いけ大作だいさくに会えばそのたばかりの手先となり、私と会えばまた本心を取り戻すということを繰り返された。
 この姿勢はいけ大作だいさくから見れば裏切りに見えるのは当たり前ですよ。
 最初は「いいですよ」とったからいけ大作だいさく正本堂しょうほんどうのたばかりを計画した。
 それを今になって「浅井と会う度になびいてしまう」という裏切りがあった。これでもっていけ大作だいさくは怒ったんですね。
 そこで彼は、ほそ日達にったつ管長かんちょうの言動にその後たがをはめたんです。
 それが、昭和45年5月3日の第33回がっかい本部総会におけるほそ日達にったつ管長かんちょう国立こくりつ戒壇かいだんほう宣言せんげんであった。
 これをほそ日達にったつ管長かんちょうはさせられたんです。これが最初のいけ大作だいさくたがであります。
 もう一つは、正本堂しょうほんどう落成の6か月前に発布されたくんですね。
 このくんにおいて「正本堂しょうほんどう遺命ゆいめい成就のあかつきほんもん戒壇かいだんとなるべき大殿堂なり」という宣言せんげんほそ日達にったつ管長かんちょうはいたしました。
 この2つの宣言せんげん日蓮にちれん正宗しょうしゅう管長かんちょうとして内外にこれを表明したものであり、まさしく宗門しゅうもんの公式意思の発表はっぴょうであります。
 二度と変更することは許されない。これが、いけ大作だいさくのはめたたがであります。
 これを成さしめたのはいけ大作だいさくであれば、私は元凶げんきょうであるいけ大作だいさくに公場対決をせまる書状をその時に送りました。これは、くんが発布されたその日に送った。
 数日後、しゅういんから「くんに従っていけ会長かいちょうへの法論ほうろん申し入れを撤回せよ。さもなくはしゅうに照らして処分しょぶんする」との令達れいたつが送付されてまいりました。
 一方、がっかいからは和泉いずみちょうの名前で「げいのお許しがられないので公開討論には応じられません」との返書へんしょが送られてきた。
 いけ大作だいさくほそ日達にったつ管長かんちょうの2つの宣言せんげんでもなお不安であったのか、当時しゅういん教学きょうがくちょうを務めておりました阿部あべ信雄しんのう(後の阿部あべ日顕にっけん)に『国立こくりつ戒壇かいだんろんあやまりについて』『ほんもん戒壇かいだんの本義』という2冊の悪書あくしょを書かせました。
 この2冊の悪書あくしょの大意は先日の総幹そうかんかいでもべましたが、5つのことげればこのようなものですね。
 「国立こくりつ戒壇かいだんしょにはない」だとか「なかがくの文言である」とか「国立こくりつ戒壇かいだんげんけんぽうでは実現不可能である」とか、あるいは、戒壇かいだんの定義を改変して、あたかも正本堂しょうほんどう遺命ゆいめい戒壇かいだんであるとたばかった。
 あるいは『三大さんだい法抄ほうしょう』のもん歪曲わいきょくして「勅宣並びに御教書はけんちくきょしょうである」とかときつべきのみ」おおせは「前もって建てていい」という意味だなどと偽って書きなぐっただいほうぼうの書であります。これが2冊の悪書あくしょですね。
 だいしょうにんにゅうめつ後七百年、宗門しゅうもんの内外を問わずここまで『三大さんだい法抄ほうしょう』の御聖文をげた悪侶あくりょいまだかつてない。
 まさしく、教学きょうがくちょう阿部あべ信雄しんのうこそ正系門家における師子しし身中しんちゅうむしであったんです。
 いけ大作だいさくはこのほうぼうの書を広くがっかい内部に配布した。


令和元年 7月24日 7月度 総幹部会 浅井先生指導