彼らは日興にっこう上人しょうにんに背いて一山ほうぼうの山と化したのぶとも手を結んだ。
 「反がっかいのためならば敵も味方もない」ということで手を結んだんです。
 まさに、だいしょうにんおんも恐れず「敵の敵は味方」という論理で動いたんです。
 彼らの願中にはだいしょうにんさままったくないですね。
 そして、平成6年11月5日にはのぶさんおん塔中たっちゅうぼうの住職を務めているとうじゅんえい以下8人ののぶの坊主が大石寺に参拝した。
 この時、山内を正本堂しょうほんどうまで案内したのががわどうであります。
 さらに、平成7年6月6日にはのぶ管長かんちょうに就任する直前のなか日淳にちじゅんという坊主の一行32人が大石寺に参拝し、この時は、宗門しゅうもんの能化である高野日海がころもをつけた正装せいそうでもって大石寺境内の蓮葉庵れんようあんという所でもてなしております。
 この時同時に山崎やまさき正友まさとも阿部あべ日顕にっけんと大石寺においてぼうにふけっておりました。
 のぶからくらいの高い坊主が32人の一行をひきいて大石寺に参拝しているその同時刻に同じ大石寺の中において阿部あべ日顕にっけん山崎やまさき正友まさともみつらしておったということであります。
 また、同年8月20日には宗門しゅうもんの法華講総講頭柳沢やなぎさわ喜惣次きそじ阿部あべ日顕にっけんの息子信彰しんしょうが住職を務める大聖寺のしん約20名を引き連れてのぶさんおんに参詣している。
 このように、大石寺とのぶさんおんがお互いに参詣の執行をしたというまことに腐敗堕落の姿を示したんです。
 これより、双方の参拝は誰にはばかこと無く頻繁ひんぱんに行われるようになったんですね。
 さらに、山崎やまさき正友まさともは各地ののぶ僧侶の集会に講師として招かれては何とのぶを讃嘆し褒め称えて反がっかい共闘を呼び掛けておりました。
 その中で、断じて許されないこと山崎やまさき正友まさともの極限のだいほうぼうであります。
 それは、平成6年12月6日ののぶけいひん教化会議において山崎やまさき正友まさともがこう発言はつげんしたことであります。
 「いたほんぞん作論さくろんもその後の掘り下げがありません。これから本腰をれて取り組んでほしいとおもいます。そうがっかい解散かいさんさせるためにお互い頑張りましょう」ということ山崎やまさき正友まさともったんです。
 このいたほんぞん作論さくろんという悪書あくしょのぶ安永やすなが弁哲べんてつが昭和30年代に戒壇かいだんだいほんぞんを誹謗した悪書あくしょであります。
 この悪書あくしょいたほんぞん作論さくろん』を持ち出した上でのぶの坊主に「戒壇かいだんだいほんぞんを攻撃せよ」ということけしかけたんですね。
 何ともこれほどの悪党はおりませんね。大石寺の歴史でしんの顔してここまでやる。魔がはいるとここまで狂うんです。これほどのだいほうぼうがあろうか。
 山崎やまさき正友まさともこそまさしく戒壇かいだんだいほんぞんかたきであります。


令和元年 7月24日 7月度 総幹部会 浅井先生指導