さらに、解散処分の翌年の昭和50年7月7日、細井日達管長は総本山に法華講連合会の幹部を招集しこう言った。
「訓諭以外に私の真意はない」「国立戒壇は本宗の教義ではない」とこう訓示した上「妙信講と戦え」と煽動したんです。
この期に及んでなおこの悪言、何という破廉恥か。何という無節操か。
細井日達は大聖人の御眼も恐れずについに池田大作に魂を売り渡してしまった。御付嘱状に背いてしまった。
ここに、もうすでに御遺命の敵である事は決定してしまった。
以後私は細井日達に対して一切の敬称を用いず「細井日達」と呼ぶ事にしたのであります。
そして、罰が現われてきた。学会と宗門の間に深刻な亀裂が生じてきたんです。
正本堂建立一周年記念法要が本山で行われた時、池田大作はこの法要の帰途にある細井日達を突然呼び留め、多くの学会員が見ている前で「恩知らず」と大声で罵った上、学会に10億円を寄付する事を要求したんです。
こんな事は到底述べられるものではないでしょう。こんな無礼な事はできない。
ところがどうした事か、この横暴な振る舞いに対して細井日達はこれに応じている。
普通ならピシャっとなっちゃうんですが、それくらい学会の権力が強かったんです。
この一件について池田大作が後日側近の原島嵩教学部長にこう言っております。
「あの時なぜ怒ったのかと言えば、妙信講の時に猊下はあっちについたりこっちについたりしたからだ。覚えておけ」という事を言った。
原島嵩はこの言葉をきちっと記録して自身の著書に残しております。
まさしく、妙信講の諌暁がこの自界叛逆をもたらしたんですね。
そして、細井日達の下には二百余名に及ぶ活動家僧侶と呼ばれる僧侶集団が集まり「学会と手を切るべし」と言って気勢を上げたんです。この活動家僧侶が後の正信会になったのであります。
さて、この大抗争の最中、心身を労した細井日達はついに大事な御相承をも為し得ず急死を遂げてしまった。
これまさに、御遺命違背という未曾有の大悪を為したゆえに未曾有の異常事態が出来したのであります。
「大聖人様が御相承をお許し給わなかったのである」と私は深くこれを拝しております。
ただし、御相承についてかかる異常事態が発生しても、下種仏法の血脈というのは絶対に断絶はしないんです。
なぜか、付嘱の法体たる本門戒壇の大御本尊は厳然としてまします。
そして、金口の御大事も厳然である。
ゆえに、もし御遺命を堅持あそばす貫首上人が御出現になれば血脈はたちまちに蘇るのであります。
いわんや、広宣流布の時には過去世においてすでに血脈をお受けになった前生所持の日目上人が御出現あそばす。だから、少しも心配はいらないのであります。
令和元年 7月24日 7月度 総幹部会 浅井先生指導