この大抗争の中で阿部日顕は池田大作の側近中の側近であった山崎正友を擁する事を思いついたんです。
山崎正友という男は先般も少し説明いたしましたが、稀に見るペテン師ですね。大悪党ですね。
精神病理学でいうと「サイコパス」という言葉がありまするが、その症状の通りの異常な男です。
ですから、学会の顧問弁護士を務めている一方で宗門の細井日達にも取り入った。
このきっかけとなった者が妙信講を解散せしめるという事で相談したんでしょうね。宗門と学会の両方の顧問弁護士を兼ねるような立場になっていったんです。
そして、細井日達の軍師気取りになって、学会と宗門双方に偽情報を流しては両者の争いをあおったという男であります。
阿部日顕はこの山崎正友の謀略を目の当たりに見ていたので、登座直後の昭和54年1月には山崎正友に対して面と向かって「あなたは大嘘つきだ」と面罵して本山への出入りを禁止せしめたという事であったのであります。
これに対し、山崎正友がまた「何を言うか」と言って怒って昭和55年当時の週刊文春に十数回に渡って手記を寄せて、その中で「阿部日顕は相承を受けていない偽法主だ」という事を暴き続けた。
ところが、この山崎正友に対して阿部日顕は平成3年1月に何と部下の福田毅道という僧侶を通じて「あの時は嘘つきと言って悪かった。勘弁して下さい」という事を伝えたんです。
これは、学会が相承問題をもって阿部日顕を攻撃してくる事に備えて、臨終間際の細井日達の側についていて事情を何でも知っておった山崎正友に「実は相承はあったんだ」という事を偽証させようという魂胆があったんです。
山崎正友はその「勘弁して下さい」という言葉を「いよいよ時が来た」という事で受け入れたんです。
その翌月、山崎正友は学会に対する恐喝事件で判決が下って刑務所に収監された。そして、2年数ヵ月後に出所いたしました。
この出所した山崎正友に対し、平成6年5月に阿部日顕直属の謀略部隊妙観講講頭の大草一男が会いに行って宗門に復帰する事を勧めているんです。
そして、同年12月に山崎正友は大草一男及び妙観講の指導教師であり理境坊の住職でもある小川只道に伴われて阿部日顕に面会して宗門への復帰を許され、本山理境坊所属の妙観講の講員となった。全ては、阿部日顕の筋書ですね。
翌平成7年2月、山崎正友は大草一男が編集していたといわれる謀略新聞『慧妙』に「私が御相承を拝信するに至るまで」と題する一文を寄せたんですね。
そして、阿部日顕が相承を受けていたという事を強調いたしました。
まさに、これを見ると阿部日顕は稀代のペテン師山崎正友から御相承を証明してもらったのであります。
ここから、阿部日顕・大草一男・山崎正友という三悪人が一体となって反学会闘争を始めたんですね。
令和元年 7月24日 7月度 総幹部会 浅井先生指導