこから羽柴秀吉の中国方面軍と合流山崎の合戦に臨んだ(太閤記)。
同6月27日、柴田勝家・羽柴秀吉・池田恒興とならび清洲会議へ参加する。長秀は秀吉を支持し以降行動を共にし柴田勝家と袂を分かつ。
天正11年(1583)、賤ヶ岳の戦いにおいて秀吉方として参加。直接の合戦には参加していないが秀吉との連名で数々の禁制をだしている。戦後、越前一国・加賀能美・江沼二郡を与えられ123万石となる。
天正12年(1584)3月、越前守叙任。羽柴姓を賜り、羽柴越前守を称したとされる(豐鑑)。
天正13年(1585)4月16日歿 51歳(丹羽家譜)
豊鑑では羽柴秀吉の"羽柴"姓は丹羽長秀と柴田勝家の織田家の重鎮二人にあやかって秀吉が創出した姓といっています
後年、柴田勝家は秀吉に滅ぼされ、丹羽長秀は天下人となった豊臣秀吉から羽柴姓を贈られ『羽柴越前守(はしばえちぜんのかみ)』を称するよういわれますがなんとも歴史の皮肉をカンジさせませんか
もっとも、死の直前に秀吉に宛てた書状には『惟住越前守長秀(これずみえちぜんのかみながひで)』とありますので、さすがに()自身では"羽柴"姓は名乗らなかったようです
その手紙で丹羽家のことを秀吉へ託したあと割腹し、自身を苦しめた病巣の結石を腹からえぐり出しイタい
「自身を苦しめたのはこいつか」といってそれを砕いて死んだと伝わります
この死に際が壮絶な事から、先の手紙に反して秀吉に仕えたはよいが織田家がないがしろにされた事など色々含むところがあったのではとも噂されています
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