ここに、がっかいの公式のていせいは終わったということから「おうわくていせいがなされた」翌年に妙信講みょうしんこうは久々にざんを願い出た。
 何年も何年もざんさまたげられておりました。そして私も遺命ゆいめいしゅの戦いの真っ最中であるからそのことを一切口にも出さず、このがっかいていせいが聖教新聞紙上で正式になされた後においてその翌年にしゅういんに久々にざんを願い出た。
 ところが、しゅういんから伝えられたへんおもいもよらぬものでありました。
 それは「国立こくりつ戒壇かいだんを捨てなければ登山は許されない、これは、げいの御意向である」ということはやにち総監そうかんから伝えられたんです。
 国立こくりつ戒壇かいだん遺命ゆいめいを守るために正本堂しょうほんどうおうわくを必死にていせいせしめた妙信講みょうしんこうに対し「国立こくりつ戒壇かいだんを今すぐ捨てろ」とは何事なにごとか。
 この時私はおもいました国立こくりつ戒壇かいだんを捨てて参詣してだいしょうにんさまはお喜びくださるか、かえってお叱りを受けるにちがいない』と。
 そこで私は講の安穏よりもだいしょうにんさまへの忠誠ちゅうせいを選んだ。
 このしゅういんへんいけ大作だいさくの意向によることは明らかであった。
 いけ大作だいさく国立こくりつ戒壇かいだんほうにこの時点でなおも強くこだわるには新しいじょうがあったんです。
 それは、昭和45年にほん共産党きょうさんとう谷口たにぐちぜんろうという代議士から「国立こくりつ戒壇かいだんは憲法違反のうたがいがある」というむねの質問主意書が衆議院議長に出されまして、文部省から国立こくりつ戒壇かいだんについての照会しょうかいがっかいにあった。
 これに対してがっかいは「現在建設中の正本堂しょうほんどう遺命ゆいめい戒壇かいだんに当たるんだ」として国立こくりつ戒壇かいだんを否定したんですね。
 これは、正式ながっかいの回答でありますが、このまんが政府に対する回答であります。
 しかし、このまんが露見したらえらいことになる。これをいけ大作だいさくもっとも恐れておったんです。
 そこに「妙信講みょうしんこうざんを願い出るならば国立こくりつ戒壇かいだんを捨てさせよ」ということほそ日達にったつ管長かんちょうの名前をもってしゅういんわせたわけであります。
 これを見て私は遺命ゆいめいしゅ奉公ほうこういまだ終わらず」として7月28日に明治公園に三千人を結集して立正りっしょう安国あんこくがいしゅうかいひらいた。
 そして、いけ大作だいさくに対して次の決議文を送り届けました。顕正会の3人をしてがっかい本部に送りつけました。

 「8月15日までに国立こくりつ戒壇かいだんを否定した政府へのまん回答を撤回せよ。さもなければ妙信講みょうしんこうが政府に対してていせいをする」と。

 それについていけ大作だいさくからはまったく反応がなかった。
 そこで私はさかみち文部大臣に宛ててがっかいの政府への回答はまんであり、日蓮にちれんだいしょうにん遺命ゆいめい国立こくりつ戒壇かいだんである」むねを記した署名を提出いたしました。
 そしてついに、昭和49年8月12日に覚悟のごとく解散かいさん処分しょぶんくだされたのであります。
 その宣告書には処分しょぶん理由として「国立こくりつ戒壇かいだんの名称を使用しないむね宗門しゅうもんの公式決定に違反し、さらにまた、昭和47年4月28日付のくんに対して異議を唱えたゆえ」要するに「国立こくりつ戒壇かいだんを主張する」「くんに反対する」との2つの理由によって妙信講みょうしんこう解散かいさん処分しょぶんとするとしたんです。
 まさに、妙信講みょうしんこう国立こくりつ戒壇かいだん遺命ゆいめいのゆえにしんだんたいとして死罪にも等しい解散かいさん処分しょぶんを受けたのであります。
 この宣告書を手にした時、私の胸にがったおもいは

だい遺命ゆいめいかいされんとしている時、妙信講みょうしんこうが安穏であってはいかにもだいしょうにんさまに申し訳ない。
 これで一分いちぶんでも申し訳が立つ。遺命ゆいめいを守るに「たいの弟子、ゆるき行者」とのお𠮟りだけはまぬがれる』

とのおもいががってまいりました。


令和元年 7月24日 7月度 総幹部会 浅井先生指導